毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「文化大革命後の新婚生活の思い出:素媛さんと李達夫さん」No.2143

2018-07-23 23:36:20 | 中国帰国者

昨日久しぶりに李達夫さん宅に集まった元「帰国者の友」メンバーたち。

左奥が李達夫さん。


亡くなった遅素媛さんの幼馴染の方も吉林省から駆けつけてきていました。

私たちは、李達夫さんの超長い「感謝の言葉」を聞いたり、

それぞれの健康状態やら、日本語の勉強やら、国際政治やらの

取りとめないお喋りをしながら、

懐かしい仲間との心温かい時間を過ごしました。

李達夫さんは再会の喜びを表現するため50度の白酒を一気に飲んで、

及ばずながら、私もアサヒスーパードライを

紙コップでごくごくと飲み干しました。

これは中国式の飲み会のルールなのです。

しかし、他の人は誰もそのルールに従いませんでした……。


文革期の13年間、李達夫さんは日本関係者だと言うことで、

「牛棚」と呼ばれる農場の監獄に入れられ、

「顔は地面を向きっぱなし、背中は空を向きっぱなし」

の労働生活を強いられました。

そのときに食べ物を差し入れに来てくれていた人が素媛さんで、

李達夫さんのことを「見た目も素敵だし、心も素敵な人だ」と思い、

家族の猛反対を押し切って文革後に結婚したと、

素媛さんがまだ元気だった頃におのろけを聞いたことがあります。

貧しい時代でも二人は、

子どもを産み育て、幸せな生活を送っていたそうです。

そんな時の思い出の一コマを楽しそうに語ってくれました。


「ある晩、仕事が終わって帰る道に大豆が落ちていて、

それはずっと遠くまで続いていました。

恐らく袋の閉じた口が緩んで、馬車の荷台からポロポロ落ちたのでしょう。

私たち二人は夢中になって夜中ずっとそれを拾い続け、

二袋分も集めました。

当時、大豆は金と同じ値打ちを持つもので、

決して庶民が食べられるものではありませんでした。

擂り潰したりして、大切に長い間食べました。

お酒が年に二回しか飲めなかった時代の話です。」


実はこれは、5年前に入院先に見舞いに行った時にも聞いた話です。

既に、無表情で、ほとんどの話に無反応になっていた素媛さんが、

この話を中国語で李達夫さんから聞いた時だけニコニコし、

声を立てて笑ったのを私は今でも覚えています。


下は元気だった頃の素媛さんが描いた絵です。


 


 

 

 

 

 

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「苦しみからの解放:素媛さん逝く」No.2142

2018-07-22 22:29:09 | 中国帰国者

2013年7月、淀川キリスト教病院に入院していたときの遅素媛さん。右は夫の李達夫さん。


中国からの帰国者李達夫さんのお連れ合い、

遅素媛さんがこの6月に亡くなりました。

7年間に及ぶ闘病生活でした。

2011年7月、貴州で日本語学校を経営する娘さんの急死の知らせを受けた夫妻は、

自宅の大阪から貴州に飛び、悲しい対面をしたのですが、

北京経由で大阪に帰る際、休憩に立ち寄ったホテルで、

憔悴した素媛さんが階段から落下し、

一命は取り留めたものの、脳の損傷が大きく、

歩くことも話すこともままならぬ生活が始まりました。

下が事故当時のことを書いたブログ記事です。

  ↓     ↓     ↓     ↓

李達夫さんのこと   2011年8月9日(火)No.180

 

あれからちょうど7年経ちました。

去年6月に身体に末期癌が見つかり、あと4ヶ月の命と言われ、

あちこちに転移しながらも1年間、力が尽きるまでがんばった素媛さん。

李達夫さんも毎日、毎日(そんなに来なくてもいいと病院の人に言われたそうですけど)

膝を傷めた足を引き摺りながら団地のある大隅東から茨木の病院に通いつめ、

いつも4時間付き添ったそうです。


二人の戦いは終わりました。

下は絵を描くのが好きだった素媛さんが、元気だった時に描いた油絵です。

 

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「『帰国者の友』ロマネハウスからさようなら」No.2179

2018-02-01 23:26:43 | 中国帰国者

ようやく帰国して一息ついた昨日・今日です。

実は冬休みで15日に帰省した後、

私は毎日こつこつと、借りていた部屋の撤去の準備をしていたんです。

淀川区十三東のロマネハウス2階の部屋で、

任意団体「帰国者の友」は9年間、

中国文化や日本文化の紹介・交流イベントや、

帰国者による中国語教室運営、

進学指導に部屋を貸したりしていました。

もともと言いだしっぺの私が中国に出稼ぎに出かけてから

イベントはジリ貧に少なくなり、

最後は帰国者2世の青木さんが一人中国語教室を切り盛りしていましたが、

9年間無料で貸してくださっていたオーナーが終活に入り、

ついにこの日を迎えたわけです。

買ったものやもらいものがた~くさん。

ごみはオーナーにゴミの日に出してもらいました。

 

・・・つわものどもが夢の跡。

9年間ありがとう

部屋は無くても「帰国者の友」はかかわった一人ひとりの心に。


27日、すっかり片付けた帰り道、途中の神社を通り抜けして帰りました。

 拙ブログ「帰国者の友」関連記事の一部です。

「ある中国帰国者2世の人生」2015年5月20日(水)No.1365

「皮から作る包子(肉まん)」2015年5月4日(月)No.1351

「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

「中国帰国者一世の快挙:79歳の高校卒業」2015年4月1日(水)No.1122

「帰国者の友・新年会」2015年1月18日(日)No.1076

「十三〈帰国者の友〉新年会に向けて」2014年12月24日(水)No.1062

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「帰国者二世、自力で中国語教室開設」No.2173

2018-01-25 02:17:15 | 中国帰国者

中国残留日本人孤児の父と中国人の母の長女として吉林省長春で生まれ、

波乱万丈の人生を送ってきた青木雅子さんが、

先週淀川区十三東で自前の中国語教室を開きました。

 

私と青木さんは大阪YWCAにある近畿中国帰国者センターで

日本語教師と学生として出会い、今までずっとお付き合いを続けてきました。

たった一人で二人の子育て、仕事、日本語学習をしながら、

日本語能力試験1級合格、ヘルパー1級の資格試験合格など、

右も左も分からない異郷で辛い状況に耐え抜いて、

生きるための力をつけてきた彼女です。

心からの賞賛を送るとともに、これからもできる限り応援したいと思います。 

下は、そんな青木雅子さんからのメッセージです。

    

こんにちは、中国帰国者(残留孤児)二世の青木雅子と申します。

9年前に中国語教師としてスタートし、

淀川区十三東の淀川区役所の道路向かいにある

ロマネハウス2階「帰国者の友」で教えて参りましたが、

このたび、晴れて自分の教室を持つことになりました。

同じ淀川区十三東の希(のぞみ)学園のビルの5階です。

4つのブースにはそれぞれ、故郷の「長春」や「上海」「北京」「杭州」の名前をつけました。

  

日本と中国の狭間で苦しんだり、悩んだりしたことは数え切れません。

でも、それを糧として、

日本と中国の架け橋となる仕事をするのが

私に与えられた使命だと思うようになりました。

これからの人生をこの教室の運営に賭けて行きます。

もしあなたが、

中国語を勉強してみたい、

中国の生活習慣を知り、中国文化を体験したい、

と思っていらっしゃったら

どうぞ、一度私の教室を覗いてみてください。

自由に授業を体験していただけます。

講師は他にもスタンバイしております。

連絡は下記の通りです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ロマネ中国語教室」

住所:大阪市淀川区十三東1-17-19ファルコンビル5階

電話:090-6596-8958

E-mail: aokimasakoshishiruyi@yahoo.co.jp

 

 

 

 

 

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「李さん宅にお見舞いに」No.2033

2017-08-21 23:40:13 | 中国帰国者

今日はフミちゃん、雅子さんと

数年ぶりに李さんのお宅にお見舞いに行きました。

中国からの帰国者(中国残留日本人)の李さんは、

私が中国に行って日本語教師になる2010年まで、

近畿中国帰国者支援交流センターで日本語を教えていた学生でした。

学生と言っても今年74歳の、人生の先輩です。

 

李さんの連れ合いの素媛さんが2011年7月に大怪我をして、

二人の生活は一変しました。

その大怪我のいきさつも悲惨です。

中国貴州に住む娘さんの急死に遭遇した李さん夫妻は貴州に飛んで行き、                            

葬式の後、傷心を抱えて北京まで戻ってきましたが、                                 

素媛さんが手すりのないホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折し、

一時意識不明の重態になったのです。

李さんのことを紹介するとき、私はいつも

(どうして神様はこんなに李さんを苛めるのか)と思います。

それなのに李さんは今日も、

「今は皆さんのおかげで、妻がすばらしい病院で治療やリハビリを受けられます。

私は大満足です。」と言うので、私はやるせない気持ちになりました。

今日は数年ぶりでしたので、

李さん(右端)は私の大好きな太刀魚のてんぷらや、きくらげの炒め物など、

思い切りご馳走を作って待っていてくださって、

中国式おもてなしのものすごさに私は胸がいっぱいになりました。

それでも撮影用に微笑む私たちです。

 

 

李さんがどのような人生を歩んでこられたか、

かつて作文に書いてもらったことがありますので、

ここでご紹介します。まだ、素媛さんが怪我する前のことです。

 

---「我が人生」 李達夫

〈誕生〉

 私は1943年6月27日中国吉林省吉林市で、

戦前の中華民国官費派遣生として

旧東北帝国大学に留学し、ハルビン市第一中学の教師をしていた父と、

日本人の母の間の三男として生まれました。

二人の姉と二人の兄がいる五番目の末っ子です。

私が生まれたとき母は、「この子は日本人です。」と言ったそうです。

母は自分の五人の子どものうち、

少なくとも二人は日本国籍を持たせたかったのでしょう。

一番上の姉と一番下の私が日本人として、

当時の満州国駐在日本大使館に戸籍登録されました。

 

〈母の教え〉

母は幼い私に、「さくら さくら」の歌を教えてくれました。

今でもこの歌を歌うとき、母の美しく艶やかな歌声が心に浮かびます。

初めて学んだ文字も「さくら」です。

私は自分自身が日本人であることを常に意識して生きてきました。

幼時より日本人の母に大和民族として厳格な伝統教育を受けて育ったからです。

勤労や奉仕の精神は毎日教えられました。

誠実さ、我慢強さ、勤労の心、他人に尽くすこと、これらは全て生活の中で、

あるいは勉強の中で、母から人生の教訓として教わったものであり、

ずっと宝物として私の心の中に存在し続けています。

 そうした母の教育のおかげで、私は中国にいたとき小学生の頃から

学習の成績もよく、順調に高校を卒業して吉林工業大学を受験しました。

高校生のときの私はアイスホッケーの選手でした。

吉林工大を受験したのも、その大学がアイスホッケーの名門校であり、

そこでアイスホッケーを続けたかったからです。

しかし、試験には合格しましたが、入学申し込みに行った時、

受付で「政治審査不合格」と言われ、入学を許可されませんでした。

そのとき母は、

「大丈夫。大学に入れても入れなくても、どちらでもいいの。

何でも自分ができることを一生懸命したらいいの。

一番大切なのは、人間の尊厳なんだから。」

と教え諭してくれました。

 

〈文化大革命〉

母の言葉を胸に刻み、私は共産党の号令に応じて農村に行き、農場で働きました。

身体も丈夫で仕事をこなす能力もありましたが、どんなにがんばっても

「日本の餓鬼」、「危険分子」と言われ、

これが後には「日本のスパイの子」になっていきました。

そしてさらには、母が「日本のスパイ」という罪名を着せられ、

7年間も拘留されることになってしまったのです。

文化大革命の最中、私たち兄弟姉妹五人は市中を引き回され、批判され、

ありとあらゆる屈辱を受け、罵られました。

そのとき私は、自分が日本人であることに誇りを持っていました。

ゆえに中国人から屈辱的な目に遭わされるたびに、

逆に、自分の心中深いところで、熱い思いに揺さぶられたものです。

 1962年に農場に入ってから13年間、

毎日、毎日、顔は地面に向きっぱなし、背中は空に向きっぱなしで、

たいへん体力を消耗する仕事が続きました。

でも、主食はとうもろこしの粉と山菜を混ぜたものですから、

その時の私の夢は、純粋にとうもろこしの粉だけで作られた饅頭を

腹いっぱい食べることでした。

 当時中国では、いろいろな政治運動がひっきりなしに行われ、

そのたびに違う対象の者を懲らしめるのです。

私は日本の関係者だということで苛められました。

毎日小心翼々、びくびくしながら過ごしていました。

今でもこの頃の思い出を語るとき、つらく深い痛みと悲しみで、

胸が締め付けられます。

 

〈友人・妻との出会い〉

小学生の頃から高校までずっと母に誠実と勤労の教訓を受けていたために、

長春、吉林、延吉の学校時代と職場で勤めた60年間を通じて、

私にはたくさんの友達がいました。

今でも私はよく、友達と一緒に勉強したこと、

アイスホッケーの試合をしたこと、

みんなと別れたときのことなどを、その時々の友達の顔とともに思い浮かべます。

 そんな中にこんな友人もいました。文革後期のことです。

私は日本関係者だという理由で、

彼は中国人でしたが、会社経営をしていたので

「走資派」(資本主義一派のもの)という評価が下され、

一緒に「牛棚」(農場内の監獄)に入れられていました。

私は日常の農場生活で友情厚い仲間を得ていたので、

仕事の後で審問を受けず無事に牛棚に戻れましたが、

「走資派」は、毎日紅衛兵に審問されました。

審問のとき、紅衛兵は必ず、構わず殴ったり蹴ったりします。

そのため、「走資派」の審問前に、私は自分の服を脱いで

彼に着せてあげていました。

長い間、一緒に生活する中で、彼と私との間には次第に友情が培われ、

仲のよい友達になりました。

 文化大革命が完結した後、現実路線のおかげで、

「走資派」は、また元の職場に復帰できました。

やがて私も農場の農工から州政府の職員に転職できました。

 もうひとつ、私は友人のおかげで妻とめぐり合うことができました。

当時私は、「日本鬼子」と呼ばれて様々な制限をされ、

差別・軽蔑の目で見られて暮らしていました。

妻と初めて出会った場所は牛棚(農場の監獄)です。

妻は中国人ですが、友人に私を紹介されて、

恐れることなく監獄に閉じ込められていた日本人の私に会いに来てくれました。

そして私の丈夫な身体と正直な性格と、勤労の心をすばらしいと思ってくれました。

そのときから今まで40年の月日が流れました。

これは幸せな楽しい40年です。

現在、私と妻には息子と娘が一人ずついます。

息子は横浜に住み、娘は中国で日本語を教えています。

私は十分満足しています。

 

〈「資本主義の国」日本〉

 私は生まれたときから中国で生活し、成長してきたので、

様々な面で中国の影響を受けてきました。

特に、中国共産党は日本が資本主義の国であり、

資本主義とはとても恐ろしいものだとか、

腐敗した社会制度だとかいう教育をしていたので、

私自身もそうした意識を持っていました。

そういうわけで、私はとても不安な気持ちで日本の大阪にやってきました。

2003年4月のことです。

日本についてぜんぜん知らないものですから、胸がどきどきしていました。

 

〈帰国後の日本の印象〉

 しかし、日本に来て様々な物事を見たり体験したりする間に、

私の考えはすっかり変わっていきました。

知人であろうと、見ず知らずの人であろうと、

出会った人々がみな、笑顔で迎えたり、挨拶したりする様子は

とても気持ちよく感じました。

 親切な人が多い、礼儀正しい、交通がとても便利だ、

町がきれいで環境がいい、公衆道徳やマナーを守るなど、

日本のすばらしいことの中で、特に大切なのは、

「人権を尊重し、自由を守る国だ」ということです。

これは、日本が誇りにすべきことです。

日本の「人権と自由」は、中国と比べものにならないものです。

 さらに日本人は、戦後原爆で焼け出された廃墟から出発し、

瀬戸大橋を作り、新幹線を走らせました。

これらは日本人の強い精神力を表すものです。

私はこうした社会を実現した日本国民に心から敬意を抱いています。

 日本では何をするにも法律や規則を守ってことを進め、

私利私欲を挟んだりすることもありません。

ですから私は、今はもう日本という美しい祖国が大好きになりました。

 

現在の生活〉

 帰国後の6年間、政府は生活の隅々まで心を配ってくれました。

皆様の残留孤児及び家族に対する深い心遣いと援護に大変感謝しております。

帰国してから私は、ずっと大阪YWCAで日本語の勉強をしています。

今、67歳を過ぎ、明るく、暖かい教室で先生の講義を聞いたり、

良き師、良き友と知り合ったり、

本当に世界一の幸せ者です。

周りの人たちは、私や家族に人としての尊厳を、

また、この上ない温かさと幸福を感じさせてくれました。

 

〈最後に〉

 私は日本に来てから、生活面でとても良くなったと思います。

でも、精神面は何か物足りないような感じがしています。

今思えば、私にとってやっぱり中国は故郷です。

日本人として満州国で生まれた私を育ててくれたのは、

中国の人々であり、中国の大地でした。

60年間、中国で生きてきた私は、

中国を尊敬し熱愛しているというか、何と言って好いか分かりませんが、

心の底から感謝しています。

私が自分の全てをかけて熱望するのは、ただひとつ、

『中日永遠友好!』です。

これからも、日本社会に溶け込んで、自分の思想、道徳、教養を高め、

自分の悪い生活習慣を改めて、社会環境や時代の趨勢を見極め、

順応すべきところはしていく所存です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

この作文を書いた8年前は、妻の素媛さんもお元気で、

李さんがYWCA(帰国者支援センターがあるところ)から団地の家に帰り、

駐輪場に自転車を置いてドアを開けると、

「お帰り」の言葉とともに、

美味しい水餃子が出来上がって、李さんに差し出されたそうです。

そろそろ李さんが帰ってくる頃だと思って、

ベランダから李さんの姿が見えるのを待っていたのだと。

 

今、李さんは、素媛さんの介護をしながら、

妻が自分の人生の全てをかけて自分に尽くしてくれていたことを

日々痛感していると語っていました。

 

下は李さんご夫婦に関するブログ記事です。

「李達夫さんのこと」 2011年8月9日(火)No.180

「日本の入院先が見つからない!」2011年8月20日(土) No.181

「李さんから」2011年8月22日 No.182

「李さんその後」2011年8月28日(日) No.184

「李さん夫婦・その後」2011年9月10日(土) No.190 

 

 

 

 

 

 

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「ある中国帰国者2世の人生」2015年5月20日(水)No.1365

2015-05-20 23:26:33 | 中国帰国者

大阪自由大学とアジアセンター(在淡路)の共催による

連続講座「東アジアを考える」の第3期「戦後70年・・アジアと日本の現実」

で帰国者が自分の人生を語るシリーズの2回目が今日、アジアセンターであった。

今日は、このブログに何度も登場している帰国者2世、吉林省長春出身の

青木雅子さんが話をした。

下は始まる前のスナップ。

4月の語り部、西井澄さんも参加して青木さんをバックアップしてくれた。

後ろの方に、「帰国者の友」のユミコさんの顔も見え、青木さん大感激!

 

青木さんのお父さんは戦後すぐに大連の病院で生まれ、

祖母(お父さんのお母さん)は子どもを産んですぐに亡くなった。

たまたま、お父さんの養母もそこで赤ん坊を産んだところだったが、その赤ん坊も

すぐに亡くなった。

養母は生まれたばかりの日本人の赤ん坊にお乳をあげ、

ついには引き取って育てることにした。

周りの誰にも、日本人の赤ん坊だとは口外しなかった。

青木さんが中学一年か二年生のとき、春節で親戚から楽しく帰ってくると、

部屋の隅のベッドの上で、お父さんがコートを抱きしめて泣いていた。

お母さんが部屋の外に青木さんを連れて行き、ひそひそ声で、

お父さんが日本人であることを養父母に告げられ、ショックで泣いていると語った。

家族はその話が嘘だと思い(たくて)、関係窓口に問い合わせたが、やはりそれは事実だった。

 

大人になって職場恋愛し、結婚の意思を固めたが、自分が日本人であると言えなかった。

母に急かされて、ついに、青木さんは相手の男性とその両親を前に、

それを告白せざるを得なくなった。

相手の男性は一人っ子で、そのお母さんは

「大切な一人息子を、日本人なんかと結婚させたくない」といい、

二人は、職場で毎日顔を合わせては泣き、もう別れるしかないと諦めかけたが、

そんなとき、相手のお父さんが、

「君は半分日本人だが、半分は中国人だ。

これからの人生は、二人で作って行きなさい。」

と結婚を認めてくれた(ここで青木さん、涙)。

子どもが生まれて4年経った頃、実家の父が母、弟と日本に帰国した。

言葉も分からず、どうやって暮らしているか心配でたまらず、

日本から呼び寄せられた時、自分と夫、長女(当時4歳)の3人で日本に渡った。

日本に来たくて来たのではない。

両親が心配で、子どもは親についていてあげなければ…という思いでやってきたのだった。

それは、中国で生まれ育ち、中国が全てだった2世の共通の想いだ。

それでも青木さんは、日本語の習得、就職、ホームヘルパー試験1級、

日本語能力試験N1など、一つひとつクリアしていった。

次女が生まれると、あれほど結婚に反対していた義母が日本に来て、

6か月間も一生懸命孫の世話をしてくれ、お蔭で自分は順調に仕事に復帰できた。

 

そんなとき、中国の義父が倒れた。

夫と相談して、ずっと中国で暮らそうと決意し、

海を渡って家族みんなで長春に戻った。

しかし、当時4年生の長女は中国の生活に馴染めなかった。

年を経るごとにストレスが溜まり、

ついには一人でも日本に戻ると主張し始め、行動も病的になった。

 

長女を病気にしないために、

中学1年の秋(中国では新学期)、

青木さん、長女、次女の3人で再び大阪に戻ってきた。

一度明け渡した市営住宅には、いくら帰国者でも優先権はなく、

安く、劣悪な環境のワンルームマンションを借りて暮らした。

長女は、日本の中学校の授業の日本語がさっぱり分からなかった。

生活言語とアカデミック言語は違う。

子どもはほんの少しで生活言語をマスターするが、学術用語などが頻出する授業は、

まるで別の言語のようなものだ。

長女はやみくもにがんばったが、目に見える効果は出なかった。

その頃の長女の言葉、

「私、IQのテスト受けたい。もし、私の頭が普通だったら、私は一生懸命頑張る。

でも、頭が悪かったら、どんなに頑張っても無理なんだから、もう頑張るのを

諦めるわ。」

を思い出すたびに、青木さんの目に涙が浮かぶ。

その後、次第に長女は荒れ、

「親の都合で中国だ、日本だ、と子どもを挽きずり廻して、

おかげで私の人生台無しだ!」

と何回も泣きながら怒鳴ったという。

 

この頃、青木さんの神経が摩り減ってしまった。

死ぬことも頭を過ぎった。

夫がまた日本に来てくれたら、どんなに心強いかと思ったが、

中国の両親は歳も歳だし、決して元気になることはない。

つまり、夫は日本には来れないんだと悟ったとき、

青木さんは、(自分で頑張るしかない。自分の可愛い子どもじゃないか)と、

覚悟を決めた。

 

今、長女は大学3年生、次女は5年生になった。

家ではほとんど中国語で話をする。次女は学校で、意味が分からないことで

先生に叱られたり、子ども同士の中に入っていけないことがあるという。

3世になっても、日本語の細かいニュアンスが分からないことは往々にしてある。

次女は、このまま地元の中学に進学して、同じ顔ぶれでやっていく自信がないと

青木さんに訴えている。

「次女が大学を出たら、私は長春に戻り、夫と一緒にずっと一緒に暮らします」

という青木さんの夢は、少なくともあと十数年叶うことはない。

・・・・・・・・・・・・

青木さんの話を聞いて、たとえ戦争は何年間かで終わっても、

その後遺症には終わりがないことを痛感した。

戦時中の中国侵略のお先棒担ぎに駆り出された日本の民衆は、

戦争が終わって後、中国残留孤児や残留婦人になり、

文化大革命では日本人であることで攻撃を受け、

帰国が実現しても、2世、3世まで、その禍根を残している。

 

青木さんの話を脇でずっと聞いていた帰国者1世の西井澄さんが、最後に、

「私らは、中途半端や。日本に来ても中国に行っても。」

と言った。その切なさ、悲しさが心に深く沁み込んでいく。

 

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「皮から作る包子(肉まん)」2015年5月4日(月)No.1351

2015-05-04 21:18:32 | 中国帰国者

今日は5月4日、96年前の今日、

北京大学3000人の学生たちが日本の「21か条の要求」撤回、

日本が奪った山東省の旧ドイツ利権の回収を要求して立ち上がった記念日で、

中国では「五四青年節」(青年の日)と名付けられています。

 

その記念日とは全く無関係ですが、

大阪淀川区十三の「帰国者の友」では、連休の特別講習会が開催されました。

青木雅子中国語教室の「皮から作る水餃子」(4月)に続き、

「皮から作る包子(肉まん)」です。

中国語教室に通う学生たち、中国語会話の先生方、社会人や

肉まんに惹かれて参加した人々十数名が、

和気藹藹(あいあい)とお喋りしながら包子作りに挑戦しました。

肉まんの皮は薄力粉+ドライイーストで簡単にできました。

(電気カーペットの上に鍋ごと置いて、上から服や座布団を掛け、1時間放置)

旗袍がとてもよく似合う講師の青木雅子老師(帰国者二世)です。

 粉をこねて発酵したので、皮作りに着手しました。

粘土で遊ぶのと似ています。

今日は、セロリ肉まん、玉ねぎ肉まん、キャベツ・白菜・しらたき肉まん以外に、

棗(なつめ)マントウの作り方も教わりました。

棗は女性の健康にとてもいい果物だと、

参加されていた山東省出身の若い中国語の先生が教えてくださいました。

可愛いマントウができました。

 

青木老師の愛娘、愛佳ちゃん。

お母さんに連れられて初めて「帰国者の友」に来たときは、

まだ4歳だったのに、もう今は5年生!

今日も、受付をしたり、粟粥を混ぜたり、肉まんの皮をこねたり、

赤ちゃんの世話をしたり…、

お母さんの立派な助手を務めていました。

 

この二人は肉まんと聞いて駆け付けた人たち。どっちかが我が娘です。

後ろのホワイトボードは3月で店仕舞した中高生向けの塾「寺子屋」の名残です。

 

左は手作りラー油、右はセロリ、人参、カシューナッツ、ピーナッツの和え物。

この和え物は真似して自分でも作りたいです。本当に美味しい!

 

蒸し肉まん以外に、こんな焼き肉まんも!

「生煎包」という名前だそうです。焦げたところがカリッとして美味しかったですよ。


お母さんたちが作ったり、食べたりしているうちについに寝た小娃娃(赤ちゃん)。

右の赤ちゃんは賑やかな環境ではなかなか寝られません。

先に寝てしまった朋友にくっついています。

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「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

2015-04-23 22:49:32 | 中国帰国者

昨夜、大阪淡路のアジア図書館で中国帰国者1世の西井澄さん(79歳)が

中国残留の体験話をされた。

大阪自由大学主催(アジア図書館共催)の連続講座「東アジアを考える」

でのことである。

 

(左が西井澄さん:会場のアジア図書館で)

―――西井澄さんの話〈要旨〉

1942年、満州高知県開拓団に父、母、6歳の自分、妹の家族4人で入植しました。

1945年7月、父が日本軍に現地召集され、母が産後7日目だったので、

長女の自分だけが駅まで見送りに行きました。

泣いて別れましたが、その後、父に二度と会うことはありませんでした。

敗戦後、母子3人は他の人たちと共に、何とか日本に帰るために逃げました。

半年に及ぶ逃亡生活で毎日、目の前で人が死んでいくのを見、

1歳にもならない下の妹も母の腕の中で死んでいきました。

なぜ、自分たちはこんな目に遭わなければならないか考えました。

(戦争のせいだ。戦争が平和な家族の生活を滅茶苦茶にしてしまった)

と小さいながらも思いました。

 

その後、病気になった母とともに中国人養父に引き取られ、畑仕事に従事する傍ら、

雨の日と雪の日だけ学校に行かせてもらえました。

とぎれとぎれに3年半小学校に通ったのち、成績がよかったため、

師範学校に推薦されて4年間寮に入り、国費で勉強しました。

 

小学校の教師の職を得て2年後、

電話局に努める中国人男性と結婚し、家庭を持ちました。

子どもも4人生まれ、

与えられた教師の仕事と家事、政治活動を一生懸命こなしていました。

そんな平和な生活でしたが、

文化大革命の時、日本人であることで攻撃を受けました。

自分がやられるのはなんとか歯を食いしばって辛抱できましたが、

子どもが毎日泣いて帰ってくる姿に耐えきれず、帰国を決意しました。

帰国が実現したのは1981年8月のことです。

(日本に帰ったら、きっと何もかも良くなる)と信じて帰ってきましたが、

待ち受けていたのは、それまで以上に苦しい生活でした。

 

私は私費帰国だったため、国からの保証は一切受けず、

帰国後1週間で病院の付添として働き始めました。

言葉が分からないためにたいへんな辛酸を舐め、

(日本に帰ってきたのは間違いだったか)と思うときもあったのです。

「お母さん、中国に帰ろう」と子どもが訴えたこともありました。

 

それでも、子どもたちは何とか成長し、私も68歳までつきそいの仕事を続けました。

病魔に襲われたこともありましたが、今は毎日1時間半から2時間歩き、

ほとんど病院にかかることはありません。

この3月に、夜間高校を卒業し、

生まれて初めて校長先生から直に卒業証書をいただきました。

私は中国も日本も二つとも、自分の祖国だと思っています。

平和のために何かしたいのですが、

自分にできることは、これからも健康に気をつけて、

精一杯、生きている限り、勉強を続けることだと思います。

――――――

 

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「中国帰国者一世の快挙:79歳の高校卒業」2015年4月1日(水)No.1122

2015-04-01 11:50:35 | 中国帰国者

 

西井澄さんは、1936年3月25日高知県中村市川登生まれ。

澄んだ四万十川で遊んだ幼児の頃の思い出が、記憶にかすかに残っているという。

戦時中、国土拡張政策として国家が奨励した満州開拓団。

♪アムール川を北に見て大興安の東に 沃野万里の大満州 渤海の夢今何処 

咲きては散りし二千年  若き血潮と夕映えに誓って立てん 大楽土 ♪

(博堅氏提供)

というプロパガンダ曲まで作られた、その満州開拓団に、

1943年5月、高知開拓団として父母、自分(当時7歳)、妹の4人家族で参加した。

旧満州吉林省舒蘭県小城子に入植してみれば、沃野万里とは程遠い貧しい山奥で、

父母の労働は過酷を極めたという。

1945年7月、父が現地召集された。母は出産7日目だったので、

9歳の西井澄さんが一人で舒蘭県の駅まで見送りに行き、

父にはその後二度と会うことはなかった。

その一か月後からの母子による生死の境をさまよう逃避行、

中国人に拾われてからの生活、雨と雪の日だけ学校へ行かせてもらえた時期、

就職、結婚、出産、育児、文化大革命……、そして個人による自主帰国。

帰国後も語りつくせない苦労を重ねてきたが、

70歳を過ぎてようやく一息ついて勉強できる環境になった。

75歳で大阪府立大手前高等学校夜間部に入学。

79歳になると同時に、今年2015年3月、卒業した。

「人生で初めて、校長先生から直に卒業証書を手渡され、

人生で初めて、仲間たちに祝賀会を開いてもらった」

と語るわれらが大先輩、西井澄さんのこれからの人生に幸多かれと心から願う。

西井澄さんは自らの体験を

4月22日(水)午後7時~、阪急淡路のアジアセンターで話される。

主催:大阪自由大学・アジアセンター 

どなたでも参加大歓迎  

電話:06・6386・4575  

メール:kansaiforum@gmail.com

写真は3月29日「帰国者の友」(十三 ロマネハウス2F)でのお祝いの会の様子

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「中国で日本人残留孤児支援を続けてきた石金楷さん」2015年1月19日(月)No.1077

2015-01-20 01:22:58 | 中国帰国者

見落としていた一年前の記事を発見した。

2014年1月21日、朝日新聞デジタルの

「(ひと)石金楷さん 中国の日本人残留孤児の支援を続け、来日する」

というものだ。

最近の朝日新聞の委縮ぶりを見るにつけ、不甲斐なくてたまらないが、

この記事を書いた石田耕一郎記者をはじめ、朝日新聞の記者たちは、

どうか、これからも歴史に中に埋もれ、忘れられようとしている

戦争の犠牲者に寄り添い、淡々と自分の信念を貫いてほしい。

ふんばれ!

 

―――――――――朝日新聞デジタル2014年1月21日

「(ひと)石金楷さん 中国の日本人残留孤児の支援を続け、来日する」

写真・図版石金楷さん

終戦の混乱で中国に残された日本人残留孤児の支援を中国東北地方で続けてきた。   21日、残留孤児であり、病気治療で日本に永住帰国する妻(73)に付き添い、故郷の黒竜江省ハルビン市を離れる。

生まれた時、自宅には靴の修理工だった両親が引き取った残留孤児の義兄がいた。                              1986年、義兄の身元が判明して日本へ帰国したのを契機に、孤児や養父母に会いに来る日本人訪中団との連絡役を務めるようになった。

黒竜江省は孤児の数が中国で最多。                                                             孤児認定の申請者に必要な手続きを教える一方、養父母宅を訪ね、帰国した孤児に近影を送ってきた。知り合った孤児は帰国者を含めて100人を超え、写真や形見の品を集めた中国初の常設展を一昨年、地元博物館で実現した。

友人らの評は「情に厚い」「まじめ」「不器用」。                                                       勤務先の国有企業からリストラされ、博物館から給与を受けるまでのここ8年間は無職で、蓄えを食いつぶした。                                                                                「金がなく、周囲には胃痛を装い、ずっと昼食を抜いていた」

日本の生活になじめぬ孤児の苦悩、残された養父母の孤独、証拠不足で孤児認定されない申請者の無念さ――。                                                                              今も続く戦争の悲劇を見てきた。                                                                  「今後は日本に帰国した孤児を訪ねて資料や証言を増やし、戦後の交流史を伝えたい」

亡き母が臨終で語った「日中友好」が活動を支える原動力だ。

 (文・写真 石田耕一郎)

http://www.asahi.com/articles/DA3S10935871.html

――――――――――――――――――

 

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「帰国者の友・新年会」2015年1月18日(日)No.1076

2015-01-18 22:08:30 | 中国帰国者

中国残留孤児一世、二世、三世とその家族、そして友人知人が集う「帰国者の友」新年会。

今年も懐かしいメンバー、初めての参加者など約30人が大阪市淀川区十三の

ロマネハウスに集まった。

みんな手に手にビール、ワイン、日本酒等々を持ってきてくれるので、

自ずとみんなのほっぺも赤ら顔に。

一人ひとりが近況を述べ合う。

一年分の悲しいこと、辛いことが溜まっているが、そこは踏ん張りやさんばかりの帰国者の面々。

さらりと語る。そして、希望も。

下は、大学での奨学金制度が分からず、娘が3年生になってようやく奨学金がもらえるようになり、

肩の荷が軽くなったと語る石田華絵さん。娘のキコさんは2年前江西財経大学に短期留学した。

 

↓昨年は、中国のお父さんや大阪での恩人の死、夫の転職など、辛いことばかりだったが、

今年はいい年になる希望がある、と立って語る原田玲奈さん。

座って聞いている二人は、

左が今春、4年間通った夜間高校を卒業する西井澄さん。「英語とパソコンが苦手だ」と厳しい表情。

さらに、卒業してからも学ぶことは止めないときっぱり言う。

右は夜間中学2年目が終わる山下飛子さん。山下さんは中学生時代、福建省で文化大革命に遭遇し、

学校どころではなくなった。

両親が難を逃れて家を離れ、妹や弟と家に残されてお金も食べ物もなく本当に困ったと語るとき、

いつも目に涙が溢れる。「あの時代のことは言いたくない。今でも辛くて苦しくなるから」と言う。

「今が私の青春時代。数学は英語より難しいわ」と楽しそうに言う。

 

今日は鍋物3種(水炊き・キムチ鍋・豆乳鍋)をつつきながら全員、一言ずつ語り合った。

蘇軍偉さん(河北省?出身)が豆乳鍋に挑戦中。

 

人民新聞社の山田洋一さんが手に持っているのは江西省樟樹の白酒「四特酒」。

厳先生のお土産だが、ちなみにこのお酒は周恩来さんが大好きだった銘柄だそうだ。

そして、周恩来さんは今でも中国人みんなに慕われている。

 さて、満腹になったところで尼崎のNPO法人「まいどイン尼崎」のメンバー

(て言うか我が娘夫婦と広川君)が得意技の「妖怪ウオッチ体操」を披露した。

 

 

 楽しそうな人々の中で一人、呆然とした風情の横山三郎さん(真ん中に座っている人)。

あとは懐かしい日本や中国、韓国・朝鮮の歌、京劇の地方バージョン、闘いの歌、失恋の歌、

みんなで楽しく歌う歌など、おおいに歌い、おじやをいただき、お喋りして、

また、それぞれ家路に着いた。

さようなら、みんな。

今年も頑張ろう。

 

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「十三〈帰国者の友〉新年会に向けて」2014年12月24日(水)No.1062

2014-12-24 21:06:20 | 中国帰国者

 

さて、もうすぐ来年だ。

となると新年会だ。

その前に忘年会だ。

ということで、ボランティアグループ「帰国者の友」スタッフ有志が我が家に集った。

新年会の相談というより、育児・職場・社会関係の放談でストレス大発散でした

 

あ、でもちゃんと決めることは決めましたよ。

「帰国者の友」新年会は次の通り。

中国帰国者(1世~3世)と交流したい方は、

全く初めて、見ず知らずでも構いません。

どうぞお越しください。

いちゃりばちょーでー

日時:2015年1月18日(日)昼12時~

場所:ロマネハウス2階〈帰国者の友〉…淀川区役所道路向かい裏(一筋入ったところ)

住所:大阪市淀川区十三東1-8-3

行き方:阪急十三東口商店街を突き抜けて淀川通りを淀川区役所方面に5,6分歩く。区役所手前の交差点を東(右)に渡り、さらに道路沿いに10m進み右折し、3mで左折。ふう、これで分かったかな?てか、みんなスマートフォンあったら大丈夫だよね(私はないけど)。

連絡:nijinokanata_2*yahoo.co.jp(*を@にする)

会費:1000円(3種類の鍋料理+飲み物などいろいろ代)

 ----------------------------------------------------------

<付録>

過去の中国「帰国者の友」関連ブログのいくつか挙げました。お暇な時にでもご覧ください。

「帰国者の友《中国語教室》」 2014年8月17日(日)No.966 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/c/3bd50efc9abd1120951f827d0f90601e

「大阪人として生きる帰国者――石田さん母娘」 2013年7月24日(水)No.717 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/755d34b2d6914ae5e0018e5cf2093801?fm=entry_awc

「日本に帰った帰国者の人生-李達夫・遅素媛さん夫妻」2013年7月23日(火)No.716 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/bc429e00910099ba50671bf20612c07e?fm=entry_awc

「大阪『帰国者の友』からの便り」 2013年5月11日(土)No.646 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/452d0739c681428e588b69fa78ea2f6c?fm=entry_awc

「大阪で『中国帰国者の友』催し4/29」 2013年4月18日(木)No.624  http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/c15d6b0b7c7c76f26a1287f77ff65255

「李さん夫婦―ある中国帰国者の人生」 2013年1月28日(月) No.555 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/b88f7d52c5300149aefe25ad82b3613e?fm=entry_awc

織姫&彦星生活…帰国者の雅子さん」2012年8月13日(月)No.412 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/d12e79f26a25b83625e6374a2aa65772?fm=entry_awc

「私は中国残留の子どもだった」  2012年7月22日(日) No.399 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/1877300cc6123bcd200c01559dd4a03f?fm=entry_awc

「帰国者の友」にもようやく春が」2012年3月27日(火)No.318 http://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/5c31cc82438ae7b6ac429c0c7751cca2

 

 

 

 

 

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「山下飛子さん(帰国者2世)と十三で飲んだ」2013年8月13日(火)No.726

2013-08-13 19:29:32 | 中国帰国者

十三にはこういう酒場がなんぼでもある。
今回は沖縄酒場に入った。


私より1歳年上の山下さんは福建省生まれ。
1982年、先に帰国した1世の父の住む大阪に来た。
文化大革命の時、お父さんが日本人であること、お母さんが日本人の妻であり、
さらに刺繍工場の経営者であるために、攻撃対象とされ、両親とも一時、遠方の地に隠れた。

「その時、私は15歳か16歳。お金も全然ないのに、『お腹空いた~!』と泣く弟妹4人を
世話しなければならない。あの頃は人生最大のピンチやったわ」
何度も聞いた彼女の身の上話だ。
当時(1960年代後半)、日本ではビートルズやローリングストーンズ、
ジ=アニマルズなどのブリティッシュ・ロック、
アメリカのジョーン=バエズ、ピーター・ポール&メアリーといった反戦フォーク・ソングが世間を賑わし、
私もラジオの洋楽番組を聞いて、翌日学校で誰の何がヨカッタなど、
友達と歓談する呑気な日々を過ごしていたのだった。
同年代の山下さんの話をきくたびに
(ごめん。何にも知らないで呑気に過ごしていて…)と思う。


大いに飲みそうで、実はからっきしの山下さん。
山下さんのいた時代の福建省ではお酒を飲むのは男性ばかりだった。


山下さんは18歳のとき(1969年)結婚。
日本では恋愛結婚が普通の時代に突入していたが、中国福建省ではお見合いに決まっていて、
本人の気持ちは全く関係なかった。
18歳と言えば、私は高校3年生で、毎夕NHKテレビ「ひょっこりひょうたん島」を見てすぐ就寝、
夜中に起きて深夜放送を聞き、本を読んだり、妄想にふけりながら、
家族には「毎晩、受験勉強しているのである」と発表していた。
彼女の生活を想像するとき、同時に自分のその時を思い、落差を噛みしめる。

60年代後半から70年代の日本は、明らかに中国より物質的に豊かな生活をしていた。
それでも、1972年、日中国交正常化の話し合いで周恩来首相は、
日本の中国に対する戦後賠償をチャラにしてくれた。
もし、賠償金を請求していたら、そのお金で当時の中国はどれほど潤ったことだろう。
それなのに「いいよ、いいよ。日本人民も軍国主義の犠牲者だ」と寛大な態度で許してくれた。
日清戦争(甲午戦争 1894~95)で日本が中国に請求した賠償金は、
中国国家が支払える能力を遥か超えた額だった。
中国は他から借金してそれを日本に支払ったというのに。


1982年、両親の帰国から2年後に、山下さんも夫と子ども2人を連れて帰国。
言葉の不自由な夫は家で主夫をして、もっぱら彼女が外で働き、家計を支えてきた。
昨年60歳になったのを契機に、長年働いていた神戸の某ハム工場を辞めた。
しかし、65歳までは年金だけでの生活は不可能なので、
また近所の食堂で週4日パートをしているそうだ。

息子や身内以外とはあまり外で食事をしたり、飲みに行ったりする機会はない山下さん。
新しい職場の食堂で
「中国野菜なのに、なんで知らんの?」
「中華料理のメニューにあるやろ?」
とさんざん言われて、初めの一か月間はたいへん辛かったそうだ。
さらに、緊張しているときに「820円やから1020円でおつりちょうだい」などと言われ、
頭がカーッとなり、一度は「もう辞めます」と申し出たそうだ。
幸い、職場の先輩たちが特訓してくれたりして、今はだいぶ慣れてきたとのこと。
日本で生まれ育った者には当たり前とスル―できることの一つ一つが
帰国者である山下さんには、険しい山に登山するほどの作業であるのが、聞くほどに分かってくる。

しかし、私が
「たまにはみんなの前で、さんざん愚痴や文句を言いたくならない?」
と聞くと、彼女は言う。
「それしたら、自分のレベル下がるやん。これまで頑張って生きてきたことが、
全部、それで終わりになってしまう。絶対、それだけはしない。」
と。そういう言葉を聞くと、涙が噴出しそうになったが、
ぐっと堪えて十三駅前で笑って別れたのだった。
庶民って、死ぬまで頑張るんだよね。
為政者はそんな庶民の存在など全く見ていないくせに、口先だけ
「国民のみなさま」などとくそ丁寧に言う。
むかむかする。

夕方はそんなでもないが、夜になれば駅前が
人々でごった返す。十三はそんなところだ。

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「大阪人として生きる帰国者――石田さん母娘」 2013年7月24日(水)No.717

2013-07-24 18:46:36 | 中国帰国者
中国帰国者と言っても身の上は様々で、
一人ひとりが一口に語れない歴史を持っている。

帰国者をときどき「帰国子女」と言う人がいる。
それを聞くと単にちょっとした言葉の間違いとして片づけられないものを感じる。
親の仕事の都合で海外暮らしをしたという点で共通するといっても、
会社の海外出張と日本帝国の満蒙「開拓」政策を「いっしょ」とは言えない。
同様に、引揚者や帰国者に対して国内で敗戦をむかえた人たちの中には
「敗戦で苦労したのは私らもいっしょよ。あなた方だけじゃないの。」
と言う人もまた多いと聞く。
こういう人たちには想像力というものがないのかと疑う。
銃火の下、土地勘もない異国で当てもなく逃げ惑う中、
子どもが泣くからといって親が自分の手で子どもを殺す姿を目の前で見、
何とか生きのびて50年後に帰ってきたときに、
「ああ、50年もいたんじゃ帰りたくなかったでしょう。
向こうの方が良かったんじゃないの。」
と言われた中国残留婦人もいる。
敗戦後、中国人と結婚して残留。
文革時、誰にも言えない思いを胸にかかえ、川のほとりで
「天上影はかわらねど 栄枯は移る世の姿、 
映さんとてか 今もなお、 ああ 荒城の夜半の月…」
と唄いながら一人で何回泣いたか分からないと語る、
1930年生まれの須田初枝さんには、帰国後に投げかけられた
そんな日本の人々の言葉が辛かった。(註)

帰国者1世の一人ひとりに聞いていくと、
呆然となるほど過酷な体験ばかりだ。
一体なんのために国は満蒙開拓団を組織したのか、
結局、誰のためにもならず、国のためにもなっていない。
ただ、中日両国民の中に怨みと怒り、恐怖と悲しみを産んだだけだ。

帰国者2世の石田華絵さんと石田キコさん(3世)母子には、
直接にそうした体験はない。

〈大阪心斎橋で 石田華絵さん(右)、キコさん(左)〉

ハルビン生まれの華絵さんは結婚してキコさんを産んで間もなく、
1世の父の住む日本に渡った。
既に改革開放の花開く時期だった。
華絵さんは自分の娘が日本も中国も自分の祖国と思えるように、
名前も自分の名字「石田」と夫の名字「李」の二つをつけた。
即ち、「李」=「木+子」=「キコ」である。
頑張りやの華絵さんは夜間中学に通って言葉の壁を乗り越え、
夫婦で一人娘を大学に入れ、中国の大学生活も味わわせたくて、
この春、キコさんを江西財経大学に短期留学させた。
キコさんもそんな両親の想いを十分理解する聡明な子だ。
彼女は大阪の街の様子、大阪人の気質、大阪弁など、
地元大阪を生き生きと江西省の学生たちに紹介し、
授業外では学生たちと中国語で交流した。
江西財経大学日本語学科では初めて日本からの同年代の若者が来るので
とても湧きかえった。
こんなふうに地道に民間交流によって友情の輪がひろがりつつある。


政府間の交渉がうまくいかず両国間の関係が険悪になっている昨今、
私たち庶民ができることはひたすら、
一人ひとりと知り合い、友達になり、平和交流の大切さを声に出すことしかない。
残留婦人、残留孤児の塗炭の苦しみ、
取り返しのつかない時間を、再び、これから生きる人々に味わわせないために。


(註)「二つの国の狭間で-中国残留邦人聞き書き集 第1集』
(編集発行 中国帰国者支援・交流センター 2005年)

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「日本に帰った帰国者の人生-李達夫・遅素媛さん夫妻」2013年7月23日(火)No.716

2013-07-23 17:54:00 | 中国帰国者
2年前の7月末の北京、
李達夫さんと素媛さん夫婦は傷心を抱えて日本に戻る途中だった。
貴州で日本語学校を経営していた娘さんが過労死し、葬式に出席しての帰りだった。
その日、関空に飛ぶ予定の旅客機は天候不順のため、
航行を見合わせていた。
いつ飛ぶか分からないので、二人は北京市内のホテルで一旦休憩することにした。
ホテルに着いて、手すりのない狭い階段を昇りきったと思ったそのとき、
素媛さんが落下した。

あれから2年経った。
脳挫傷、くも膜下出血等々の大怪我の後遺症は、
素媛さんが元通りの生活をすることを不可能にした。
自分で歩行することもできない。
一時は40年間連れ添ってきた連れ合いも認知できなかったが、
2年かけて少しずつ、少しずつ記憶が戻っている。
大阪に戻ったので素媛さんのお見舞いに行こうと思ったら、
素媛さんは淀川キリスト教病院に入院していた。
「誤嚥下」による肺炎併発だった。

昨日、帰国者仲間の武原さんに通訳で
付き添ってもらい、フミちゃんと一緒に淀キリに行ってきた。

二人はニコニコと迎えてくれた。

(素媛さんは怪我の前に比べ20kgも太っている。脂肪肝になっているとのこと)

李達夫さんが手紙を渡してくれた。
日本語で話ができないから、辞書を引きながら前の日に書いてくれたのだ。
了解を得て一部掲載させていただく。

-----掲載ここから
世界の中で、いろいろ困ることがあります。
今、妻の最悪の時期は過ぎました。
今から良くなります。
私の生活もきっとすばらしくなります。
いろいろ心配しない様にしています。
全てうまくいくでしょう。
これからも、妻と私はずっと苦楽を共にする仲のいい者同士です。
なるべくいい方向に考えて、妻の面倒を見て、勇気を奮い起こして全力を尽くします。
苦境にある妻を絶対見捨てない。
私は十年間ずっと日本語を勉強してきました。但しレベルはまだまだ下手です。
特に会話、口が下手だし、聴力も下手です。お恥ずかしい限りです。
どうかご了承ください。
二年間、妻の面倒を見てきて、いい勉強になりました。
今まで妻が作ってくれていた料理を、
自分がやって初めて分かることが多かったです。
妻の温情が心中深く感じられます。
また、大阪の友人たちのありがたみも知っています。
今、私は心が満ち足りています。

------掲載ここまで


李達夫さんは、結婚して以来の生活に言及し、
文化大革命で牢獄に入れられ、いつも飢えていたときに
素媛さんが貴重な食べ物を持って訪ねてくれたこと、
配給制の貧しい暮らしの中で、
10のうち、素媛さんは1つだけ、あとの9の食べ物を大柄な李さんに差し出してくれたこと、
李さんが日本に帰国すると言ったとき、一切反対せずただ頷いてついてきてくれたこと、
いつも李さんの帰りをベランダで待っていて、
ドアを開けた時に、ちょうどできたてのアツアツ餃子を出してくれたことなど、
思い出のあれこれを話してくれた。
それを聞いて素媛さんも一緒にニコニコ笑った。

今週中には退院できるそうだ。
障害者手帳(1級)も得、
ケアマネージャーさん、ヘルパーさんなどの介護体制もバッチリで、
本当に最悪の時期は過ぎた感じだ。
しかし、「満ち足りている」と言っても李達夫さんも障害者手帳を持つ身だ。
歳を取っていく帰国者たちが安心して生活をしていくために
何が必要なのか、お付き合いを続ける中でキャッチしていきたい。

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