毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「日本から友だちが来た」   2011年12月30日(土)  No.253

2011-12-30 23:56:09 | 中国事情
 いよいよ今日、東京から友人夫婦がやって来る。
夕方6時に我が宿舎に集合したアルバイトガイドの黄優ひんさん、陳小雲さんと、晩ご飯を食べながら連絡を待った。
 成田を午後1時半に発ち、上海浦東空港から虹橋空港まで移動して東方航空の国内便で南昌まで飛んでくるのだ。
私たちは3人とも、「くうこう」と「こうくう」を言うとき、5秒ぐらい考えて言う共通性があり、可笑しかった。私は子どもの頃からずっとこの2つと、「チキン」「キチン」の言い間違いを引きずってきた。

 ところで夕食のおかずは中国に来て初めてのハンバーグだ。滅多に売っていない牛肉を見つけて買って冷凍しておいたものと豚肉をみじん切り(?やっぱり野菜を切るときだけの言い方か?)にして、手製パン粉、炒めた玉葱、卵1個と混ぜ合わせ、焼くだけなので失敗のしようがないとはいえ、我ながら非常に上手く出来た。(店屋にミンチ肉なし、パン粉なしでも慣れたら問題ないな)
 だが2人の箸はあんまり進まない。口では「おいしい、おいしい」と言っているのに、ご飯ばっかりお代わりしている。お好み焼きのソースが口に合わないのかも知れない。しかし、最終的には全部食べてくれ、スエミ姐さんの梅干し(あと3つしかない貴重品)もトライして、ヒエ~~の表情を見せた。おかずが足りない様子なので各種瓶詰めを出すと、さすが二人とも江西省出身、ラー豆腐を小躍りして食べていた。家では、豆腐から手作りするので、この瓶詰めの何倍も美味しいと力説する二人だった。

 しばし、食べ物に夢中で岩崎夫妻からの連絡を忘れかけた頃、虹橋から電話あり。順調にいっているとのこと。ということは夜9時40分頃昌北空港に着く。昼間に確認済だったミニバスの運転手さんに電話して、9時5分に宿舎前を出発した。
 昼間、確認してくれたのは黄さんで、「電話ではとても恐ろしい人のようでした。」と言う。言葉遣いの荒々しさが、学生には怖いのだ。陳さんは「でもここは南昌ですから仕方がありません。南昌では普通です。」と。
 しかし、ミニバスの運転手袁さんは、行く途中気軽に自分が33歳であること、息子が7歳、娘が5歳で、自分は昼間タクシーの運転手、それ以外の時間はミニバスの運転手をしているなどを、二人の学生に話し、聞き上手の陳さん、黄さんは先輩の話を聞くかのように素直な態度で聞いていた。

 東京からの二人は、長旅にちょっぴりお疲れの様子だったので、空港から一路財大本部キャンパス横の旅館に戻り、エアコンが壊れて使えないとかグジグジ言う旅館の人と少しやりとりをして、何とかなま温かい空気が出て来るまでにし、宿を離れた。一晩70元の契約はエアコン付きの値段だ。本当にもう、油断も隙もない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「外交官か」   2011年12月29日(木) No.252

2011-12-29 21:02:39 | 中国事情
「自分、何様?外交官?」と今日は、やや自嘲気味。
日本での職場の付き合いの基準は『行きたい人と、行きたい場所へ』だった。
気の進まない人と飲むなど断然お断りしてきたし、相手も私を誘わなかった。プライベートと仕事はできるだけ分け、子ども関係以外では仕事時間外のボランティア活動はしなかった。

 ここでは、なかなかそうはいかない。今日は外国語学院の副院長が英語教師数人、日本語教師(私だけ)と懇談し、その後我々をディナーに招いた。
「いや、結構です。」
と一度はお断りしたが、新平老師が「これは仕事のようなものです。中国では付き合いが大事ですから。」
と言うので、しかたなくなく出かけて行った。午後4時からのミーティングでは、やたら英語が飛び交っている。しかし、英語オンリーでは新平老師がなんのために日本語通訳としているのか分からない。私は断固日本語で話をした(てか、ホントはその方が楽だから~)。
副院長から聞かれたのは財大の学生や大学についての印象や提案だ。私はここぞとばかり日頃の思いを言いまくった。

 「この大学の学生の特徴は、先生の言うことをよく聞くし、真面目だ。よく記憶するよう努力している。しかし、彼らの多くは主体的な学習をしているとは思わない。例を挙げれば課外活動としての「日本語コーナー」だ。南昌市内でも毎週末あり、校内でも理工大とのジョイント日本語コーナーをしてきた。私が強く呼びかければ、何人も来る。しかし、呼びかけを忘れた日にはほとんど来ない。
(小学生じゃあるまいし、何故私が引っ張り回さなければならないんだ。「日本語コーナー」は日本語のスキルアップやプラスワンの日本文化を知るまたとないチャンスとして、自分たちが言い出したことなのだ。運営も自分たちでして当たり前じゃないか)と、何度か小言を言った。だが、直接テストの点数や成績に結びつかないものへの反応はどうも鈍い。
 さらに、受動的な学習形態を固定化している象徴として、教室の机椅子の固定がある。自由に席を移動したり、会話のパートナーを変えることが非常にやりづらい。その体制に慣れきっている学生達は、最初私が「はい、立って相手を求めて歩き出しなさい。」と言っても、キョトンとして座ったままだった。
 そうは言っても、教師の一生懸命さを学生がきちんと受けとめてくれる態度には嬉しく思う。中日間に問題がある度に立場が微妙になる日本語学科の学生達だが、将来、中国と日本の架け橋になってくれるに違いない彼らに大いに期待している。」
と、ここまでまくし立てたところで、カナダ出身のスティーブさんか誰かが、次にまくし立てだしたので私は演説を終えた。

 ディナーは、豪華で美味しかった。でも、私は庶民出身なので、(なんかお金がもったいないな~)と感じてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「嫌な仕事」         2011年12月28日(水) No.251

2011-12-28 22:12:33 | 中国事情
 今日中に終えたいのに未だ終わらない。
テスト採点後、いよいよ評価だ。おおざっぱに「まだまだ」「まあまあ」「いいね」ぐらいならつけ易いが、授業時の発表、学習への貢献度、ミニテスト、意欲態度などを点数にして出さなければならない。
 本当に本当に辛い作業だ。何が嫌と言って、100%客観的にできないのが一番困ることだ。自分のえり好みが入ってしまうのは、公平さに欠ける。
 
 しかし、そんなこと言ってはいられない。
何が何でも今日中に終わらせて明日は大学に提出しなければ…。明後日は東京から友人夫婦がやって来る。遠くから来てくれるのに丸つけなんかしている場合じゃないのだ。

 午前中、1年生の会話評価を終えた。録音した会話テープを聞きながら、一人終わったら立ち上がってお茶を飲み、もう一人終わったらお菓子を食べ…、どんだけ時間がかかったか。

 午後、パソコンを使って名簿に評価を打ち込んでいくのに、またこのFUJITSUは急に弱々しくなり、突然画面が真っ暗になったりする。ホンマにこのパソコン、厭がらせが多いわ。今度は絶対FUJITSU買わんとこ。

 夕方、はたと思いつき、マヨネーズを作った。最近、キューピーマヨネーズがスーパーになかなか入らないので自分で作るしかない!という考えがひらめいたのだ。何も今作らなくてもいいのだが、とことん仕事をしたくないので(そうそう、卵が新鮮なうちに作っとかなどーする)とか呟いてイソイソと机を離れるのである。

 このブログもそうだ。こんな駄文を書くのにもう30分近くもかかってしまった。今日はもう夜中までかかりそう…。何十年こんなことやり続けてきたのだろう。あー、いやいや。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「成績つけ」     2011年12月27日(火) No.250

2011-12-27 21:23:17 | 中国事情
 悲しくても仕事は次々やって来る。
テストの後は成績つけ。この大学はテスト80%、平常点20%の割合で成績をつける決まりになっている。テスト100点満点中60点未満、平常点20点満点中12点未満は不合格。

 3年の「日本文学」と「日本語作文」は合格ラインをクリアできるかどうか微妙な人たちが何人もいて、昨年度との違いがまたしても浮き彫りになった。
 だが、彼らにもプライドというものがある。入学以来、いつも
「君たちの1年先輩のクラスは優秀だ。見習いなさい。」
とか言われ続けてきたらしくて、クラスにはちょっぴりいじけムードが漂う。

 この気持ちは日本の子ども達と共通している。
私も幼少の頃、
「お姉ちゃんはよく気がつくし、明るいし、本当にいい子だよね~。」
とよく言われたものだ。近所で評判のお姉ちゃんを持つ私は、自ずと(どうせ私は気がつかないし、理屈こねだし、悪い子だよ~~だ。ふん、もっと悪くなってやる)などと一人拗ねたりした。ああ、なんていじらしくて可愛い私だったこと。

 ということで、私はこのいじけた3年生を部分的に応援してきたのだが、
「学力はやっぱ、自分の頑張りでしか身につきませんわ。」という結果が出たのだ。
努力していないというわけでもないが、覚えきるまで詰めない傾向が顕著だ。
テストの最中は真剣そのもので取り組んでいたが、答案を読むといつもの珍解答に笑わせられた。

 ・私は友人が寿司を食べたことがないと言うので、○○○○○。
の○○○部分に言葉を入れる問題で、圧倒的多数が
 ・私は友人が寿司を食べたことがないと言うので、食べてあげた
と答えた。(見せびらかして食べてどーする!)
 ・私は友人が寿司を食べたことがないと言うので、おごってあげた。
 ・私は友人が寿司を食べたことがないと言うので、食べさせてあげた。
などが正解なのだが、中には
 ・私は友人が寿司を食べたことがないと言うので、彼を怒った。
とかいうのもあり、(彼って誰?この人の執事かな?)とストーリーを考えずにはいられなかった。

 敬語も悲惨だった。日本の学校の先生もよく間違っているくらいなので無理もない。
謙譲語「お+動詞のマス形ます+する」を答える問題で、

 ・今から資料を配りいたす
とサムライみたいな解答に遭遇し、冷静になるまで数分かかった。

 短文作りも難しかったようだ。授業であれほど練習させたのに。
中国語母語話者の特徴的ミスの一つは「の」をどこにでも入れることだ。

 ・褒められてまんざらでもない気分だった。
 ・敢えて異論を唱える者はいなかった。
 

せっかく難しい言葉をほぼ使いこなせているのに、この「の」で台無しだ。
しかし、この「の」は、強力な浸透力と粘着力を持ち、今や日本語母語話者である私にまで影響を及ぼして、
「もう、テストが終わったの人は帰っていいですよ~。」
などと言わせるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「独り逝く人」    2011年12月26日(月) No.249

2011-12-26 11:59:53 | 日記
 昨日日本から悲しい知らせがあった。
何回か会っただけだが、私が自分勝手に(友だち認定)していたAさんが亡くなった。この3月に退職した職場には
「母の元に参ります。」
との言葉を残して去ったという。職場では故郷に帰ると思ったらしいが、お母さんはもう以前に他界されていた。Aさんは病気のためにこの夏、逝かれた。

 私は単に手前勝手な「ココロの友」であるので、連絡がなくて当たり前だが、親しい友人にも自分の死を伝えないようにと、亡くなる前親族に言っていたそうだ。
Aさんの友人の一人は、春から何回電話しても連絡が取れず、結局死を知ったのは12月に入ってからだという。

 「無縁死」、「無縁社会」という言葉がある。親族も無く、働いてもいない人が、(誰にも迷惑をかけないように)」と思い、独りひっそりと社会から消えていくその死に方を無縁死と呼ぶそうだ。NHKのドキュメンタリーで話題になったこの言葉は、中国の若者たちまで知っている。

 Aさんの死に方は、血縁・社縁のない孤立死ではない。哀れで湿っぽいイメージの「無縁死」には当てはまらないと思う。私はAさんの死から「一人で逝く」というきっぱりした意思と潔い孤独を感じる。

 私自身、最近は自分の死に方をイメージすることがある。必ずやって来る「死」をどう迎えるかは、自分の最後の仕事だ。

「母の元に行くことになりました。」
本当にその通りだと思う。
 自分で勝手に生まれてきたんじゃなくて、母がふんばって産んでくれたのだ。自分でも子どもを産んでみて、子どもが自主的にお腹から出ていく訳じゃないことがよ~く分かった。気合いを入れて産んであげるのである。
 生まれたときは、母が傍にいた(覚えてないけど)。死んでいくのも(母の傍に行く)と思えば納得できる。私もAさんぽい死に方を選ぶ気がする。

 しかし、しかし、だ。残された悲しみはそれとは別だ。Aさんのように健気にきっぱり潔く死なれたら、めちゃくちゃ悲しい。涙が噴出する。グジグジと周りに世話を焼かせて、ようやく死んでいく人などは、送る人も心残りがないかもしらんが、私はAさんとお別れするチャンスも与えられなかったのだ。

Aさんのばか~~~~!!!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クリスマスイブ IN 南昌」    2011年12月24日(土) No.248

2011-12-24 21:31:34 | 中国事情

クリスマスイブの今日、4年生がやって来た。
就職が決まり、春節明けから出勤する3人で、
4年の中でも今一番ゆとりがある人たちと言える。
彼女たちと一緒にお昼のランチ作り(もちろんカレー)の材料を買いに、
キャンパス内の市場に出かけた。

職員住宅の間の小道の突き当たり地下にその野菜市場はあり、
市場内では店を出せない人たちが何組か路上に品物を並べている。


写真の品物は右から、
煮干し、かんぴょう?の乾物、卵、山菜?の乾物



市場入り口に一番近い八百屋さん。
私はだいたいここで買うことが多い。
写真を撮っていいですかと聞くと、メチャ照れていた。
手前に見えるのは右から
土付き里イモ
シイタケ、
マッシュルーム(今日はこれをカレーに大量に入れた。美味しかった)、
シメジ茸



どうです、この晴れやかな顔。
唯一クリスマスらしい雰囲気が漂う国際交流與合作処オフィスロビーにて。
可愛らしい彼女たちだが、
卒論のテーマは「日本の無縁社会についての考察」「日本の家屋の変遷」など、真面目そのもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「宿舎屋根に鳥集合」    2011年12月23日(金) No.247

2011-12-23 20:41:14 | 中国事情


 昨日、一昨日と我が宿舎の屋根は鳥だらけだった。
雀より倍以上の大きさの黒地に白い模様の羽を持つ鳥だ。
名前が分からない。
私が一階の部屋に住んでいたとき、ベランダからパン屑を撒くと、
雀を追い散らかして自分が食べていた鳥である。

 この屋根は隣のオフィスがあるビルディングだ。
普段は気がつかなかったが写真で見ると、屋根はけっこう傷んでいる。

 それはともかく、鳥たちは急に何を始めたのだろう。
こんなに大群で宿舎に群がるのは見たことがない。
ヒッチコックの「鳥」のような脅威は感じないが、
自然界の急変を感じ取っているのか、
気温の変化による移動準備なのか,
ムクムクと好奇心が湧く。
 
 今日は久しぶりに晴れ間が見えたが、
ここ数日は曇りまたは小雨が降る寒い日々だった。
越冬するには寒すぎると判断?し、南の地目指して飛び立ったのだろうか。
今日は、屋根に一羽の鳥も留まっていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ほぼ日刊イトイ新聞」 2011年12月22日(木) No.246

2011-12-22 12:02:46 | 日記
 「ほぼ日」のトップに、毎日更新される糸井重里のエッセイのようなもの「今日のダーリン」がある。
糸井重里はペンギンの絵本以来、ちょっと違和感を感じつつも気になる人だった。「となりのトトロ」のお父さんの声も、(う~ん、ナンかちょっと出来すぎ君…)と感じた。
今年3月11日以降、彼とその仲間たちは東北に心を砕いているし、具体的に出来ることを一生懸命しているのが、「ほぼ日」から伝わってくる。私も毎日、欠かさずそれを読んでいるうちに、糸井重里に対するバリアが溶けてきた。今日の「今日のダーリン」丸ごとコピー。



  
・福島は、いわき市にある
 『スパリゾートハワイアンズ』で、これを書いています。
 陸前高田『八木澤商店』の河野さんと、その仲間たち、
 そして「ほぼ日」の何名かで、来ています。

 「福島」と、ひとまとめで言われることが多いのですが、
 浜通り、中通り、会津と3つの地方に別れていて、
 それぞれ山で仕切られ、距離もかなりあります。
 また、原発関係で被害のいちばん大きなところは、
 立ち入りができないために、
 岩手や宮城で被災した河野さんたちも、
 福島のどこに行ったらいいのか、
 なかなかよくわからないままだったそうです。

 ぼくらにも、そういう気持ちがあって、
 野球観戦という理由で郡山にやってきたり、
 永田さんが、夏の高校野球取材や、
 犬猫など動物たちの保護の手伝いで福島に入りましたが、
 もうちょっと「できること」が
 ありそうな気がしていたんですよね。
 で、広くみんなに「来てください」と
 手を振ってる場所があって、
 それが、楽しんでいいということが、とてもよくわかる  
 『スパリゾートハワイアンズ』でした。
 ここでは、「なにができるか」なんて考えなくてもいい。
 そして、そこに行き来する人たちが増えることで、
 福島の血行がよくなって、
 もっとのびのび動きやすくなるかもしれない
 ‥‥ひと月くらい前に、陸前高田で決めたんですよ。
 津波の被災地から、地震と原発被害の福島へ行くって。
 そういえば、河野さん
 「同じ東北、いっしょだぜっていうことを、
  言いたいんですよね」と、ずっと思ってたもんなぁ。
 
 ほんとに原寸大の、『できることをしよう。』です。
 それが「観光」で「フラガール応援」でした。
 なんだそれだけか、と思う人もいるかもしれませんが、
 いつも、ぼくらのやることは「できること」だけです。
 今回のこの「ご縁」が、どう育つかもわかりません。
 ただ、ま、いまはっきり言えることはあります。
 「フラガールたちは、笑顔であなたを待ってます」。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「はじまり」を見つけられる人は、楽しさを見つけている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「笑うなって言うけど…」    2011年12月21日(水) No.245

2011-12-21 22:15:44 | 中国事情

 「間違いを笑うな」と人は言う。しかし、私は間違いが可笑しくて腹を抱えて笑いたくなることがよくある。教師の身でありながら、そういうことではイカンのかも知らんが、何しろ子どもの頃から級友の間違いが可笑しくてたまらない。このクセは何歳になってもなかなか変更できない。

 今でも忘れられないのがいくつかある。
 一つ目は、中学一年の地理で地元北海道東岸の海の名前を問われたとき、級友の可愛い女の子が
「オホークツ海です。」
と答えたこと。その時私の頭には、イタリア的長靴形になったオホーツク海がホワンホワンと浮かんだ。

 二つ目は小学校の教師になってから、4年生のクラスで「奇跡の人」を音読させていたとき。ユウキという子が『アン=マンスフィールド=サリバン』という名前がすらすら読めず、途中で何回も「あんまん、あんまん、すふぃーるど」とつまずくのだ。その時、すかさず誰かが
「ユウキ、お前食いしん坊やな。」
と突っ込んだので、教室中大爆笑になった。ユウキはほっぺをプウと膨らませて
「笑うな!」
と怒鳴った。

 我が息子が漬け物屋さんのことを「おけつもんやさん」と言ったことは以前書いたが、これもまだ後50回は語らなければならないだろう。

 先日私は資料室の本棚で、次のような詩を見つけた。

『教室は間違うところだ』 蒔田晋治
教室は間違うところだ。
みんなどしどし手を挙げて
間違った意見を言おうじゃないか。
間違うことを恐れちゃいけない。
間違うことを笑っちゃいけない。
安心して手を挙げろ、安心して間違えや。
間違ったって誰かが直してくれるし、教えてくれる。
・・・・・・
そんな教室つくろうや。
みんなでしゃべってつくろうや。


 主旨に楯突くわけでは決してないが、
「間違うことを笑っちゃいけない。」
の箇所は、
「間違うことを馬鹿にしちゃいけない。」ぐらいに直してもらいたいものだ。
間違いを笑うことは、それを言った人を馬鹿にしているわけではなく、その間違いそのものが醸し出すおもしろさというものがあって、それを感じて笑うのである。「言いまつがい」という本の中には、誰が言ったか問題じゃない絶妙な言い間違いがてんこ盛りで、それを読むとその日の憂鬱をかなり減らしてくれる効果がある。ネットの「ほぼ日刊イトイ新聞」にも毎日「言いまつがい」が更新されている。

 ついでに今日の「ほぼ日」の「言いまつがい」から一つ転載する。

 昔、小学校のテストで
「おしべからとんだ花粉が
 めしべにつくことを何というでしょう」
という問題が出たときに
「ペタリ」
と書いてるひとがいた。
(コガ)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「金じょんいる」という人    2011年12月20日(火) No.244

2011-12-19 22:51:04 | 日記
 『KIM-JOHN-ILL』とアメリカにいた時ジョークで書いていた。その人が亡くなったという。
人間は必ず死ぬので、そして、どんな権力者も人間なので、今回金正日が死んだからといって自然に適ったことなのだが、朝鮮民主主義人民共和国の権力者の死を嘆き悲しむ平壌市民の映像を見たとき、それにオーバーラップして心に浮かんだシーンがある。

〈その1〉
 私がまだ若かった頃、小学校の教師として勤めていた学校でのこと。1年間の育児休暇明けで学校に出て行った私は、かつて受け持ったクラスの子ども達の異様な行動を目の当たりにした。
その時の担任はかなり年配の男性教諭だった。彼は非常に厳しいクラス管理をすることと女生徒と男生徒への態度に差があることで有名な人だった(つまり、女子贔屓)。

 同級生の誰かがヘンなことをしているのを見たら、必ず担任に密告しなければならない。もししなければ五人組制度みたいなので処罰されるのである。叱り方の恐ろしさもたいへんなもので、まず、子ども達はその恐怖心から担任のいうことを聞くようになる。そのうち、その人は何か子どもを驚嘆させる技を示して、尊敬語で語られるようになる。子どもだけに留まらず、お母さん方までその先生を崇拝するようになる、といった人だった。

 しかし、同僚達の多くは彼の教育実践に非常に批判的だった。
確かに彼の指導により、教室背面の絵は見事に変化する。その前に担任した者としては大いに恥ずかしい気になる。だが、それらの絵をよく見ると、どれもこれもそっくり。色もタッチも形までも。
音楽会で彼のクラスの子達は綺麗な声で歌う。声がよく出ているし、ハーモニーも見事だ。しかし、歌っている子どもの顔がみんなうつろなのだ。そして、全員が体を前後にユラユラゆらしながら歌うその姿は、幽霊の子ども達のようだった。

 ある日、廊下を歩いていたら、その男性教諭が憮然とした表情で教室から出て来た。驚いたのはその後に、女の子たちが「先生、ご免なさい」「許して下さい」「先生~!」と口々に泣き叫びながらゾロゾロ出て来たことだった。一番最後に、ちょっと出遅れ気味に出て来た女の子が私を見て、思わずニヤッとした。その時の私にはその子だけが普通に思えた。

 後で、その時のことを話してくれた子がいる。何人かは本気で担任を崇拝して追いかけたが、ほとんどは追いかけなければ、後で批判の対象になるので仕方なくそうしていたという。

 男の子でとてもしっかりした正義漢がいた。その子は毎日がイヤでイヤでたまらず、早く来年が来て欲しい、卒業して中学に行けばあの担任から離れられると、そればかり考えて耐えていたという。その子のお母さんも
「同じクラスのお母さんと会ったら、『もうすぐ卒業ですね。』とお互いに言うんです。それだけで相手の心が痛いほど分かるんです。」
と話して下さったことがある。日本のミニ金正日である。彼はもちろん、もうとっくに退職しているが、自分のしたことの全体が見えていたのだろうか。子どもは大人とは違うし、躾けも必要だ。だが、子どもも人間なのだ。辛抱我慢を教えることと、自分を崇めさせることと、何か関係があるのだろうか。今どきあんな人は存在が許されないとは思うが、それに近い教師はいる…かな?

〈その2〉
 これは実体験の映像ではない。
1945年8月15日の玉音放送を前に号泣したり呆然となったりした日本人の姿だ。「大東亜共栄圏」実現の戦争を正義であると本当に信じ切っていた人たちは、その後、あの戦争をどう捉え返したのだろう。案外、未だに「負けなければ正義だった」と思っている人もいるのかも知れない。
『歴史がぼくを問い詰める』…ブルーハーツのマーシーの言葉だが、一人一人がきちんと問い詰められ、誤魔化し無し、迎合無しに一生懸命考えて生きてきたと胸を張れるのだろうか。日本人は。(そして、私は…。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「こちらも師走ムード」      2011年12月19日(月) No.243

2011-12-19 10:43:44 | 中国事情
 南昌が師走ムードというわけではない。自分の心的風景である。
昨日我が宿舎で、財大短期留学生のキタさん、ご近所様の理工大学のムラオカ先生が来て下さり、さらに江蘇省からテストのために帰校した4年生の陳礼名さんも飛び入りして、ミニ忘年会みたいなのを開催した。
 キタさんは、9月から4ヶ月間の語学留学が一区切りし、22日に帰国する。私も授業が実質的には先週で終わり、後は今週のテスト週間を残すのみ。一仕事終えた気分だ。ムラオカ先生もだいたい同じ状況だと思われる。そういうときにはやっぱり、打ち上げ会があって欲しい。ムラオカ先生ご持参の冷酒(な、なんと日本から!)と私の適当創作天ぷら・おでん、そして、陳さん以外は大阪にいるのと変わらないような関西色溢れる顔ぶれで、とてもホッとした和やかな一時だった。

「一区切り着く度に打ち上げ」。
おそらくこれは日本的な感覚なのだろう。新平老師や朱老師は、一学期が終わったと言っても、(それが何?)みたいな感じだ。一年間の終わりは7月で、その時には「一年間の仕事が終わりました。おいしいレストランでご馳走を食べましょう。」ということになる。私のように、12月の寒さとともに何となくソワソワするのは「師走ぐせ」とでも言えようか。中国の人々にとって年末年始と言えば、春節のことで、12月などは全く普通の月だという。学生達は、このテストが終わり、一学期が終了する1月12日を指折り数えて待っている。(行事に心躍らせるというのは、なかなか好いことなんだな)と、こちらに来て年中行事についての認識を新たにするブルーはーとであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「南昌・大阪寒さ比べ」    2011年12月16日(金)  No.242

2011-12-16 11:27:42 | 中国事情
 日本びいきというのか、どうも地元中国のサイトの天気予報は大雑把で当たらない気がする。日本国内ではよく「天気予報は当てにならない」と言われるが、それでも日本気象協会の予想は事実に近いと思われる。
 ここ最近は毎日天気予報で(今日は何度かな)と調べる。ちょっとでも気温が上がると浮き浮きする。とにかく困るのは外の寒さじゃない。家の中がどん底に冷えるのだ。ちなみに日本の大阪と南昌は天気が似たり寄ったりだと言われるので、週間天気を調べてみた。(授業が今日で終わりなので、かなり余裕

週間天気(日本気象協会)
大阪市
2011年12月15日 17時0分発表
    
     12/17…9℃/4℃
     12/18…11℃/3℃
     12/19…13℃/5℃
     12/20…12℃/6℃
     12/21…11℃/4℃
     12/22…11℃/3℃
  
南昌市

12/17…6℃/0℃
12/18…8℃/2℃
12/19…7℃/1℃
12/20…10℃/4℃
12/21…10℃/5℃
12/22…12℃/2℃


 南昌は中国国内では夏期亜熱帯に属するので、同じ中国でも東北地方のような手厚い暖房設備はない。学生寮の部屋に暖房器具が一切ないので、学生達はひたすら図書館通いをし(夜9時まで)、その後は部屋に戻ってすぐさまベッドに飛び込むという。最低気温が大阪より数度低いのは、大陸だからだろう。
この気温一覧では伝わらないが、南昌には特有の冷たい刺すような風が吹く。年末年始に東京から友人夫妻がこの南昌に遊びに来るという。エライ!!!


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉永小百合の「伊豆の踊子」を観た    2011年12月15日(木)  No.241

2011-12-15 19:26:10 | 中国事情
 今日は3年「日本文学」の最後の授業で「伊豆の踊子」を観た。かねてより最後はこれで締めようとAmazonから取り寄せておいたものだ。

川端康成の「伊豆の踊子」は何回映画化されたのだろう。今回観たのは4度目の映画だそうで、これが一番評判が良さそうなので買った。
「最後の日は『伊豆の踊子』の映画を観ます。」
と言うと、
「先生、私たちは2年生の時、もう見ました。」
と言うのでガビ~ンとなった。聞くと、山口百恵好きの小紅老師が「日本概況」のクラスで上映したのだそうだ。まったく、もう。
「吉永小百合の方が名作という評判です。」
と言って押し切った。せっかく日本から取り寄せたんだからね~。

 1923年の伊豆が舞台だ。ということは今から90年近く前のことだ。
DVDの解説に片岡義男が、この年は関東大震災があったと書いていたが、ネットで確認してみると、
初めての国際婦人デー記念集会開催、亀戸事件、大杉栄・伊藤野枝殺害(甘粕事件)、ル=マン24時間レース、北一輝『日本改造法案大綱』、日本共産青年同盟(のちの民主青年同盟)結成、ヒトラーのミュンヘン一揆、ケマル=アタチュルクのトルコ独立運動とローザンヌ会議、ジャズ=ビブラフォン奏者ミルト=ジャクソン、遠藤周作、三国連太郎誕生とまあ、なんとすごい年だったんだ。

 映画は、そんなこととはまるで無縁だ。学生はエリートの一高生で、どこでも「学生さん、書生さん」とチヤホヤされ、旅芸人とは泊まる宿まで違う。ちょっと山道を歩けば、踊り子がズボンのホコリを払ってくれるし、水飲み場では「女の後では気持ち悪いでしょう。ささ、先にお飲みなさいまし。」とか言われて、遠慮もせずに先頭切って飲み、当然の顔をしている。
 いい若いもんが、踊り子に竹の杖をもらって半分に折り、どうするかと思えばポイと捨てて、後の半分で野草をバシバシ叩いて進んでいく。
なんとまあ、私は90年前に生まれなくてどんなにラッキーだったことでせう。
 学生と踊り子という身分の壁に何と素直に従っている二人なのだろう、これも当時の時代がそうなのだから仕方がないのかと、wikipediaで調べる前は思った。しかし、時はすでに伊藤野枝と大杉栄が生きていた時代なのだ。
 ずっと、川端康成が本能的にヒジョーに嫌いだったが、この映画を見てそのわけがちょっとわかった気がした。

 それとは別に、吉永小百合の踊り子は、(監督に言われて一生懸命頑張っているなあ)という感じだったが、映画の最後近くで、これからの自分の人生を悟った踊り子のお座敷での舞は迫力があった。目が虚ろで(この踊り子、これからずっとこの顔で生きていくんだなあ)と思わせられた。まだ18歳の吉永小百合はこんな女優だったんだ、と再認識。それに引き替え、高橋秀樹は(顔が男前というだけで映画に出られるんだなあ)と、別の意味で感心した。大坂志郎、浪花千栄子、十朱幸代、南田洋子、桂小金治と、懐かしいすごい顔がたくさん出ていた。

 鑑賞した後、感想を書くのを宿題にした。中国の学生たちがどんなことを書いてくるか楽しみだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断水の夜    2011年12月13日(火) No.240 

2011-12-13 20:15:30 | 中国事情
 やっぱり「ぎょっ!」とする。
一年あまりの滞在で4回目の断水だ。最初は大変にショックを受けた。
(え~、顔洗われへん。トイレ流されへん。どうすんね~~ん!)と狼狽えまくったものだった。
その4回のうち2回は早朝に回復してホッとした。あとの2回は、水道代を管理人のミズ呉やミズ劉に納めれば再び使えるようになった。今回は後者のケースで、99元払って麦廬園に仕事に出かけ、戻って蛇口を捻ってみるとジャージャー出るので、大いにホッとした。

 水が出なくなった時の喪失感は、初めに比べて縮小されたものの、もの悲しさはぬぐえない。それはプロパンガスがなくなったときも同様だ。鍋に水を入れ、ジャガイモと玉葱を切ってさあ、今から茹でましょうという時、突然にシュルルルル~と火が弱まり、フッと消えるのだ。
 
 もし大阪で断水や停電、ガスストップに遭遇したとしても、それは(大地震など以外は)、『○時から△時まで』という予告があり、終りも見えるものだ。自分の心も(O.K.その時間帯だけやり繰りしたら、あとは元通りね)と、いくらでも納得できる。

 こちらの場合、いつ復旧するか常に不安が付きまとうのだ。それでも学生たちが言う。
「外国人の先生たちの宿舎はとても恵まれています。私たちは3日間ぶっ通し停電になることも珍しくありません。」と。
なので、今日授業後、4年生3人と学食で昼ご飯を食べながら、夜からずっと断水したので顔も拭いただけで、水で洗い流せなかったと愚痴を言っても、誰一人同情してくれなかった。それよりも、私のこんなにも下手くそな中国語に動ずることなく応対するミズ劉やミズ呉を「プロフェッショナルだ。」とか言って褒めちぎるのだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「UA(ううあ)で日曜日」    2011年12月11日(日) No.239

2011-12-11 20:54:36 | 中国事情
 日中は晴れてバルコニーからポカポカとお日様が部屋を暖めてくれた。バルコニーの極傍までテーブルを引き寄せ、「カタカナ語彙トレーニング」の○つけしながら、ひっさしぶりにUA(ううあ)の「うたううあ」を聞いた。

 あれは数年前(ちあきなおみか)、大阪の自宅で偶然に滅多につけないテレビをつけ、滅多に見ないNHK教育チャンネルをプッシュした時だった。ピーターパンがボロボロになっちゃったみたいな格好のUAが目に飛び込んできた。彼女は歌っていた。私はその時までUAなど全く知らなかったが、その声に心が動いた。というより、吸い込まれた。テレビの前で10分ぐらい呆然と立ち、彼女の歌う「うみ」「森のくまさん」「月の砂漠」などを聞いていたが、ハッとして残りをビデオに収めた。

 意志の強い眉をした彼女は、独特のハスキーな声で、全力で童謡を歌っていた。「マーチったらチッタカター」とか歌っても、どんなにキュートな子ども歌でもベースに人生の悲しみや重みが加わるのが彼女の声だ。そして、一つ一つの歌が宇宙の真実っぽく聞こえてくる。
例えばUAが、
 うみは ひろいな  おおきいな
 つきが のぼるし  ひがしずむ

 うみは おおなみ  あおいうみ
 ゆれて どこまで  つづくやら

 うみに おふねを  うかばせて
 いって みたいな  よそのくに

と歌う。児童合唱団の子どものキンキン声でなく、テノールのテカテカしたおじさん声でもなく、UAの全身全霊傾けた声で聴くと、この歌の海が一気に茫洋且つ深く暗いものとして浮かび上がってくる。「いってみたいな よそのくに」と歌うこの人は今どこにいるんだろうと立ち位置を想像し、異郷への想いも膨らむ。そこは桃源郷か自由の地か…。

 このCD「うたううあ」には「マーチングマーチ」「てんさぐぬ花」「「りんごのひとりごと」「月の砂漠」「シャローム」など私のお気に入りが目白押しだ。「シャローム」はイスラエル民謡だからといって不買運動ならぬ「不歌運動」するのはダメだよね。(誰かそんなことしないかと、ちょっと心配になって…
日本語の作詞は井田誠一という人だ。この人はどんな人なんだろう。この世でもう会えなくても、きっとまた…って、そんな気がする切ない詩だ。UAの歌声とともに、もう会うことのできない人たちが私の心に来てくれる。

 どこかでまたいつか あえるさ
 またあおう またあおう どこかで

 きれいなおもいで だきしめ
 またあおう またあおう どこかで

 みどりのほしふたつ よりそう
 はなれても はなれても よりそう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする