パソコンの調子がすこぶる悪い。
さっき、このブログをほとんど書き終わろうとしたときに、
急に画面が暗くなり、自動バックアップしてくれてもいなかったので、
ものすご~く疲れた気持ちで再度、今、書き直している。
こういうとき、つい(まさかあの事件のせいでネット規制?)など、
すぐに疑心が湧く。ここに来て以来のカナシイ癖である。
今日、3年の日本文学の時間に「君死にたまふことなかれ」を学生と読んだ。
五言絶句、七言律詩に慣れ親しんできた学生たちにとって、
七五調のリズムを持つこの詩はその点で受け入れ易いとは言え、
現代の日本語しか習っていないので、一字一句の理解は苦しいものがある。
日本の学生だって困難なのに、この子たちはまだ、日本語を習い始めて、
2年経っただけなのだ。
それでも、この詩を書いた当時の与謝野晶子の気迫がビンビン伝わり、
多くの学生が、頷きながら読んでいた。
これを作った当時、晶子は26歳。学生たちより5,6歳年上の頃だ。
そんな共感もあったのではないか。
日露戦争で「旅順」が出てくることが中国人にとってどれほど屈辱であるか、
胸が痛いところだ。
ここを読むとき、学生の表情にも何とも言えない色が浮かんだ。
ああおとうとよ、
君を泣く、君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも 、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも、
ほろびずとても 何事ぞ、
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは 出でまさね
かたみに人の血を流し
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの 深ければ
もとよりいかで 思されん
ああおとうとよ
戦いに 君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守り
安しと聞ける 大御代も
母の白髪はまさりぬる
暖簾のかげに 伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君忘るるや 思えるや
十月も添わで別れたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君 死にたまふことなかれ
よく、当時の富国強兵・天皇制国家が晶子を獄に繋がなかったものだ。
治安維持法が制定される以前のことで、何とか免れたのだろうか。
庶民の熱狂的な支持を得ていたというので、
それが彼女の防壁になりえたのだろうか。
それでも、乱臣、賊子、国家の刑罰を加えるべき…との非難があったが、
それに対して、晶子がさらにこの作品発表から3か月後の『明星』11月号において、
“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえ、
堂々たる反論を展開した姿勢は本当に勇敢で尊敬できる。
下の文句がふるっている。
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。
当節のように死ねよ死ねよと言い、
また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、
危険思想ではないかと考えます。
歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」
26歳の晶子は紛れもなく日本が誇り得る反戦詩人だった。
さっき、このブログをほとんど書き終わろうとしたときに、
急に画面が暗くなり、自動バックアップしてくれてもいなかったので、
ものすご~く疲れた気持ちで再度、今、書き直している。
こういうとき、つい(まさかあの事件のせいでネット規制?)など、
すぐに疑心が湧く。ここに来て以来のカナシイ癖である。
今日、3年の日本文学の時間に「君死にたまふことなかれ」を学生と読んだ。
五言絶句、七言律詩に慣れ親しんできた学生たちにとって、
七五調のリズムを持つこの詩はその点で受け入れ易いとは言え、
現代の日本語しか習っていないので、一字一句の理解は苦しいものがある。
日本の学生だって困難なのに、この子たちはまだ、日本語を習い始めて、
2年経っただけなのだ。
それでも、この詩を書いた当時の与謝野晶子の気迫がビンビン伝わり、
多くの学生が、頷きながら読んでいた。
これを作った当時、晶子は26歳。学生たちより5,6歳年上の頃だ。
そんな共感もあったのではないか。
日露戦争で「旅順」が出てくることが中国人にとってどれほど屈辱であるか、
胸が痛いところだ。
ここを読むとき、学生の表情にも何とも言えない色が浮かんだ。
ああおとうとよ、
君を泣く、君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも 、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも、
ほろびずとても 何事ぞ、
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり。
君死にたまふことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは 出でまさね
かたみに人の血を流し
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの 深ければ
もとよりいかで 思されん
ああおとうとよ
戦いに 君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守り
安しと聞ける 大御代も
母の白髪はまさりぬる
暖簾のかげに 伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君忘るるや 思えるや
十月も添わで別れたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君 死にたまふことなかれ
よく、当時の富国強兵・天皇制国家が晶子を獄に繋がなかったものだ。
治安維持法が制定される以前のことで、何とか免れたのだろうか。
庶民の熱狂的な支持を得ていたというので、
それが彼女の防壁になりえたのだろうか。
それでも、乱臣、賊子、国家の刑罰を加えるべき…との非難があったが、
それに対して、晶子がさらにこの作品発表から3か月後の『明星』11月号において、
“この国を愛する気持ちは誰にも負けぬ”と前置きしたうえ、
堂々たる反論を展開した姿勢は本当に勇敢で尊敬できる。
下の文句がふるっている。
「女と申すもの、誰も戦争は嫌いです。
当節のように死ねよ死ねよと言い、
また何事も忠君愛国や教育勅語を持ち出して論じる事の流行こそ、
危険思想ではないかと考えます。
歌は歌です。誠の心を歌わぬ歌に、何の値打ちがあるでしょう」
26歳の晶子は紛れもなく日本が誇り得る反戦詩人だった。