年の暮れに自分も原告の一人としてかかわっている
安倍靖国裁判のことを書いておきたい。
ちょっと前のこともすぐ忘れる(て言うか創りかえる)日本人が増えてきた今日この頃、
心配なので念のためにおさらいすると、
これまでも小泉首相(当時)が靖国神社に参拝したとき、
下記の二つの裁判所が、首相の参拝は公式であると認め、
それは政教分離を原則とする憲法に違反すると判断した。
福岡地裁 |
04年4月7日(亀川清長裁判長) |
公的 |
違憲 |
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大阪高裁(二次) |
05年9月30日(大谷正治裁判長) |
公的 |
違憲 |
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http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/2691/yasukuni/ikensosyou.html
今回、安倍首相と靖国神社を裁判所に訴えた理由は、
政教分離の原則もさることながら、
首相の靖国参拝は私たち国民が平和に生存する権利を脅かすものだからである。
いったい靖国神社とはどんな神社なのか。
1978年からA級戦犯が「英霊」として合祀されていることが象徴するように、
戦争を美化するとんでもない神社であることは確かだが、
以下の山本さん(原告の一人)の意見陳述(訴え)の中にも、
靖国神社が戦死者にどんなことをしたかが述べられている。
「英霊」などと口先だけのカッコいいほめ言葉で、
戦死者一人ひとりの死んでいかなければならなかった無念を美化するのは、
死者を冒涜し続けることである。
(死者の声が聞けたらいいのに)と心から思う。
――――――原告意見陳述原告意見陳述 山本博樹
ここに一枚の写真があります。私の叔父です。名前は十一。
敗戦の日の20日前、1945年7月、フィリピンはミンダナオ島ダバオ付近で亡くなりました。戦死です。
22歳の若さ、今生きていれば92歳です。この叔父のことからお話しします。
叔父は、滋賀県の長浜農学校を卒業すると、
パラオ諸島の国立熱帯産業研究所に入った後、
ミンダナオ島はダバオ市にあるマニラ麻を独占的に扱う「太田興業KK」に就職しました。
最後の手紙は昭和18(1943)年3月20日の日付で、
兄である親父のもとに届き、中に一枚の写真が入っていました。
ダバオ富士と親しまれていたアポ山を背景に、背の高いヤシの木にもたれ、
白の開襟シャツで長浜農学校の破帽をかぶり、
下駄ばきでリラックスしているセピア色の叔父は、「青年ここにあり。」の感でした。
その写真をみて、私は、会ったことのない叔父にずっとあこがれてきました。
この写真は、私の子どものころから、家の仏間の壁にかけてありました。
高校生の終わりころのある日、いつものように
「仏さん拝んだか?」と母が聞きますので、「拝んだよ!」と鉦をたたいたあと、
何の気なしに壁を見ると、あれ!叔父さんの写真がない。
代わりに、こんな写真が掛けてあったのです・・・。
見てください。なんと、軍服を着ている。
帽子も、愛用していた農学校の破帽ではなくて、軍帽子。
しかも、驚いたことに、手には軍刀を持っている。
「うわっ、座敷の奥まで戦争が入り込んできた!」
見るなり、私はそう思いました。
ビックリして、親父に聞きますと、返ってきたのが
「靖国神社がしてくれた。
階級を書いて写真を送ると軍服姿にしてくれると聞いたので、靖国神社に送った」
という返事。
私は「靖国神社ってなんやろう」と思いつつ、もう一度見に行きました。
よく眺めると、軍刀を持った手は、叔父さんの手ではない。
誰の手だかわからない手がにゅっと隅から出てきて、軍刀を持っている。
おぞましいというか、気持ち悪いというか、言いようのない気持ちに襲われました。
「靖国神社って、平和に暮らしている家の座敷の奥までやってきて、
再び戦争を持ち込もうとするのか」と。
しかし、その時は、親父によう言いませんでした。
実の弟のことだし、私のうかがい知れない思いがあるかもしれない、と思ったからです。
親父が亡くなるまで、この写真は祖父母の隣に掛けたままでした。
それでも私は、座敷に行く度に「早よう軍服を脱がせてやりたい」と、ずっと思ってきました。
昨年末、その靖国神社に、首相アベシンゾウが参拝を強行しました。
福岡地裁、大阪高裁と二度も違憲判決だったのに、
近隣の諸国から「参拝はやめろ!」と言われているのに、です。
この参拝は、戦死して何十年もたった叔父にもう一度軍服を着せ、
「戦争を座敷の奥深く持ち込んだ」ヤスクニのやり口を国家権力が正当化するものです。
その軍服こそ、昨年秋の秘密保護法の制定であり、
今年の集団的自衛権行使の閣議決定ではなかったでしょうか。
私は親父が亡くなったのを機に、軍服姿の叔父の写真を元の開襟シャツに戻しました。
叔父の最期がどうであったのか、詳しいことはわかりません。
ただ、勤務先の太田興業からは、敗戦の翌年である昭和21年、
叔父の消息不明を詫びる手紙が届きました。
叔父が砲兵として現地召集されたのは、昭和19年の10月だったようです。
手紙によりますと、太田興業の社員らはダバオがアメリカ軍に占領されたので、
前もって近くの山に自主疎開していました。
そこから遥か下界の戦場を眺めると、空襲は熾烈を極め、
皇軍はなすすべもなく山中に逃げ込んでいく。
あまりの貧弱さと戦意の無さに、軍に頼らず避難していてよかった、
と皆で胸をなで下ろしていたところ、憲兵がきて、
一人残らず「タモガン」というところに集団で疎開しろ!と命令したそうです。
そこはジャングルの奥地で、しかも軍が在留邦人より先に退却している場所でした。
食料も宿舎もない。
牛馬が通るくらいの道なき道を、機銃掃射を受けながらの逃避行になりました。
密林地帯だから湿気が多く、日光に当たることもできず、病気で倒れる人が続出しました。
やがて乏しい物資の奪い合いが起きます。
昨日まで「忠勇義烈の皇軍」と謳われた兵隊が強盗となって邦人の食料を狙い、
果ては殺人事件まで起こす。
「タモガンの集団疎開は、この世ながら生き地獄で、飢えと弱肉強食の密林だった」
と書かれています。
あのインパール作戦で、飢えと病気のため次々命を落とした皇軍兵士の退却路は
「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれました。
これと同じような「ヤスクニの密林」の阿鼻叫喚の様子を、この手紙は伝えています。
叔父や同僚の兵士たちは、この「ヤスクニの密林」で、どのような思いで命を捨てていったのでしょう。
後に私の親父が、遺骨収集団の一員として付近を訪れたとき、
持ち帰った小さな石ころを、ジャングルの写真といっしょに
祖父母に見せていたのを思い出します。
フィリピンでの戦争は、日本にとって勝つ見込みのない戦争、
無謀で悲惨な戦争だったと言われています。
が、それに巻き込まれた現地の人たちの思いはどうだったでしょうか。
実際、日本軍に家族を殺された人たちの報復はすさまじく、
日本人であることがバレたら命がなかったと言われるほどでした。
フィリピンの六代目大統領となったエルピディオ・キリノ大統領は、
妻と子ども全員が日本軍に虐殺され、
一人を除いて遺体を葬うことすらできなかったと証言されています。
それでもカトリック信仰などから、1953年にはB ・C級戦犯約100名に恩赦を与えています。
アジアの人たちにこれだけの苦しみをもたらした皇軍兵士のどこが英霊なのでしょう。
皇軍のどこを顕彰するというのでしょう。
今また、集団的自衛権を巡り、
日米同盟のため地球の裏側までも派兵するとの議論が出ています。
靖国神社は、そして安倍首相は、戦闘によって命を失う自衛官の奥さん・子どもに、
「お国のために死んで、お役にたてた。英霊として祀られて本望だ」
と言わせたいのでしょうか。
「日本のルネ・クレール」と呼ばれ、敗戦の翌年に亡くなった映画監督の伊丹万作さん、
「お葬式」の映画監督伊丹十三さんの父である彼は言います。
「だまされていた」と平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに、別のウソによってだまされ始めているにちがいない、と。
私は、叔父十一に軍服を着せたヤスクニと、
そこに参拝することでかつての皇軍の過ちを繰り返そうとするアベに
「だまされる」ことを拒否します。
国家の一方的な意思により、無断で合祀された叔父たちを、
ヤスクニから取り戻し、親の元に返したい。
肝心なことは、父や叔父たちが自覚することなく一生を終えた
「侵略に加担した罪」は今も消えていないということです。
甥であり息子である私がなしうる贖罪とは、
過ちを反省するどころかますます居丈高になってきた
「靖国を美化する気風」と戦うことだと考えています。
2014年10月21日
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(通信アジアネットワーク) http://www.geocities.jp/yasukuni_no/