毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「瀬嵩の金城商店」2015年6月30日(火)No.1390

2015-06-30 22:36:03 | 反戦平和

大浦湾の瀬嵩には瀬嵩共同売店と金城商店という二つの店があります。

今日私は大阪に戻りましたが、

昨日、お世話になった二つの店に挨拶に伺いました。

下は金城商店の「オバア」です。

妹たちが本州に渡っても、長女の自分は家を離れず、

戦後、ずっと瀬嵩地域で自家製お弁当を売るなど

お連れ合いとともに店を経営発展させてきましたが、

歳を取るにつれて、縮小せざるを得なくなっている状態だそうです。

この一か月余り、この金城商店のおばあちゃんには、

たいへんお世話になりました。

『カビキラー』を買いに行ったところ、

「それは店には置いていないけど、ちょっと待ってね。」

と、奥から3分の1ほど残っている自分の家のカビキラーを持ってきて、

「まだこれだけ残っているから、ちょっとは役に立つでしょう。使ってね。」

と言ってくれるではありませんか。

(うわあ)と心が動揺しました。温かすぎです。ホロリ。

私が、夕食だけ辺野古闘争の長期滞在客向けに作っていると言うと、

ゴーヤやモーイーなどの野菜、売れ残りのパンなどをいつも分けてくれました。

辺野古ブルー(カヌー隊)のメンバーが夕方ビールを買いに行くと、

いつもスルメとかうまい棒とかおまけにくれます。

金城さんのオバアは

「全国から来てくれてありがとうね。何もできなくてごめんね。これ食べてね。」

と言ってくれるのです。

心に沁みる嬉しいことばでした。

 

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「山城博治さんが辺野古に」2015年6月25日(木)No.1389

2015-06-25 22:36:43 | 反戦平和

キャンプシュワブ前には毎日入れ替わり立ち代わりで、

有名な人たちが訪れます。

座り込みのお客さんが宿に帰ってきて、

「今日は大江健三郎さんが来たよ。何の言葉もなくて残念だった。」

「津田大介が来て報道陣に囲まれてた」

「福島の『希望の牧場』の吉沢さんのアピール、すごかったわ」

「福島瑞穂さんが午前中船に乗って海保にマイクで、

『不当なことをしたら国会で報告しますよ』と言ったら、

そのときだけおとなしくて、午後からはいつも通りさ。」

などと教えてくれるのを興味深く聞いています。

 

昨日は4月末に悪性リンパ腫で入院した山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)が、

23日の慰霊の日にスピーチするため外泊し、

翌日、キャンプシュワブのゲート前にも来たと聞いて、

(ああ、私も行きたかったな)と思いました。

山城さんはゲート前の取り締まり警官にも挨拶したそうです。

今日の琉球新報の記事に書いてありました。

これが沖縄人です。

―――――――――琉球新報6/25[辺野古問題取材班]

山城さん「必ず戻る」―闘病中に辺野古訪問

(座り込みの市民らと再会を喜ぶ山城博治さん=24日名護市辺野古)

名護市辺野古の新基地建設計画に反対する運動をリードし、

4月末から悪性リンパ腫治療のため抗議行動の現場を離れている

沖縄平和運動センター議長の山城博治さん(62)が、

24日、辺野古のキャンプシュワブ前を訪れ、

「夏以降、政府が埋め立てを強行する。

それまでに元気になって戻る。必ず基地建設を止めよう」

と呼びかけた。

山城さんはシュワブのゲート前で警備にあたる警察官にも挨拶した。

警察官の一人は「(元気そうで)嬉しいよね。難しいね。

とつぶやいた。

辺野古海上では大型クレーン船一基で海底ボーリング調査の作業が確認され、

市民らはカヌー12艇と船2隻で抗議した。

―――――――――

 

 

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「戦世からアメリカ世、そして復帰後も」2015年6月24日(水)No.1388

2015-06-24 23:13:20 | 反戦平和

今日は山城博治さんがゲート前のテントに来たという嬉しい知らせを

座り込み参加の宿泊客から教えてもらいました。

さて、昨日の続きです。

沖縄の歴史になってしまったあの事件、この事件をきちんと再確認したいと思い、

琉球新報の解説をここに転載させていただきます。

 

1沖縄戦(1945年)

太平洋戦争末期の1945年、米軍が沖縄本島や周辺離島に上陸し、

地上戦を繰り広げた。

首里に司令部を置いた日本軍(第32軍)とは嘉数高原などで激戦となった。

持久戦を基本方針とした第32軍は、本土決戦に備えた時間稼ぎの捨て石作戦と位置付けた。

5月末に首里は制圧され、6月22日(23日説あり)までに牛島満司令官が自決をして組織的な戦闘が終わった。

掃討戦を続けた米軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言、降伏調印式は9月7日だった。

戦没者は約20万人。うち18万8千人余が日本側で、民間人は9万4千人に上った。

 

2島ぐるみ土地闘争(1956年~)

米軍は沖縄戦終了後、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効まで

土地の無償使用を続けた。

同年11月、米軍は軍用地の賃貸契約方法や使用料を決めた布令を交付したが、

ほとんどの地主が応じなかったため「土地収用令」を公布。

武装兵が「銃剣とブルドーザー」で土地を奪った。


3宮森小ジェット機墜落事故(1959年)

1959 Kadena Air Base F-100 crash.jpg

1959年6月30日午前10時30分過ぎ、石川市(現うるま市石川)の

市立宮森小学校に米軍嘉手納基地所属のF100D戦闘機が墜落し炎上した。

同校児童や地域住民18人が犠牲になり、

200人以上が負傷した。

同機は飛行中にエンジンが爆発して石川方面へ墜落したが、

パイロットはパラシュートで脱出して無事だった。

墜落により、同校教室、民家17棟、公民館が全焼し、

民家8棟と同校の2教室が半焼した。

当時はミルク給食の時間で、学校は一瞬で地獄絵図と化した。

米軍は事故発生直後から現場を封鎖し、

我が子を助けようと駆け付けた家族の立ち入りも禁止した。


4日本復帰(1972年)

米施政権下だった沖縄は1972年5月15日、日本に返還された。

1945年の沖縄戦終結と同時に始まった「アメリカ世」は27年で幕を閉じた。

復帰に先立つ68年に沖縄初の主席選挙が実施され、在沖米軍基地の

「即時・無条件・全面返還」を掲げた屋良朝苗が当選した。

日米は69年の共同宣言で「核抜き本土並み、72年返還」を謳ったが、

日米はその後の返還交渉で沖縄の米軍基地存続を認めた。

沖縄の願いを反映しない返還協定のやり直しを求める反対運動が起きたが、

日米両政府は返還手続きを進めた。


5那覇市小禄の不発弾爆発事故(1974年)

那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばで1974年3月2日、

下水道工事で打ち込んだ鉄パイルが、日本軍の使用した土中の不発弾に触れて

爆発した。

3歳の女児や作業員ら4人が死亡、34人が重軽傷を負った。

園児らはひな祭りの最中だった。

爆発地点は土砂がえぐられて大きな穴が開き、

家屋倒壊が80戸、車両被害が41台だった。

県によると、この事故以後も県内で不発弾事故で

3人(米軍兵を含む)が死亡し、24人が負傷した。

残された不発弾は約2050トンと推定されている。

2014年度の不発弾処理は631件、18.4トンだった。


6米兵少女乱暴事件県民大会(1995年)

1995年9月に本当北部で米兵3人による少女乱暴事件が発生した。

容疑者の身柄引き渡しを拒否した米軍の対応に県民の怒りが頂点に達し、

基地負担軽減や日米地位協定改定を求める声が一気に高まった。

同年10月21日には宜野湾海浜公園で「米軍人による事件を糾弾し

日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が開かれ、

8万5千人(主催者発表)が参加した。

日米合同委員会は大会後、協定改定はしないが、

殺人など重大犯罪の場合は起訴前に身柄引き渡しを行うことで合意。

翌96年には米軍普天間飛行場の全面返還合意に至った。


7沖国大ヘリ墜落事故(2004年)

 

2004年8月13日、宜野湾市宜野湾の沖縄国際大学構内に、

米軍普天間飛行場所属のCH53D輸送ヘリ一機が墜落した。

衝突した同大1号館の壁面は機体の炎上により焼け焦げ、

周辺の住宅街には広範囲に渡ってヘリの部品が飛び散った。

学生は付近住民には奇跡的にけが人が出なかったが、

ヘリの乗員が負傷した。

1972年の日本復帰以降、人口が集中する米軍航空機墜落事故は初めてだった。

市街地のど真ん中を占め「世界一危険」と言われる普天間飛行場の

危うさが改めて浮き彫りになった。

―――――――――琉球新報6/23より(写真はネットのあちこちから借りました)

安倍首相は昨日の慰霊の日の式典で

「沖縄の方々には長年に渡って多大な負担と犠牲を強いてきた云々」

という内容の言葉を発しました。

「そして、これからも犠牲になり続けてくださいね」と言わんばかりの安倍首相。

そんな安倍に一票を投じる行為は他の国民の大迷惑です。

 

 

 

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「沖縄戦70年慰霊の日」2015年6月23日(火)No.1387

2015-06-23 23:46:34 | 反戦平和

きょう、沖縄は「慰霊の日」でした。

摩文仁の平和祈念公園では「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」が開かれ、

県内各地でも慰霊祭が行われたそうです。

辺野古のキャンプシュワブゲート前では、早朝7時に毎朝工事車両が基地内に入るのを

座り込んで阻止する行動が続いています。

今朝も、いつもと同じ体制で臨んでいましたが、

さすがに今日の工事はなかったようで、一台の工事用の車も来なかったそうです。

もし来たら、当然心底怒りますが、その可能性もあると判断せざるを得ないほど、

安倍政権は県民の気持ちを踏みにじり続けています。

ゲート前では、かつて収容所だった基地内に献花台を設けて

慰霊する交渉をしたものの、全く認められず、

ゲートの外に献花台を作って、12時に黙祷を捧げたそうです。

夕方7時のNHKニュースに映った、

安倍首相の式典での空虚で無内容な言葉にはゲッソリしましたが、

NHKテレビが翁長さんの発言を切り取らずに放映したこと、

辺野古のキャンプシュワブゲート前の様子が一瞬でも映ったことは、

まあ、NHKにしてはよかったかなと思いました。

 

今日の琉球新報は、第一面どころか、全紙面が「沖縄戦70年」特集で埋め尽くされていました。

36面の紙面のうち、テレビ欄のページを除く35面です。

さらにその外側を覆う4面の記事は、

「戦世(いくさゆ)、アメリカ世・・・平和を求めた歩み」の見出しで、

満州事変に始まる十五年戦争、

戦後/米統治時代、

復帰後、

現在、

の時代区分における沖縄の歴史年表を掲載してありました。

ここに全て写したいのですが、疲れていてそれはできそうもありません。

ただ、写真付きで掲載されていたものだけでもご紹介したく思います。

今日はその項目だけでスミマセン。

1沖縄戦(1945年)

2島ぐるみ土地闘争(1956年~)

3宮森小ジェット機墜落事故(1959年)

4日本復帰(1972年)

5那覇市小禄の不発弾爆発事故(1974年)

6米兵少女乱暴事件県民大会(1995年)

7沖国大ヘリ墜落事故(2004年)

8教科書検定意見撤回を求める県民大会(2007年)

(明日に続く)

最後に、琉球新報のトップ紙面にあった文を。

 

沖縄戦が終わった1945年からことしで70年。

この70年間、日本、沖縄は戦争をしてこなかった。

戦争体験者を生んでこなかった。

 

戦争がなかった70年。

それは戦争体験者がそのつらい体験を語り継ぎ、平和を守ってきた70年でもある。

 

今、142万県民にはたくさんの夢、笑顔がある。

あの戦争、戦後の混乱を生き抜いた人たちがつないだ命が、現在、未来の沖縄をつくっている。

 

戦争を生き延びてくれてありがとう。体験を語ってくれてありがとう。

このたくさんの笑顔はあなたたちがつくり、守ってくれた笑顔です。

 

この笑顔が、戦後が、いつまでも続くように、私たちは沖縄戦を知り、語り継いでいきたい。

 

 

 

 

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「大浦湾瀬嵩の浜のゴミ拾い」2015年6月21日(日)No.1386

2015-06-22 00:03:19 | がんばろう沖縄

月曜日から土曜日まで毎日早朝5時40分に宿を出発する辺野古座り込み隊のミヤさんと、

辺野古ブルーの若き戦士七海さんは今日、日曜なので休息日でした。

七海さんともう一人、東京からの座り込み隊ヤマさんと私の3人は、

以前より気になっていた瀬嵩の浜のゴミ拾いを決行することにしました。

朝8時過ぎ、グナアの散歩も兼ねて出発。

波打ち際から離れた方には、ペットボトルや空き缶が多かったです。

 

グナアはいつもの散歩と違い、??の風情です。

 

グナアが波打ち際で見せる断固たる拒絶。

水が嫌なんですね。

 

結局、こうなりました。 

 

随所にヤドカリが歩いています。

時には遠く離れたアスファルト道路の傍にも。

 

宿に戻って分別開始。砂だらけなので洗うのがたいへんでした。

 

ほんの少しのエリアなのにこんなにありました。

打ち上げられたものもありますが(1つ中国語で蒙乳のヨーグルトと書かれたものを発見し、驚きました)、

浜辺で人々が捨てたものも多いのです。

きれいな海にするには、ゴミ捨てもダメです。

 

ふい~、くたびれた~~。

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「海と風の宿の庭」2015 年6月20日(土)No.1385

2015-06-21 00:04:00 | がんばろう沖縄

周りを椰子の木に囲まれた平屋建てのゲストハウス、

築20年の歴史があります。

オーナーは辺野古反基地闘争に古くからかかわってきた人だそうです。

本人から聞いたのではなく、古くから海風を知っているお客さんが教えてくれました。

こんな手作り看板が入口に立っています。

 

入っていくとまずハンモックや野外テーブルと椅子があります。

数週間前に私が洗濯ものとともに落下したのはこのテーブルからです。

暑さを避けて日陰でひたすら寝るグナア。

手前の黒いタオルケットは彼のペットです。

 

私がベルトなし草刈り機で刈った雑草も、再び元気に成長しつつあります。

手前はテラス。

野菜が雑草に埋もれていたのを救出し、支柱を建てました。

ジャーン!へちま。

ジャーン!ゴーヤ。

でも、実は、ヘチマもゴーヤもたった一個ずつしかなっていません。

葉っぱはカタツムリに食べられ放題。

 

先週から庭の隅にこんなきれいな花が咲き出しました。

 

椰子の葉が風に揺れてサラサラなると、時には雨が降ってきたように聞こえ、

慌てて洗濯物を取り込みに外に飛び出すことがあります。

赤いロープは、グナアの運動用。

先日帰ったチバさんは、自分の洗濯ものをグナアのロープに掛けていました。

 

音を立てて落ちる椰子の葉。

毎日何本も落ちてきます。

 

 

テラスの隅にもシーサーが。

この木製テラス、晴れの日は素足で歩けないほど熱くなります。

ここに布団を並べて干します。

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「百戦錬磨のチバさん帰る」2015年6月18日(木)No.1384

2015-06-19 00:34:49 | がんばろう沖縄

今日は11時10分に宿を出発したのに数分で着いた瀬嵩の浜には

もうカヌー隊が帰還していました。

下の浜まで降りることを断念し、上の道路で「基地建設NO!」の紙を掲げて連帯行動をしました。


辺野古レインボウの「平和丸」。

全部で船は6,7隻あるそうです。

チョイさんのブログにでてくる「ラブ子」はどれかなあと思ってみるのですが分かりませんでした。


今日で海と風の宿に泊まって連日早朝から夕方まで座り込みとカヌー隊で頑張ってきた

茨城県のチバさんが帰ります。

帰ると言っても、4月、5月、6月と連続で来ているのです。

地元の町内会の会合を先月も辺野古に来ていて参加できなかったので、

今回は出席せねばならないという理由です。

本当に誠実な人なんだなあと思います。

きっと7月にも最小限度の荷物を持ち、身軽なバックパッカースタイルで辺野古にやって来るでしょう。

今夜は最後の晩餐ということで張り込んでヤグー豚の焼き肉をしました。

300円の夕食代を遥か超える材料費でしたが、

毎夕、グナアの散歩も行ってくれたチバさん、食べた後はきっちりと後片付けをしてくれたチバさんに

精一杯のおもてなしです。

またいつ会えるか分からないのですから。

 

グナアは一昨日、拾った骨を食べて喜んでいたのですが、

昨日はそのせいか、何度も吐いて食欲不振です。

今日も何となく弱弱しい感じ。

 

宿の外にはハイビスカスが今日もはり込んで咲いています。

30度を超えても、日陰は風爽やかでとても気持ちがいいんですよ。

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「瀬嵩の浜に戻るカヌー隊」2015年6月17日(火)No.1383

2015-06-17 21:27:50 | がんばろう沖縄

11時半前、「海と風の宿」まで掛け声が聞こえたので

掃除機を打っ棄って瀬嵩の浜に向かいました。

ちょうど辺野古ブルー(カヌー隊)のメンバーが海保による拘束を解かれ、

瀬嵩の浜近く(自力で歩いて浜に戻れる地点)に降ろされるところでした。

昨日からカヌー隊に参加している19歳の投宿者ナナミさんが心配だったり、

連日激闘するメンバーのみんなをせめて出迎えたかったりして、

私は思わず拍手をしました。

浜に戻るメンバーに手を合わせ拝んでいるオジイもいて、

私はその姿に目頭が熱くなりました。

(何度も言うようですが沖縄ではオジイ、オバアは

心からの親しみを表す言葉です。

決してジジイ、ババアとは言わないのです)。


↓近づいてきた海保のゴムボート。拘束されたカヌー隊メンバーが乗っています。

 

↓これくらいの深さのところでメンバーを開放します。

後でナナミさんに拘束時の様子を聞くと、

自力でフロートを越えられて喜んだのもつかの間、

転覆させられ、つかまらない様に泳いでいたら後ろから両脇を羽交い絞めにされ、

暴れたら、「もっと強くするよ。」とか「もっと酷いことになるよ。」

などと言われたそうです。

彼女は最後までジタバタと暴れて抵抗したのですが、

敢え無く拘束されてしまったとのこと。

いざとなれば、女性の方が肝が据わっているとよく言われますが、

若干19歳のナナミさんもその一人です。

 

↓「海保は暴力をやめろ!」と浜ではたくさんの人々が叫んでいます。

 

毎日、辺野古ブルーのメンバーは、

午前と午後に炎天下の海上に小さいカヌーを漕ぎだし、

一分でも一秒でも工事を引き延ばすための直接行動をしています。

今日の琉球新報に『6月末までのボーリング調査完了は無理で、

再延長する方向で検討する旨、防衛省が発表』と出ていました。

諦めないで、前へ前へ進むカヌー隊、

何度引き抜かれても、また座り込むゲート前の人たち、

毎日、毎日、雨の日も、炎天下も辺野古で続けているこの直接行動が、

あきらかに工事を遅らせています。

 

ところで、カヌーの一つにこんな名前を発見して、思わずニンマリしました。

関西の労組ではかなり有名な、「関西生コン」です。

(やるなあ!)

 

↓最後は、辺野古ブルーの挨拶と、浜で応援していた側の人が挨拶をし、

シュプレヒコールでしめました。

このあと、私は大急ぎで宿に戻り、せっせと掃除をしたり、布団を干したり、

首に巻いたタオルを何回も取り換えるほど汗まみれになって、

今日も一日よく働きました。

沖縄の「島ぐるみ」の皆さんは、自分の家の用事を放ってでも

こうして日参しています。

もはや闘いが生活になっているのです。

誰が好きこのんでこのような生活を送りたいでしょう。

未来に平和を築くために、今できる全てをしているのです。

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「辺野古は学校だ」2015年6月16日()No.1382

2015-06-16 23:23:29 | がんばろう沖縄

瀬嵩の浜から振り返って見たヤンバルの森。

梅雨も明け、連日30度を超える名護地方です。

先週から連日瀬嵩の浜での抗議行動が続いています。

昨日は宿の掃除がまだ片付かない11時半、抗議団の声に誘われて、

浜まで走って行ってきました。

ちょうど辺野古ブルー(カヌー隊)が拘束を解かれ、浜に引き上げてきたところでした。

浜辺で応援する人々は50人くらだったでしょうか。

「沖縄県市民会議」の旗が翻っていました。

辺野古ブルーの最年少19歳の少年が挨拶しました。

「僕は海が怖い。海保が怖い。怖くて吐き気がするほどです。

でも、応援してくれる人たちのことを想い、毎日カヌーに乗っています。」

少年は普段、明るくてそんな風には見えない、と

宿に戻ったカヌー隊のチバさんが教えてくれました。

チバさんは百戦錬磨の大ベテランです。

年金生活の中、毎月、ピーチやジェットスターなど格安航空機に乗って来て、

格安宿の「海と風の宿」に10日から2週間ほど滞在し、

毎日カヌーを漕いでは海保と直談判の交渉をしています。

「税金で1個が1万6千円もするフロートを買うなど、ぼくは認めない。

僕の税金分として3個ほど家へ持って帰るよ」

などと冗談を言うと、海保の指揮官が

「それは困ります」

と言ったなど、毎日の海での出来事を聞くのが私の楽しみです。

 

昨日の19歳の少年は、ここ辺野古で、

踏ん張ることの苦しさ、大切さを学んでいます。

まるで辺野古は若者たちの学校のようだと私は思います。

この「海風」にも4日前広島の19歳のフリーターの女性が投宿しました。

16日間、座り込みとカヌー隊で頑張るため、荷物まで送ってきました。

 

全国の若者たち、どんどん辺野古にいらっしゃい。

辺野古は人生で最も大切なことが学べる学校です。

 

↑自転車で「わんさか大浦パーク」に買い物に行く途中、見つけました。

あちこちに基地建設反対のバナーが掲示されています。

 

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「みるく世がやゆら」2015年6月13日(土)No.1381

2015-06-13 21:38:39 | 反戦平和

与勝高校3年 知念捷さんが6月23日沖縄全戦没者追悼式で自作の詩を読む。

『みるく世がやゆら』という詩を。

琉球語のこの言葉、日本語の意味が書かれていない。

どんな意味かは想像するしかない。

 琉球新報は6月13日の第一面トップにこの詩を掲載した。

 本土の全国紙は、せめて、6月23日当日には

日本政府によって強いられてきた沖縄の歴史と現実に切り込む記事を

第一面に載せて欲しい。

琉球新報社会面には入院中の山城博治さんが島袋文子さんに当てた手紙が

早朝からの座り込みが続くキャンプシュワブゲート前テントで読まれ、

「特段の副作用もなく予定通り療養生活を送っている」との言葉に

拍手が沸き起こったことも載っていた。

毎日、毎日引き抜かれ、また座り込みにもどる人たちは、

ヒロジさんが健康になって帰ってくるのをどれほど待っていることか。

今日も宿に戻ったお客の若い女性が、

「機動隊と海保に二重にやられてあざができちゃった」

と二の腕を見せてくれた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『みるく世(ゆ)がやゆら』  知念 捷

みるく世がやゆら

平和を願った 古の琉球人が詠んだ琉歌が わたしへ訴える

「戦世(いくさゆ)や済(し)まち みるく世(ゆ)ややがて 

嘆(なじ)くなよ臣下(しんか) 命(ぬち)ど宝(たから)」

70年前のあの日と同じように

今年もまたせみの鳴き声が梅雨の終わりを告げる

70年目の慰霊の日

大地の恵みを受け 大きく育ったクワディーサーの木々の間を

夏至南風(かーちーべー)の 湿った潮風が吹き抜ける

せみの声は微かに 風の中へと消えて行く

クワディーサーの木々に触れ せみの声に耳を澄ます

「今は平和でしょうか」と 私は風に問う

 

花を愛し 踊りを愛し 私を孫のように愛してくれた 祖父の姉

戦後70年 再婚をせず戦争未亡人として生き抜いた祖父の姉

九十歳を超え 彼女の体は折れ曲がり ベッドへと横臥する

1945年 沖縄戦 彼女は愛する夫を失った

一人 妻と乳飲み子を残し 22歳の若い死

南部の戦跡へと 礎へと

夫の足跡を 夫のぬくもりを 求め探し回った

彼女のもとには 戦死を報せる紙一枚

亀甲墓に納められた骨壺には 彼女が拾った小さな石

 

戦後70年を前にして 彼女は認知症を患った

愛する夫のことを 若い夫婦の幸せを奪った あの戦争を

すべての記憶が 漆黒の闇へと消えゆくのを前にして 彼女は歌う

愛する夫と戦争の記憶を呼び止めるかのように

あなたが笑ってお戻りになられることをお待ちしていますと

軍人節の歌に込め 何十回 何百回と

しだいに途切れ途切れになる 彼女の歌声

無慈悲にも自然の摂理は 彼女の記憶を風の中へと消していく

70年の時を経て 彼女の哀しみが 刻まれた頬を涙がつたう

蒼天に飛び立つ鳩を 平和の象徴と言うのなら

彼女が戦争の惨めさと戦争の風化の現状を 私へ物語る

 

みるく世がやゆら

彼女の夫の名が 二十四万もの犠牲者の名が

刻まれた礎に 私は問う

みるく世がやゆら

頭上を飛び交う戦闘機 クワディーサーの葉のたゆたい

六月二十三日の世界に 私は問う

みるく世がやゆら

戦争の恐ろしさを知らぬ私に 私は問う

気が重い 一層 戦争のことは風に流してしまいたい

しかし忘れてはならぬ 彼女の記憶を 戦争の惨めさを

伝えねばならぬ 彼女の哀しさを 平和の尊さを

 

みるく世がやゆら

せみよ 大きく鳴け 思うがままに

クワディーサーよ 大きく育て 燦々と注ぐ光を浴びて

古のあの琉歌(うた)よ 時を超え今 世界中を駆け巡れ

今が平和で これからも平和であり続けるために

みるく世がやゆら

潮風に吹かれ 私は彼女の記憶を心に留める

みるく世の素晴らしさを 未来へと繋ぐ

 

 

 

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「グナアの呑気な生活」2015年6月11日(木)No.1380

2015-06-09 20:52:16 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」の飼い犬、グナアは人が起きてくると、

クウン、クウンと鳴いて如何に自分が散歩を待ち焦がれているかアピールします。

仕方がない、今日も暑いが、行くしかありません。

先日洗濯物を取り込むときにテーブルから落下し、

それ以来右足薬指の腫れも引かないのですが、

足を挽きずりながら出発しました。

グナアの糞袋を片手に、もう片方にはデジカメを持って。

見てください、リードをぐいぐい引っ張りながら闇雲に進む

散歩の躾の行き届いていないこのワンちゃんを。

そのくせ、本人もどこに行くか、計画も立てていないのです。

 

ここんとこ毎日朝は瀬嵩の浜コースを歩くように私がコントロールしています。

朝の海の海保と抗議船の様子を見るためです。

波打ち際には今日もカニやヤドカリをはじめ、いろんな生物が動いていました。

 

↓フロートとオイルフェンスの向こうに見えるのは海保のゴムボート。

カヌー隊の人に聞いた話、ゴムと言ってもとても分厚くて固く、鋼鉄のようだそうです。

500馬力のエンジン2つを搭載して、

カヌー隊が四苦八苦しているフロートとオイルフェンスを

何の苦も無く一瞬で越えてきます。

海上をバリバリ喧しい音を立てて蛇行するこのゴムボートは

まさに海の暴走族と言えるでしょう。

向こう側の白いビルはキャンプシュワブの米軍基地の建物です。


↓ボーリング工事用のクレーン船などが見えます。この海の底で貴重なサンゴが

押し潰されています。

 

美ら海とその破壊者。

 

↓散歩はこの曲がり角を瀬嵩公民館の方に曲がり、宿に着きます。

3つあるバナーのうち2つは基地建設反対のものです。

 

今日も浜から海保の慇懃無礼な

「危険水域・・・立ち入り禁止・・・、ご協力お願い・・・」の声が聞こえてきます。

カヌー隊を立ち入り禁止にする傍ら、

立ち入り禁止水域で泳いだり、モリを持って魚取りをするアメリカ兵には

なんにも言わない海上保安庁。日本はアメリカの従属国としか言いようがありません。

日本政府がひたすらにそれを望んでいるのです。

 

さて、瀬嵩の浜の抗議活動も一週間ほど続いていますが、

昨日、今日と私はそちらに参加せず、宿の草刈りを決行しました。

ベルトのない草刈り機は大変使いづらかったのですが、

あまりの草ぼうぼう状態をいつまでも放置できません。

新基地建設強行への抗議を聞きつつ、庭全部の草を刈りました。

↓グナアさん、大喜びでゴロンゴロン。

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「お客が盛り上げる宿・その1」2015年6月9日(火)No.1379

2015-06-09 19:01:38 | がんばろう沖縄

「海と風の宿」のシーサーその1

名護市瀬嵩の浜の「海と風の宿」には次々と凄いお客さんが泊まりに来ます。

先日の岐阜の女性4人組は4人で常に議論しており(言い合いではない)、

いつも複数の人が同時に喋っているので

何を言っているのか聞き取れないことも多々ありました。

驚愕したのは、その中の一人が台所で、

解凍したきびなごをたれも何もつけず頭からちゅるんと食べてしまったことです。

私は自分の見たことがにわかには信じ難く、

「あの、頭も全部食べたんですか」

とボケた質問をしました。

その人(スミさんとしておきましょう)は、「そう、美味しいよ」とか言って

もう一匹、頭からちゅるんと食べました。

(岐阜ではそうして食べるのかあ)と思いましたが、他の3人は強く否定しました。

サッと茹でてポン酢でいただくのが一般的だとのこと。

今でも、スミさんがまるでアシカかオットセイのようにきびなごを丸のみした様子が

ありありと目に浮かんできます。

岐阜県人、侮りがたし。


4人は全国母親大会に毎年欠かさず参加しているそうです。

私は自分が母親であるにも拘らず、その会にはほとんど関心を抱かず、

その会ができたきっかけも知りませんでした。

母親大会はビキニ環礁でのアメリカの水爆実験と

第五福竜丸の23名の漁船員の被爆(アメリカによる日本人の第三の被爆)をきっかけに

平塚らいてふが原水爆禁止の訴えを呼びかけ、

世界母親大会への参加へとつながったものだそうです。

今年も8月1日、2日の二日間神戸で「日本母親大会」が開かれるそうです。

基地問題の分科会もあるとのこと、

私も生まれて初めて参加しようと思います。

 

そんな4人が海風に宿泊したのは、辺野古の新基地建設反対闘争に

参加するためでした。

6月3日は早朝から夕方まで座り込み行動に参加した4人組は

反省会で自分の意見も述べ、話し合うことで現場の厳しい状況も理解して

宿に戻ってきました。

4人とも戦後民主主義の子ども達なんだな、と感じ入りました。

こんな日本人が日本にもっとたくさん居たらなあ……。

空気読む人ばっかじゃどうにも打開しようがない日本社会のムードですよねえ。

 

「海と風の宿」のシーサーその2

 

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「どうして沖縄はそこまで抵抗するのか」2015年6月7日(日)No.1378

2015-06-07 20:58:35 | がんばろう沖縄

「どうして沖縄はそこまで抵抗するのか」

これは沖縄の人たちが県外の報道記者からよく受ける質問だそうです。

その質問への答えの一つになるのではないかと

思えるのが次の資料です。

「沖縄は基地で潤ってきたじゃないか」

と本土で冷ややかに言う人は、この資料を読んだ後も

同じ言葉が言えるでしょうか。

人間はお金だけでは生きていけません。

人間が生きて行くには誇りが必要なのです。

 

      【米兵による戦後沖縄の女性に対する犯罪】

年代

月 日

事  項

処罰の方法

出典

1945

3.26

沖縄戦で米軍が初めて座間味村に上陸。数カ月後、米兵による強姦事件が発生。拉致してボートで連れ出し、裏海岸で強姦した後、放置。

不明

8

 

4月

米軍上陸後、強姦が多発し、各地域で住民による自警団が結成される。

 

8

 

8.20

祖母と食料探しのため海岸に出た32歳の女性、米兵につかまり強姦される。翌年4月、混血の男児を出産。(玉城村)

不明

10

 

8.21

友人2人と、子どもをおぶって薪取りに出かけた31歳の女性、米兵3人に拉致され消息を絶つ。(座間味村)

不明

2

 

9.8

子どもをおぶってヨモギを摘んでいた39歳の女性、4人乗りの米兵のジープに拉致され、カーブで道ばたに放り出される。背中の子どもは死亡。(羽地市)

不明

2

 

9.24

男性2人と石川の収容所に親戚を訪ねていく途中の19歳の女性、子どもをおぶったまま3人の米兵に拉致される。男性2人は米兵に銃を向けたれ、抵抗不可能。母子は2年後に白骨死体で見つかった。(石川市)

不明

2

 

10.24

46歳の女性、道路で米兵2人に襲われそうになり、がけ下に飛び降りて大腿骨折。その後、追ってきた2人に強姦される。(本部町)

不明

10

 

10.25

家具を失って岩の下で居住していた35歳の女性、夜トイレからの帰りに米兵2人に強姦される。翌年8月、男児を出産。(知念村)

不明

 

この年

 

宜野座米軍野戦病院に収容された重傷の女性を、MPが強姦するのを沖縄人労働者が目撃。

不明

4

1946

1.21

草刈り作業中の23歳の女性、米兵に森の中に連れ込まれ、ナイフでほおを切られたあと強姦される。その後、妊娠、出産する。(兼城村)

不明

10

 

1.

草刈り作業をしていた19歳の女性、米兵にすすき林の中に連れ込まれ、強姦される。混血の女児を出産。(糸満町)

不明

10

   

この月から、沖縄の女性たちに混血児が生まれる。(沖縄本島上陸から10カ月)

 

5

 

3.10

農作業中の30歳の女性、米兵3人に拉致、強姦される。12月に男児を出産。彼女の姉も、前年、出産直後、寝ていたところを米兵に拉致されそうになったが、住民の騒ぎで未遂に終わった。(具志川村)

不明

2

10

 

7.26

川に洗濯に出かけた34歳の女性、行方不明になる。8月1日に死体で発見されるが、口にぼろ切れが詰め込まれていたことと、住民の立入禁止地区で発見されたことから、米兵による強姦、殺害と推定された。(北谷村)

不明

10

 

8.30

芋の積み込み作業をしていた24歳の女性、米兵に捕まって強姦されそうになったところを抵抗。ナイフで切りつけられ重傷を負う。数人の男性の騒ぎで米兵は逃げてしまう。(具志川村)

不明

10

 

10.

農作業中の39歳の女性、米兵3人に山中に連れ込まれて強姦される。(具志川村)

不明

 

46~47

 

本土や海外からの引揚者が収容されていたキャンプのテント村では、米兵が進入して女性を強姦した。乱暴された後、自殺する娘も多かった。母、娘とも強姦されたケースもある。

 

9

47

3.

大勢の人たちと農作業をしていた女性、逃げ遅れて3人の米兵に拉致、強姦される。後に赤毛の男児を出産。(具志川村)

不明

2

 

5.8

34歳の女性給仕、所用で出かけて戻る途中、米兵に拉致され、浜辺で強姦される。農作業中の人たちに助けを求めたが助けられなかった。
(大宜味村)

不明

10

 

8.20

外出から帰ってきた24歳の女性、屋敷に潜んでいたフィリピン兵に強姦されそうになり、抵抗したところをナイフで刺殺される。(コザ市)

不明

10

 

9.9

28歳の女性、自宅にピストルを持った米兵が侵入したため、一旦逃げるが、生後6カ月の子どものことが気になり、戻ってきたところを畑に引きずり込まれて強姦され、ピストルで殴打されて死亡。(コザ市)

逮捕されるがその後、不明

 
 

10.

畑を開墾中の42歳の女性、フィリピン兵らに強姦される。(具志川村)

不明

10

1948

7.

中部農林高校の寄宿舎が台風で破壊されたため、民家に下宿していた女子高生、家主の知り合いの米兵に強姦される。助けようとした家主はナイフで切りつけられる。(具志川村)

不明

10

 

8.

フィリピン兵の集団に女性が拉致される。救出に行った地元の男性2人のうち、一人は殺され、一人は負傷。

不明

9

   

このころ、米兵が基地のまわりの民家に昼夜なく現れ、片言の日本語で女性の名を呼びながら、うろつく。(沖縄本島中部)

不明

6

 

9.14

生後9カ月の赤ちゃんが米兵によって強姦される。

不明

3

1949

9月

混血児人口450人
(那覇94人、前原50人、コザ73人など)

米国の「タイム」誌(1949.11.28)は、沖縄に駐留する米兵が「米軍の才能のないものや、のけ者のていのよいはきだめになっていた。9月までの6カ月間に米兵は18件の犯罪を犯罪を犯した」と論述する。(抜粋)

 

7

1

 

12

米軍部隊のメイドとして、働いていた17歳の女性、兵隊宿舎の中で米兵に強姦される。翌年、混血の女児を出産。(具志川村)

不明

2

   

1945年の上陸から、この年までの米軍人による沖縄住民に対する強姦、及び致死傷76件(うち強姦致死4人、拉致をおそれて車または崖からの転落死7人)-表沙汰になったもの

 

5

1950

2.17

夜11時頃、那覇市内で芝居見物帰りの2人の女性が米兵にカービン銃で脅迫されて連れ去られ、一人の女性は6人の米兵に、またもう一人は8人の米兵に強姦される。

不明

1

 

7.5

民家にフィリピン兵が侵入してピストルを乱射。主婦が捕まって強姦される。(具志川村)

不明

10

   

この年の朝鮮戦争勃発で沖縄における米軍基地建設はピークに達し、沖縄は朝鮮への発進基地となって米兵があふれる。

 

6

1951

5.

戦後6年間の強姦事件は278件

 

1

1952

3.25

那覇市内の民家に米兵がCIDと偽って入り込み、21歳の女性を強姦。さらに1時間後に引き返してきて逃げ回る女性を殴りつけ、再び強姦する。米兵はエンジニア部隊所属。

不明

1

1955

9.3

永山由美子ちゃん(6歳)が、嘉手納高射砲隊所属の米兵に拉致され、強姦された上、惨殺される。(石川市)

死刑判決後、45年の重労働に減刑

1

3

 

9.9

9歳の少女が就寝中に海兵隊所属の一等兵に強姦拉致され、重傷を負う。(具志川村)

終身刑

1

3

1956

9.23

特飲街でホステスが海兵隊伍長に惨殺される。変態性欲者の犯罪といわれる。(宜野湾村)

懲役8年

1

1959

3.17

20歳のハウスメイドが那覇航空隊近くで一等兵に強姦される。

陪審員合議で懲役10年、
平籍はく奪

1

 

10.28

22歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。死体は全裸で発見される。(コザ市)

懲役3年

1
3

1961

7.11

47歳のホステスが部隊を脱走した19歳の海兵隊員によって殺される。

逮捕され、一人は無期懲役

1
3

1963

7.3

22歳のホステスが那覇航空隊所属の上等兵に惨殺される。ふられた腹いせによるもの。

   
 

10.1

20歳のホステス、キャンプ・シュワーブ所属の米兵2人に野原に引き出されて強姦される。犯人はMPに現行犯逮捕される。(久志村)

不明

10

1965

1.24

28歳の女性のホステス、自宅で殺害される。米兵が容疑者として、取り調べを受ける。(金武村)

不明

3

1966

7.21

勤め先から帰宅途中の31歳のホステス、米兵に強姦、殺害され、全裸死体となって下水溝で発見される。(金武村)

迷宮入り

1

1967

1.24

32歳のホステスが18歳の海兵隊員によって絞殺、全裸で発見される。(金武村)

重労働35年の判決

1
3

 

4.2

34歳のホステスが米兵に強姦、絞殺される。(コザ市)

不明

1

 

11.20

20歳のホステス、自宅で就寝中に米兵にハンマーで頭を殴られ死亡。(金武町)

迷宮入り

1

   

この年、ベトナム戦争からの帰還兵による強盗、ホステス殺しが続発する。

このころ、米兵相手のバーでは、女性が一人でトイレに行くのは自殺行為だと言われた。

 

1

9

1968

3.29

浦添村の米軍施設内に努めていた35歳のメイドが同施設内に勤務する米人女教師に殺される。

米軍当局の許可で本国帰還

1

 

5.19

52歳の主婦、自宅前の路上でミサイル基地所属の上等兵に強姦、殺害される。(読谷村)

韓国へ出動させるが沖縄県警の捜査で逮捕。終身刑。

1

10

 

6.20

23歳のホステス、海兵隊MPに強姦される。その後短銃で殴りつけられたため、重体。宜野座村)

逮捕後不明

1

1969

2.22

21歳のホステス、砲兵連隊所属の二等兵に絞殺、全裸死体で見つかる。(コザ市)

逮捕後不明

1

 

3.3

20歳のホステスが死体で発見される。司法解剖の結果から米兵の犯行と断定。(那覇市)

迷宮入り

1

 

11.21

アルバイト帰りの25歳の女性を路上で上等兵が強姦。抵抗するたびにナイフで切りつける。(那覇市)

俸給二カ月分の罰金、降等

10

1970

5.28

出勤途中の21歳の軍雇用女性、米兵に襲われる。(浦添村)

証拠不十分で無罪

3

 

5.30

下校途中の女子高生が軍曹に襲われ、腹部、頭などめった刺しにされる。強姦が目的だったようだが、騒がれて未遂。教職員会、女性団体、高校生らの抗議で逮捕。(具志川市)

懲役3年の重労働、降等

 

この年

 

朝7時半頃、高校3年の女性とが登校中に、突然体が宙に浮き、上半身裸の3人の米兵に腕を捕まれたままジープで数秒間引きずられた。(宮古)

   

この頃

 

バーを経営していた女性が、カウンター内に入り込んで来た米兵に強姦される。その際、足と首に大けがをし、働けなくなる。

犯人は裁判中に配置転換

9

1971

4.23

22歳の女性ホステスの全裸死体が墓地で見つかる。目撃者の証言で海兵隊所属の伍長が逮捕される。(宜野湾市)

血液型が被害者と同じため証拠不十分で無罪

1

 

5.1

41歳の女性が海兵隊二等兵にドライバーで刺殺される。指紋体液の血液型などの証拠で逮捕。(金武村)

不明。本人は否認

1

 

5.21

女子中学生が米兵に強姦される。(コザ市)

犯人あがらず

1

 

5.23

出勤途中のホステスが米兵に空き家に連れ込まれ、強姦される。(コザ市)

迷宮入り

1

 

7.10

自宅前で遊んでいた12歳の精薄児を3人の米兵が輪姦。(宜野湾市)

逮捕後不明

1

1972

4.10

25歳のホステスを陸軍軍曹が殺害。排水溝に投げ捨てる。(泡瀬ゴルフ場横)

懲役18年

1

 

8.4

37歳のホステスが二等兵によって強姦、絞殺される。(宜野湾市)

無期懲役

1
3

 

12.1

22歳のサウナ嬢を海兵隊二等兵が強姦、シミーズのひもで絞殺。(コザ市)

無期懲役

1

1973

3.18

42歳のホステスが全裸絞殺死体で発見。第二兵たん所属の兵隊の血液型、指紋が現場のものと一致したが、物的証拠がなく、逮捕不可能。地元警察の米軍側への申し入れにも関わらず容疑者は二ヶ月後に除隊し、本国に帰る。(コザ市)

迷宮入り

1

1974

5.8

叔父と共に農道を歩いていた17歳の少女が、米少年兵3人に全裸にされたうえ輪姦される。叔父が殴られて気絶していたときの犯行で、叔父の訴えにより、犯人が判明。(金武村)

不明

1

1975

4.19

海水浴に来ていた二人の女子中学生をキャンプ・ハンセン所属の二等兵が石で殴って気絶させ強姦。米軍は容疑者の身柄引き渡しを拒否したが、地元住民、県議会の抗議行動で地元警察に引き渡す。(金武村)

懲役6年

3

10

1982

8.1

33歳の女性ホステス、新築工事中の部屋で、上等兵に絞殺される。強姦しようとしたところを抵抗され、殺す。(名護市)

懲役13年

1

1984

9.30

19歳の米軍一等兵女性、一等兵と二等兵に強姦され、車ごと焼かれて死亡。(宜野湾市)

懲役13年

1

1985

10.29

40代の女性が帰宅途中、キャンプ・ハンセン所属の二等兵と上等兵に拉致・強姦される。(金武町)

現行犯逮捕刑は不明

1

1993

5.

19歳の女性が陸軍軍曹に拉致、強姦される。被害者は告訴取り下げ。

除隊

3

1995

5.10

24歳の保険外交員の女性、米兵にハンマーで顔面を殴られ死亡。(宜野湾市)

係争中

3

 

9.4

米兵3人による小学生拉致、強姦事件発生

2人懲役7年・1人6.5年

3

 作成:高里鈴代・宮城晴美(1962.2.2)

〔出典〕

1.比賀朝進「戦後50年犯罪史」(風土記社)
2.福地廣昭「沖縄における米軍の犯罪」(同時代社)
3.沖縄タイムス
4.那覇市「那覇市史 飼料第3巻8」
5宮里悦編「沖縄・女達の戦後」(沖縄婦人運動史研究会)
6.「島マスのがんばり人生」(回想録編集委員会)
7.「うるま新報」
8.証言
9.NHK/ETV特集「沖縄は何を怒ったのか-軍隊と性暴力を問う女性たち」
10.福地廣昭「米軍基地犯罪」(労働教育センター)

〔凡例〕

1.「具志川村」は現在の「具志川市」のこと
2.地名は、事件当時の市町村名を使用
3.新聞の表記では「乱暴」「暴行となっているものでも、状況から「強姦」と思われるものはそのように表記している。
4.出典名が二つあるのは、両方を参考にしたと言うこと
「不明」は、捜査自体が行われていないと考えられるものもある。

 


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「宿で腕の見せ合いっこ」2015年6月6日(土)No.1377

2015-06-06 18:40:10 | がんばろう沖縄

昨夜、ブログにナオコさんの腕の写真を載せるため、

どんな状況だったか聞いていると、

長期滞在のミヤさんと一週間滞在の中さんが、

我も我もと腕をまくって見せてくれました。

下は青あざができた中さんの腕。

一昨日4日の座り込み時に引っ張られてできたもの。

4日とは機動隊の指揮官が

「この犯罪者たちを排除しろ!」と市民を指して部下に命じたことに

抗議して、前日と違い人数が少なかったためにたちまちごぼう抜きされた日です。

同様にミヤさんも・・・。

これは暴力ではないのでしょうか。

非暴力座り込みの人たちはほとんどがこのような怪我をしているのです。

4日はカヌー隊にもけが人が出ました。

下の琉球新報の第一面に載った記事を見てください。

海の暴走族、海保のボートが、泳いでボーリング工事への抗議に向かった

カヌー隊(辺野古ブルー)の一人に真正面から突っ込む直前の写真です。

今辺野古は、沖縄県民の意思をねじ伏せて従わせ、

何が何でもボーリング工事を進めようとする国家が、

それを何としてでも止めようとする沖縄県民や本土からの支援者を

暴力的に叩き潰そうとしています。

もっと、たくさんの人数が現場には必要です。

本土から多くの人たちが何度も、何度も、手弁当で駆け付けていますが、

いまだ来られていない本土の人で、来ることができる方がた、

どうぞ現地に足を運んでください。

どれほど沖縄県民が深刻に思い、死を賭してでも辺野古に基地を作らせないと

決意しているかが、ひしひしと伝わってくると思います。

本土のメディアは連日の辺野古の状況をぜひ継続して伝えてください。

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「激動の辺野古3日間」2015年6月5日(金)No.1376

2015-06-05 21:54:54 | がんばろう沖縄

6月3日、キャンプシュワブゲート前に何百人もの人々が集まりました。

前日からのボーリング工事再開に抗議し、

工事関係車両を通さないための座り込み大行動の要請に応え、

島のあちこちから、そして本土から、朝6時にゲート前に結集したのです。

我が?「海と風の宿」からも、

前日から泊まっていた岐阜の女性4人元気組が、

3ヶ月滞在のミヤさんの車とナオコさんの車に分乗して先発し、

ナオコさんが再度宿に戻って、

私、神戸のムラヤマさん、えりかさん(ナオコさんのお嬢さん)を

乗せて行ってくれました。

つまり、宿をすっからかんにして

全員辺野古のキャンプシュワブゲート前に駆けつけたのです。

下は翌日4日の琉球新報です。

私がこの写真のどこかにいます(正確に言えば帽子だけ)。

スクラム組んでいたナオコさんは機動隊にムギューっと

腕を引っ張られてこんなになってしまいました。

瀬嵩の浜も6月2日から連日賑やかになってきました。

今日も宿までマイクの声や太鼓の音が聞こえてくるので駆けつけると、

こういう場面でした。

海保に拘束された辺野古ブルーを解放すること、

ボーリング工事を直ちにやめることを海に向かって叫んでいるのです。

「不屈」「平和丸」などの船の名前が見えます。

浜には島ぐるみ会議のメンバーが降りていっています。

読谷村の旗が見えます。

「知花昌一さんもあそこにいるよ」と教えてくれたのは

今年2月だったか、「反省する海保たろう」のシナリオを書いた読谷村の

わんから?グループの方でした。

読谷村は何十年も前に私が沖縄で初めて覚えた村の名前です。

読谷高校の女子高校生が涙ながらに日の丸にしがみつき、

「校長先生、日の丸をあげるのをやめてください」と訴えた1987年の事件は

深く心に留めた出来事でした。

その時の女子高生は今、40代です。

ひょっとしてこの中にいるかも知れないと思い、

ちょっと胸がドキドキしました。

金曜日は小学校の読み聞かせの日なので、

後から宜野湾グループのバスできたという女性はこんなTシャツを着ていました。

 

抗議の傍ら、記念撮影(^_^;)。

左からえりかさん、ナオコさん、読谷の読み聞かせ名人。

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