最高裁判決の間違いは、公務員にも、生まれ育った人生があり、一人の人間であるということを否定したことだ。「公務員の思想信条に制約を加えてもいい」という判決は本当に恐ろしい非人間的な判決だ。
さらにそれに賛成して誰かが「卒業式や入学式でのマナーも守れない人に教育はできない」と書いていたが、まさに思考の凍結が進展している証左だ。君が代で起立しないのは「マナー違反」!?
人間が「なぜ」「どうして」を放棄すると、本当に堕落するというサンプルだ。
底浅い思考回路は、許容範囲の狭い社会と表裏一体をなす。
それを、ここ中国で感じる。20歳そこそこの学生たちは、ひたすら生きることの善なることを信じ、とても大らかだ。綿密さに欠けるとか、年間スケジュールが何故ないのか、とブツブツ文句を言いつつ、実は私は、それは、そんなにたいしたことじゃないとも思っている。臨機応変、自分の能力をその時、その時フル回転させて生きている人たち。それと同時に、他人への寛大さを感じる。懐が深い。ルールが細分化されている日本では、非難されそうなことも、ここでは、「うん、それもありです。人生の1ページですから。」なのだ。
中国では、国旗・国歌は小学校から徹底して教えている(小三以上は国歌が歌えること、とか)。しかし、足並みそろって行進する雰囲気は全然学校にはない。(大学入学の軍事訓練のときだけ、プロの軍人が大学に来て、行進させている。しかし、学生達はそれも一時の経験として、あとで面白おかしく話すのだ。)むしろ、私の印象では一人一人バラバラで構わないという雰囲気が小中学校をのぞき見て感じられる。「大切なのは、勉強だ。他は本当に二の次というかどうでもいい。」と大学生達は高校までの生活を振り返る。
そういう国と、日本のように、あらゆる事を細かく制限し、ルール化し、はみ出さない人間作りをやってる国とでは、国旗・国歌を徹底させたときの影響は大きく異なる。日本人は、無駄なく効率よく集団主義的に一つの方向に纏まっていくだろう。
すでに、ずいぶん以前から腐ったメディアによる方向制御が行われている。ここで一緒に纏められて行くことを拒否するには、想像力が必要だ。あてがわれたことだけで思考を回して行くのではなく、見えないものを見、聞こえないものを聞く感受性が必要なのだ。
今日のタイトルは、辺見庸さんの「生きていることの恥」をちょっともじってみたんですけど、今の実感です…。