4月の熊本地震後、多くの避難者が暮らしていた益城町の避難所が、
今日、10月31日午前10時に封鎖されたそうです。
その後みんな自宅に帰ることができたかと言うと、そんなわけにはいきません。
避難所の職員さんに
「長い間、お世話になりました。」と挨拶をした後、
さらに、「もう少しの辛抱」と、待機所に向かう87歳のおばあさんの記事を読みました。
なんかね、この言葉を見ただけでもう、滂沱の涙です。
まだ、さらに辛抱せなあかんのか!87歳の人がだよ!
87歳と言ったら、我が母が亡くなった歳です。
苦労、苦労で死んでいった我が母、我が父の姿が重なるのです。
ほんのちょっとの大企業のじいさん・ばあさん並びにその家族ばかりが
何不自由なく暮らせる日本って、ホンマ、ムカついて居たたまれない気持ちになりますよ。
「もう少しの辛抱」益城の87歳、待機所に
毎日新聞2016年10月31日 12時23分(最終更新 10月31日 12時55分)
熊本県益城(ましき)町の総合体育館に設置されていた町最後の避難所が31日、閉鎖された。同町寺迫の藤田光子さん(87)は、4カ月以上付き添った長女の福田文子さん(65)とそれぞれ体育館を後にした。大きく損壊した自宅は修理中で、しばらく待機所に身を寄せることになるが、藤田さんは「この半年、大変なことばかりだった。自宅に戻るまでもう少しの辛抱」と前を向く。
藤田さんは4月14日夜、独り暮らしの自宅玄関で前震に襲われ、棚の下敷きになった。右肩を骨折し、ガラスが頭に刺さるなどの大けがをした。「このまま1人で死んでいく……」と思いながら気を失ったが、やがて意識が戻り、妹家族が住む隣家に大声で助けを求め、救出された。
受難は続いた。入院した熊本市民病院が4月16日未明の本震で被災し、避難を余儀なくされた。「建物の外に寝かされた。寒くてブルブル震えとった」。転院先で2カ月余りリハビリに汗を流した。
6月下旬に退院したが、地震前より右耳が聞こえにくくなり、右腕は上がらず、腰痛も抱える。エレベーターも階段の手すりもない町営住宅4階にある文子さん宅での生活は難しく、避難所に入った。文子さんは一緒に寝泊まりして世話をした。「壊れた家は約20年間、介護の仕事を続けた母が辛抱を重ねて建てた。早く戻りたい一心で母は頑張ってきた」と文子さん。
ただ自宅の修理を依頼したが、業者には注文が殺到していた。瓦のふき替えだけ終わったが、壁はあちこちで崩れ、室内は水も出ない。仮設住宅に入居すれば、自宅修理で町の補助が受けられない。避難所閉鎖後の行き先を決めきれずに途方に暮れていたが、町が待機所を用意することになり、2人の気持ちもやっと定まった。
体育館では熟睡できなかった藤田さんは「食器も割れ、何もかも買わんといかんから不安だらけ。でも屋根もきれいになったし、念願の家で早く暮らしたい」と自らを励ます。【福岡賢正】
ーーーhttp://mainichi.jp/articles/20161031/k00/00e/040/222000c?fm=mnm