毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「一月最終日」   2012年1月31日(火) No.270

2012-01-31 22:08:36 | 日記
 もう今年の12分の1が過ぎ去った。すごいスピード…。
 前半は江西省樟樹の農村を訪れるという機会に恵まれたが、これについてはまた南昌に戻ってから整理したい。

 後半、大阪に帰って来て李達夫さん・遅素媛さんや「帰国者の友」メンバーと再会し、半年間ずっと不安・心配だった気持ちがストンと落ち着いた。李さんは友達も多い。とりあえず日常生活で孤立してしまうことはなさそうだ。

 また先日、『病気だが病人ではない』スエミ姐さんのところで、何とフグ鍋をいただいた。そのフグがまたころころ太って身?がいっぱいある上等のフグだ。あんな美味しいフグ、今だかつて食べたことがなかった。後から駆け付けた文ちゃんは本当に残念でした~。
 「痛い、痛い」と言いながら、ずっと話し続けるスエミ姐さんは自ら、
「私が黙る時は死ぬ時や。」
と言う。明るくしているのも、強い強い意志が要る。そんな姿を見ると病気でもない自分が泣きたくなってしまう。(暗くなったらだめだ)と言い聞かせて家路についた。

 他の友人・知人も、日本でそれぞれ地に足を着けて暮らしている。この2週間はみんなの静かな踏ん張りパワーを全身で感じた。気持ちも引き締まり、ぼちぼち、中国行の体制が整いつつある。
 しかし、出発までに壊れたウシュレットを何とかせな…。
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「帰国者の友パーティーで想ったこと」    2012年1月29日(日) No.269

2012-01-29 08:39:33 | 日記
 昨日(1月28日)、淀川区十三のロマネハウス2階にある『帰国者の友』で「何はともあれ集まろうパーティー」をした。忙しくて一瞬だけ顔を見せてすぐ立ち去った人も含めると、20人ぐらいが参加していつも通りの和やかな会になった。仕事中にわざわざ電話をくれた人もいた。

 今回は李達夫さんが、
「昨年夏以来ずっとお世話になってきた『李達夫応援団』のみんなに是非感謝の言葉を言いたい。」
というので、急遽催すことになった経緯がある。しかし、応援の中心を担ってくれていたフミちゃんや田村さん、いの一番にカンパしてくれたユミコさんは、現在ご家族が入院中だったり、家庭内で要介護だったりして、正直、声をかけるのも気兼ねする状態だし、他のメンバーも介護や仕事でかなりくたびれていた。私は中国でただハラハラしていただけなのだが、みんなの辛さが伝わってきて、自分までちょっと元気を失っていた。
 そういうわけで、私は応援してくれたみんなに丁寧に声かけもせず(他のメンバーは違うかも)、当日を迎えたのだが、やっぱりやってよかった。これで一区切りついた、と思った。

 李さんは、亡き娘の夫から送られた茅苔酒(MOUTAI)という貴州の、というより中国の『国酒』を持参し、さらに途中で、段ボール一箱分のビール、ミカンも一箱、お菓子もてんこ盛り買ってきた。彼の「帰国者の友」への想いが感じられ、みんな、「こんなにお金使って…。」と胸が詰まり絶句した。

 2003年、60歳で日本に帰ってくるまで中国語だけで暮らしてきた李さんにとって、日本語学習は生きるための闘いと言える。妻の遅素媛さんと自分の生活を守るために一生懸命学んだ日本語で、感謝の言葉を述べる李さんの姿は、日本語教師のはしくれとして、居住まいを正される思いだった。どうしたら日本語学習を効果的にできるか、継続学習を支援できるか、という視点で再度自分の教え方を検証しなければならない。

 それと同時に、日本語が話せない者の生活上の不利益を減らさなければならない、と思う。
素媛さんが北京の病院から日本の病院に転院を希望したとき、大阪近辺の病院(脳神経外科)のうち、20近くの病院に断られた。
「日本語を話せない者への治療は責任持てない。通訳を24時間つけられないでしょう?」
というのだ。最終的にはLINKの助けもあって、何とか大阪市内の富永脳神経外科に奇跡的に入院できたが、日本の病院の多くは日本語を話せない患者は受け付けない。そもそも、転院はA病院の医師がB病院の医師に宛てた紹介状のようなものをもっていないとダメで、中国の医師が書いたものは紹介状に当たらないと断る病院もあった。

 日本の学校では必ず「国際理解教育」がなされている。教師たちが身近なところに目を向けて、日本の子どもたちが排外的にならないように、日本で暮らす帰国者や外国人が、安心してのびのびと暮らせるように、丁寧な実践をしてもらいたい。日本社会は今、かなり変になっているので、学校の先生たちは、まじめに頑張れば頑張るほど辛いだろうと思う。しかし、子どもは社会の変化の突破口になる。子どもが変われば、親が変わる。親が変われば地域が変わる。先生たち、歯を食いしばって踏んばってください。


 
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「中国の農村訪問③~思ていさんとお母さんの喧嘩~」  2012年1月26日(木)No.268

2012-01-26 13:47:13 | 中国事情
 今月4日間、劉思婷さん(財大4年生)の故郷の農村を訪れた時、思婷さんとお母さんの間にはかなりキビシイ意見の食い違いがあったと、後で聞いた。

 お母さんは思婷さんから電話で
「日本人の先生が家に遊びに来るよ。」
と聞いて、春節にはまだ早い1月4日には蘇州の出稼ぎ現場から家に戻り、昨年の春節以来誰も住んでいなかった家の大掃除をしたり、娘の老師を出迎えるため、いろいろなものを買って準備をしてくださっていた。
 毎日、朝から晩まで母娘だけでは有り得ないご馳走でもてなされ、私は恐縮しっぱなしだった。
元々私は3泊4日もお邪魔する気はなかったが、思婷さんが
「隣村で11日に市場が開かれるから、それを見てはどうか。」
と言ってくれたので、即座にその言葉に甘えて、滞在予定を延ばしたという経緯があった。

 しかし、思婷さんのお母さんは、その考えに真っ向から反対した。
私が2階の部屋に引き揚げた後、親子は寝るまで言い合いをしていたそうだ。

 お母さんは、自分の村の人々には事前に、娘の大学の日本人老師が村を訪問することを周知徹底宣伝し、村人たちは私に対して実に好意的な雰囲気で出迎えてくれた。思婷さんと村を散歩すれば出会う人たちがみんな、
「婷婷の先生かい。日本から来たのかい。」
とニコニコするのだ。私はひたすら「ニーハオ」「請多多関照」とか、知っている言葉を並べニコニコ返しをした。
 私が2日目の夕食にカレーライスを作ると、早速近所に配りまくってくれたのもお母さんだ。
カレーの味は非常に不評だったが(「漢方薬の味がする」という感想が圧倒的)、日本人が日本の家庭料理を作ったことは、好感を持ってくれたようだった。お母さんの親友の一人は、隣の若者と一緒にやって来て、私たちが晩御飯を食べているのをジッと見ながら、
「テレビドラマの日本人と全然違う。」
と言った。この言葉は嬉しかった。この村を初めて訪れた日本人として(ていうか、あらゆる外国人としても初めてだけど)、今もなおテレビのどこかのチャンネルで毎日放映されている日中戦争時の日本軍人の残虐非道な姿と、現実の普通の日本人は切り離してもらいたい、と私は切に願っていた。この村の人々が慎み深く、日本の戦争犯罪について詰め寄りもせず、本当にフレンドリーに接してくださったことで、私は(ああ、普通の訪問ができて嬉しいな)とただ単純に喜んでいた。

 それなのに、なぜお母さんは隣村の市場見学にそんなに反対したのか。
それは、お母さんの力が隣村までは及ばないからだった。始めお母さんは思婷さんに、
「そんな遠いところまで行くのは、たいへんだから。」
「そんな市場に行ったって、ろくなものはない。」
とかいろいろ言っていたが、とうとう最後に
「もし、老師が日本人だと分かって、人々が何かしたら、それはもう、先生とお前という問題ではないんだ。日本と中国の問題なんだよ。」
と言いだした。それがお母さんの心配だったのだ。

 当日、頑として出かけるという娘と私に(私はそんな議論があったことも知らず、浮かれていた)、
「春節用に買いたい物があるので。」
と言ってお母さんも行くことになった。
 真の理由が、今なら分かる。
お母さんが、その日、自分のお母さん(思婷さんのお祖母さん)の病院付き添いという予定を変えてまで、隣村の市場に行ったのは、私と娘を守るためだったのだ。結果的には何も異変は起こらなかった。ただ私がやたら写真を撮るので、市場の人々は「なんや、何で写真撮んねん?」と照れたり、質問したりしていたが、それだけだった。
 しかし、お母さんの心配は、うっかり屋で忘れっぽい私に中国と日本の間に横たわる深い溝をまざまざと思い出させてくれたのだった。




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「息子の自立」   2012年1月24日(火) No.267

2012-01-25 00:14:17 | 日記
 我が息子は10年程前には「おいらパンクやから~」とか言っていたが、そんな彼にも素敵なパートナーができた。今回は私の帰省に合わせて双方の両親の顔合わせをセッティングし、ホテル代、レストランの食事代なども(ま、当然だとは思うが)二人で払ってくれた。

 (とうとう息子がこんなことをするようになったんだ)と、帰りの新幹線の中で嬉しさがジワ~ンと湧いてきた。何しろ、娘や息子が生まれてから大きくなるまで、ず~~っと養育費を賄ってきたのだ。10年前に息子が東京に進出?してからも実は(いつお金が要るようになるかな、ハラハラ…)といつも心配だった。

 東京に出て行ったのは日本の音楽の中心地だからというのが、主な理由だったと記憶している。中学生のころから、やたらリズムを刻みだした彼は、高校を2年で退学し、オーストラリアに語学留学(姉がメルボルンに留学していたため)、そこでラモーンズ、クラッシュ、セックス・ピストルズ、トイ・ドールズなどを仕入れて、日本に戻るや私に(頼んでもいないのに…)さんざんDVDやCDやらを視聴させてシド・ビシャスがどうしたとかトミー・ラモーンがこうしたとか何時間でもレクチャーしたものだ。

 今でも彼の生活の楽しみとして音楽は多くの部分を占めている。しかし、さすがに音楽で食べてはいけないようで、地道にCDショップなどで働いている。
それでも東京の街を歩きながら、雨が降ってきたら『WHO’LL STOP THE RAIN』をiPhoneで聞かせたり、東京駅で別れる間際に
「ロケン・ロール!」
とか叫んだりする態度は変わっていない…。
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「何かいそがし~」   2012年1月23日(月) No.266

2012-01-23 20:37:55 | 日記
 昨夜東京から大阪市淀川区の自宅に戻った。
従来そんなに活動的な人間ではないのに、なんか最近バタバタしている。こりゃいかん。
というわけで、今日は近所の郵便局、銀行経由で十三商店街に行き、中国に持っていく着物の小物などを買って、最後神崎川の百均でフィニッシュを決め、家に戻った。約2時間半。それ以外は部屋に籠もり、ゴソゴソしているうちにもう夕方になった。

 日本に戻って何がいいと言って、動画がガンガン見られることほど嬉しいことはない。
夕方からは息子がfacebookに載せた忌野清志郎をスタートに他のもさんざん見て、かなり気分爽快。そのあと60’s~80’sのポップスを次から次へと、最後は映画「THE COMMITMENTS」の挿入歌シリーズだ。「MUSTANG SALLY」「TRY A LITTLE TENDERNESS」「DARK END OF THE STREET」…何回聞いてもいいなあ!

 日本に戻っていいことは他にもある。部屋にいる限り暖房は一切使わなくてもそう寒くないことだ。中国の(江西省の)家屋は、集合住宅であっても本当に寒い。何度も繰り返すが、家の外も内もそう変わらないのだ。部屋の中でブーツを履いたり、ダウンコートを着なくちゃならない状況と比べると、大阪の我がマンションは極楽と言える。みんな江西省で一年ほど暮らしてみたら、節電など声高に言われなくても、自然にあまり電気を使わないようになると思う。スーパーのライトも昼間から眩しいほど煌煌と照らされているのが今の日本だ。そういえばアメリカのシアトルも明るさは抑えられていた。娘や息子はオーストラリア(メルボルン)も夜はみんな家に帰って店屋もすぐ閉めるから町は暗かったと言う。10年ほど前になるが、娘の元ボーイフレンドがオーストラリアから日本にやって来た時に、
「日本は香港みたいですね。夜中もキラキラ明るい!」
と喜んでいたことを思い出す。

 ということは、日本はまだまだ電気を使わずに暮らせるな。よくネットに「パソコン使いながら原発に反対するお前は足元見ない大バカ者」などという書き込みがあるが、私はエアコンもお客さんが来たとき以外は全く使わないし、部屋のライトはこまめに消すし、洗濯は洗濯機が満タンになるまでしない。テレビも見ない(ラジオは聞く)。パソコンを毎日数時間使ったからといって非難されるのは全く当たらないはずだ!この前の夏だってみんなちょっとずつ節電したら、いけたんだから、「原子力に頼らなくては電気は賄えない」とたわ言を言うのはそろそろ止めてもらいたいものだ。
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「東京に行ってくる」   2012年1月21日(土) No.265

2012-01-21 11:50:20 | 日記

 大阪に戻ってから毎日あれこれあって、なかなか中国(江西省)の農村レポートに戻れない。
自分のパソコンを持って帰って来なかったので、マイ=パソコンに保存してある写真も使えないし、いっそのことまた中国に戻ってからにしようかな。写真付きで紹介したいしね。

 さて、あと20分後には家を出て新大阪から東京までちょっと行ってきます。息子の結婚披露(と言っても双方の両親のみ)があるので~。東京、30年ほど行っていないなあ。キョロキョロしちゃうなあ。

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「中国に持っていくもの」     2012年1月20日(金)No.264

2012-01-20 18:16:08 | 中国事情
 日本に戻ったばかりなのに、もう今度中国に持っていくものを、近所のスーパーで毎日ちょびちょび買い貯めている。今回で4回目になるので、「買い漁る」といった勢いはなくなってきたが、どうしても欠かせないのが①食品 ②本、DVD、CD ③お土産である。

 ①食品で私がいち早く買ったのが、スライスチーズとマーガリン。今から冷凍して当日預ける荷物に入れる。あと、醤油、ポン酢、料理酒、酢などは小さいペットボトルに入れる。うどんスープ、ダシの素、削り節パック、おでんの素、お茶漬けの素、みそ汁の素、お好み焼きソースも既に購入済み。そうそう、コーヒーも大袋を幾つか。もうこれだけでかなりの重さになった。ハア~。

 ②本は、日本語能力試験対策の問題集、学生に読ませたい日本関係の書物、DVDは現代日本の代表作(「おくりびと」とか)、CDも自分の好みの範疇で日本のスタンダードやポップス・ロックなど。また、船便で送るしかない。郵便局まで取りに行くので、持てるくらいに箱の重さを整えなくちゃね。この点、宅配してくれる日本は極楽だ。南昌の郵便局は、下手したら、連絡後ただちに取りに行っても延滞料を取られる。中国国内ではあまり郵便局から荷物を送らず、民間の宅配業者に頼むと学生が言っていた。非常に納得。

 ③ああ~、これが毎回悩みの種…。軽いモノがいい、軽いのが。でも軽くてまるでダメだったのが、日本の抹茶入り玄米茶だ。ほとんどの人が変な顔をするのだ。江西省の水と合わないのかも知れない。私自身、南昌で玄米茶を飲んでも美味しさが半減している気がする。
とにかく、管理人のミズ劉、ミズ呉、オフィスのアレックス、日本語学科の老子4人、向かいの部屋のヴィクトリア、空港まで迎えに来てくれる運転手さん、後は宿舎に遊びに来る学生たちと、数えただけで疲れそう…。う~ん、やっぱスルメとチョコレートか。あと何にしよう~~。
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「李達夫さん・遅素媛さんその後」  2012年1月19日(木)  No.263

2012-01-19 18:46:29 | 日記
 帰国翌日の15日(日)、「帰国者の友」メンバー5人と一緒に李達夫さん・素媛さんご夫妻のお宅にお見舞いに行ってきた。
帰国者2世の青木さん(帰国10年)、2世の夫と結婚し20年日本で暮らしている玲奈さん、当初からパワー全開で退院まで大黒柱となってふん張ってくれた文子さん、いつもみんなの都合を調整してスケジュールを決めてくれている智里さん、そして今も、李さんのお家に何回も足を運んでくれている西田さんと私というメンバーだ。

 昨年8月に「帰国者の友」の皆がワイワイ手作り料理のパーティーで盛り上がっていた時、北京の李達夫さんから国際電話があった。
「中国貴州の娘が急死し、その葬式からの帰りに北京で妻の素媛が大怪我してしまいました。今、北京の病院に入院中です。早く日本に帰りたい。助けて欲しい。」
との言葉に、頭の中が真っ白になったあの日から5ヶ月以上が過ぎた。

「帰国者の友」にとって、これは困難との正面戦、何が何でも負けられない戦いだった。そう言いつつ私は中国へ。残ったメンバーはそれぞれの力を繋いでつないで、神戸港に帰ってきた李さん・素媛さんご夫婦の出迎え、大阪の富永病院への搬送、入院、見舞い、等々をやり抜き、とうとう11月に素媛さんは退院できたのだった。

 今の日本はごく身近のどこにでも高齢化社会の現実があり、「帰国者の友」メンバーの何人もが、自分の身内の介護をしながら、その間隙を縫って病院に行ってくれたり、役所やNPO団体との交渉・連絡などしたり…。どうしても動けなくなると、また次の人が隙間を縫って動いてくれた。青息吐息、でも力は行動としてパスされていった。実際に足繁く病院に行けなくても、裏方で動いてくれた何人もの人がいた。まさに見事な連携プレーだったと思う。

 東淀川区淡路の李さん・素媛さんご夫婦の住む市営住宅に向かいながら、そんなことを過去形で思えるのが嬉しかった。

 市営住宅は、とても狭かった。実は私は訪問する前(ご夫婦二人だけなんだから、2DKでもまあそこそこいけるのでは)と思っていた。しかし、実際お宅にお邪魔すると、6人も入ったら本当にお邪魔っぽかった。6畳とは到底思えない狭さの部屋に介護用ベッドと大型テレビ、ソファーがおいてあった。それでもう、一杯だ。
 隣の部屋は見なかったが、同様の広さだという。昔タイプの団地サイズなのだろう。帰国者が中国で暮らしていた家はおそらくもっともっと広かったはずだ(中国の家の広さは平均100㎡程だと学生の誰かが教えてくれた)。車椅子で移動するときにこんなに狭かったら不便だろうな、と感じた。
 それでも李達夫さんは、私たちに対して
「素媛は、事故後今が一番いい状態です。私は十分満足です。日本に帰ってきてから今まで、『帰国者の友』の皆さんには言葉で言えないほどの恩を受けました。中国では本当に大切なことは言葉で言わず(言えないので)、ただ一生心の中でこの思いを持ち続けます。」
と目に涙を浮かべて感謝してくださった。「困ったときはお互い様」と言いながら、精一杯無理をしてくれた仲間に、私も感謝すると同時に、こんな仲間を心底誇りに思った。だって、みんな本当に普通のおばちゃん(おねえさん)達で、プロフェッショナルでも何でもないのだ。しかし、今回見せたお助けパワーは、かなりのものだったと私は自分が何にもしていないのに、自慢したいのだ。

 そうそう、この1月28日(土)は、李さん・素媛さんも参加して久しぶりに淀川区十三『ロマネハウス』で
「帰国者の友~とにかく良かった・これからもここで友達になろう~」パーティーをします。
このブログを読んでいるアナタも遊びに来てね~。午前10:30頃から午後2時頃まで。途中参加もO.K.です。(よし、行こっかな!)と思ったその気持ちを大切に!食べ物・飲み物は持ち寄りです。初対面大歓迎!
詳しくはメールで。 bluehearts_10_11@mail.goo.ne.jp



  
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「大阪の自宅から」  2012年1月14日(土) No.262

2012-01-14 23:20:25 | 中国事情
 江西省の農村レポートを続けたいところだが、今日はちょっと一休み。

 実は今朝6時40分、雨のそぼ降る南昌の宿舎を発って、夜10時40分にようやく大阪市淀川区の自宅に戻ったのである。なぜこんなに時間がかかったかと言うと、上海浦東空港に9:20a.m.~5:15p.m.まで居たからだ。なぜそんなに連絡が悪かったかというと、早朝8:00南昌発の東方航空の便が最も安かったので迷わずそれに乗り、浦東空港でもとんでもなく高いANAとかを避け、エア=チャイナ(CA)を選択したからである。

 空港内でも、何しろ中国のこと、荷物引渡し所が勝手に変えられるなど、いろいろあって退屈することはなかった。
 勝手に場所を変えても誰にも何にも知らせず、クレームをつけに行くと初めて、
「あ~、南昌からの荷物は1番に行って。」
などと、ごめんも言わずに平然と言う。
「さっきまで3番で待てと表示してあったではないか。どういう理由だ?」
と聞いても横を向いて知らんぷり。理由を言わないのが仕事人のルールであるかのように、中国では変更の理由を絶対に述べない。だいぶん慣れたとは言え、一応顔は怒って見せた。千里の道も一歩から。意思表示は大切である。

 今日のエア=チャイナもおもしろかった。
搭乗時の諸注意を中国語・英語・日本語で放送するのだが、日本語は中国語か英語の直訳っぽくて、例えば
「棚の荷物の墜落にご注意ください。」
「酸素マスクが自動的に落ちてきます。」
「着用しているとがってるものを全部はずしてください。」
乗務員とランプの指示に従ってください。」
この姿勢で脱出することを覚えてください。

太字の部分、(なんかな~)と思いません?
そして、救命衣の膨らまし方を実演している乗務員は満面に笑みを浮かべているじゃないですか。そんなに楽しい状況設定ではないような??

 おまけにエア=チャイナ(AIR CHINA)って会社の省略形は(CA)。なぜ(AC)じゃないのか。私は最初(CA)を見てチャイナ=エアラインと間違えていた。しかし、「チャイナ=エアライン」という名前の別の航空公司がちゃんとあるのだ。エア=チャイナの中国語名は「中国国際航空公司」という。それなら、チャイナ=インタナショナルとかしたらどうなのか。
 本当にいいかげんなんだから。そう言えば、他にも「春秋航空」という会社があるが、この会社の別名はスプリング=エアライン(SPRNG AIRLINE)だ。オータムはどうなったんだ!

 このように中国はいろいろな観点から楽しめる国なのである。
さあ、今日は今からお風呂だ、お風呂だ~!!!嬉しいな!
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「江西省の農村②」      2012年1月13日(金) No.261

2012-01-13 18:50:08 | 中国事情
 この辺の村は、水道なし、暖房器具なし、屋内トイレなしが一般的だという。
なので、屋内でもみんな上着を脱がない。コートの上から腕貫(うでぬき)とエプロンをしているのが思婷さんのお母さん。普段はお父さんと一緒に建築現場の出稼ぎをしているが、私が行くというので、蘇州の現場から一人先に帰ってきてくださったという。申し訳ない!まだ若いから(46歳)もう少し頑張って働くと言う彼女の顔は、高層ビルの寒風吹きすさぶ中での作業で頬、鼻がひどいアカギレ状態だった。私の滞在中、日に日に回復して色白の肌が見えてきたが。

台所で夕食の支度をする思婷さん(左)とお母さん(右)。後ろはかまどだが、普段はプロパンガスや電熱器で調理しているそうだ。水は外のポンプで汲み上げバケツで運ぶ(そのポンプはよその家のものだが、その一家は家もポンプもそのままにして引っ越し、近所のみんながありがたく使っている。)


入り口の観音開きの扉を開けるとこの景色がある。
朝、小鳥や鶏の声をききながら蜜柑の木の下(右の木)で歯磨きをする。ものすごく気分が好い。
煉瓦造りの家は古い家だが、最近この村はコンクリートの新築家屋がどんどん建っている(と言っても10軒くらい)。土地が広いので、古い家は壊さずに倉庫や家畜小屋として使い、近所の別の場所に家を建てる。日本ではそうはいかない。


右が思婷さんの家。10年前から建築し始め、まだ完成していない。作るのはお父さんだが出稼ぎで忙しく、なかなか進展しないのだそうだ。なのでトイレは未だに外にある。
手前の壁に文字が書いてあるが、両親は出稼ぎに、子どもは大学に行っている隙に、どこかの店が宣伝を壁に書いたのだそうだ。電話番号まできっちり書いてある。思婷さん親子は、「勝手に書かれて気分が悪い」とちょっぴり怒っているが、抗議の電話をかけたりはしない。ここは中国なのでね。左の新しい家は親戚の劉さんちだそうだ。



どこにでも鶏がいる。いろいろな色・模様があり、つい何枚も鶏ばかり撮ってしまった。この写真は、私が近付くと、さりげなく立ち去っていく鶏さんたち。(怖くないけどお、あまり近付かないで欲しいな~)といった感じ。


この小さい風情のある建物は何かしら?と尋ねると、「これが外のトイレです。」と思婷さんの返事。遠くから見ると小人さんのお家みたいでかわいい。冬のためか臭いも全然しない。
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「江西省の農村を訪ねる①」      2012年1月13日(金) No.260

2012-01-13 00:56:38 | 中国事情
 4年生の劉思婷さんの故郷で9日から12日まで3泊させてもらい、江西省の農村の風景や暮らしをチラリとのぞかせてもらった。

 
 120人の人口の多くはお年寄りという日本の農村と似た状況のこの村は、全員の姓が「劉」という。
静かな静かな村だった。



家の玄関の扉を開けると、そこはコンクリートの床の茶の間で、真正面に食卓があった。お父さんの手作りだそうだ。


毛沢東の肖像画が壁に貼られていた。思婷さんが一昨年「この絵は外しましょう。」と提案したが、却下されたそうだ。左右には中華人民共和国と世界の地図。彼女と弟はいつも立って食べながらその地図を見て、国名・地名を全部覚えてしまったという。


夜7時ごろ着いた後、数日前に出稼ぎから戻って来ていたお母さんと思婷さんは早速晩ご飯の支度に取りかかって、ものすごいご馳走が並んだ。干し豆腐のスープ、レンコンの炒め物、肉の炒め物2種類と、ジュース。ジュースはお椀で呑むのが習慣だそうだ。全て辛さ控えめの美味しい味だったが、後で聞くと思婷さんが私のために「辛さは控えめに」と注文してくれていた。箸を横に置いたのは和式。中国式は食べる前は縦に置き、食べ終わったら横にする。


思婷さんの部屋を使わせてもらった。家中火の気は全くなく、かなり寒い。でもベッドには電気毛布が敷かれていたので、布団の中はあったかかった。翌朝、カーテンを開けてみたら、ガラス戸が思い切り開いていた。寒いはずだ…。部屋の奥の紅いバケツは、夜用トイレ。トイレは隣のおじさんの家(今は深センに住んでいるので留守)のを昼間は借りた。思婷さんちの家族用トイレは外にあるのだが、客人の私に使わせるには忍びないというのだ。
(つづく)
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「大学院入試終わる」    2012年1月9日(月) No.259

2012-01-08 23:26:01 | 中国事情
 1月8日(日)、中国の大学院入試が一斉に行われた。南昌市でも中学校、高校までをも会場に使うほど、志願者は多い。
 4年の範さん、劉さん、黄さん、そして郭さんを試験の労をねぎらって夕食に招待した。他にも何人もの4年生がいろいろな大学院を受験しているが、こちらに赴任して以来ずっとお世話になってきたこの4人には、やはり特別の思い入れがある。できれば4人そろって合格してもらいたい。
 しかし、範さん、黄さんは北京の語言大学とかいうとんでもない難関を受験した。ここに受かれば外交官にもなれるという超エリートが行くところだ。劉さんも南の難関、広州ナントカ大学だ(聞いても聞いてもすぐ忘れる。中国語の名前はホンマ覚えられへんわ)。郭さんだけが、この財大で金融専門を受験する。

 5時に試験が終わり、黄さん以外の3人がそれぞれの会場から我が宿舎に到着したのは7時頃だった。皆、2日前から会場近くのホテルに泊まり込んだと言う。海外旅行にでも行ってきたのか、と見間違うほどの大きい真っ赤なスーツケースを持って帰ってきたのが範さんだ。後の子達はバックパック一つにコンパクトにまとめていた。
 一度寮に帰って荷物を置き、それからこちらに7時半頃やって来た黄さんは、入って来るなりシクシク泣き出した。試験がそんなに難しかったのか、と聞くと、
「そうじゃなくて、もう、何もかも終わったと思ったら泣けてきました。」
と言う。皆も、一瞬目がウルウルになった。

 思えば、長い間緊張と闘い、挫ける心に気合いを入れて、朝から晩まで図書館に籠もり、彼女たちは出来る全てをやってきたのだ。結果は3月まで分からないが、取りあえず、
「ご苦労様。よくやったね。」
と言ってあげた。後は、運が良ければ受かるし、悪ければ落ちる。落ちたらすぐさま就職口を探さなければならない。金持ちじゃない彼女たちには、それ以外の選択肢はない。

 どんなことになっても、これから先の彼女たち、彼たちに幸多いことを祈る。

*明日から劉さんの故郷樟樹近辺の農村に連れて行ってもらうので3、4日ブログは一休み。また農村から帰ってきたら江西省の農村の様子を紹介するのでお楽しみに~。
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「老師のお宅訪問」     2012年1月8日(日) No.258

2012-01-08 10:11:49 | 中国事情
 朱先生は十年以上前に岐阜県の高校で中国語を3年間教えていた経験があり、いつも私が帰国するとき、3年間下宿していた家へのお土産を託される。義理堅い中国人の一面を垣間見る思いだ。

 南昌市内の、マンションが林立する住宅街の一角に朱先生のマンションはあった。マンション前には噴水があり、そこで春節前夜は夜明けまで人々が集い、騒ぐんじゃなくて(^^;)、お祝いするそうだ。普段は節水のため、水はない。そういえば、八一広場も夏には超ど派手な噴水が30分毎に上がるが、この前岩崎カップルや陳さん、黄さんと行った時には、その気配もなかった。やるときゃ派手に、普段は質素に、が江西省スタイルのようだ。

 朱先生の家は24回建てマンションの10階だ。エレベーターで上っていくと、その階は、廊下を隔てて朱先生の家と向かいの家の2軒しかない。いや~、本物のマンションだ。小さい靴箱がドアの前に置いてある。「マンション廊下は公共の空間」という概念は江西省ではあまりなく、私の宿舎に遊びに来る子たちも、まず全員が靴をドアの外や階段に置こうとする。
「そこに置くと邪魔になる。」とか「誰かに蹴飛ばされるかも知れない。」
と言っても、
「大丈夫、大丈夫。」
という答えが返ってくる。靴を持って部屋に入るよう説得することから始まるのが常だ。

 写真では空間の広さがあまり伝わらないが、たいへんな広さの豪邸だった。私の大阪の括弧付き「マンション」の優に三倍はある。財大の外国人宿舎に比べたら二倍くらいかな。学生達は、ふだん私の宿舎でも「大きい~!」とか騒いでいるので、この家の豪華さには息を呑んでヒソヒソ何やら囁き会っている。

しかし、ソファー前卓上の『オレオ』(中国語で『奥利奥』。これも輸入品なので高~~い!)の缶を勧められると、ワラワラと缶のテープを開け、バクバク食べ出した。ここからはいつもと同じ…。



 私は、老師がどうしてこんな高級マンションに住めるのか、大学の給料は3000元ぐらいだと聞いているので(プラス何クラスか余分に受け持つと平均5000元ほどになるそうだが)、お連れ合いの収入が気になった。
 私の厚かましい質問に朱先生が気さくに答えてくださった話に依ると、彼の給料は最初3000元で、普通だったが、彼女が日本で働いた3年間の貯金が物を言って、まずこぢんまりしたアパートを買い、それを2度買い換えて、今のマンションに落ち着いたそうだ。4年前に買ったときは今よりずいぶん安かったが、買った直後に地下鉄の駅が近所にできることになり、一気に値段が跳ね上がったという。
 新平老師が羨ましがっていたのも無理はない。そうは言っても新平老師もマンションを2つも買って持っている。そして朱先生も…。2人は中国で成功した人達と言えよう。その成功に、日本での収入が寄与したことを聞くと、少し複雑な気持ちになる。皆が皆、日本に行けるはずもないのだし、お金の価値の落差を利用する方法は、私の生き方にはない。
 農民工を親に持つ学生達にとっては、自分の夢に描く暮らしを見る思いだろう。一人の学生は、
「羨ましいです。でも、私は田舎に帰りたい。そうなるといい仕事はありません。困ったなあ。」
と、ため息をついた。

 朱先生は地元の料理で持てなしてくださった。初めていただいたものが下の写真である。

まずこれ。「鴨の足」
甘辛の味付けで美味しいのだが、食べられる部分は少ない。黄さんは「鶏の足の方がもっと美味しい。」と教えてくれた。しかし、進んで食べようとは思えない。やっぱ、形がね~。



「豚ソーセージ」
作り方はソーセージなのだろうが、味はかなり異なる。美味である。お土産にもらった。朱先生のお母さんの手作りだそうだ。嬉しいな!



「ポーヤン湖に生えている草」
朱先生が出してくださったのは、南昌で栽培されているものだが、元々はポーヤン湖(江西省にある中国最大の淡水湖)の野草だったそうだ。葉っぱはむしって捨て、茎だけを食べる。そう言えば、学食で見たことがあったなあ。




 さんざんご馳走になりバス停まで送っていただいて、また学生と一緒に郊外の昌北経済開発・文教地区に戻ってきた。帰りはそんなに混んでいなかったが、やはり乗るとき人々は密集してぐいぐい乗り込む。一つ気がついたが、この強引さは一人っ子にはない。
 34人の2年生クラスの中で一人っ子はたったの5人。そのうち2人が一緒に参加していたが、何かにつけて、2人はポツンと立つことが多かった。バスに乗る際、不運にもその一人っ子の後ろについた私は思わず「がんばれ~!」
と背中を押した。だって~、みんなに次々抜かされてオタオタしてるんですもの~。
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「1月の南昌市内」   2012年1月7日(土)  No.257   

2012-01-07 13:07:55 | 中国事情
 昨日1月6日、2年生15人と私は日本語学科主任の朱先生のお宅に招かれ、ミニバスをチャーターして市内へと繰り出した。

 朱先生のお家は、市内の贛江を望み、数年後着工予定(←これは分からんけど(^^;))の地下鉄駅の傍にある一等地である。ちょっと歩けば南昌の代表的な歴史建築である騰王閣まである。ミニバスはせこくて40元の契約を乗ってしまってから45元につり上げたが、学生達は(しかたがない)といった感じで素直に払う。この辺の感覚が日本とは違う。圧倒的多数の人々は、道理が通らないことが当たり前と思っているようなのだ。

 ミニバスやタクシーの運転手のバックにギャング団が控えていることも多いという。市バスの運転手はさすがにクリーンだが、その代わり威張っている。この状況、十年後には良くなっているかなあ。

途中の市内の風景を撮ってみた。



 贛江のたもと。こうして見ると南昌も捨てたもんじゃない。

 
 三輪車、といってもバイクにリヤカーをつけたようなもので南昌ではよ~く見かける。
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「内田樹のブログより」  2012年1月5日(木) No.256

2012-01-05 16:39:49 | その他情報
 内田樹のブログ(12/25の文)で、
《社会制度(政治・経済・メディア)そのもののとめどない劣化》という文言を見つけ、続きを読んだ。

 この文はクリスマスイブの夜中に、今の日本の状況について『辺境ラジオ』という番組で内田さんが名越康文、西靖さん(私はさっぱり知らない)と喋りまくり、朝にそれを自身のブログにまとめたものだ。勤勉な人だなあ。共感できる内容だが長いので、ブログの途中からコピ-&ペーストした。詳しくは内田樹さんのブログを訪ねてね~。


『みんなまとめて、面倒みよう – Je m'occupe de tout en bloc』

WWW を検索 blog.tatsuru.com を検索



「辺境ラジオ」で話したこと

政治過程の劣化はすさまじいが、
これまでそれなりに(ぎりぎり)合理的にふるまってきたような経済活動に
ついても、ビジネスマンたちの思考は混濁し、5年10年というスパンにつ
いて見通しを述べられる状態にない。

思考停止している人間の特徴はすぐに「待ったなし」と
言うのでわかる。 「待ったなし」というのは「選択肢の適否について思考
する時間がない(だから、とりあえず一番でかい声を出している人間の言葉
に従う)」ということしか意味していない。
だから、「待ったなし」で選択された政策はそれがどれほどの災厄を事後的に
引き起こした場合でも、その政策を選択した人間は責任をあらかじめ解除
されている(「待ったなし」だったんだから、最適解を引き当てられる
はずがないという言い訳が用意されているのである)。
ひどい話だ。
メディアもしかり。
このままでは新聞もテレビも雑誌も情報の発信源としての
信頼性の下落を食い止められないだろう。
オルタナティブとしてのネットについても、私の見通しはあまり明るくない。
ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしない
まま、断定的な口調を採用している。
ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃を
するチャンス」を解除した。
今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の
耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。
呪いの言葉がこれほど空中を大量に行きかったことは歴史上ないと私は思う。
名越先生が昨日も指摘されていたが、
「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」
という心理学的経験則に従うなら、
ネット上で攻撃的な口調で語られている言明のほとんどは構造的に間違って
いることになる。 誤解して欲しくないが「間違う」というのは、その時点で
の整合性の欠如や論理の破綻やデータの間違いのことではない(そういう
場合も多々あるが)。
そうではなくて、「間違った言葉」というのは結果的にその言葉を発した
人間を不幸な生き方へ導く言葉のことである。
抑鬱的な気分の中で、攻撃的に口にされた言葉は事実認知的に「間違って
いる」のではなく、遂行的に「間違っている」のである。
発している当人たちを後戻りのできない「不幸な生き方」へと誘う言葉が
ネットの上に大量に垂れ流されている。
「呪いの言葉」は「自分に対する呪い」として時間差をおいて
必ず戻ってくるという人類の経験知は誰もアナウンスしない。
あれもダメ、これもダメ。
そうやって指折り数えると、まるで希望の余地がないようであるが、
これほどシステマティックにものごとが悪くなるというのは、ふつうはない。
ふつうはないことが起きたときは、解釈規則を変えた方がいい。
シャーロック・ホームズもそう言っている。
「うまく説明できないこと」が重なって起きれば起きるほど、
それを説明できる仮説(まだ誰も立てていないが)は絞り込まれるからである。

私の解釈は、この制度の全体的劣化は「システムそのものの根本的な作り
直し」について私たちのほぼ全員が無意識的に同意を与えていることと解す
べきだろう、というものである。
「根本的」というのはほんとうに根本的ということである。
2011年はさまざまな「問題」がランダムに提示された一年だった。
2012年はこれらの問題群に伏流している「論理的な構造」が
しだいに露出してくる一年になるだろう。
それがどのような構造なのか、私たちが選ぶことになるオルタナティブとは
どのようなものなのか、それについてはこれからゆっくり考えたいと思う。
「ゆっくり考えている余裕なんかないんだよ。事態は待ったなしなんだ」と
怒号する人々がきっといると思うけれど、彼ら自分たちが「古いシステム」と
一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクを冒していることに気づいた
方がいいと思う。
いや、ほんとに心配してるんです。
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