毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「ああ、桃が、ザクロが・・・・・・」No.2040

2017-08-31 23:44:31 | 中国事情

7月、日本に帰る前に鈴なりだったキャンパスの桃が、こんなことになっていました。

ああ、もったいない。

でも、おかげで土が肥えているのか、

カナブン?の幼虫やカタツムリがたくさんいますね。

 

じゃーん!

そこに現れたのは、日本語学科の樹木探索隊です(果物の木に限る)。

確か去年の今頃も、キャンパスのどこかでザクロを採っていたなあ。

この桃は食べられる種類だと彼女たちは言います。

下は、お祖父さんに桃の種の座布団の作り方を教わった遅さん。

いろいろな果物の産地煙台出身のためか、果物の種類に詳しいです。

下は、果敢にも実際試食して、食べられるかどうか判断する閻さん。

この種類の桃は甘かったので大丈夫だ、と評定していました。

つまり、基準は甘いかどうかなんですね。

確かに、桃の葉っぱですよね。

 

ザクロはもう少し待ったほうがいいというので、近寄りませんでした。

 

樹木は結実し、学生たちの学びも確実に成果が出てきています。

2年生は学年末の7月に10人が日本語能力試験を受けましたが、

そのうち7人が合格しました(1人が一級、他の6人は二級)。

実は、クラス12名のうち、1人は他学部からの転入生だったので

それ以外の11人全員が受けたと私は信じていたのですが、

何と!班長が〈自分は絶対受かるに決まっているから受験しない〉とか

意味不明な決断をして受けていなかったのです。

中国ではときどき、日本的発想にはないこうした考え方に遭遇します。

かつて私は、

「二級試験が不合格だったので、次は一級を受けて見返してやる!」

という人に遭って唖然としたことがあります。

日本では普通、

二級に落ちたら、もう一度二級を受けますよね・・・・・・。

 

ま、とにかく、この二年生の結果は、

菏澤学院始まって以来の快挙だそうです。

大学が一流とか二流とか、関係ありません。

勉強するかどうか、努力するかどうかが決め手だと私は思います。

 

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「怖いのはミサイルじゃなくて政府や報道の煽りだよ」No.2039

2017-08-30 23:25:22 | 日本事情

 

 「我が国に北朝鮮がミサイルを発射し」などと発言したどうしようもない日本国の首相。

誰が、このとんでもない人を首相に選んだんですかね。

朝鮮民主主義人民共和国が日本国に対してミサイルを発射したら、

ミサイルが下のように飛ぶかっての。

 NHKや民放各局も

「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。
 
頑丈な建物や地下に避難して下さい」
 
とアナウンスを流したそうです。
 
これを聞いたら、誰だって怖いですよね。
 
 
でも、いつもメールで送られてくる
 
経済英語ニュースにこんな記事があって、
 
(多くの人は冷静なのかも)と思い直しました。
 
ビットコインとミサイルの関係はちんぷんかんぷんですけどね。
 
 
 ---【あれ??(笑)北朝鮮、絶妙な位置へミサイル発射。
 ビットコイン高騰!!米株高騰!(笑)】 ---毎日1分!経済英語NEWS!

おはようございます。
八木翼です。

本当に日本を脅迫したければ、東京の真上を通過させるはずですし、
中国でも、ロシアでも、アメリカでもない方向に向けて
ミサイルを発射していますね。

誤解を恐れずに言えば、北朝鮮はミサイルを着弾させる
つもりは全くなく、ただただ有利に交渉したいだけということが、
浮き彫りになってきたわけです。

ちなみにビットコイン価格が上昇を続けていますね。
僕が購入したついこの間まで、40万円/ビットコインでしたが、
50万円/ビットコインになりました。

北朝鮮のミサイル問題で、地政学的影響を受けない
安全資産であることが証明されつつあります。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  
 
「だから、軍備力増強だ~!」に持っていきたいアベ首相の意図を
 
風刺する画像もありました。
 
(当局によって封鎖された従来のVPNに代わり、別のを学生が探してくれたので、
 
現在、再びフェイスブックやツイッター、YOU TUBEなどが見られるようになり、
 
本当にヨカッタ
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 
『おばあちゃん、
北朝鮮ミサイル怖かったでしょ?
だからねぇ、
絶対に憲法を変えないとダメなんですよ ♪
緊急事態条項がなきゃ、
この国は本当にダメになっちゃうんです。
どうしても一基1112億円する
TAARD迎撃ミサイルが7基必要なので、
ちゃんと振り込んどいてくださいね ♪
オスプレイ17機3600億円の分は、
介護保険から引いてますから ♪
追加で更に四機買いましたけどね ♪』
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
  

多くの人々が日本政府に望んでいるのは、

武器で他国を押さえつけるのではなく、高度な外交手腕を発揮して

国民の平和と安全、そして財産を守ることです。

今の日本国政府は国民の平和に暮らす権利を奪い、

不安な気持ちを煽り、

国民の財産である税金をどれほど無駄遣いしていることでしょう。

こんな政府、一刻も早くゴミ箱に捨てたいですよ。

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「Jアラートの効果は何?」No.2038

2017-08-29 23:36:40 | 中国事情

今朝、日本の全自治体でJアラートが鳴り、

飛行コースから700km離れた場所でも電車が止まったそうですね。

 

でも、そのアラートが鳴る何時間も前に、

既にミサイルが飛ぶ情報は政府に伝わっていて、

アベ首相は前夜から公邸に泊まりこんだとのことです。

(事前に知っていたら、早く言えばいいのに)と思いませんか、皆さん。

Jアラートとは、ミサイルが飛ぶギリギリ直前に鳴らすものなんですか。

直前に鳴らして、どういう効果があったのですかね。

飛行ルートの特定もできず、かなり広範囲に渡って避難勧告が出たようですが。

「怖かった。でも、『避難してください』と言われてもどこに避難したらいいの?」

という声が多かったという記事を読みました。

Jアラートって、100億円以上かけて政府が

「国民の安全と財産を守るため」に設置したそうです。

なんか、また莫大な税金の無駄遣いをされた気がします。

 

むやみにミサイルを飛ばされたらたまったもんじゃありませんが、

今回は日本の領空の遥か高い宇宙空間(高度550km)を飛んで、

日本の領土外の公海上に落下したというミサイル。

高度550kmとは、飛行機が飛ぶ高度1万メートル(10km)の55倍の高さです。

日本を狙ったのではないことは明白です。

Jアラートはただ人々の恐怖心を煽っただけだったのではありませんか。

 

逃げ場がないから「地下シェルターを急いで作れ」ということになるかと言うと、

それも変ですよね。

その前にまず、アベ首相がことあるごとに言う

「強力な日米同盟の結束」というのをやめたらいいんじゃないですか。

なぜアメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国の対立に日本が突っ込んでいくんですか。

アベ政権は日本国民の命と財産を何だと思っているのでしょうか。

優秀な政治家なら、アメリカの後にどこまでもくっついていくその奴隷根性をやめ、

一国の自立的な外交政策を打ち出すでしょう。

いまだ東日本大震災と福島原発事故の復興も途上だと言うのに、

いったい何やっているんですかね、我が日本の政府ときたら。

それにアベ首相はいつまで辞めないで居座ってるんですかね。

 

ところで、こちら山東省の菏澤では、

ミサイルのミの字も話題になっていません。

中央政府がコメントを出したことも知っているのかどうか・・・・・・。

雨が降って洗濯物が濡れることのほうが重大問題といった感じです。

 下は、キャンパスの一角で動じない王禹さんの像。

 

 

 

 

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「学生たちの夏休み」No.2037

2017-08-28 20:15:51 | 中国事情

(7月に冠水した宿舎前も、今はゴミ箱や黄色い車まで元の場所に収まっています)。

 

今日は新学期開始日、新三年生の「日本文学史」の授業でした。

私は昨日授業スケジュールを知らされたばかりでしたし、

学生たちも今日、授業開始直前に教科書を受け取ったところでした。

第一、ほとんどの学生は昨日大学の寮に戻り、旅の疲れもまだとれていません。

中には、日本から来た私より時間をかけて故郷からたどり着いた子もいます。

こういう状態で、「さあ、授業だ!」と言うのは無理だというわけで、

今日は夏休みの体験発表にしました。

休暇中、日本語を使った人は誰もいませんでしたので

ウオーミング・アップにも最適です。

いろいろな体験の中で、

①自分が特に話したいこと

②他人が興味深く聞いてくれそうなこと

という条件で話題を選び、

他の学生からの一言感想や質問に答えることで、

聞く人と話す人が交流するというタスクです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎自動車の免許を取りに学校に行きました。毎日朝4時半に起きて出かけ、夜8時に家に帰っていました。自動車学校の先生は酷いです。よく怒ります。中国の自動車学校の先生はみんな怒りっぽいです。 あと、もう一つ、祖父が認知症で薬をたくさん飲み過ぎたので、病院に連れて行きました。すぐに良くなってよかったです。

 Q:自動車学校の費用はいくらでしたか。

 A:私は去年払ったので3,250元です。今年はもっと高いと思います。

◎父母と山に行って蜂蜜を採りました。蜂蜜採りは難しいです。私は怪我をしたので、その後はずっと何もしないで、ただ写真を撮っていました。大勢で仕事をしていたので、私が働かなくても大丈夫です。(註:煙台出身の学生です。煙台は林檎、さくらんぼなどの蜂蜜がとても美味しいんですよ~)  それから、祖父から桃の種の座布団の作り方を教えてもらいました。座るととても気持ちがよかったです。

 Q:その蜂蜜は美味しいですか。私はまだ飲んだことがありません。

 A:私の寮に来れば、いつでもあげますよ。どうぞ来てください。

◎私は済南に行って夏季英語学校で勉強していました。新しいいい友達ができました。先生も素敵で、最後の日、先生や友達と一緒にピザを食べました。

 Q:その新しい友達と一緒に何をしたのが楽しかったですか。

 A:ただ勉強しただけです。勉強はぜんぜん面白くなかったです。

◎私は妹と一緒にアルバイトをしました。手で糸を巻く簡単な仕事です。でも、手首が痛くなりました。

 Q:バイト代はいくらですか。

 A:10巻で1元です。一日で20元分働きました。

◎私は故郷の友達と久しぶりに会いました。その日は全国英語試験の発表日でした。去年の12月には友達も私も二人とも4級を受験しましたが、二人とも落ちました。今年の6月、私は自信がなくて受けませんでした。でも、友達は私より英語の成績が悪いのに、少しでも点数が上がるように、また受けました。結果は8点だけ増えて、また落ちました。でも、私は自分が恥ずかしかったです。彼女はがんばりました。私はがんばりませんでした。(註:ここで、この学生は目を潤ませました)

 Q:私も英語4級の試験に落ちました。今度の12月、一緒に受けましょう。

 A:はい。

◎私はゲームばかりして昼夜逆転の生活でしたが、特別だったのは友達と水泳に行ったことです。その友達は泳げません。しかし、私たちが行ったプールはとても深くて、段を降りていくと友達の顔は水没しました。私は笑ってはいけないのに、思わず笑ってしまいました。後で、泳ぎを教えようとしても友達は泳ごうとしないので、私はこんな質問をしました。「君のお母さんと君の未来の彼女が一緒に水の中に落ちたらどうするんだ。」 彼は「僕の母は泳げるよ。それに僕の彼女には泳げる人を選ぶ。」と答えました。

 Q:あなたはお母さんと未来の彼女が同時に水に落ちたらどうするんですか。

 A:う~ん、母を助けます。私は水に浮かぶ人を彼女に選びます。

◎私はコンピューターを使って文書の整理をするアルバイトをしました。面白くなかったですが、給料は3週間で1800元で、私にしてはとてもよかったです。1000元は両親に、500元は姉にあげて、自分は300元だけ使いました。

 Q:あなたはバイトでそんなにお金を得たのに、どうして私にお金を借りたんですか。

 A:あ、あの、それはデパートで支払うとき、ちょっとお金が足りなくて、あなたならお金持ちだから貸してくれると思ったんです。(註:アリペイ決済は、どんなに遠距離にいる人でもスマホで簡単に払えるシステムです。この借金をしたとき、質問者〈お金持ち〉は濱州市にいて、発表者は威海市とずいぶん離れていました)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ああ、脱力の会話・・・・・・。

さあ、こんな学生たちとまた楽しく過ごす日々が始まります。

下は宿舎前の夕方です。

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「明日から授業なのに」No.2036

2017-08-28 00:04:31 | 中国事情

(現在私はフェイスブック、ツイッターを見ることができません。

ただ、ブログはリンクしているので自動的に載せてくれていると信じます)

 

昨日着いて、明日から授業。

時間割は今日もらいました。

明日は夏休みの体験発表をしてもらいましょう。

 

久しぶりの部屋は埃やカビだらけで、かび臭さに閉口しました。

(今もまだ臭い)。

エアコンを点けると何故か「バッ」と音を立ててそのまま消えました。

その付近の電気回路も同時に潰れましたが、

外事処のMr.張に携帯メッセージで「I need your help!」

(過去2年間、何度この文句を送ったことでしょう。

3年目もこれで始まりましたよ)

と送ると、

「Everything is at mass now」とか言いながらも

ぐ見に来てくれ、

「これは深刻だね」と言って

電気屋さんに電話してくれたので、夕方には復旧しました。

 

クローゼットの中の服にもカビが生えていたのは残念でしたが、

確か去年もそうでした。

一ヵ月半留守をしていたので、

その分の変化の全ては受けとめるしかありません。

 

でも、今朝、書斎に小さいのが出てきて、

(お帰りなさい。私がずっと留守を守ってあげていましたよ)

とでも言うように、

30分ほど部屋の壁際をちびちび移動し、

そのうちどこかに消えました。

でも、今もどこかにいるのは確かです。

(留守番ありがとうね。ヤモリくん)。

 

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「関空の長い夜:JALスタッフの苦労に同情」No.2035

2017-08-26 22:09:54 | 自分事情

へろへろ~。

午後1時過ぎに何とか菏澤の宿舎にたどり着きました~。

私の乗る飛行機はだいたい遅れます。

昨夜もまたそうでした。

関空を25日夕方7時半発のはずが、

実際に飛び立ったのは翌日26日の午前1時50分でしたよ。

上海からの便に乗って、折り返し上海に行くはずが、

定刻の午後7時半になっても

まだ飛行機は上海を出発していないとのことで、

関空で長い夜を過ごすことになりました。

初めのうちは何時に飛ぶか皆目検討がつかない状態で、

乗客の中には、スタッフに厳しく説明責任を問う人もいました。

昨日の関空ー鄭州の路線は

上海航空と中国東方航空の二社乗り入れでしたが、

遅延による乗客への対応には、

なんとJALのスタッフが当たっていたのが驚きでした。

「どうして他社のお手伝いをしているんですか?」

と聞くと、外部受注とかで、

他社の緊急事態に出動することになっているのだとか

とにかく上海浦東空港は、定刻に飛び立たない空港として有名です。

少し前まで私は(PM2.5で視界が悪いからかな)と想像していましたが、

「いや、今は上海の空気はよくなりましたよ。

主な原因はあまりにも多くの発着便があるため、

収拾がつかなくなっているのです。」

と上海出身で奈良で教育関係の仕事をされている方が

説明してくれました。

しょっちゅう遅延するたびに乗客への対応のため

出動するJAL職員の心中やいかに・・・・・・。

遅くなると次第に態度が硬化する乗客も現れました。

乗客も予定が立たなくてイライラしますが、

飛行機が飛ぶまで、ずっと対応し続けなければならない航空会社スタッフも

大変ストレスフルな仕事をしていることがしみじみ分かりました。

「上海は悪天候なんかじゃない。雨も降っていないし強風も吹いていない。

どうしてウソをつくんだ!」

と強い口調でスタッフを問い詰め、

上海航空の責任者に電話する乗客。

スタッフが、

「何度もご説明しておりますように、

現在は悪天候でなくてもその前が天気が悪くて、

その影響で次々と発着便が遅延し続けているのです。

ご迷惑をおかけしますが、どうかご理解ください。

私は決してウソをついていません。」

と、必死の顔で応対する姿を見て、

私は心から気の毒に思いました。

ところで上の写真の机の足、ちょっと気になりませんか。

私はまん前に座っていたので、

机が倒れて上の配給食が落ちないか心配でした。

配給されたのはパウンドケーキ2つと水でした。

水はありがたかったですが、夜中にケーキは食べる気になれず、

菏澤までずっと持ってきました。

 

出発時刻が分かった段階ですぐにメモを張り出したのも

日本ならではの対応です。

既に11時半過ぎでしたが。

 電光掲示板も書き換えられ、みんなホッとしました。

でも、1:20と書いてあっても、搭乗したのがそれくらいで、

さらに30分、機内で過ごしたのです。

 

上海浦東空港には午前3時40分(現地時間)に着き、

そこから鄭州行きに乗り換えるのも、

スタッフが先導してくれてたいへんスムーズにいきました。

朝、7時過ぎに鄭州空港に着き、

ここからさらに長距離バスに乗って菏澤に行くために

巨大なスーツケースと、

キャスターが1つ壊れているため異常に重いキャリーバッグを引きずって

空港内を歩いていると、

ああ、ここはもう中国なんだなあ、としみじみ思える店がありました。

鴨の頭、豆乳、煎餅・・・・・・。

中国では、朝からこういうものを

しっかり食べたり飲んだりしている人も多いのです。

 

 

菏澤行きは10:40発だったので、持参した文庫本のうち

「神の子どもたちはみな踊る」(村上春樹)を

待合室で全部読んでしまいました。

以前、村上春樹の社会的スピーチは、

(あれ?この人どっか違和感あるぞ。ちょっと何人か分からない感じ~)

と思ったのですが、

この短編集は「ぼく自身の中の非ぼく」とか「身体に石を入れた人」、

「中身のない人間」「からだが空っぽ」などのキーワードが、

違和感というのではなく、心が引っ張られて落ち着かないので、

もう一度ちゃんと読もうと思いました。

 

ところで、下のバス時刻表に見える開封、許昌、洛陽などの地名は、

聞いたことありますよね。

中国の歴史の中心舞台になった場所が

こんなに近くにあるのを見るたびに

私はちょっとワクワクします。

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「長く生きるほど人生は美しくなる」No.2034

2017-08-24 21:43:00 | 映画

ここ数年で最も引き篭もりがちの夏休みを過ごし、

明日、また中国に発ちます。

その前に観たい映画がありました。

『人生フルーツ』です。

「昔、ある建築家が言った。

長く生きるほど

人生はより美しくなる。」

観た後では、その言葉が(そうだな)と思えるようになる、そんな映画でした。

そのように生きるためには、

「時を溜める」ことが必要なのだと二人の登場人物は行動と佇まいで示します。

津端修一さん(1925年1月生まれ)と津端英子さん(1928年1月生まれ)の

二人が生きる(生きた)ように、

時を溜めて、生活を工夫し、自然の一部として

しっかりと生きたいものだと思います。

 

下は、二人が自宅周りに作った雑木林に置かれている水浴び場。

修一さんが亡くなった後の台風で壊れてしまいましたが、

娘さんたちが復活させました。

この水浴び場ひとつをとっても、圧倒的です。

修一さんの文字。

プリムラが話している言葉をメモしたんですね。

修一さんは人間だけに凝り固まっていない自然の存在だと思いました。

二人の表情は、

年を取るにつれてますます清清しく、りりしくなったと

映画を観た皆さんは、感じることと思います。

すごい二人組ですね。

これこそ地球を救う二人だと感じ入りました。

いや~、中国に行く前に観られて良かったです

じゃ~、行ってきま~す。

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「李さん宅にお見舞いに」No.2033

2017-08-21 23:40:13 | 中国帰国者

今日はフミちゃん、雅子さんと

数年ぶりに李さんのお宅にお見舞いに行きました。

中国からの帰国者(中国残留日本人)の李さんは、

私が中国に行って日本語教師になる2010年まで、

近畿中国帰国者支援交流センターで日本語を教えていた学生でした。

学生と言っても今年74歳の、人生の先輩です。

 

李さんの連れ合いの素媛さんが2011年7月に大怪我をして、

二人の生活は一変しました。

その大怪我のいきさつも悲惨です。

中国貴州に住む娘さんの急死に遭遇した李さん夫妻は貴州に飛んで行き、                            

葬式の後、傷心を抱えて北京まで戻ってきましたが、                                 

素媛さんが手すりのないホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折し、

一時意識不明の重態になったのです。

李さんのことを紹介するとき、私はいつも

(どうして神様はこんなに李さんを苛めるのか)と思います。

それなのに李さんは今日も、

「今は皆さんのおかげで、妻がすばらしい病院で治療やリハビリを受けられます。

私は大満足です。」と言うので、私はやるせない気持ちになりました。

今日は数年ぶりでしたので、

李さん(右端)は私の大好きな太刀魚のてんぷらや、きくらげの炒め物など、

思い切りご馳走を作って待っていてくださって、

中国式おもてなしのものすごさに私は胸がいっぱいになりました。

それでも撮影用に微笑む私たちです。

 

 

李さんがどのような人生を歩んでこられたか、

かつて作文に書いてもらったことがありますので、

ここでご紹介します。まだ、素媛さんが怪我する前のことです。

 

---「我が人生」 李達夫

〈誕生〉

 私は1943年6月27日中国吉林省吉林市で、

戦前の中華民国官費派遣生として

旧東北帝国大学に留学し、ハルビン市第一中学の教師をしていた父と、

日本人の母の間の三男として生まれました。

二人の姉と二人の兄がいる五番目の末っ子です。

私が生まれたとき母は、「この子は日本人です。」と言ったそうです。

母は自分の五人の子どものうち、

少なくとも二人は日本国籍を持たせたかったのでしょう。

一番上の姉と一番下の私が日本人として、

当時の満州国駐在日本大使館に戸籍登録されました。

 

〈母の教え〉

母は幼い私に、「さくら さくら」の歌を教えてくれました。

今でもこの歌を歌うとき、母の美しく艶やかな歌声が心に浮かびます。

初めて学んだ文字も「さくら」です。

私は自分自身が日本人であることを常に意識して生きてきました。

幼時より日本人の母に大和民族として厳格な伝統教育を受けて育ったからです。

勤労や奉仕の精神は毎日教えられました。

誠実さ、我慢強さ、勤労の心、他人に尽くすこと、これらは全て生活の中で、

あるいは勉強の中で、母から人生の教訓として教わったものであり、

ずっと宝物として私の心の中に存在し続けています。

 そうした母の教育のおかげで、私は中国にいたとき小学生の頃から

学習の成績もよく、順調に高校を卒業して吉林工業大学を受験しました。

高校生のときの私はアイスホッケーの選手でした。

吉林工大を受験したのも、その大学がアイスホッケーの名門校であり、

そこでアイスホッケーを続けたかったからです。

しかし、試験には合格しましたが、入学申し込みに行った時、

受付で「政治審査不合格」と言われ、入学を許可されませんでした。

そのとき母は、

「大丈夫。大学に入れても入れなくても、どちらでもいいの。

何でも自分ができることを一生懸命したらいいの。

一番大切なのは、人間の尊厳なんだから。」

と教え諭してくれました。

 

〈文化大革命〉

母の言葉を胸に刻み、私は共産党の号令に応じて農村に行き、農場で働きました。

身体も丈夫で仕事をこなす能力もありましたが、どんなにがんばっても

「日本の餓鬼」、「危険分子」と言われ、

これが後には「日本のスパイの子」になっていきました。

そしてさらには、母が「日本のスパイ」という罪名を着せられ、

7年間も拘留されることになってしまったのです。

文化大革命の最中、私たち兄弟姉妹五人は市中を引き回され、批判され、

ありとあらゆる屈辱を受け、罵られました。

そのとき私は、自分が日本人であることに誇りを持っていました。

ゆえに中国人から屈辱的な目に遭わされるたびに、

逆に、自分の心中深いところで、熱い思いに揺さぶられたものです。

 1962年に農場に入ってから13年間、

毎日、毎日、顔は地面に向きっぱなし、背中は空に向きっぱなしで、

たいへん体力を消耗する仕事が続きました。

でも、主食はとうもろこしの粉と山菜を混ぜたものですから、

その時の私の夢は、純粋にとうもろこしの粉だけで作られた饅頭を

腹いっぱい食べることでした。

 当時中国では、いろいろな政治運動がひっきりなしに行われ、

そのたびに違う対象の者を懲らしめるのです。

私は日本の関係者だということで苛められました。

毎日小心翼々、びくびくしながら過ごしていました。

今でもこの頃の思い出を語るとき、つらく深い痛みと悲しみで、

胸が締め付けられます。

 

〈友人・妻との出会い〉

小学生の頃から高校までずっと母に誠実と勤労の教訓を受けていたために、

長春、吉林、延吉の学校時代と職場で勤めた60年間を通じて、

私にはたくさんの友達がいました。

今でも私はよく、友達と一緒に勉強したこと、

アイスホッケーの試合をしたこと、

みんなと別れたときのことなどを、その時々の友達の顔とともに思い浮かべます。

 そんな中にこんな友人もいました。文革後期のことです。

私は日本関係者だという理由で、

彼は中国人でしたが、会社経営をしていたので

「走資派」(資本主義一派のもの)という評価が下され、

一緒に「牛棚」(農場内の監獄)に入れられていました。

私は日常の農場生活で友情厚い仲間を得ていたので、

仕事の後で審問を受けず無事に牛棚に戻れましたが、

「走資派」は、毎日紅衛兵に審問されました。

審問のとき、紅衛兵は必ず、構わず殴ったり蹴ったりします。

そのため、「走資派」の審問前に、私は自分の服を脱いで

彼に着せてあげていました。

長い間、一緒に生活する中で、彼と私との間には次第に友情が培われ、

仲のよい友達になりました。

 文化大革命が完結した後、現実路線のおかげで、

「走資派」は、また元の職場に復帰できました。

やがて私も農場の農工から州政府の職員に転職できました。

 もうひとつ、私は友人のおかげで妻とめぐり合うことができました。

当時私は、「日本鬼子」と呼ばれて様々な制限をされ、

差別・軽蔑の目で見られて暮らしていました。

妻と初めて出会った場所は牛棚(農場の監獄)です。

妻は中国人ですが、友人に私を紹介されて、

恐れることなく監獄に閉じ込められていた日本人の私に会いに来てくれました。

そして私の丈夫な身体と正直な性格と、勤労の心をすばらしいと思ってくれました。

そのときから今まで40年の月日が流れました。

これは幸せな楽しい40年です。

現在、私と妻には息子と娘が一人ずついます。

息子は横浜に住み、娘は中国で日本語を教えています。

私は十分満足しています。

 

〈「資本主義の国」日本〉

 私は生まれたときから中国で生活し、成長してきたので、

様々な面で中国の影響を受けてきました。

特に、中国共産党は日本が資本主義の国であり、

資本主義とはとても恐ろしいものだとか、

腐敗した社会制度だとかいう教育をしていたので、

私自身もそうした意識を持っていました。

そういうわけで、私はとても不安な気持ちで日本の大阪にやってきました。

2003年4月のことです。

日本についてぜんぜん知らないものですから、胸がどきどきしていました。

 

〈帰国後の日本の印象〉

 しかし、日本に来て様々な物事を見たり体験したりする間に、

私の考えはすっかり変わっていきました。

知人であろうと、見ず知らずの人であろうと、

出会った人々がみな、笑顔で迎えたり、挨拶したりする様子は

とても気持ちよく感じました。

 親切な人が多い、礼儀正しい、交通がとても便利だ、

町がきれいで環境がいい、公衆道徳やマナーを守るなど、

日本のすばらしいことの中で、特に大切なのは、

「人権を尊重し、自由を守る国だ」ということです。

これは、日本が誇りにすべきことです。

日本の「人権と自由」は、中国と比べものにならないものです。

 さらに日本人は、戦後原爆で焼け出された廃墟から出発し、

瀬戸大橋を作り、新幹線を走らせました。

これらは日本人の強い精神力を表すものです。

私はこうした社会を実現した日本国民に心から敬意を抱いています。

 日本では何をするにも法律や規則を守ってことを進め、

私利私欲を挟んだりすることもありません。

ですから私は、今はもう日本という美しい祖国が大好きになりました。

 

現在の生活〉

 帰国後の6年間、政府は生活の隅々まで心を配ってくれました。

皆様の残留孤児及び家族に対する深い心遣いと援護に大変感謝しております。

帰国してから私は、ずっと大阪YWCAで日本語の勉強をしています。

今、67歳を過ぎ、明るく、暖かい教室で先生の講義を聞いたり、

良き師、良き友と知り合ったり、

本当に世界一の幸せ者です。

周りの人たちは、私や家族に人としての尊厳を、

また、この上ない温かさと幸福を感じさせてくれました。

 

〈最後に〉

 私は日本に来てから、生活面でとても良くなったと思います。

でも、精神面は何か物足りないような感じがしています。

今思えば、私にとってやっぱり中国は故郷です。

日本人として満州国で生まれた私を育ててくれたのは、

中国の人々であり、中国の大地でした。

60年間、中国で生きてきた私は、

中国を尊敬し熱愛しているというか、何と言って好いか分かりませんが、

心の底から感謝しています。

私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただひとつ、

『中日永遠友好!』です。

これからも、日本社会に溶け込んで、自分の思想、道徳、教養を高め、

自分の悪い生活習慣を改めて、社会環境や時代の趨勢を見極め、

順応すべきところはしていく所存です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

この作文を書いた8年前は、妻の素媛さんもお元気で、

李さんがYWCA(帰国者支援センターがあるところ)から団地の家に帰り、

駐輪場に自転車を置いてドアを開けると、

「お帰り」の言葉とともに、

美味しい水餃子が出来上がって、李さんに差し出されたそうです。

そろそろ李さんが帰ってくる頃だと思って、

ベランダから李さんの姿が見えるのを待っていたのだと。

 

今、李さんは、素媛さんの介護をしながら、

妻が自分の人生の全てをかけて自分に尽くしてくれていたことを

日々痛感していると語っていました。

 

下は李さんご夫婦に関するブログ記事です。

「李達夫さんのこと」 2011年8月9日(火)No.180

「日本の入院先が見つからない!」2011年8月20日(土) No.181

「李さんから」2011年8月22日 No.182

「李さんその後」2011年8月28日(日) No.184

「李さん夫婦・その後」2011年9月10日(土) No.190 

 

 

 

 

 

 

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「この夏・留学生との交流会2つ」No.2032

2017-08-20 02:10:18 | 中日(日中)交流

私の夏休みも後5日。

今夏の休みはほぼだらだらと寝たり起きたりして過ぎ行こうとしていますが、

そんな私も声をかけられてお応えしたのが、

8月5日と今日19日の二回、中国での日本語教師の体験を話す会です。

今年は、なんと中国で教えたかつての教え子たちが

5,6人も関西方面に留学しているので、

その教え子たちにも来てもらいました。

当然、私の体験談よりも、

学生たちの生の声のほうがよほど面白かったですよ。

今日、中国における学生と先生との関係が話題になった際、

一人の学生が自分の高校時代のエピソードを紹介しました。

成績をクラスみんなにスクリーンで映し出されて、

「次回に点数が一定のラインを超えなければ、

反省文をみんなの前で読み上げさせ、クラス全員に謝らせるぞ」

と言われ、殴りたいほど悔しくても、

絶対に反抗することはできなかったというものです。

それを聞いたときは、参加した皆の顔が、同情で?ひくひくしました。

先生は上から厳しく学生を押さえつける存在で、

絶対に逆らえなかったというのが

今日参加した学生たちに共通した話でした。

そういえば以前も、

「学校では先生の言うこと以外はしない方がいいとみんな考えます。

もし、自分で考えて何かして叱られたら大変ですから。」

と言う学生がいました。

そういう学生は、例えば私が「花見会をしましょう。」と言っても

「はいはい。」と答えるだけで、後は何もせずただじっと待っているのです。

自主活動とはいかなるものか、私が言って聞かせると、

「学校では何でも先生が決めるのが今までの生活でした。」

と話すので、

「日本では小学生の頃から、子どもたちが自分で計画して

実行する練習を積み重ねていますよ。」

と言い、お互いの教育の違いにウームと唸ったものです。

しかし、今日の交流会では、

日本でも最近は、先生の言うことだけをするという風潮が増し、

トイレも自主的に行けず、お漏らしをする子までいるとの話がありました

日本の教育も伝統的中国風になっているのがトレンドなんでしょうか。

そのような教育を受けて育った子たちは、

学校では先生の言うことを聞くだけ、

社会に出れば、会社の上司や政府などの言いなりになるだけの

消極的人間になってしまうのでは・・・・・・と、

危惧する意見がありました。

私も同感です。

 

 

 

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「NHK『731部隊の真実』ドキュメントに中国外務省がコメント」No.2031

2017-08-18 02:24:13 | 歴史

8月13日放映(17日再放映)の

NHK「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」は、

非常に大きな意味のある内容の番組でした。

私は、音声はこれほど力を持つのか、と軍人や兵士たちの話す声に

聞き耳をたてました。

やや一本調子の棒読みに聞こえるのは、

あらかじめどんな質問がされるか知らされていたので、

それへの答えを準備していたのか、

或いは、尋問されている緊張感がもたらしたものかと思います。

いずれにしても、

この棒読みをもってして、ネトウヨが主張するように、

「ロシア側の準備した原稿を読まされただけだ。」

「731部隊は人体実験などしていない」

という根拠にはなりません。

下の写真は中国人捕虜(約3000人の捕虜はただの一人も生きて釈放されなかったと証言されています)。

中国外務省が、このドキュメント番組に対して「日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する」と論評をしています。

以前、学生が作文に

「過去に日本がしたことを認めさえすれば、私たちは心から許すことができます。酷いことをしたくせに、していないと言うから、みんな怒るんです。」

と書いていたことを思い出します。

以下、J-CASTニュースからの引用です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

番組では、戦後に731部隊のメンバーを旧ソ連が裁いた軍事裁判の様子を収めたテープを発掘。中国人の囚人に細菌を感染させたり、わざと凍傷を負わせたりする人体実験の様子が語られた。中国外務省は番組について「日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する」と異例の論評をした。

「ハバロフスク裁判の音声記録」を公開

番組は、ロシア国立音声記録アーカイブで発掘された1949年の軍事裁判「ハバロフスク裁判」の約22時間にわたる音声記録や、731部隊に「少年兵」として属していた人のインタビュー、京都大学などに残されていた資料などで構成。人体実験の実態や、軍からの多額の研究費の見返りに、東大や京大が多くの医師を731部隊に送り込んで人体実験を進めていたことを指摘した。

「この裁判は、これまでソ連が公表した文書の記録しかなく、ねつ造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では、部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました」

と説明した。

当時の憲兵や衛生兵が、人体実験の様子を次のように証言する音声が流された。

「中国人、それから満人(満州人)を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水を作って、砂糖水の中にチフス菌を入れて、そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて、そしてその人体実験によって亡くなった人は12~13名だと記憶しています」

「人体実験を自分で見たのは1940年の、確か12月ごろだったと思います。まず、その研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰をかけております。それで、その中国人の手を見ますと、3人は手の指が全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけが残っておりました(中略)凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました」

中国外務省「一連の史実は動かしがたいものであり、否定できない」

番組に対して、中国政府は異例の反応を見せた。中国外務省の華春瑩副報道局長は8月15日の定例会見で、記者から番組について

「日本の731部隊が罪を認める20時間を超える録音を掘り起こし、中国侵略戦争で同部隊の犯した凶悪犯罪を完全に復元した」

などとコメントを求められ、次のように番組を称賛。歴史問題の「正しい理解と深い反省」を改めて求めた。

「第2次世界大戦中、日本の侵略軍は中国人に対して極悪の細菌戦を発動し、残酷で非人道的な人体実験を行い、反人類的な極悪犯罪を行った。

一連の史実は動かしがたいものであり、否定できない。この時期の歴史を正しく認識することでのみ、日本は歴史の重荷を下ろすことができるようになる。

我々は歴史の真相を暴く日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する。

日本側が国内外の正義の声に注意深く耳を傾け、日本軍国主義の侵略の歴史を正しく理解し、深く反省して、中国などアジア被害諸国の国民感情を真剣に尊重することを希望する」

中国共産党の機関紙、人民日報も8月16日付の紙面で、「歴史から学んで初めて未来を獲得できる」と題するコラムを掲載した。コラムでは、番組終了後、日本の視聴者からも

「本当に恐ろしい。人間がすることとは思えない」
「これが事実ならば、私たち日本人はこういったことを繰り返してはならない」

といった声があがったとしながら、日本政府は「資料がない」ことを理由に事実関係を認めていないことを指摘。その上で、

「自らの歴史観を正し、侵略の罪状を深く反省することによってのみ、本当に世界からの尊敬を得ることができる」

などと政府と同様の主張を展開した。

 日本政府「細菌戦を示す資料は確認されず」

 8月17日夜時点では、日本の大手メディアで同番組について触れたのは華氏の発言を伝えた朝日新聞と日経新聞。日経(電子版、15日配信)は、中国のネット上で「歴史を直視した」といった賞賛の声がある一方で、「報道の自由がある国がうらやましい」と中国の報道規制を批判する声もあったことを指摘している。また、朝日は華氏発言とは別に、15日付朝刊「ひと」欄で、父が731部隊の軍属だったという元高校教師を取り上げている。

731部隊をめぐっては、小泉内閣が03年、川田悦子衆院議員(当時)の質問主意書に対して、その存在を認める答弁を閣議決定しているが、その活動内容については

「外務省、防衛庁等の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は、現時点まで確認されていない」

とするにとどめている。

今回のNHK番組に対して、ツイッターなどネット上では、

「もっと日本人はこのこと知るべきだと思うんだよね」
「私は これが真実だと思うよ」

といった肯定的な反応も出る一方、

「滅茶苦茶な放送をするなよ、完全にプロパガンダだろ」
「強制収容所では、赤化教育がなされ徹底的に思想矯正を受けた」

などの反発も寄せられている。

ーーーhttps://www.j-cast.com/2017/08/17306123.html?p=all

(写真は全てNHKの当該番組から)

「Nスペ『731部隊の真実』は捏造報道」と主張するネトウヨ・ツイート集 は下記のサイトで。

https://twitter.com/i/moments/896717087179026434

 

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「花シューマイと孫」No.2030

2017-08-16 18:26:38 | 自分事情

中国にいるとき、フェイスブック友達の英子さんの料理写真で、

(これなら3歳の孫娘と一緒にできるかも!)と思うのがあり、

レシピを教えていただいたのが『花シューマイ』。

夏休みも後半に突入した先日に、ようやっとこさ実現しました

しかし、これができるまでには紆余曲折があったのです。

まず、娘の家に行って「さあ、作ろう!」と言っているうちに、

あら?妹(孫娘2)と一緒に寝てしまいましたよ。

一時間以上待っても起きないので、

しかたなく一人で作っていたら、髪の毛ボサボサで起きて寄ってきて、

「あれ、ちさちゃん(自分のこと)、お手伝いするんじゃなかったっけ」と

すぐ一緒に作り始めました。

料理が好きみたいです。

 

 冬休み(2月)には、

餃子の皮の縁に水をつける仕事しかできなかった彼女が、

今回はちゃんと具を皮に包んだり、トウモロコシを2粒ずつ飾ったり

できるようになっているのを発見し、ホクホク。

下は、まだ寝ぼけ眼で働く孫娘です。

 

 次第に調子づいてきました。

こういう猫の手も借りたい作業では、3歳でも十分助けになります。

実は、英子さんが下さったレシピには、

ワンタンの皮をザクザク切って具にまぶすと書いてあったのですが、

孫娘が餃子の時のように包み始めたので、

(ま、いっか)とそのまま進行しました。

ニンジンがないのでケチャップで色をつけました。

グリーンピースも省略です(超ズサン)。

 

そうこうしているうちに、孫娘2も起きました。

 お姉ちゃんが大好きなので寄って来ます。 

 しかし、お姉ちゃんは妹を台所に入れまいとして、

身体を張って進入を阻止します。

修羅場・・・・・・

きっと、毎日こうなのでしょう。

 

 

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「新しい時代を切り開くもの」No.2029

2017-08-16 00:58:43 | 中日(日中)関係

今年の8月15日が2時間前に過ぎていきました。

「終戦の日」と言われるこの日まで、

NHKテレビのドキュメンタリー番組で

「“原爆の絵”は語る~ヒロシマ被爆直後の三日間~」

「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~」

などを立て続けに観ました。

歴史の事実がなかったことにされかねない時代にあって、

一部であってもそこに光を当て、

客観的事実であることを示したNHKには敬意を表し、

さらに、歴史の事実を掘り起こす番組を

提供し続けてくれることを期待します。

そして、私たち日本人は、

日本にとって恥ずべき歴史であっても、

その事実を隠蔽したり、否定したりせず、

なぜ、日本はそんなことをしたのかをよくよく考え、

どうしたら二度と同じことを繰り返さないようにできるかを

追求し続けなければならない責任があると私は思います。

歴史を知らない者は、

新たな時代を切り開くこともできないのです。

 

さて、インタビューもいよいよ最後、

施芳芳さん(江西省上饒市出身)の登場です。

去年から今年の春まで一年間、東京の杏林大学大学院で翻訳を学び、

広州外語外貿大大学院に戻っていった彼女は、

帰国前の2月に、私と一緒に沖縄に行きました。

沖縄で彼女が行きたいところは、まず辺野古だと聞いて、

(ただの観光旅行で行きたいのではないんだな)と嬉しく思ったものです。

施芳芳さんインタビュー 2017.7.21 甘粛省卓尔山の家庭ホテル(民宿)で

 Q:大学に入る前、日本についての知識はどこでどのように得ましたか。

テレビの抗日ドラマとか歴史の教科書で学びました。

私自身は日本について好きな気持ちも嫌いな気持ちもありませんでした。

直接、生の日本人に接したこともないし、話したこともないので

判断できないと思っていたのです。

Q:大学で日本語学科を選択した経過・訳を教えてください。

私は外国語を学びたかったんですが、英語は嫌でした。

すから兄とも相談して、日本語を選びました。

Q:日本語学科で学ぶ中で日本についての考えが変わったり、新たに知ったことはどんなことですか。

大学で出会ったT先生(私のこと)は初めての日本人で、

私は初めて、日本人のよく言われている資質についての実感が湧きました。

先生はまじめで、いつも一生懸命私たちのために考えてくれて、感激しました。

Q:日本留学の感想を言って下さい。

私が留学した大学のクラスはほとんど中国人ばかりで、

大学で日本人と親しくする機会はありませんでした。

ただ、アルバイト(コンビニ)で日本人と知り合いになりました。

スタッフはとても優しくしてくれました。

でも、私以外はみんな日本人ですので、ときどき

(私は彼らの外側にいる。仲間に入れていないなあ)

という気持ちがありました。

でも、留学生活を通じてほとんどの日本人は私に優しく接してくれました。

Q:日本の街の様子や日常生活で、どんなところが中国と違うと感じましたか。

日本の街はとてもきれいで空は青く、

PM2.5の数値は毎日とても低いです。

そして、一戸建ての家屋は、

一軒一軒それぞれ様式が違うのが、私はとても好きです。

電車の中ではみんな静かで、あまり交流をせず、

携帯をいじったり、新聞を読んだりして過ごします。

中国では多くの人が大声で話したり、はしゃいだりしています。

どちらもいいところもあるし、そうでないところもあります。

私は静かな雰囲気が好きですけど、

静かすぎるのはあまり好きではありません。

日本人は細かい規制やルールを守って生活していますが、

それらは時には、あまり重要じゃないこともあると思います。

いつも他人に迷惑をかけないように

外に対して気を使って暮らしていて、

自分の本当の考えは心の中に仕舞っているようです

Q:日本人との友好を望みますか。

もちろんです。日本人の友達がほしいです。

 ------------------

施芳芳さんはもの静かで、口数も多い子ではありませんが、

いつもものごとを見るとき、偏見を持たず冷静に観察しています。

以前のブログにも載せましたが、

日本留学を終えての彼女の感想は次のようなもので、

私は(こういう若者が多数派になれば、次の時代が到来するのだろうな)

と感じました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一年ぶりに中国に帰った感想はちょっと複雑です。

美味しい果物や料理を存分に食べられるなんて、

今の私にとっては、至高の幸せです。 

また、両親や友達に会えるのも嬉しくてたまりません。

 

現在の中国は、よく財布の中に現金一枚すら残ってなくても、

携帯を持つだけで、食事や買い物もできます。

生活はますます便利になっています。

 

でも、あまり慣れない状況もあります。

埃だらけの通りや灰色の空、そして列への割り込み現象を見た後、

私は日本に戻りたくなります。

静かな夜に、よく日本で経験したことを思い出しました。

懐かしかったです。

美しい景色をもう一度見たい。

優しくしてくれた人たちにもう一度会いたい。

もっと深く話し合いたい。

この思いはとても強いです。

 
彼氏が私を訪ねて日本に来る前に、

私たちはよく日本での生活と感想をシェアしたんですが、

彼は行ったことなかったので、
 
私の気持ちがあまり分かりませんでした。

「チャンスがあれば、日本で就職したい」、

私は何回もこういうふうに彼に言いました。

しかし、彼の返事はいつも、

「僕は日本語全然わからないのに、あなたが日本に行ったら、
 
僕はどうするの?」

というような言い方でした。
 

も、この前、日本に一週間ぐらい滞在した後、

彼も日本という国が大好きになりました。

そして今の考えは以前と全然違います。

「あなたは日本に行ってもいいよ。僕も頑張って日本語を覚えて、

あなたについていく!」

「なんでそんなに態度が変わったの?」と聞くと、

「日本はきれいで、静かで、秩序整然とした国だ。

そのような国で暮らしてみたい。」

私はちょっとびっくりしましたが、予測していたことでもあります。


また一つの事実も検証しました。

それは、
 
『相互理解と相互信頼を欲すれば、

お互いに、相手の本当の姿を自分の目で確かめなければならない』
 
ということです。

中国人にとって日本のこと、

日本本土の人にとって沖縄のこともそうなんだろうと私は思いました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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「ずっと後で知った祖母の日本人への気持ち」No.2028

2017-08-14 15:21:11 | 中国事情

この7月の旅行の際、私は同行した五人の中国人に

日本についてあれこれインタビューをしました。

ガイド兼ドライバーの馬さん(青海省人)、余立君さん母子(江西省人)の

3人の話は紹介済みです。

実は、三人の教え子たちとは長い付き合いであるにもかかわらず、

改まって日本と自分との関わりを聞くのは初めてでした。

三人三様である部分と、

日本人との付き合いの過程で日本に対する見方が変わったという共通部分があります。

たかが一人の日本人教師とは言え、 

自分は日本人の代表として中国の学生たちにジッと見られていたんだなあと改めて感じました。

それは、日本国内の小学校で働いていたときに、

大人の代表として、子どもたちからジッと見られていたのと同じです。

「人間のベストな姿」を見せるのが教師の仕事だと思います。 

ベストな姿って何よ?ですけど(笑)。

 

今日は、化粧をバッチリ決めた周文毓さん(江西省宜春出身)の話です。

インタビュー 2017.7.21青海省卓尔山の家庭ホテル(民宿)で。

 Q:日本について初めて知ったのは?

幼い頃、祖父母と一緒に暮らしていたとき、

祖父母は中日戦争のドラマが好きで、よく一緒に見ていました。

だから、日本人の印象はあまりよくなかったです。

Q:みんな「あまりよくなかったです」と遠慮がちに言いますが、本当はどうですか。

本当はドラマの中の日本人はとても悪い人でした。

学校での教育も、日本人は中国人にとても酷い事をしたと学びました。

だから、日本人は「とても怖くて人間性のない、鬼のような人たちだ」と思っていました。

Q:お祖母さんが周文毓さんに話してくれたことを紹介してください。

祖母は長年、「日本人は悪い人たちだ」と言っていましたが、

私が大学で日本語を学び始めてから、家に帰るたびに、

実際に自分が接した日本人、つまり、T先生〈私のこと〉や

南昌八一公園の青空日本語教室に来ていた日本の人たちのことを引き合いに出して、

「日本人はそんなに悪い人たちではない」と言うと、

そのとき初めて、祖母の幼い頃の話をしてくれました。

〈中日戦争のとき、祖母の家族は山東省に住んでいました。

あるとき、祖母の母(曾祖母)が、幼い祖母を連れ、弟を胸に抱いて日本軍から逃げていました。

そのとき、後ろから日本軍の兵士が追いかけてきたんです。

胸に弟を匿って逃げる曾祖母は宝物か財産を持っていると勘違いされたのでしょう。

日本軍兵士が「止まれ!止まれ!」みたいなことを怒鳴りました。

曾祖母はあまりの恐怖に転んでしまいました。

そのとき、その兵隊が近づいて見たら、持っていたのは宝物じゃなくて子どもです。

その兵士は何もせず、行ってしまいました。

傍で一部始終を見ていた祖母はまだ幼かったですが、

そのときの記憶はずっと残っていたのです。〉

 私はその話を聞いて(今まで、祖母は日本人が大嫌いだと思っていたけど、

実は、本当はそんなに嫌っていなかったんだ)と初めて知りました。

私が大学で日本語専攻を選んだときも、祖父母はなかなか喜ぶ顔をしなかったんです。

でも、日本語を学び続ける中で、祖父母とも次第に理解を示してくれるようになりました。

戦争中のエピソードを語ってくれたのもそんなときでした。

Q:日本語学科を選んだ理由は何ですか。

アニメです。戦争ドラマを見ながら同時に、日本のアニメもよく見ていました。

小さいとき家族皆で見ていたのは「ちび丸子ちゃん」です。

他にも、例えば「クレヨンしんちゃん」、「鉄腕アトム」、「NARUTO」とか「犬夜叉」など・・・。

「名探偵コナン」や「ウルトラマン」は今でもテレビでやっています。

私は「犬夜叉」が大好きで、

高校時代、特に、犬夜叉のお兄さんの殺生丸さまが好きでたまりませんでした。

テレビでは放映されませんが、宮崎駿のアニメもネットで見ていました。

中国にもアニメはたくさんありますが、日本のアニメの方がもっと面白いと思います。

Q:大学の日本語学科で学ぶ中で何か考えが変わりましたか。

大学に入る前、自分の頭の中の日本人像はただ、

「戦争ドラマの悪い日本人」と、「アニメの中の面白い日本人」という二つだけでした。

しかし、大学に入って実際にT先生や他の日本人に接したら、

日本人に抱く印象は豊富になり、日本人も同じ普通の人間だと思うようになりました。

また、中国人にはない、いい習慣を身につけているとも思いました。

例えば、まじめさです。具体例を挙げると、

T先生は学生の宿題をきちんと添削して返してくれます。

特に大学の中国人の先生はそんなに厳しくないですが、

T先生はとても厳しくチェックします。

Q:大学院で日本文学を研究している周文毓さんにとって日本文学の魅力は何ですか。

私は日本文学も中国文学も好きです。

以前は、日本の文学作品を中国語訳で読んでいましたが、

中国語訳と日本語の原文で読むのとでは読後感がかなり違います。

日本文学の中には中国語に翻訳できない情緒的、感性的なニュアンスが含まれます。

その微妙な独自性に惹かれます。

Q:最も好きな日本の作家と作品は?

研究論文に選んだ山崎豊子です。

作品は『白い巨塔』、『大地の子』、『沈まぬ太陽』とかが好きです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このようにして、

日本語学科の学生たちはよく学ぶほど知日派になっていき、

その中から確実に親日派が育っていきます。

私が中国に行ったばかりのときには、

中国がことさら好きでも嫌いでもなかったのに、

6年間、中国であれこれ格闘しているうちに知らず知らず、

かなりの親中派になっているのと同じでしょう。

 

戦争時の日本軍の話ですが、

周文毓さんの曾祖母の例は、私にとってどれほどホッとするケースだったか。

実は前日、余立君さんのお母さん(宋老師)から、

お母さんと同じ村出身のお婆さんの話を聞いたばかりでした。

周文毓さんの曾祖母を黙って行かせた日本軍兵士は、

かろうじて人間の理性を失っていなかったのでしょうが、

宋老師の村を襲った日本軍は、既に鬼に変化していました。

日本人だから鬼になったのではなく、

戦争では、どこの国の兵士も鬼になるのです。

宋老師の話は次の通りです。

〈日本軍が村を襲ってきたとき、村の60歳を過ぎたお婆さんも必死に山へ逃げようとしました。

しかし、そのお婆さんは清朝時代の習慣で纏足だったので、

ヨチヨチとしか歩けなかったのです。

村人たちは、もう60を過ぎた年寄りだから大丈夫だろうと思っていたのに、

日本軍兵士たちはそのお婆さんをレイプしました。

とても小柄なお婆さんの性器は小さすぎて、

日本兵たちはまず、お婆さんの性器を革靴で何度も叩き、踏みにじり、破って、

その後、強姦したのです。

村人たちが戻ると、お婆さんは瀕死の状態でしたが、

村のみんなは鶏の生き血をお婆さんの身体にこすり付けて、

何とか生き返らせることができました。〉

 

 

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「中国への移住を決めた日本の若者達」No.2027

2017-08-12 23:02:21 | 日本中国比較

新学期の授業資料のためにYOU TUBEを探していたら、

「中国への移住を決めた日本の若者たち」という動画に行き当たりました。

中国大連で生活している

私の知らない日本の若者たちの映像を目の当たりにして、

非常に考えさせられました。

オペレーターの若者たちが「やりがいは何ですか?」と聞かれて、

「う~ん、やりがいは、う~ん、・・・・・・。」と絶句してしまうところとか。

動画の後半で、

37歳の起業家、明田さんが過労で入院したり、

やとった中国人従業員とうまくいかなくて一人で残業したり、

一時帰国して故郷の父と離れる際、ハラハラと涙したりしながら、

それでも、

「(中国のほうが)自分が自分で居られ易い気がします。」

と、また大連に戻っていく姿が、強く心に残りました。

「日本には受け入れてもらえているとは思えなくて・・・・・・」

「日本からサヨウナラと言われている気がして・・・・・・」

そんなことを自国の若者に言わせる日本という国は、

深刻なレベルで病んでいるとしか言えないのではないでしょうか。

 

中国への移住を決めた日本の若者達

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「ハーモニカをもらった!」No.2026

2017-08-12 00:57:47 | 自分事情

息子がブルースハープという種類のハーモニカをくれました。

うわ~い!中国に持っていこうっと。

とても小さいので、

昔子どものとき吹いたものとは吹き方も違うようです。

YOU TUBEで教えてくれる青年の熱気を聞いているだけでも

面白いので、シェアしてみました。

『繰り返し、繰り返し、自分で、自分で。

口で言っても伝わりにくい、だから自分で、

練習してください、とにかくがんばってみてください』

と、早口でまくし立てられました。

一曲でもマスターしたいなあ、ワクワク

ハーモニカの基本奏法3つ!!

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