毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「(;´Д`)うう、風邪ひいた~」 2012年10月31日(水)No.490

2012-10-31 22:09:23 | 日記
もう冬服の時節が到来している。
今はセーターと冬用ジャージーのズボン、真冬の起毛靴下の格好でパソコンに向かっている。

夕方5時半にスクールバスで蛟僑に戻ってきた。
その時はすでに鼻水ボタボタ、頭は重く、
早く宿舎のベッドにたどり着きたかったが、
門前の果物屋台に蜜柑が並んでいるのを見ると、
もう部屋に果物が何もないことを思い出し、フラフラと近寄って行った。

だいたい屋台には値段の表示がない場合がほとんどで、
私はスーパーじゃないと安心できない。
しかし、今日は近所のスーパーまで足を延ばすのもしんどかった。
一番門に近い端の屋台の、一番端の蜜柑を買った。
蜜柑にも葉っぱがついたのやら、超小さいのやら何種類もあるが、
とにかく何でもいいから、早く買って帰りたかった。

親切なお姐さんが、「ものすごく甘いよ~。試食して」と、
小さいのを1個手渡すので、どれどれと食べてみたら、
確かに普通ではない甘さだ。
皮もものすごく実(み)に密着していて剥きにくい。
(沖縄のタンカンみたいだな)とモタモタしながら食べているうちに、
お姐さんはどんどん袋にその蜜柑を放り込んでいく。
その素早さは見事なものだが、
感心していたらどれほど入れられるかわからないので、
かなりの重量が入ったところで「OK, STOP IT!」と言うと
それでも全部で13元だった。165円ぐらい。

そんな計算をしながら
重い蜜柑と宿題ノート類を抱え、フラフラと宿舎に戻った。
今週はミズ劉が管理当番だ。
パーマを当てて頭チリチリになったミズ劉に手を振って
部屋に戻り、蜜柑を2個一気に食べて鼻をかみ、ベッドにもぐった。

なんでそのまま寝なかったのかと言うと、
今月は一日も欠かさず毎日ブログ更新しているので
その記録をストップさせたくなかったのだ。
毎日百人以上の訪問者が来てくださっているので、
それを励みに日々、記事を書いてきた。
初めての1ヵ月連続更新達成だ!
(というわけでもう寝る。フラフラ~~)





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「キャンパスに響く日本語の歌声」 2012年10月30日(火) No.489

2012-10-30 19:38:13 | 中国事情
今日の午後、3年生の「日本文学」クラスに向かう途中だった。
資料室のある外国語学院センターから外に出て、
地面に落ちたクスノキの実が、自分の靴の底で潰れる音を楽しみながら
道路を歩いていると、
何やらものすご~く聞いたことがある歌が聞こえてきた。

♫名~も~知~ら~ぬ~  ♬遠き~ し~まよ~り~
♬流~れ寄~る  椰子~の実 ひ~と~つ~♫


(「椰子の実」だ!やってるな!
日本から海を隔てた上海、
その上海から飛行機を乗り継いでたどり着く江西省の地方都市南昌、
その南昌市郊外の大学キャンパスの空に、
澄んだ「椰子の実」の歌声が吸い込まれていく。

その歌声は、もちろん日本語学科3年生たちのものだ。
今日は3年生クラスの2チームが、
島崎藤村の「椰子の実」を朗読+歌で表現発表する日なんである。

UA(ううあ)の「椰子の実」を聞いて、好きになった。
その後、2010年8月、大阪釜ヶ崎の夏祭りのステージで、
スナフキン的ムードの若い女性が渾身の力と心をこめて、この歌を歌っていた。
そんなスタンダードナンバーを、
中国の若者たちはどう歌ってくれるか、今日はワクワクしていた。

椰子の実の代わりに、サッとポケットから蜜柑を取り出して
胸にあてるキュートな演出をした雷さんチームの5人。
真ん中にノッポの奥然さんを据えて、歌詞を朗読させ
歌声は左右対称のステレオ効果を狙った周さんチーム。
両チームとも、本当に澄んだ美しい声だった。

歌声は軽々と国境を超えるのだ。
この若者たちなら、2つの国の冷えた心を溶かせるかも知れない。
ふと、そんな希望が湧いた。





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「中国゛桃源郷″から来た女の子」 2012年10月29日(月) No.488

2012-10-29 17:11:51 | 中国事情
中国は広い。
私は南昌しか知らないので、
いろいろな地方から来た学生たちの故郷自慢話を聞くのが楽しみだ。

昨日は、用事で宿舎に来た藩梅ひょうさんが家族や村の様子を話してくれた。
藩さんは広西チワン(壮)族自治区ユイリン(玉林)の近くの村で生まれ育った。
彼女から曽お祖父さんと曽お祖母さんの出会いを聞いて、
(うう、村上春樹の「1Q84」と争うロマンチックさ)と、
思わず食べてる蜜柑を落としそうになった。

「若い頃のこと、
山中で一人仕事をしていたお祖父さんは、
疲れたので少し手を休め、ひんやりした清々しい山の空気に包まれて
汗を拭いました(これは私の想像ね)。
周囲は山、また山で、聞こえるのは小鳥の囀りと木々の葉が擦れる音ばかり。
(向こうの山で、私のように一人ぼっちで働いている人間がいないかな。いたらいいな)
若者は向こうの山に届けとばかりに、歌を歌いました。
張りのある、明るい挨拶歌でした。
なんと、まもなくそれに応えて歌が返ってきたではありませんか。
美しい天女のような歌声です。
それから、
向こうとこちらの山の二人は、
毎日山仕事をしながら相聞の歌を交わすようになりました。
歌われた言葉と声に秘められた優しさを頼りに
二人は結ばれたのです。」

本当にあったお話なんですねえ、これが(ちょっと脚色入っているけど)。

今でも、村の人たち(全員、姓は藩さんばかり)は歌が大好きなのだそうだ。
結婚式などの祝い事があるときは、
村のお金持ちが劇団を呼んで、
村人たちにショーを振る舞う習慣があるという。
そのショーは、チワン族語の歌劇で、
藩さんは子どもの頃、それを観るのが大好きだったそうだ。
漢語を覚える前に、藩さんは村の言葉と、もう一つの方言をマスターしていた。
それは、両親が出稼ぎに行って暮らしていた地方の言葉だ。
漢語は、藩さんにとって3つ目の言語、日本語は4つ目だ!
(英語を入れたら5種類の言語・・・)
言語を習得することはものの見方(世界観)に影響すると私は思う。
他言語を習得することで
たったひとつの純粋な言語世界にのんびり浸る生活から
否応なく波風に揉まれる大海に放り出されてしまうのだ。
井戸の中の、知らないことによる幸福な暮らしは、二度と戻らない。

彼女が自分の民族、チワン族を心底愛していることは、
話す言葉の端はしからにじみ出ている。
しかし現在、故郷は、都市部から運ばれ捨てられたゴミが川の両岸に山と積まれ、
大気も汚染され、見る影もないそうだ。
〝桃源郷″のもとで培われた豊かな感性と、
その感性が育んだ民族文化の行く末を思うとき、
藩さんの表情が陰るのだ。







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「『尖閣を領土問題として論ずるべき(鳩山さん)』は当たり前」 2012年10月28日(日)No.487

2012-10-28 09:08:37 | 日記
日本と中国とでは見方が違うのは当然あるとしても、
この尖閣諸島(釣魚島)について、
日本の主張、すなわち「尖閣諸島に関して領土問題は存在しない」が、
世界中から「???」マークで見られているのを、日本の人々は認識しているだろうか。

世界から見て日本は、
ヒトの言うことに耳を塞いで、目もつぶり、
「聞かないったら、聞かない!僕のものだも~ん!わーわーわー」
としゃがみこんでいる子どものようにしか見えない。

「そりゃ、アンタはそう思っているかも知れないけど、アンタの隣の人も、「自分のだ!」と言ってるんだケド?」
「両方の主張が噛み合わなくて、言い合っているその状態を、『問題』と言わずに何と言うワケ?」
というレベルの疑問である。
私も、日本の外から見ると、そうとしか思えない。
「日本の言っていることが判りづらい」と世界中から言われているのはこういうことだ。

そもそも、いつから日本政府は、
「尖閣諸島について領土問題は存在しない」と言いだしたのか。
1972年、日中国交正常化交渉時の田中角栄・周恩来の一致点は、
「尖閣諸島・釣魚島についての問題は棚上げする
ということだったのは、周知の通りだ。
日本政府はそんなことに合意したことはない、というのは詭弁としか言い様がない。
(田中角栄は黙って頷いた)というのは、合意じゃないのか?

その後、1978年のトウ小平の
「今解決できないことは後の世代の英知に託す」
という言葉も、皆知っている有名なものだ。
つまり、「今は解決できない問題を日中両国は抱えている」という認識だった。
もしその時、日本政府が(問題なんか存在しない)と思っていたら、
黙っていないで、当然それを否定したはずだ。
しかし、そのとき、福田赳夫総理は記録では何も言っていないのである。
都合が悪くなると黙ってやり過ごすなどという外交手法があるとしたら、
とても姑息な方法であることだけは確かだ。
そんなやり方が国際外交として通用するのだろうか?
狡過ぎる。恥ずかしい。

それが突然、高飛車に
「尖閣諸島は日本固有の領土であるから、領土問題は存在しない。」
という主張に変わったのは、いつからなのだろうか。
誰か確かな情報を教えて欲しい。

私が初めてその主張を耳にしたのは、忘れもしない2010年9月、ここ南昌に着任してまもなくのことだった。
尖閣付近で中国漁船と日本の海上保安庁巡視艇が衝突したとき、
民主党国会議員の蓮舫が、
「領土問題であるから、日本は毅然と対応すべき」と発言し、
そのときに
「日本政府は、領土問題はそもそも存在しないという立場なのに、蓮舫は認識不足だ」
という批判が、蓮舫への個人攻撃を伴ってなされたことがあった。
日本のメディアのいつも通りのいびつな報道の仕方に嫌な気がしたが、
同時に(へえ、いつから領土問題は存在しなくなったのかな?)と
ボンヤリ感じたものだ。
その後も、深く追求せずほったらかしにして今に至ってしまった。

とにかく今、日本の政治に求めるのは、正々堂々として欲しい、ということだ。

コメント (7)
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「『家永三郎さんの本ありますか』と学生に聞かれ・・・」 2012年10月27日(土) No.486

2012-10-27 21:04:51 | 中国事情
昨日は午前、午後と授業があり、更に夕方から日本語コーナーと、
久しぶりに朝から晩まで働いた。
普段、金曜以外の日は午前か午後に1科目だけの授業なので、
毎日が「ゆとりの日」で、温泉治癒に来ているようなものだ。
そういう訳で、
久しぶりの重労働後は、
夜、宿舎のパソコンで「ほぼ日」のふぐちゃんを見ながらガクッとなって、慌てて起きた。
(そのまま寝てもいいんだけどさ)

昨日、その忙しい合間に、
資料室に4年生の洪さん、葉さんがニコニコとやってきた。
大学院進学準備の二人は、
なんか去年の範さん、黃さん、劉さんたちと比べると、
切迫感がイマイチ感じられず、ゆったり、のんびりしている(ように思える)。
ここにも「ゆとり」組が・・・。
しかし、二人のうちの一人、葉さんがいきなり
「先生、家永三郎さんの本、ここにあると聞いたんですが。」
と言い出すではないか。
「ゆとり」組と油断していたところ、虚を突かれて、
「ああ、あの日本史で有名な。」
と知ったかぶりしてみせた。
知っているのは、「日本史の教科書裁判で勝った歴史学者」
ということだけだ。
彼の著書そのものを読んだことはない。
しばらく探して、彼女は岩波新書の「日本文化史」を見つけ出した。
私の前前任者の日本人教師、オオタケ先生が寄付したものだ。

まだしばらくはこの大学でお世話になる。
その間に読んでおきたい本が資料室にはてんこ盛りある。
葉さんの言葉にハッと目を覚まさせられた気がして、
とりあえず、丸谷才一の「文章読本」をこの週末に読むことにした。



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「東華理工大学&江西財経大学合同日本語コーナー再開」 2012年10月26日(金) No.485

2012-10-26 20:37:01 | 中国事情
あ~、よかったあ。
集まった40人以上の学生たちの熱気が嬉しかった!
どのグループも、楽しそうに、曲がりなりにも日本語で会話をしている。
今、学んでいる言語で会話ができるなんて、
確かにワクワクすることに違いない。


思えば長いこと、両校合同の日本語コーナーは休業状態だった。
今年、冬は寒いのでちょっとあったかくなってからと言い、
あったかくなったら、
校内スピーチコンテストやら、作文コンクールやらでこちらがメチャ忙しくなり、
そうこうしているうちに夏休みになってしまったので、
こうなったら、新学期から再開しようと、
理工大学の村岡先生と話していた。

とどめに新学期は、尖閣問題と反日デモだ。
南昌市内の日本語コーナーはもちろんのこと、
自分自身「籠の鳥」みたいに身動きが取れなくなったので、
夜の活動は自粛せざるを得なかった。
実に意気が上がらない日々が続いた。

今日、夕方5時半に村岡先生に率いられた理工大学の学生たちが、
元気いっぱいに、次々と挨拶しながら教室に入ってくると、
迎える財大の学生たちの表情がパアッと輝いたのが印象的だった。
財大日本語学科は学生の人数がとても少ない。
与えられる予算も少なく、いつも大学の片隅に追いやられている地味な存在だ。
他の大学の日本語を学ぶ多くの学生と直に交流することは、
ものすごく励みになるに違いない。

7時に終わり、3年の陳ぎょううんさん、黃ゆうひんさんにエスコートされて
外国語学院が用意してくれたタクシーで宿舎に戻ったが、
途中、車の中で陳さんが、
理工大2年生の会話力はすごいこと、
財大はまだまだ会話が弱いこと、
毎日の練習量が違うこと、
練習方法も工夫していることなど、雄弁に語るので、
(これからは会話練習にもっと時間を取る必要があるなあ)
と私自身も、ムクムクとやる気が湧き上がってくるのだった。
ああ、単純なヒト。





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「運転手さん大いに怒る」 2012年10月25日(木) No.484

2012-10-25 20:00:13 | 中国事情
怒られたのは学生で、私ではない。
スクールバスの運転手さんは数人でローテーションを組み、
蛟橋-楓林-麦盧の3キャンパスを一日数回運航している。
その運転手さんの中に、必ず「ニーハオ(にこっ)」と私に声をかけてくれる
多分60代の心惹かれる運転手さんがいてはるのだが、
その方(←敬語だよ、贔屓してるの分かる?)が、昨日、運転中に噴火したように怒った。

この2年以上、そんな姿を見たことがなかったので、
ちょうど偶然、すぐ後ろの席に座っていた英語学科の卒業生の子に
「どうしたの?」
と聞いたところ、こういうことだった。

乗ってきた2人の男子学生がお金を払わなかったから、運転手さんが払うように催促したら、
「このバスは学校のバスだから、無料のはずだ。」
と学生たちは理屈をこねて、無視したまま後方に移動した。
運転手さんが後方の下車用自動ドアを開けて
「降りろ!」
と言うと、一人はすぐに降りたが、もう一人は頑固に数秒粘り、
最後に小さい声で悪態をつきながら下りた。
それを聞いた運転手さんは運転席から立ち上がり、ダダッとバスから駆け下りて
その学生の胸ぐらを締め上げた、ということだった。

そのあとが、やはり中国だ、と思った。
学生は決して手出ししない。
口答えもしない。
困ったような顔をして、目をそらすだけだった。
周りの学生たちも、固唾をのんで心配そうに見守る。
無賃乗車して礼節を守っているも何もないようなものだが、
確かに(大人に逆らっちゃいけない)というふうに見えた。

あとで聞くと、学生たちは何か特別の時には
無賃もO.K.なんだそうだ。
そういう経験があったので、当たり前にタダだと思い込んだのだろう。

それにしても、運転席からダッシュして外に駆け下りた時の機敏な動作と、
ずいぶん背が高い人だということが印象に残った。
ちょっと丸顔の、目がくりくりした、行動パターンが高倉健といったところか。
(この描写からは想像困難かも




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「中国人大学生の関西ホームステイ体験」 2012年10月24日(水) No.483

2012-10-24 20:04:37 | 日本中国比較
財大日本語学科の黃君が、
8月1日から8日まで我が友人宅と娘夫婦の家にホームステイしてから
まだ3ヶ月も経っていないのに、
ずいぶん前の事のように感じる。
日本語学科の学生たちを取り巻く状況の変化のせいだ。
3ヶ月前はこんな緊迫感と暗いムード、全然なかったなあ。

黃君に、日本滞在中の感想を書くよう言ったところ、
・日本人はルールを守る
・親しみやすい
・人への気配りがある
・環境保護が行き届いている
・時間厳守
・仕事熱心
・商店の独特なやり方
・国民の平等

など、いくつもの項目をあげて、日本〈関西〉の良さについて述べていた。
よく外国人が挙げる「日本人の長所」と重なる点が多い。
最後の2つは何のことかというと次の如し。

商店の独特のやり方
日本へ行って買い物したりして日本の商店には独特の点があると気が付いた。
それはお客さんは店に入り、ただ見るだけでも歓迎されているということだ。
観光スポットの付近にある商店には様々な地元の品物が並んでいる。
これを見たりあれを見たりする気持ちだけで、買おうともしなかった。
その場合は店員さんに知られたら、睨まれると思っていたのに、
実はそうではなかった。
「ただ見るだけです」と声を出したら、
「そうなんですか。どうぞ、どうぞ」と案外に笑顔をして返事をくれた。
「へえー、見るだけでも、店員さんも喜んでいるんですか。すごい!」と思った。
中国では見るだけの場合は、
店員さんはすぐに真剣な顔になり、機嫌が悪くなるような気がする。

国民の平等
8月5日にある障害者の自立作業所で研修した。
1日中地元の障碍者たちと過ごしたが、その触れ合いを通して気がついたのは、
障碍者を侮る人が見られなかったということだ。
普通の健康な日本人と同じで、平等に取り扱われて、
周囲の人たちには障碍者をからかう気持ちが全くなかった。
僕は彼らと一緒に自転車で果物などの配達をしたのだが、
人のお宅に行き果物を配るとき、相手はきちんと挨拶してくれて、笑顔で話した。
その後その家を去るとき、感謝の言葉もいただいた。
障碍者は体のどこかにハンディを持っていても
普通の健常者と同じに取り扱われるべきだと思う。
日本人は国民の平等性を意識して行動しているのに対して
我々中国人はまだまだだ。



「店の独特のやり方」って、書いてあることを見たら、
そんなに日本独特でもないと思うが、中国との違いを実感したのだろう。
また、障害者を街で見かけることもまずないここ南昌の現実を見れば、
(日本〈関西〉の何十年にも渡る障害者解放運動が、大きな実をつけてきたんだなあ)と、再認識する次第である。
普段、当たり前に思っている一つ一つのことは、
何十年もの努力の結晶なのだということを忘れてはいけない、よね。

彼は、いろいろな点について素直に感心しつつも、
(これはどうか)と疑問に思ったことも書いてある。
例えば、こういうことだ。

電気の浪費
原発の事故で日本は節電しなければならないとよく報道されているが、
日本へ行って電気を無駄に使うところも少なくなかった。
一子さんと朋起さんと一緒に梅の花という店に行ったときのことだ。
料理はおいしかったが、しかしクーラが強すぎて寒い気がした。
日本は現在節電していないのか?
どうしてクーラーを強めにつけているの?
もう店の中にいたくないほど寒かった。
どの店も全てクーラーが設けられて涼しい。
その反面、外に出たら温度差が大きいのでものすごく暑くなった。
(節電ならもう少しクーラーを控えるべきではないだろうか)
というのが率直な感想だ。


このように、異国に身を置くと、実に比較がしやすい。
その国に対する理解も容易になる。
そういうわけで、
この「草の根ホームステイ大作戦」は続けたい。
誰か、「うちに泊めてあげるよ。」という人はいませんか~。
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「第8回中国人の日本語作文コンクール入賞!」2012年10月23日(火) No.482

2012-10-23 20:09:19 | 中国事情
日本僑報社主催(日中国交正常化40周年記念事業)
「第8回中国人の日本語作文コンクール」
[テーマ1]「中国人がいつも大声で喋るのはなんでなのか?」
[テーマ2]「日中両国民が親近感を高めるための、私ならではの提言」

[テーマ1]は、江西財経大学の学生にとってはかなり刺激的だったようだ。
作文を書く過程で、何人もの学生たちから遠慮がちなブーイングが聞こえ、
また「大声で喋って何が悪い!」という先生の発言まであったという。
異文化とどう折り合いを付けるのか課題が浮かび上がった今回のテーマだったが、
四苦八苦した甲斐あってか、嬉しい知らせが主催者から届いた。
何と2700稿近い応募作品の中から2名が2位に入賞、1名が3位と、
予想外のすばらしい成績だった。

今日は教え子自慢しまくりで、
入賞者リストをベッタリ貼り付けますです。
これを見ただけでも、
中国には日本語学科のある大学や専門学校が
非常に多いということを分かってもらえるだろうが、
当然、まだまだ、こんなものでは済まない。
何十万人もの学生が日本語を学んでいる現実があるのだ。
彼女ら、彼らの運命が政治の都合で簡単にねじ伏せられてたまるものか。
歯を食いしばって努力を重ねてきた学生達とともに
この受賞を励みにして
また明日から頑張るしかない。



一等賞(最優秀賞候補者)(五十音順)
王威 浙江大学寧波理工学院
黄志翔 四川外語学院成都学院
周夢雪 大連東軟情報学院
張鶴達 吉林華橋外国語学院
俞妍驕 湖州師範学院
李欣晨 湖北大学
※この6名より最優秀賞(日本大使賞)を1名選出、日本へ一週間招待。

二等賞(15名)
銭添 華東師範大学
張燕 長沙明照日本語専修学院
馮金津 大連東軟情報学院
魏娜 煙台大学外国語学院
張君君 大連大学
羅浩 江西財経大学
葉楠梅 紹興文理学院
周小慶 華東師範大学
施娜娜 浙江農林大学
高雅婷 浙江外国語学院
韓璐 大連工業大学
潘梅萍 江西財経大学
李雪松 上海海洋大学
李傑 東北大学
于添 西安交通大学

★三等賞(40名)
劉 華東師範大学
呉智慧 青島農業大学
李暁珍 黒竜江大学
孫明朗 長春理工大学
王傑傑 合肥学院
周雲 上海師範大学天華学院
黄慧婷 長春工業大学
楊香 山東交通学院
洪雅琳 西安交通大学
王洪宜 成都外国語学校
張瀚 浙江万里学院
馬雯雯 中国海洋大学
周亜平 大連交通大学
張蕊 吉林華橋外国語学院
王璐 青島科技大学
鄭玉蘭 延辺大学
王晨蔚 浙江大学寧波理工学院
邱春恵 浙江万里学院
張妍 華僑大学
楊天鷺 大連東軟情報学院
郝美満 山西大学
李書 大連交通大学
李艶蕊 山東大学威海分校
王翠萍 湖州師範学院
許正東 寧波工程学院
張歓 吉林華橋外国語学院
楊彬彬 浙江大学城市学院
薛思思 山西大学
趙丹陽 中国海洋大学
楊潔 西安交通大学
李文静 五邑大学
劉庁庁 長春工業大学
佟佳 延辺大学
劉宏威 江西財経大学
牟穎 大連大学
石岩 黒竜江大学
郭思捷 浙江大学寧波理工学院
傅亜娟 湘潭大学
周亜亮 蕪湖職業技術学院
胡季静 華東師範大学

★ 佳作賞(50名)
趙月 首都師範大学
閻涵 河南農業大学
楊世霞 桂林理工大学
蒋華群 井岡山大学
王暁華 山東外国語職業学院
呉望舒 北京語言大学
何楚紅 湖南農業大学東方科技学院
耿暁慧 山東省科技大学
郭映明 韶関大学
馬棟萍 聊城大学
曹妍 北京師範大学珠海分校
張晨 山東交通学院
范曉輝 山東工商学院
李崢 北京外国語大学
藍祥茹 福建対外経済貿易職業技術学院
魏衡 西安外国語大学
陳婷 上海外国語大学賢達経済人文学院
唐英 東北大学
逄磊 吉林師範大学
朱林 温州医学院
熊芳 湘潭大学
王亜欣 湖北第二師範学院
王穏娜 南京郵電大学
梁慶雲 広州鉄路職業技術学院
孫瑞 遼寧工業大学
柳康毅 西安交通大学城市学院
趙かん雲 中国伝媒大学
林玲 海南大学
李冰倩 浙江理工大学
劉夢嬌 北京科技大学
呂揚 広州第六高等学校
郭君 江西農業大学
黄嘉頴 華南師範大学
張麗珍 菏澤学院
胡桑 湖南大学
呉佳 大連外国語学院
蘇永儀 広東培正学院
侯培渝 中山大学
陳絢 江西師範大学
袁麗娜 吉首大学張家界学院
劉莎 中南大学
段小娟 湖南工業大学
許頴頴 福建師範大学
劉艶龍 国際関係学院
張曼 北京郵電大学
任爽 重慶師範大学
李競一 中国人民大学
井惟麗 曲阜師範大学
張文宏 恵州学院
劉依蒙 東北育才学校

2012年10月22日
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「日本製品不買と言うわりには」 2012年10月22日(月) No.481

2012-10-22 20:04:02 | 中国事情
木枯らし一号みたいな風が吹く突然の寒さの中、
宿舎の道路向いにある財大購物広場(キャンパス内にあるスーパー)に行った。

江西省は農業中心で果樹園もたくさんある。
これがここで暮らす醍醐味ですね~。
小さい種類の蜜柑(左の皿)が出回りだした。甘いんだよ~~ん。
手前は竜眼だ。美味しいんだよ~~ん。


おやつに「紅薯」を買ったのは袋を見て(オヤ?)と思ったから。


「紅薯」右斜め上にカタカナで「クリスピーピタ」、
左側に小さい字で「四季折々の旬の味を食すそ 味にし絶品にてに極まる
と、わかったようなわからんような言葉が日本語で書いてあるんだす。


ふと目を転ずれば、こちらにも。
日式鳥冬面 北海道うどん 伝統の味自慢 ゆで


このように、憎き日本の汚らわしい文字があそこにもここにもにあるではないか。
それを見たからといって、床にその商品を叩きつけたり、
袋を引き裂いたりする客など誰もいない。
みんな普通。
で、「紅薯」は広東省の金鳳凰食品有限公司の製品、
「北海道うどん」は北京金田麦国際食品有限公司が製造し、香港陳記食品集団が販売している。
どちらも中国の会社である。
どうして中国の会社が商品に日本語の宣伝文字を使うのか。
答えは簡単。
それを使うとハクが付き、ステータスになるからである。
中国人にとって、日本という国が本当に単純じゃないのをここでも感ずる。

明治時代の日本の「脱亜入欧」がなかったら、
今頃は中国と日本、どうなっていただろう。
勝海舟さんは、「アジアはまとまって欧米と戦うべきだ」と主張したというが、
歴史のネジは元には戻せない。
この現実から歩み出すしかない。
コメント (2)
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「10・21国際反戦DAYに」 2012年10月21日(日)No.480

2012-10-21 18:57:23 | 日記
1966年10月21日、日本労働組合総評議会(総評)がベトナム反戦を世界に呼びかけ、
日本国内でベトナム戦争反対の統一ストライキを行った日。
J・P・サルトルが「世界で初めて労働組合が反戦闘争を組織した!」
と、賞賛したという。
(サルトルが讃えたとは今日wikipediaを見て、初めて知った)

その頃の日本には勇気と元気が渦巻いていたんだなあ。
敗戦後20年、高度成長期の日本社会は
(これからもっとよくなる、よくしていく!)という気概に溢れていたのだろう。
今の中国社会と重なるところがある気がする。

当時、ベトナム戦争反対を叫ぶとき、
「ハノイやサイゴン、大阪もみんな同じ空」なのだから
傍観者になるな、といった清々しい?主張ができた。
日本にある米軍基地からベトナムに向けて戦闘機が飛んでいくことを
日本の人々は痛みとして感じよう、という訴えがあったが、
多くの日本人の心に加害者としての痛みはそんなになかったんじゃないかな。

だが、同じ戦争でも、第二次世界大戦を振り返ると
兵隊に行った人たちは、対外的には100%加害者であり、
軍隊内部では悲惨ないじめと人権無視構造100%の中に身を置いていた。
従軍体験者の語る口調も絞り出すようなものになる。
それでも、語り続けてきた日本人がたくさんいる。
日本人の誇りと言うべきそんな人たちが、
一人、また一人と亡くなっていく。
「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三さん、
「戦争話の出前」の本田立太郎さん、
「蟻の兵隊」の奥村和一さん、
・・・・・・・・・
よくぞ語ってくださった。
そんな話を聞かなければ、日本が仕掛け、
外国に、そして、国民に極悪非道な振る舞いをしたあの戦争を、
子ども世代の私たちはしっかりと胸に刻むことができなかっただろう。

中国にも、抗日戦争や朝鮮戦争に従軍した退役軍人や退役兵士の人たちがいる。
日本語学科のある学生は、ボランティア活動で出かけた老人ホームで、
抗日戦争に参加した退役軍人のおじいさんたちと話をした。
おじいさんはこう言ったという。
「戦争はよくない。所詮両方の人民たちが苦難に喘ぐことにしかならない。
日本語を勉強しているのだから、中日関係に自分が何かできるようによく考えてください。」

深く傷ついた人は、どうしてこんなに優しいのだろう。

映画「蟻の兵隊」のあるシーンが頭に張り付いて離れない。
元従軍兵士の奥村和一さんが中国への謝罪の旅の途中、
年老いたひとりの女性に会いに行った。
女性は日本軍に囚えられて、兵士たちに何ヶ月にもわたって蹂躙され、
戦後は、「日本人と寝た女」と非難されて、
村の片隅でひっそり生きてきたのだった。
奥村さんの謝罪に対して、女性は
「戦争はあなたのせいじゃない。あなたも十分に苦しんできたでしょう。」
と言った。
映画の画面でその言葉を聞いたとき、
私はその女性の足元にひれ伏したい思いがした。

踏みつけられ、ボロボロにされてもなお、こんな言葉が言える人がいる。
どうしたらこの人たちに少しでも近づけるのだろう。
死ぬまで持ち続ける私の課題だ。
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「作文に見る中国農村のある風景」 2012年10月20日(土) No.479

2012-10-20 18:17:41 | 中国事情
私が働くこの大学の学生は地元江西省出身者が最も多いが、
他にも、安徽省、湖北省、雲南省、広西チワン族自治区など、内陸省出身者がたくさんいる。
内陸と言えば改革開放経済政策から取り残され、農業が中心産業で、農民の生活は都市部の一般労働者層とはっきり差がある。
貧富の差、インフラ、教育、社会、医療施設設備の格差・・・。
(これでも社会主義国家と言えるのか?!)と呆然となることもある。

それでも学生の生活を綴った作文を読むと、ある種の憧れのようなものを感じるのだ。
幕言さんの「紅いコーリャン」の後に続くかも、と身びいきしたくなる文もある。
今日は、広西チワン族自治区のある村の様子が浮かんでくる名文を紹介。
この文は、大学に入ってから初めて日本語を習い始めた3年生、奉さんの作品だが、
どうやって2年間でここまで日本語をマスターしたのか、私が聞きたいぐらいだ。


            「今年の夏」 奉えんれい

「鷹が空を飛ぶには、必ず風雨の洗礼を受ける。人間が成長するには、いろいろ経験しなくちゃいけないんだぞ。」
と、年配の人たちは言う。私はその話を聞くたびに、不愉快に感じていた。なんとなく、無意味な話に思えたのだ。しかし、今年の蒸し暑い夏のある出来事を通じて、私の考えが完全に間違っていることに気がついた。

 今年、私の夏にある人が登場した。彼は私の親戚だった。私より2歳年上で、子どもの頃から村の人々に「坊主頭」と親しく呼ばれている。小さい頃から一緒に遊んだり、勉強したりして、何でも話し合えた。いわゆる幼馴染という間柄だった。そうは言っても、高校に入るとインターネットに夢中になった彼は、よくネットバーに行くようになった。従って、会う機会も少なくなった。さらに、彼が悪い人と付き合っていることを知ってから、私は彼とは遠く離れようとした。(不良少年だ)と、ずっと思っていた。たまに出会っても、挨拶すらしたくなかった。

 今年の夏、故郷に帰ったその日に叔父さんの家で1年ぶりに彼に会った。外から帰ってきたばかりだろうか、全身汗だくで、正直、汗臭かった。日焼けで皮膚が黒くなり、どこの人か分からないほどだった。
「お帰りなさい。」
彼はニコニコしながら、少しおじさんっぽい口調で言った。

 去年は我が家を新築したが、今年は叔父の家だ。「坊主頭」は7月のはじめに家に帰ってからというもの、ずっと叔父の家で手伝っていた。私が帰るまで彼はもう1ヶ月以上働いていた。朝、汽車から降りて帰ったばかりの私に、叔父は、
「今年はずいぶん遅く帰ってきたのだから、どんどん働きなさい。」
と言ったので、仕方なく、私も帰った日の午後から一緒に働くことになってしまった。建築材料を運ぶ。睡眠不足のせいか、材料を運ぶ途中で頭がフラフラして、力も出せなかった。
「ちょっと休憩。」
と私は木陰の下に座り込んだ。木の上で蝉が相変わらず鳴いていた。その時、肩に材料を担ぎ、汗を拭きながら後ろから歩いてきたのが、彼だった。もう、このような肉体労働に慣れた様子で、休まずに運び続けていた。その時の姿を見たら、誰も彼がまだ大学一年生だとは信じかねるだろう。

 なぜ彼はこのように一生懸命働くのかというと、恩返しをしていたのだ。2年前の夏、遊んでばかりいた彼は大学試験に落ちた。お兄さんの説教によって、また1年勉強し、去年の夏に広西大学に合格した。そして、お兄さんもちょうどその夏に大学を卒業した。どんなに目出度いことだっただろう。しかし、その夏、彼の父親も病気で亡くなった。二人の息子のために命も顧みず、父親はせっせと仕事をしていた。その結果、たいへんな病気になってしまった。半年ぐらい治療を受けたが、結局、治してもらえなかった。その夏は彼にとって一生忘れられないものだろう。彼の母親は、親戚から色々な助けをもらったからと、恩返しに自ら親戚の家へ手伝いに行った。お兄さんは、銀行の借金を早く返すために働いている。そして、彼も家に帰ってきたら、母親に変わって恩返しをし続けていたのだ。

 「親を養いたい時に、親はもういなくなった。」
これが去年の夏以降、よく彼のブログで見た言葉である。今年は一緒に叔父の家で手伝ったので、私たちは何年ぶりかで友達同士の話ができた。彼は今、政府からもらった奨学金と親戚からのお金を使って学校で勉強している。話し合っているうちに、子供時代のことも出た。よく芝生の中でゴロゴロしていた私たち、牛も一緒に入っている池の中で泳いでいた私たち、よく他人の畑で大根を盗んだ私たち、また、風と霧の中でスキーをしていた私たち・・・。二人とも笑った。
「もう子供じゃない。そんな子供じみたことはやれない。」
彼は真剣な顔になった。
「そうね。」
彼の話を聞いた私は頷きながら、自分がまだ村の子供と遊んでいたり、姉に甘えているのを恥ずかしく感じた。叔父の家で働くので、当然叔父の家で食事をする。しかし、食事のあと、従兄弟と遊ぶ私と違って、彼はすぐ自分の家に帰った。母親と一緒にいられる時間を大切にしたかったのだ。暑苦しい夏は、彼を成長させていた。

 人によって、人生の道は違っている。一人ひとりの人生は爽やかであったり、悲しみに満ちていたり、様々だ。私は(なんで自分は貧しい家に生まれたのよ)と恨んだこともある。家族や友達も大切にしていなかった。しかし、今は彼のように周りの人達を大切にしたい。貧乏でも、家族と一緒にいれば幸せだ。
 今年の夏、彼に会えてよかった。
 
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「気合いの入った軍事訓練」 2012年10月19日(金) No.478

2012-10-19 19:41:38 | 中国事情
ラインを超えた、というのがひと月前の感想だった。

ひと月経った今もそれは変わっていない。
今後、丁寧に慎重に外交を重ねていくのは当然として、
(安倍自民党総裁のように「1ミリも譲らない」などと中国の真似している場合じゃない)
それでも、もう、ついこの間まで40年かかって積み重ねてきたものは
二度と戻ることはない。
大きな、大きな失くしものをしてしまった。

さっき、CCTVでは、陸海空の実戦さながらの訓練シーンを映し出していた。
海上を軍艦が颯爽と軍旗をなびかせて往来している様子も映る。
若い軍人たちの表情を見ていたら、日本の戦争映画と重なってしまった。
生真面目で、お国のためには死をも恐れぬ一途な姿だ。
日本語学科の学生と同じくらいの年齢の子もいる。
本気100%だ。
・・・・・・・・・・・・・

それにしても
なぜ石原はいまだにのうのうと都知事の椅子に座っていられるのだ。
45万円を外国人から寄付してもらった法務相に辞任をせいだと。
そんなこと何だってんだ。
もっともっと大罪を犯した石原は何で誰にも責任を追求されず
威張りくさった顔を公衆に晒しているんだ???
日本にとって、何億円とかいうレベルじゃない損失をした責任者は石原だ。
そしてそれを抑えられなかった野田だ。

ときどき怒りで頭がおかしくなりそうになる。

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「もうボロボロ・・・」 2012年10月18日(木) No.477

2012-10-18 11:14:10 | 中国事情
日本語学科の学生の立場はつらい。
ある意味、中国在住の企業人や日本人教師などの比ではない。
日本人はいざとなれば日本という国に引き上げることができる。
彼らには戻っていく別の国などないのだ。

学生の声を聞いて欲しい(3年の徐さんの作文から抜粋)。

「小学生の時から、先生が釣魚島は私たち中国人のものだと教えてくれました。
私のお祖父さんと同じくらいの歳で、神聖な顔で釣魚島の歴史について語ってくれたものです。その時から、私は釣魚島は中国の台湾に属する島だとしっかり覚えてきました。」

「この問題で、日本語学科の学生として、将来が心配でならない。もし卒業するとき、中日関係が今のまま緊張していれば、私たちはどうしたらいいだろう。」

「先生は私たちの気持ちに気がついて『ちゃんと日本語を勉強している限りは、きっと将来の発展に力になれる』と私たちに言いました。先日、南昌市内でデモがありました。ルームメートの一人は、参加して愛国心を表現したいと思いましたが、結局、やめました。中国人が同胞のものを破壊して意味があるのだろうか。一部の衝動的な中国人の行動は私達の心を傷つけました。私達には、理性的な姿で国を愛するべきだという常識があります。大学生にとって、一生懸命勉強することが自分の国を愛する最高のことだと思います。」

「南昌市内でデモ行進がある日、クラスメートと梅岒へ遊びに行きました。湖の上で竹の筏を漕いでいたら、江西中医学院の学生たちに出会いました。彼らは私たちに何を勉強しているのか聞きました。その時、こちらは4人だけしか居ませんでした。全部女の子です。もし私たちが日本語学科の学生だと知ったら、私たちに悪いことを言うかもしれないと思いました。私たちは、『あ、それはね、言語を学んでいます。』と言いました。その時の私たちは、もうボロボロでした。」

「日本語を勉強するって、恥ずかしいことではありません。日本の経済や民族精神など、いろいろな面では見習う価値があると思います。」

「中日の友好関係を改善するために、日本語学科の私たちは役に立つ可能性があります。私たちが日本の文化や経済を学んで、周囲の人に紹介すれば、文化経済交流する機会がもっと多くなるかも知れません。そのほか、留学生が多くなればお互いの国の文化や習慣を紹介しあえます。両国政府は、対立などしないで、留学生制度を充実させてほしい。旅行、環境保護、経済についての協力を進めて、一衣帯水の中国と日本がともに発展していくことを願っています。」


日本語学科の学生たちが野田の「国有化」を発端とした騒ぎによって
どれほど傷ついたか想像できるだろうか。
それまで、「反日」を言う家族、友人、知人に、日本の文化、習慣、日本民族の優れた点など、自分が学んだ日本の良さを伝え、中日友好の必要性を周囲に語りかけてきた彼女ら、彼らは、背後から鉄砲で撃たれたも同然だ。
さらに中国人としての誇りも暴徒たちの理不尽な行動によって傷つけられた。
挟み撃ちの攻撃を受けたのだ。
それでも、彼女ら、彼らは、現在も毎日勉強を続けている。
無限に等しい単語の中から一つ一つを拾い上げ、頭に叩き込むことが
いつか中日関係の改善に役に立つかも知れないと、自分に言い聞かせながら。
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「今日もふぐは~ほぼ日~」 2012年10月17日(水) No.476

2012-10-17 22:20:05 | 日記
 
「ほぼ日刊イトイ新聞」を毎日見ている。
それはふぐを見るためである。
「今日もふぐは」泳いでいた。
ここんとこ、一日10回くらい見てしまう。
とにかく可愛いですから~。
見てこれ~(①②は「ほぼ日」から借りてきました)


↑① 水槽を覗いているのはブタフィーヌさんという名前のクッション。
ブタフィーヌさんの鼻付近を泳ぐふぐ。


↑② ブタフィーヌさんの眉毛?じゃなーい。2匹のふぐさんです。


↑これはたった今ワタクシが撮ったばかり。
ブタフィーヌさんも誰もいない深夜のイトイ事務所で呑気に泳ぐふぐさん。
(左下のサボテンみたいな海藻みたいなものの横でお尻向けている)
イトイ事務所なんて全然知らないのに、
そこのふぐさんとは一方的にすっかり友だち。
これ、いいよ!
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