昨日は「食べ残さない」日本人の習慣の基にある思想についてちらっと書いたが、
それは「いただきます」という言葉に如実に表現されていると思う。
多くの宗教団体が、手を合わせたり、「感謝します」「ありがとうございます」「いただきます」の大切さについて(うるさく)説教をするので、
幼く反抗的だった私は、一つもありがたい言葉と思えなかったが、
それは宗教団体の罪でも、まして、それらの言葉の罪でもない。
私がアホだっただけだ。
我が母は、思想などという言葉を人生で一度も口にしたことがなかった人だが、
子どもの時、米とぎで米の粒を流しにバラバラとこぼした私を、
まさに目の色を変えて叱責した。
「作ってもらったものに何というもったいないことを!」
と、一粒ずつこれ見よがしに拾った。
(なんだ、五粒や十粒くらい)と幼い私は不服だった。
(せっかく米とぎの手伝いをしているのに、褒めてくれても良さそうなもんだ)と悔しくもあった。
しかし、米俵は一粒ひとつぶの米の集積である。それを収穫する過程で大いなる人力・自然力が働き、私たちはその結果をもらって食べ、エネルギーとしている。
一粒がその原点であるのだから、決して軽んじてはいけないことを、
母は自分の生きてきた歴史の中で体得していたのだ。
もし「お金を払って米を買っているのだから感謝する謂れはない」と言う者がいたら、本ものの愚か者だ。
太陽や雨の恵みはお金と代償に与えられているのではない。
日が照ること、雨が降ること、風が吹くこと、きれいな空気、
これらは全て自然が我々生き物にくれた絶対的に気前の良いプレゼントである。
何しろこれがないと私たちは生きることができないのだから。
東日本大震災や阪神淡路大震災では、
自然の人間にとっての別な側面をつくづく知らされたが、
だからと言って自然に闘いを挑み、ねじ伏せる力を人間は持ちえない。
そして、持つ必要もない。
私たちも自然の一部なんだから。
昔から人々が伝えてきた自然への感謝と畏怖の念を、
私も、土を感じる生活から遠ざかった今もなお、
かろうじて受け継いでいる。
自分が「お天道様教徒」を名乗る由縁でもある。
しかし、生産と無関係なところで、
投資だの、上手にお金を増やすことだのが日本人の関心事となっている現在、
自然や生産努力への気持ちにも確実に変化が生じているようだ。
以前、貧血が起きそうな話を聞いたことがある。
私が以前(3年前まで)、小学校で働いていた際に別の学校の先生から聞いた事例だ。
大阪市の小学校では給食前に当番が
「手を合わせてください。」
「それでは皆さん、ごいっしょに、いただきま―す!」
と号令するのに合わせ、クラス全員が同様に唱えるのが一般的だ。
それに対して、ある保護者からクレームがついた。
「うちはちゃんと給食費払ってるんだから、『いただきます』じゃないんですよ。
その言葉、言わせないで欲しいんだけど。」
・・・・・・・。
これから食事のときの挨拶は「いただきます」に代わって、
「払ってます」になるのだろうか。
それは「いただきます」という言葉に如実に表現されていると思う。
多くの宗教団体が、手を合わせたり、「感謝します」「ありがとうございます」「いただきます」の大切さについて(うるさく)説教をするので、
幼く反抗的だった私は、一つもありがたい言葉と思えなかったが、
それは宗教団体の罪でも、まして、それらの言葉の罪でもない。
私がアホだっただけだ。
我が母は、思想などという言葉を人生で一度も口にしたことがなかった人だが、
子どもの時、米とぎで米の粒を流しにバラバラとこぼした私を、
まさに目の色を変えて叱責した。
「作ってもらったものに何というもったいないことを!」
と、一粒ずつこれ見よがしに拾った。
(なんだ、五粒や十粒くらい)と幼い私は不服だった。
(せっかく米とぎの手伝いをしているのに、褒めてくれても良さそうなもんだ)と悔しくもあった。
しかし、米俵は一粒ひとつぶの米の集積である。それを収穫する過程で大いなる人力・自然力が働き、私たちはその結果をもらって食べ、エネルギーとしている。
一粒がその原点であるのだから、決して軽んじてはいけないことを、
母は自分の生きてきた歴史の中で体得していたのだ。
もし「お金を払って米を買っているのだから感謝する謂れはない」と言う者がいたら、本ものの愚か者だ。
太陽や雨の恵みはお金と代償に与えられているのではない。
日が照ること、雨が降ること、風が吹くこと、きれいな空気、
これらは全て自然が我々生き物にくれた絶対的に気前の良いプレゼントである。
何しろこれがないと私たちは生きることができないのだから。
東日本大震災や阪神淡路大震災では、
自然の人間にとっての別な側面をつくづく知らされたが、
だからと言って自然に闘いを挑み、ねじ伏せる力を人間は持ちえない。
そして、持つ必要もない。
私たちも自然の一部なんだから。
昔から人々が伝えてきた自然への感謝と畏怖の念を、
私も、土を感じる生活から遠ざかった今もなお、
かろうじて受け継いでいる。
自分が「お天道様教徒」を名乗る由縁でもある。
しかし、生産と無関係なところで、
投資だの、上手にお金を増やすことだのが日本人の関心事となっている現在、
自然や生産努力への気持ちにも確実に変化が生じているようだ。
以前、貧血が起きそうな話を聞いたことがある。
私が以前(3年前まで)、小学校で働いていた際に別の学校の先生から聞いた事例だ。
大阪市の小学校では給食前に当番が
「手を合わせてください。」
「それでは皆さん、ごいっしょに、いただきま―す!」
と号令するのに合わせ、クラス全員が同様に唱えるのが一般的だ。
それに対して、ある保護者からクレームがついた。
「うちはちゃんと給食費払ってるんだから、『いただきます』じゃないんですよ。
その言葉、言わせないで欲しいんだけど。」
・・・・・・・。
これから食事のときの挨拶は「いただきます」に代わって、
「払ってます」になるのだろうか。