毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

微力ではあっても無力ではない  2011年8月30日(火) No.186

2011-08-30 20:36:05 | 日記
 今日、大阪から良い知らせがあった。
李(渡辺)達夫さん・遅素媛さん夫妻の受け入れ体制がほぼ整ってきたのだ。
前提として、素媛さんの回復が早く、緊急入院しなくても診察を受けてから後に入院手続きをすることが可能になったことがある。
 しかし診察を引き受けさせるだけでも、病院窓口の人はあれこれ医師に尋ねたり、上司に伺いを立てたり、と、すんなり引き受けた訳では決してなかったようだが、友人の一人が粘り強く聞いて大阪赤十字病院と富永病院から診察許可を取った。

 別の友人は、診察時に通訳してくれる人を探した。「RINK(Rights of Immigrants Network in Kansai):移住労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク」が信じられないぐらい親切に相談に乗ってくれて、「よろしゅうおす。派遣しましょう!」と引き受けてくれたという。しかも何と無料で、しかも何と時間制限なし!どうやって組織を維持しているのか心配になるほどだ。
 これまでの病院や役所の冷たい対応に慣れて?いた者にとって、地獄に仏とはこのことだ。
 RINKといい、菜の花診療所といい、役所に頼らず自前で人権を守る力を持つ民間組織がある日本を、改めて見直した。

 もう一つすごいと心から思うのは、我が「帰国者の友」の友人たちのがんばりだ。
普段は、例えば「十三の黄身ロール、最高やね~。」とか、「喜八州はやっぱりみたらし団子かな。」といったたぐいの会話がメインに飛び交うこの団体メンバーが、今、メチャクチャ頑張ってくれている。
病院の手配、区役所との交渉、介護タクシー予約、医療通訳探し、見舞金カンパ集め…などなど、やったこともない困難な行程を手分けして一歩ずつ前進してきた。
 李さんたちが帰ってくる船の会社をネットでつきとめ、そこに電話して事情を話し、「車椅子の素媛さんですね。気をつけてみます。」という言葉までもらった。出迎えの体制も着々と準備中だ。
 きっとみんな、自分のためだったらここまで必死にならなかったのではないだろうか。李さん夫婦を助けたい一心でやっていることだと思う。
 今日は、私たちは微力ではあっても無力ではない、と実感した一日だった。

 このブログを読んで心配して電話やメールでアドバイスを下さったサバ君、岩崎さん、誠子さん、見舞金を送って下さった流星ハルカさん、ものすごく励まされ、助かりました。非常感謝!本当にありがとうございます。
 見舞金カンパは、まだまだ続けています。どうぞよろしくお願いいたします。
今後、少し落ち着いたら今度は厚生労働省に対し、北京の病院代を出してもらうお願い?をしなければなりません。これはものすごく大きい課題です。ああ、仲間がたくさん欲しい…。
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究極の節電   2011年8月28日(日) No.185

2011-08-28 21:37:33 | 中国事情
 中途半端な気もするが、明日8月29日から2011年度1学期が始まる。去年は8月30日からだった。9月1日になる週の月曜日からスタートするという決まりのようだ。

 昨日、お馴染みご近所の「全家百貨」にトイレット・ペーパー、腐豆腐(またの名を「辣豆腐」などと言う)、食パン、卵、米を買いに出かけた。入り口が工事中だったが近くに仮の入り口があり、中に入ると何か新人が多い気がした。
 もうたくさん一年生が来ているのだろう。新入生歓迎生活用品セールのような雰囲気が店内に満ちていた。薄い布団が並んでいるところでよっぽど買おうかと逡巡した。私が今使っている薄い敷き布団は去年からのでとてもかび臭い…と、ここまで打ったところで今日二回目の停電だ。一回目は早朝4時ごろから12時過ぎまで停電、今は中国時間で午後8時50分だ。こんなに長時間停電なのも珍しい。究極の節電だ。もうすぐこのパソコンも充電状態が危うくなる…と、ここでまた電気がついた。
 いやはや、中国で数ヶ月でも暮らした後日本に戻ったら、どんな節電でも(これくらい何だ、中国に比べたら極楽だ)と思えるのではなかろうか。この間行った大阪のスーパー鮮度館なんか昼間から客も余りいないのに、クリスマスか!というくらい眩かった。
 取りあえず、パソコンが弱ってきたので(オレンジのライトが点滅)、今日はここまで~。
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李さんその後     2011年8月28日(日) No.184

2011-08-28 00:56:30 | 中国事情
 南昌に来ても李さんのことが頭から離れない。大阪では「帰国者の友」メンバーと帰国者有志が個人的に・病院探し・カンパ集め・市の窓口(東淀川区役所出張所生活保護課)に当たってくれている。

 病院は相変わらず見つからない。日本がこんな国だということに改めて気付かされた。転院は病院から病院に紹介して初めて可能なのだ。北京の病院の医師が書いた「病傷説明書」は大雑把で日本の病院業界では通用しないとのこと。診断書は日本に帰るとき持ってくるが、海外で入院し、重体をやや脱したところで日本に戻った者は、とにかくアポなしに救急車で病院に突っ込んでいくしかない。戻ってくるだけでも身体に負担がかかるのに、病院も見つからず点々とたらい回しにされたらどうしようと考え、途方にくれる。
 ある病院で、
「個人で予約するのは難しいですよ。こんなケースは公的機関に頼んだ方がいいですよ。」
と言われた。そんなこと、言われなくても分かっている。しかし、肝心の帰国者センター(柴島)も帰国者支援交流センター(大阪YWCA内)も組織的には全く動いてくれない。
 柴島のセンターでは職員の一人(帰国者相談員・通訳)が帰国者で、「友人として」個人的に上司と一緒に出張所生保課の李さん担当ケースワーカーに相談しに行ったが、3回目にようやく会えたその人(○川)からは、「病院は個人が見つけるものです。」という答えが返ってきたそうだ。
 その後、我らが「帰国者の友」スタッフが業を煮やして出かけて行くと、そもそもそのケースワーカーは4月に李さんの担当になって以来、まだ一度も李さんに会っていないという。それでもケースワーカーの仕事をしていると言えるのだろうか。

 それでも嬉しいことに素媛さんは、予想以上の快復力で現在は全部管が取れ、口から何でも食べられるし、会話もかなりしっかりしてきたそうだ。本当に良かった。もし、彼女が死神に連れて行かれたりでもしたら李さんも生きてはいなかったろう。李さんの手紙にはその決意がにじみ出ている。
9月2日深夜に天津を船で発ち、5日午前中に神戸港に着く。飛行機だと気圧が素媛さんの脳に悪い影響があるかも知れないからだそうだ。どうぞ無事に神戸港に着きますように。スタッフの一人、この間役所に行き、病院に電話し、と大奮闘してくれているフミちゃんが出迎えにも行ってくれる。

 「帰国者の友」はときどきお茶やビールを飲みながらみんなで中国の家庭料理を作って食べたり、中国刺繍をちくちくしたり、切り紙、篆刻、そうめん流し大会…と、まあ、至ってのんびりした事ばかりやってきた。帰国者の方々が地元で知り合い、友だちを作るきっかけになれば…と始めた我々スタッフは、完全に「はっつあん・くまさん」のノリだ。
淀川区十三東でビルを管理している友人がそのビルの一室を提供してくれてもう三年経つ。言い出しっぺの私が一年前に南昌に来てからも、スタッフの面々は相変わらずお菓子を食べたりビールを飲んだりお喋りしたり、楽しくやっていたらしい。
 そんな中で李さんは、
「今が一番穏やかな日々です。」
と言っておられたそうだ。
 どうして神様はこんなささやかな平和を簡単にひねり潰すのだろう。小さい頃から苦労ばかりしてきた李(渡辺)さんの老年期をこんな風にして何が楽しいんだ!
誰に言えばいいか分からないので全部神様に八つ当たりしている。それでも胸のモヤモヤは消えない。世の中は不公平だ。
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南昌に戻ってきた   2011年8月25日(木) No.183

2011-08-25 22:15:39 | 中国事情
 一昨日23日夕方に南昌に戻った。
関空から上海浦東空港に着くと、辺りは中国語の世界。しかし、言葉は違っても空港の中はどこも似たり寄ったり、トイレも綺麗でオシャレな店がズラリと並んでいる。
バゲッジ=クレームで、スーツケースが出て来るのを待っていると、自分の荷物があるかどうか走り回って見ていた子どもが「没有了」と言って家族のところに戻ってきた。そんな仕草も(どこの国の子どもも同じだなあ)と思える。
 ハッとさせられたのは、浦東空港から虹橋空港に向かうバスの中で聞こえてきた、あのclearing the throatと言うか、『ガーッ!』と派手に喉を鳴らして痰をどうにかする音だ。目が覚める思いで(そうだ、中国に来たんだ)と実感した。

 去年、初めて南昌に来たときは虹橋空港で5、6時間飛行機が飛ばなかった。虹橋はそういう所なんだろうか。今年もフライトは1時間遅延した。しかし、去年と違って私には中国国内用NOKIAの携帯がある。電池が少なくなってきてはいたが、国際交流與合作処オフィスのALEXに携帯メールで連絡し、南昌の空港へのお迎え時刻をずらすことができた。

 宿舎に着き、重いスーツケースを3階まで引きずって登った。今まで1階の部屋だったのでその点は楽だった。2階の踊り場から2段上ったところでフラッとしてスーツケースもろとも落ちたが、たった2段だったのでちょっぴり痛かっただけだ。誰にも見られていないのを喜び、後は必死に3階まで引きずり上げた。
 部屋は日本の家屋のように機密性に富むわけでないので、テーブルの上も床もうっすらと埃が溜まっている。しかし、それももう予想が付いていたので私は7月に帰阪するとき、主立ったものはタオルをかけてカバーしておいた。
 (自分だけの部屋っていいなあ)、そんなことを思って広いベッドに寝転がった。昨年とは気持ちの上で実に違う。部屋に入ってホッとするんだから。

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李さんから      2011年8月22日 No.182

2011-08-22 15:32:29 | 中国事情
 北京の病院で連れ合いの遅素媛(ち そえん)さんを看病している李さんからこの間の事情を説明する文が送られてきた。娘さんの急死に遭遇してどれほど悲しかったか、想像するに余りあるが、その後に続いた素媛さんの怪我は、李さんを経済的にもどん底にたたき落としてしまった。
しかし、彼は正気を失っていない。どれほど強い精神を持っているのだろう。呆然と立ち尽くすだけだった私は、この文を読んで気もちを奮い起こし、自分にできる手伝いを探してしている。このブログに李さんの文を掲載するのも、その一つだと思い書かせていただく。

「遅素媛が怪我をした経緯」
 愛娘の葬式を終えた後、私たち夫婦は7月24日の飛行機のチケットを買いました。すぐにも大阪に戻るつもりでしたが、その日の北京は暴雨で飛行機が着陸できませんでした。それで、次の日、25日の午前5時の飛行機に乗って、8時ごろに北京に着きました。
 暴雨で大阪へ飛ぶ便がまだ決まっていませんから、小さな旅館でも探してちょっと休憩するつもりでした。(今晩か翌日には大阪に戻れる)と思っていました。
 予想もできないことでしたが、妻がその「都楽旅館」の幅70cmもない玄関ロビーの階段から転げ落ち、120番救急車で「武警北京総隊第二病院」に運ばれて、神経外科で救急治療を受けました。
 重体のまま、10日も過ぎました。手術は成功したと教えられましたが、妻の意識は朦朧としています。頭蓋骨骨折で7cmの骨片を2枚も切除しました。全身の傷痕は目を背けたくなるほど酷いです。
 事故が起こった北京には甥一人しかいません。故郷の延吉の親戚や友人に助けてもらって二十万人民元近く(日本円約240万円)を支払いました。これからの治療費はもっとかかると思います。
 今の私は、熱い鍋の上のアリみたいです。居ても立ってもいられません。心身ともに疲れ果てています。精神的にまいっています…。

 私と妻は1968年に知り合って結婚しました。当時は、私の母が劉少奇の問題で「特務」と見なされて、「延辺州党学校」に7年も拘禁されました。私も「日本特務師子女」(日本の「特務」の子ども)で拘禁されました。しかし、妻は私を少しも嫌悪しませんでした。私と一緒に力を合わせて困難を乗り越え、40年の歳月を過ごしました。妻はどんな苦労をしても、私と子どもを守ってくれました。妻は一生を私に捧げてくれました。愛娘と息子を育ててくれました。しかし、私は妻を守れませんでした。そう思う度に悲しくてたまりません。特に、苦しむ妻を見ながらベッドの傍にいると、私の心も刑罰を受けているようです。妻が治るなら、私は余生を妻の恩に報いるために使いたいと思います。
 妻は11日間も闘ってきました。強い生命力の妻は、私と息子のため、死神と闘っています。妻の苦しい表情と抑えられない叫び声で、私は胸が張り裂けそうになります。私はどんな方法を取ってでも妻を日本に連れて帰りたいと考えています。幼い頃から私を悲しませた中国を私の心の中から消し去りたいです…。
 私たち夫婦は生活保護を受けています。お恥ずかしい話ですが、貯金がありません。日本政府に助けてもらいたいです。この困難を乗り越えられたなら、このご恩は一生忘れません。どうか助けて下さい。
 今日は事故の12日目です。妻の病状はあまりよくなりません。私はただ祈るしかできません。どうか、私たち夫婦を助けて下さい。
                 2011年8月6日  李(渡辺)達夫 



 ボランティアグループ「帰国者の友」は『李達夫応援団』を結成しました。積み立てカンパ金用にゆうちょ銀行に口座を作りました。お金が余っている人はいないでしょうが、日々のご飯のおかずを少し節約して、1000円単位で振り込んでいただけないでしょうか。できたら一度だけでなく、月々でも、二月に一度でも…。百万円集めて李さんに渡したいのです。お願いします。

 振り込み先
[ゆう ちょ銀行からゆうちょ銀行に振り込む場合]
 ・店番:淀川新高郵便局
 ・預金種目:普通
 ・記号   :14140
 ・口座番号:587871
 ・名前   :原田玲奈

[他銀行 から振り込む場合]
 ・店名   :四一八
 ・店番   :418
 ・預金種目:普通
 ・口座番号:0058787
 ・名前   :原田玲奈


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日本の入院先が見つからない!   2011年8月20日(土) No.181

2011-08-20 05:51:59 | 中国事情

 李達夫さんの連れ合い、素媛さんは7月25日骨折した頭骸骨の骨を2箇所除去する手術を受け、現在もその病院にいる。入院2週間で240万円。まもなく一ヶ月経つ。どれほどお金を払ったことだろう。日本で生活保護を受け、こつこつ貯金したお金は、孫の病院代で消えたということを、李さんは今回のことで初めて周囲の人に打ち明けた。私も含めて、友人・知人はいつもニコニコ微笑み、楽しいジョークを言う李さんしか知らない。

 「もう限界です。」と李さんは訴えてきた。一刻も早く日本に戻りたい。日本で安心して入院生活が送れるところを探して欲しいと。

「帰国者の友」に集う友人達と相談し、大阪の脳神経外科病院を探した。
・北野病院…「リハビリ専門の他の病院を探したらどうですか」
・富永病院…「家族が事前に説明に来るのが原則ですから」
・日本橋病院…「言葉も通じない患者に医療を施すのはちょっとむずかしいです」

「素媛さんは、頭の骨を2箇所取っているので、どうしても再手術が必要なのです。」
「家族は李さんと息子しかいません。二人とも北京でつきっきりの介護をしているので事前に説明に来られません。」
「行政に通訳を頼むから大丈夫です。」
こちらがいくら説明しても、日本語が通じているのかしら?と思うほどかみ合わない。とにかくダメだと言う。北京の病院の医師に書いてもらった中国語の病傷説明書に日本語訳をつけてFAXを送っても、日本の病院には通用しない。日本国内の病院ルールは、日本の医師の紹介状がなければ転院できないのだ。名もなき個人が、いくら事情を説明しても聞く耳はない。どの病院も『安心して治療が受けられる地域医療』とか歌いまくっているクセに!
 もう、国会議員に頼むしか手段はないのか?かといって、「帰国者の友」メンバーは国会議員どころか市議会議員にも知り合いはいない。八方ふさがりだ。誰か助けて欲しい。李さん夫婦は23日を目途に帰阪するという。23日は私が南昌に発つ日だ…。


 

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李達夫さんのこと   2011年8月9日(火)No.180

2011-08-09 11:32:17 | 日記
 悲しくて途方に暮れる話をしなければならない。
李達夫さんのことだ。
李さんは中国残留日本人帰国者二世。1943年、当時の満州帝国吉林省吉林市で生まれた。お父さんは中国人、お母さんは日本人だった。兄弟姉妹5人の末っ子だ。お母さんの希望で、長姉と達夫さんの二人が日本人として日本大使館に届け出た。
 その後の李さんの人生は、日本の敗戦、満州帝国の崩壊、中国革命の進展と変節、文化大革命という激動の中で、どれほど厳しい道のりだったかは、想像に難くないと思う。

 日本人のお母さんから教えられた誠実さ・勤労奉仕・我慢強さ・思い遣りの心をしっかり身に着けた彼は、日本人であることで大学に入れず、13年間農場で勤労奉仕させられ、文革期には「牛棚」という農場内監獄で20代の後半を過ごさざるを得なかった。
 その彼を支えたのは、中国人の素媛さんだった。彼女は達夫さんの「姿のよさと心のよさ」(素媛さん談)に惚れ込み、家族の猛反対を押し切って結婚した。素媛さんがいなかったら、李達夫さんはどうなっていたか分からない。
李さんは奥さんのことを聞かれると、必ず
「家内は、私が一番苦しいときに助けてくれました。ずっと感謝しています。」
と答えた。

 結婚後も様々なことがあったに決まっている。しかし、二人は支え合って40年の月日を共にし、2003年、李さんが60歳のとき、夫婦で李さんのお母さんの国日本にやって来た。
この年齢で新たにゼロから言語をマスターするのは困難を極める。それでも、李達夫さんは、毎週大阪YWCA内にある中国帰国者支援センターで日本語を学んでいる。奥さんと日本社会の橋渡しのためにも、彼ががんばるしかない。
 数年前、私が心ある友人とともに始めたボランティア団体「帰国者の友」のイベントには、いつも夫婦二人そろって参加されていた。李さんが南港で釣ってきた太刀魚を素媛さんが唐揚げにして,みんなに振舞ってくれた。帰国者の友のパーティーには付き物の看板料理だ。


 その李達夫さん・素媛さんが今年7月後半、突然大阪から姿を消した。
いつも日本語教室で仲良しの玲奈さんが、何回も家に電話したが、電源が切られていた。
8月7日は、私が一時帰国しているのでパーティーを開く予定になっていた。他にどんな用事があっても、その用事の方をキャンセルして、こちらの会を優先させてくれていたご夫婦なので、玲奈さんは何があったのか、やきもきしていた。

 心配は的中した。
李達夫さん・素媛さんの娘さんが急死されたのだった。帰国者センターの日本語クラスに連絡する余裕もなく、取るもの取り合えず娘さんの住む貴州に飛んで行ったのだろう。まだ34歳の若さの愛娘の死に遭遇して取り乱さない親はいない。
葬式の後、傷心の二人は北京まで戻ってきたが、不幸はさらに追い討ちをかけた。
素媛さんがホテルの階段から落ちて頭蓋骨を二ヶ所骨折する大怪我をし、一時意識不明の重態になったというのだ。

 8月7日、私の一時帰国を祝うパーティーの最中、北京の李達夫さんから電話が入った。
娘さんが突然亡くなった事、その後、北京のホテルで妻が階段から転落し、現在入院中であること、意識は戻ったが、記憶がないことなど、習い覚えた日本語で説明してくれた。
私はこのときほど、中国語が話せないことを悔やんだことはない。
(何か李さんに言わなければ。彼が少しでも踏ん張れる力になる言葉を!)
と、焦るばかりで、口をついて出てくる言葉は日本語で、
「大丈夫、きっと大丈夫だから。きっと良くなるから。心配しないで。」
とか、あまりにも説得力に欠けるものばかりだった。
「今日のパーティーに行く予定でした。行けなくなりました。申し訳ありません。」
と言われて、絶句した。
どうして、李さんがこんな酷い目に遭わなければならないのか。
傍の人に替わったとき、電話は切れていた。

 李達夫さんは、現在北京の病院で素媛さんに付き添っている。病院の名前は分からない。
連絡は、李さんが携帯を持っていないので、こちらからはできない。李さんはカードを買って、高い電話代が尽きるまで話をしたのだ。
 日本の生活保護を受けている素媛さんは、海外の病院代までは払ってもらえない。もう、手術代などで20万元(日本円で240万円以上)を病院に支払ったそうだ。もちろん、親戚や友人からお金を借りて。
これから、素媛さんの容態が落ち着いたら、日本に帰って来られるが、それまでは実費で病院代を払わなければならない。どれほどの金額になるか見当もつかない。

 李さんのために何ができるだろう。
まずお金だ。お見舞金だ。次に、励ましだ。メールも何も使えないが、彼に何とかして手紙を届けなければ。
 このブログを読んで、李さんのために何かしようと思ってくださる方がいましたら、下記までご連絡くださいませんか。心からお願いします。

    bluehearts_10_11@mail.goo.ne.jp



 
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大阪のおじちゃんバンド   2011年8月8日(月) No.179

2011-08-08 09:31:11 | 日記
 南昌にいるときから、(8・6はここに行く)と決めていたのが、『ロック出前寄席ライブ!8・6』だ。

 昨年3月までFMCOCOLOの『南港MUSIC ENTERTAMENT』という番組があった。コアなポップスをかけるDJ上柴とおるさんの博識と話の面白さに惹かれて何年も聞き続けている聴取者が多く、私もその一人だった。
 FMCOCOLOがFM802に吸収合併されて、上柴さんの『南港…』は惜しまれながら終わらざるを得ず、何ともやりきれない思いが残った。そんな思いを持つファンの一人バルタン亀吉さんが、
「上柴さん、うちの喫茶店で続きやってください。」
と申し出て、上柴さんも快くそれに応じた。ギャラは多分全然ないと思う(もしあったら、バルタンさんごめんなさい)。私は中国に行く準備で忙しく、結局一回しか参加できなかったが、今池商店街喫茶「日本一」のポップス「出前寄席」は、現在も1年半を経過して着実に続いているそうだ(毎月第3土曜日夕方から)。

 上柴とおるさんは「上柴師匠」と呼ばれ、上方漫才でも十分通用しそうな話芸の持ち主だが、「師匠」の呼び名は、第二次大戦後の世界のポップスに深い造詣があることに由来すると私は理解している。様々なミュージシャンのライナーノーツも書いている(確か、マドンナのシングル盤のも書いてはったと記憶している)。誰も持っていない貴重なレコードを持ってきて、これまた持参のすごくいい音が出るプレーヤーでかけてくれはる。
 世間から見たら、(それがどうした)と言われるかも知れないことにトコトン人生をかけている人である。

 今回、8・6ライブを実現させたのは、いつもは「出前寄席」で上柴さんの音楽講義を聴いている人たちだ。ポップス「出前寄席」に集う人の中には、既に何十年も演奏活動を楽しんでいる人達がいる。
バンド名は
・サイケデリック定食(略して『さいてい』)
・酒呑童子
・レイジーホース
・シーザリアン・オペレイション
ということで、知っている人は万が一にもいるだろうか。
広島に原爆が投下された8・6にライブがあるのも何かの縁か。シーザリアン=ヒロさんは、“GANBAPPEー TOHOKU”のロゴ入りTシャツを着て登場。

6時頃スタート。
まず上柴とおるさんの「’60代後半夏のヒット曲」と銘打ったポップス紹介が嬉しい。ドアーズ、トロッグス、ジェファーソンエアプレーン、ジャニス=ジョプリンとかだったか。余りの懐かしさのため、ボーっとなって余り覚えていない。

レイジーホースに一人、歌うの大好き風女性がいた以外は、全部男性で、どのバンドも大阪の味が濃いオモロイバンドだった。最後に出てきたシーザリアン・オペレーションはギター、ベース、ドラムスの3人構成。「歌、下手でっせ。」と言いながら、めちゃかっこ良かった。お客さんも、長年ポップス、ロックを愛してきた人達ばかりで、関西洋楽ポップス文化の担い手たちだ。
(ああ、古巣に帰ってきた~)と嬉しいひと時だった。

 この日は淀川花火大会の日で、阪急十三駅には各地から続々と浴衣姿の人々が詰め掛けてくる中、その流れに逆行して、フミちゃんと待ち合わせしている日本橋のDOORS IN HEAVENを目指した。夜10時半に再び十三駅に降り立つと、辺りはゴミだらけ。
 世界の人々は(日本人はゴミを道路に捨てないすばらしいマナーの持ち主ばかりだ)と思っているのに、現実はそうはいかない。
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海苔の養殖家尾形さんの話    2011年8月6日(土) No.178

2011-08-06 14:33:27 | 日記
 被災地と言っても広い。被災者も同様に、さまざまな被災状況にある。
私が行った宮城県松島だけでも、場所によって目も当てられない有様のところと少しずれただけで家がしっかり残っているところがあった。行ったときには不思議だったが、帰ってきて地図で確認したら(そうだったのか)とわかった。

 今回のボランティア活動は、宮戸島だった。奥松島と言われている。地図で見ると、瑞巌寺があるJR松島海岸駅から1時間ほど石巻の方へ進むと、そこから太平洋に突き出て、松島湾と石巻湾を隔てているのが、この宮戸島だ。島の太平洋側は大変な被害を受けたというが、私たちが行ったのは松島湾側の縄文村歴史資料館があるところだった。そこは、宮古島の中で最も波が静かでのどかなところだった。はるか昔の縄文人たちがそこに村をつくったのも頷ける。
 津波は太平洋側の地域に壊滅的被害を与えたが、裏側のここでは、波が膨れ上がったり引いたりしただけだったと、地元に代々住んでいる海苔の養殖家尾形さんが教えてくれた。

 しかし地図で見れば、この島はどれほど酷いことになっただろうと思うのも当然だ。
3月11日、島の高台にある宮戸小学校に900人もの島人が避難していたのに、救助隊は来なかった。てっきり全員死んだと思われたのだそうだ。3日後、何とか連絡が着くまで、また連絡が着いてからもしばらくは、島民は自分たちで食料を分け合い、服もパンツも分け合い、養殖場から逃げた鮭を捕まえて、学校の運動場で焼いて食べたりして生き延びていた(「おれら、漁師だからね、魚ぐらいどうやってでも捕まえるさ。」と尾形さんが赤銅色に日焼けした顔で二マッと笑った。)

 尾形さんの話で印象に残っていることがいくつもある。その中から少しだけでもここに書き留めたい。
 結局この島の犠牲者は一人だけだった。犠牲者が奇跡的に少なかったことで、島民の結束はとてもうまくいっているそうだ。他の被災地域では人々の避難生活の苦しさの一つに、人間関係の難しさが上げられている。冗談を言っても、冗談で通る余裕がみんなの心にあるかないかで、避難生活はずいぶん違う。

 しかし、ボロボロで全壊でも一応家の形が残った尾形さんは、跡形もなく家が流された近所の人の気持ちを気遣って、ボランティア活動後に記念撮影する際、その近所の人たちの土地の傍では決して首を縦にふらなかった。和気藹々とした雰囲気が、心に辛く思える人たちがたくさんいるのだ。

 これから先の遠いことを話した時、ボランティアで参加していた中学生に
「大変ですね。」
と言われ、尾形さんは
「大変だ、と言わないように、考えないようにしているんだ。」
と返事をした。中学生は
「楽観的な考えですね。」
と言ったそうだ。尾形さんはそのことを、ボランティア活動が終わったときに触れて、
「大変に決まってるべさ。だから昼間、みんなと居るときだけでも、その言葉は言わねえようにしているんだ。どうせ夜になったら、毎晩その大変さに押しつぶされそうになってんだから。」
と話した。

 尾形さんは、
「いや~、俺の人生でこんな美しい女性たちと一緒に網張りするなんて初めてだ~。」
と、へっぴり腰且つ、慣れない手つきで作業する我々を労ってくれた。私たちは、12枚1セットの網を、1日半で10セット作った。しかし、9月までに100セット作らなければならない。更に、その網を海上で広げるときに筏が要る。それも100台作らなければならない。他にもいっぱいしなければならないことがある。
全国からどんどん、ボランティアが出かけていけば、それは可能だ。人手が本当に本当に今、必要なのだ。

 最後に、尾形さんの近所の奥さんが、
「今度は観光旅行で遊びに来てね~~~!」
と手を振ってくれた。勝手に涙が出てきた。必ず、行こう。東北を忘れないでいよう。
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東北ボランティアツアー②  No.178

2011-08-05 23:37:14 | 日記
 ツアーの日程は、ざっと書くと下記のごとし。

7/29…8:00p.m.大阪梅田出発(夜行バス)

7/30…11:30a.m.仙台駅着(途中大雨で2時間遅れた)
 トラベル東北主催ボランティアツアーに参加
   1:30p.m. 奥松島(宮戸島)へ
         海苔の養殖網セット作り作業
   4:00p.m.~11:00p.m.
         松島海岸駅近くに戻り、ホテル大観荘で夕食
        (その後、車で櫻井食堂でに移動。さらに宴会継続後、
         タクシーで帰り大浴場で入浴)
7/31…8:00a.m.~3:30p.m.
         前日作業した奥松島に移動し網セット(ころ)作りの続き
   4:00p.m.~5:00p.m.
         記念撮影、移動
   5:00p.m.~5:45p.m. 新富亭で入浴
   6:30p.m. 仙台駅前で解散
 
   8:00p.m. 仙台駅出発(夜行バス)

8/1…8:30a.m. 大阪梅田着 


 練りに練って計画した訳でもなく、友人から教えられたトラベル東北(株)のホームページにアクセスしてホイホイ申し込んだのだが、半分は手伝い、半分は被災者のお話を聞き、地元の美味しい食事を楽しんだり、大浴場にまで入ったりという、のんびりしたものだった。
トラベル東北には¥29800を払ったが、(東北の旅行社に払うんだったらいいか~)と納得した。この中には義捐金も1000円だったか含まれているそうだ。

 この旅行会社は、搭乗員も共にボランティア活動に参加する。そして、山口スティーブ社長が随時顔を出して、あれこれ説明したりしたのは、テレビの取材のせいもあったかもしれないが、何よりその熱心な話しぶりから、社長自ら率先してこのツアーを盛り上げようとしているのが伝わってきた。
 8月も6日~7日、20日~21日とこのツアーを続けるそうだ。土日なら仕事を休まずにボランティアに参加し、そのまま帰ってまた月曜日の朝、出勤できるし、作業もそんなにハードでなく、観光ホテルに泊まるなど、初めてボランティア活動をする人も、気軽に参加できるので、お勧めだ。
 現地では、特に漁業関係の仕事で今やらなければならないことが、とてもたくさんあるとのこと。海苔にしても、牡蠣にしても、今から9月までの手間と人手のかかる作業がてんこ盛りだが、それをクリアーしたら、何とかなるそうだ。
多くの人達が交代ごうたい少しずつ手伝えば、今年も海苔や牡蠣が食べられる。
行ける条件のある人は、みんな行って欲しいと思う。

今回のツアー参加者は37人。熊本県や四国、兵庫、大阪、三重、神奈川、東京、千葉など全国から来ていた。女性も男性も一人で参加している人が多かった。ボランティアセンターなどでは『5人以上の団体で参加してください。』と条件を付けるところが多いので、トラベル東北(株)のこうした企画はたった一人でも、現地のことが分からなくても安心して参加できる貴重なものだ。10月までこの企画は続けると言っていた。

トラベル東北(株)のホームページ http://www.traveltohoku.co.jp/
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東北ボランティアツアー①  No.177

2011-08-04 13:24:07 | 日記
 7月25日夜、江西省南昌から大阪に帰ってきた。
実は、南昌でトラベル東北(株)主催の東北ボランティアツアー(仙台近辺)に参加申し込みをしていたので、帰阪翌日は早速、どんな方法で集合地点仙台駅まで行こうかネットでいろいろ探してみた。
①ANA ¥33000~(大阪~仙台)
②新幹線 ¥24600(  ̃  )
③長距離バス ¥7500(  ̃  )
全て片道料金だ。
迷わず③の長距離バスにした。13時間かかるといっても夜行バスで寝ていけばそんなに疲れることもあるまい。ついこの間、昼間10時間をかけて九賽溝に行ったということが自信となって(大丈夫、行けるさ!)と決めた。

7月29日夜8時に大阪梅田のモータープールから郡山・福島経由仙台駅に向けて出発。
途中新潟が大雨のため、2時間遅れ、仙台駅東口に着いたのは翌30日午前11時半だった・・・。
(つづく)

コメント (2)
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