毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「大阪駅そばに人骨1500体」No.3947

2020-08-13 23:39:12 | 歴史

JR大阪駅近くの「梅田墓」で見つかった埋葬人骨(大阪市文化財協会提供)=共同

 

上の写真を見て、

何年か前に訪れた西安の兵馬俑を思い出しました。

もちろん、あちらは作り物の兵士たちでしたが、

死のオーラが生きて見学している私たちを包み込み、

兵士像の身体の一部が破損している様子は

実際の人物の姿と重なり、厳かな気持ちになったものです。

今回、梅田北地域で発見されたのは

江戸末期から明治にかけて

屈葬された子供や病人を含む人骨1500体以上で、

庶民階級の人々と推定されるとのこと。

現代日本人に愛想が尽きかけている私としては

なんで日本人はこうなんだろう、昔からだろうか、と

意識がどうしても昔へ、昔へと向かっていく今日この頃です。

今は息子の店の見習い厨房スタッフで

「ちょっとお姐さん、水ちょうだい」などと呼ばれ、

ヘロヘロなんですが

落ち着いた暁には日本古典文学を読む会を開こうと

思いを募らせてもいます。

 

私が横目に見ながら何十回と通り過ぎていたあの梅北の土の下に

江戸期から明治時代に生きた大阪の庶民が、

150年~200年ほどもずっとひっそり横たわっていたと思うと、

「昔」と「今」が実感として繋がります。

ただいまこの時の時間の切り取りだけで生きてしまうのは

人生を損しているも同様だと思えます。

半世紀前、高校の世界史の先生が授業で言った通り、

「全ての歴史は現代に繋がっている」のですから。

 

今回発見された人骨の分析研究で、

江戸末期から明治にかけての庶民がどのような様子だったのか

明らかにされるのを楽しみにしています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「NHK『731部隊の真実』ドキュメントに中国外務省がコメント」No.2031

2017-08-18 02:24:13 | 歴史

8月13日放映(17日再放映)の

NHK「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」は、

非常に大きな意味のある内容の番組でした。

私は、音声はこれほど力を持つのか、と軍人や兵士たちの話す声に

聞き耳をたてました。

やや一本調子の棒読みに聞こえるのは、

あらかじめどんな質問がされるか知らされていたので、

それへの答えを準備していたのか、

或いは、尋問されている緊張感がもたらしたものかと思います。

いずれにしても、

この棒読みをもってして、ネトウヨが主張するように、

「ロシア側の準備した原稿を読まされただけだ。」

「731部隊は人体実験などしていない」

という根拠にはなりません。

下の写真は中国人捕虜(約3000人の捕虜はただの一人も生きて釈放されなかったと証言されています)。

中国外務省が、このドキュメント番組に対して「日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する」と論評をしています。

以前、学生が作文に

「過去に日本がしたことを認めさえすれば、私たちは心から許すことができます。酷いことをしたくせに、していないと言うから、みんな怒るんです。」

と書いていたことを思い出します。

以下、J-CASTニュースからの引用です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

番組では、戦後に731部隊のメンバーを旧ソ連が裁いた軍事裁判の様子を収めたテープを発掘。中国人の囚人に細菌を感染させたり、わざと凍傷を負わせたりする人体実験の様子が語られた。中国外務省は番組について「日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する」と異例の論評をした。

「ハバロフスク裁判の音声記録」を公開

番組は、ロシア国立音声記録アーカイブで発掘された1949年の軍事裁判「ハバロフスク裁判」の約22時間にわたる音声記録や、731部隊に「少年兵」として属していた人のインタビュー、京都大学などに残されていた資料などで構成。人体実験の実態や、軍からの多額の研究費の見返りに、東大や京大が多くの医師を731部隊に送り込んで人体実験を進めていたことを指摘した。

「この裁判は、これまでソ連が公表した文書の記録しかなく、ねつ造だと批判する声もありました。今回見つかった音声記録では、部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました」

と説明した。

当時の憲兵や衛生兵が、人体実験の様子を次のように証言する音声が流された。

「中国人、それから満人(満州人)を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水を作って、砂糖水の中にチフス菌を入れて、そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて、そしてその人体実験によって亡くなった人は12~13名だと記憶しています」

「人体実験を自分で見たのは1940年の、確か12月ごろだったと思います。まず、その研究室に入りますと、長い椅子に5名の中国人の囚人が腰をかけております。それで、その中国人の手を見ますと、3人は手の指が全部黒くなって落ちておりました。残りの2人は指がやはり黒くなって、ただ骨だけが残っておりました(中略)凍傷実験の結果、こういうことになったということを聞きました」

中国外務省「一連の史実は動かしがたいものであり、否定できない」

番組に対して、中国政府は異例の反応を見せた。中国外務省の華春瑩副報道局長は8月15日の定例会見で、記者から番組について

「日本の731部隊が罪を認める20時間を超える録音を掘り起こし、中国侵略戦争で同部隊の犯した凶悪犯罪を完全に復元した」

などとコメントを求められ、次のように番組を称賛。歴史問題の「正しい理解と深い反省」を改めて求めた。

「第2次世界大戦中、日本の侵略軍は中国人に対して極悪の細菌戦を発動し、残酷で非人道的な人体実験を行い、反人類的な極悪犯罪を行った。

一連の史実は動かしがたいものであり、否定できない。この時期の歴史を正しく認識することでのみ、日本は歴史の重荷を下ろすことができるようになる。

我々は歴史の真相を暴く日本の洞察力のある人々の勇気を賞賛する。

日本側が国内外の正義の声に注意深く耳を傾け、日本軍国主義の侵略の歴史を正しく理解し、深く反省して、中国などアジア被害諸国の国民感情を真剣に尊重することを希望する」

中国共産党の機関紙、人民日報も8月16日付の紙面で、「歴史から学んで初めて未来を獲得できる」と題するコラムを掲載した。コラムでは、番組終了後、日本の視聴者からも

「本当に恐ろしい。人間がすることとは思えない」
「これが事実ならば、私たち日本人はこういったことを繰り返してはならない」

といった声があがったとしながら、日本政府は「資料がない」ことを理由に事実関係を認めていないことを指摘。その上で、

「自らの歴史観を正し、侵略の罪状を深く反省することによってのみ、本当に世界からの尊敬を得ることができる」

などと政府と同様の主張を展開した。

 日本政府「細菌戦を示す資料は確認されず」

 8月17日夜時点では、日本の大手メディアで同番組について触れたのは華氏の発言を伝えた朝日新聞と日経新聞。日経(電子版、15日配信)は、中国のネット上で「歴史を直視した」といった賞賛の声がある一方で、「報道の自由がある国がうらやましい」と中国の報道規制を批判する声もあったことを指摘している。また、朝日は華氏発言とは別に、15日付朝刊「ひと」欄で、父が731部隊の軍属だったという元高校教師を取り上げている。

731部隊をめぐっては、小泉内閣が03年、川田悦子衆院議員(当時)の質問主意書に対して、その存在を認める答弁を閣議決定しているが、その活動内容については

「外務省、防衛庁等の文書において、関東軍防疫給水部等が細菌戦を行ったことを示す資料は、現時点まで確認されていない」

とするにとどめている。

今回のNHK番組に対して、ツイッターなどネット上では、

「もっと日本人はこのこと知るべきだと思うんだよね」
「私は これが真実だと思うよ」

といった肯定的な反応も出る一方、

「滅茶苦茶な放送をするなよ、完全にプロパガンダだろ」
「強制収容所では、赤化教育がなされ徹底的に思想矯正を受けた」

などの反発も寄せられている。

ーーーhttps://www.j-cast.com/2017/08/17306123.html?p=all

(写真は全てNHKの当該番組から)

「Nスペ『731部隊の真実』は捏造報道」と主張するネトウヨ・ツイート集 は下記のサイトで。

https://twitter.com/i/moments/896717087179026434

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「国が人民を治めるためには人徳が必要である(孔子)」No.1975

2017-06-17 09:52:31 | 歴史

山東省(魯の国)は多くの優れた思想家や政治家を輩出したところですが、

その中でも孔子の名を知らない人はいません。

日本がまだ縄文か弥生時代だった頃中国で既に、

人性は、そして国政はどうあるべきかを説いて歩いた政治家であり、

思想家、教育者です。

その孔子に由来する故事の中に

まさに今の日本の状況を喝破したものを見つけました。

(小中学生用ですけど(;^_^A))

【故事成語】

    苛政(かせい)は  虎(とら)よりも 猛(たけ)し

 

【意 味】
悪い政治(重税や厳しい刑罰をおこなう政治)は人を食う虎よりも恐ろしいということ。だから、悪い政治はしてはならないということ。 

【由 来】
孔子が墓の前で泣いている母親を見かけて、その理由を尋ねると、その母親は父、夫、息子を虎に食い殺されたという。

そこで孔子が、なぜこんな危ない土地から逃げないのかと尋ねると、   「ここでは、苛政(悪い政治:厳しい刑罰や重税)がないからです」と答えたことから、この語ができた。(礼記 らいき)

【備 考】
 孔子(こうし)(紀元前551~紀元前479)
儒教を起こした。
魯の国の大司空(=法務大臣)になり魯の政治改革を行うが、貴族の反対にあい失敗する。やがて、弟子を集め放浪の旅を続けながら教育活動を続けた。
春秋時代の社会の混乱の中で、礼(人間が従うべき慣習のこと)の復活をめざす。国が人民を治めるためには人徳(仁、孝など)が必要であると唱えた。
 


この時代の中国と日本

 



「小中学生のための学習教材の部屋〈知識の泉〉」より
http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/koziseigo/kasei.htm
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「アベ靖国訴訟判決を目の前で見たけど」No.1578

2016-01-28 15:52:17 | 歴史

今日は、久々に傍聴券を入手しました。

思えば、この裁判が始まったとき一回当たって以来、二回目の当選です。

(つまり、最初と最後の二回 )。

いつもの裁判には記者団などほとんど誰も来ていなかったのに、

今日だけは裁判所前に人だかりがしていて、

法廷でも傍聴席の前から三列が記者席になり、30人は座っていましたね。

(いつも来て報道してくれたらよかったのに~)と、ちょっぴりすねましたね、私は。


法廷で裁判長が判決を読み上げました。

あの、私たちはかなり勘違いしていると思います。

少なくとも私は勘違いしていました。

裁判官は学者と肩を並べるくらいの認識が深い人たちだと思っていたのです。

今日の裁判長(佐藤哲治さん)から感じたのは、

なんか冴えない公務員かサラリーマン

(いえ、公務員やサラリーマンは、即ち冴えない、ということではありません)

という雰囲気で、私は思わずメモ帳に似顔絵を描きました。

 

人は見かけによらないと言いますが、

佐藤さんは、こう言ってはなんですが、お見かけ通りの方でした。

ペラペラで薄っぺらく、裁判官としての人格が感じられない、

お役所の書類のような判決文でした。

(なんか、文を読み上げる雰囲気が誰かに似ているな)と思ったら、

アベ首相でした。

その辺のあまり勉強してこなかったおじさんみたいな裁判官が、

遠く台湾で日本軍兵士として戦争に駆り出され、

むりやり靖国に「英霊」として祀られた戦没者遺族や、

肉親を戦争で亡くした人たち、

遺族であり神道とは異なる宗教を信ずる人たち、

新たな戦争への道を強引に進む国によって

平和的に生存する権利を脅かされている若者たちなど、

私たち庶民一人ひとりの歴史を、上っ面だけ聞くふりをして最後に、

「いや、ボク、過去のことはわからないから~。

今の法律から見て靖国参拝のどこが問題?」

と言ったに等しいような判決でした。

(そうか、キーワードは『歴史』だ。ブルーハーツの、

『歴史がぼくを問い詰める 青い空の真下で~』とはそういうことか)と

私は妙に納得しました。

〈全ての歴史は『現代史』である〉とは哲学者、ベネデット・クローチェの有名な言葉です。

私は高校生の時、世界史の先生からその言葉を聞いて、

ものすごく納得し、感動しましたが、

大阪地裁の佐藤裁判官も含めて、今、日本の多くの人々は、

歴史の大切な真実を捨象し、

社会に生起する様々な問題の背景を振り返って検証することなく

断ち切る傾向が顕著です。

歴史の大切な真実とは、

その時代に生きた一人ひとりの人生によって形成されているのであり、

歴史から、無数の庶民の姿が浮かんで来なければなりません。

為政者が歴史の主役ではないのです。


そのことに考えが及ばない人々は、あらゆる事象に対して浅薄な認識しか持てず、

日本社会は雪崩をうって浅薄で貧相なものに変化しているという現実があります。


私の聞き間違いでなければ、佐藤裁判長は、

「時代とともに裁判での判定の基準が変わることがある」

と、以前の福岡地裁や大阪高裁での判決は時代遅れと言わんばかりの言葉を発しました。

今日の大阪地裁の判決は、

「事象の背景・歴史を掘り下げない裁判にろくなものはない」という見本になる

つまらない判決だと私は思います。


今日は早々とヤフーにいくつか記事が出ました。

ここに記事を転載させていただきます。

 

―――朝日新聞デジタル 1月28日(木)10時38分配信

安倍首相の靖国参拝、原告の請求棄却 大阪地裁

 安倍晋三首相による2013年12月の靖国神社参拝で精神的苦痛を受けたとして、国内外の戦没者遺族ら765人が安倍首相と国、神社に1人1万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が28日、大阪地裁であった。佐藤哲治裁判長は「原告らの法的利益を侵害していない」として請求を退けた。参拝が憲法の政教分離原則に反するかは判断を示さず、今後の参拝差し止めを求めた訴えも棄却した。

 安倍首相の参拝に対しては東京地裁にも国内外の633人が提訴しており、大阪地裁判決が先行した。現職首相の靖国参拝をめぐっては、過去に中曽根康弘氏、小泉純一郎氏について訴訟が起こされ、小泉参拝に関する8訴訟のうち福岡地裁と大阪高裁が「違憲」と判断している。

 安倍首相は13年12月26日、礼服姿で公用車に乗り、戦没者約246万人が合祀(ごうし)されている靖国神社へ参拝。宮司の出迎えを受けて昇殿し、「二礼二拍手一礼」の神道形式をとり、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳。私費で10万円の献花料を納めた。

 39都道府県や台湾に住む戦没者遺族や被爆2世、宗教者ら20~80代の原告団は、こうした参拝方法や外交上の影響が見込まれる韓国や米国にも事前通告した点を踏まえ、「職務として公的参拝したのは明らか」と指摘。公権力が特定の宗教と結びつくことを禁じた憲法20条の政教分離原則に反すると主張した。

 そのうえで、戦争責任を負うA級戦犯も含めた戦没者を「英霊」として顕彰する宗教施設を国の代表者が特別に支援する印象を与えたと指摘。戦没者が靖国に祭られていること自体をよしとしない遺族原告らは首相参拝で一層苦しみ、憲法上の内心・信教の自由、身近な人の死を悼む方法を自ら選ぶ自己決定権を圧迫されたと訴えた。

 さらに、集団的自衛権の行使容認などを進める安倍首相が、戦前の軍国主義を支えた靖国神社に参拝するのは「戦争の準備行為」とみなせると主張。戦争遺族以外の原告らも、憲法前文がうたう平和的生存権を侵されたとした。

 一方、安倍首相や国側は参拝はあくまで私人の立場で、首相個人の信教の自由の範囲内であり、政教分離原則に反しないと主張。参拝時の公用車使用は警備上の都合で、肩書付きで記帳したのも地位を示す慣例上の行為にすぎないとした。小泉参拝訴訟で最高裁判決(06年6月)が「参拝行為で不快の念を抱いたとしても、直ちに損害賠償の対象となる法的利益の侵害とは言えない」とした点も踏まえ、今回の参拝でも具体的な損害はないと反論した。

 靖国神社側も06年の最高裁判決を引き、首相の参拝が個人の利益を害しないことは明らかと主張。参拝の趣旨に沿った参拝をする人なら、安倍首相を含め誰でも参拝を受け入れているとしていた。(阿部峻介)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160128-00000023-asahi-soci

 

―――時事通信 1月28日(木)10時14分配信

首相靖国参拝憲法判断せず=原告の差し止め請求棄却

―法的利益侵害認めず・大阪地裁

 

 安倍晋三首相が2013年12月に靖国神社を参拝したのは、政教分離を定めた憲法に違反し、平和的生存権の侵害だとして、全国の戦没者遺族ら765人が首相や国、靖国神社を相手に、将来の参拝差し止めと原告1人当たり1万円の慰謝料を求めた訴訟の判決が28日、大阪地裁であった。
 佐藤哲治裁判長は「参拝による原告らの法的利益の侵害を認めることはできない」と述べ、請求を棄却した。違憲性の判断はせず、参拝が首相の職務行為か公私の区別にも言及しなかった。
 安倍首相の靖国参拝に関する訴訟は、東京、大阪両地裁に起こされ、判決は初めて。原告らは控訴する方針。
 佐藤裁判長は、首相の参拝について「特定の個人の信仰を妨げたりして圧迫、干渉するような性質のものではない」と指摘。内心の自由や信教の自由の侵害との原告の主張に関して、最高裁判決を踏襲し、「自己の心情や宗教上の感情が害されたとして不快の念を抱いたとしても、直ちに損害賠償を求めることはできない」と退けた。
 過去には小泉純一郎元首相の参拝で違憲判決が出ているが、佐藤裁判長は「社会情勢や国民の権利意識の変化で裁判所の判断が変わることもあり得る」とした。
 原告は首相の参拝について、憲法前文や9条で保障された「平和的生存権」の侵害と訴えたが、判決は「平和的生存権として保障すべき権利、自由が現時点で具体的権利性を帯びているか疑問」と退けた。
 安倍首相側は参拝は私的行為で、原告らの法的利益を侵害していないとして、請求棄却を求めていた。首相は第2次政権発足から1年となった13年12月26日、靖国神社を昇殿参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳した。
 萩生田光一官房副長官は28日の記者会見で、判決について、「国の主張が認められたものと承知をしている」と述べた。首相が参拝に公用車を使用したことに関しては、「警備上の問題だとか、緊急対応の問題などを考えると、公用車以外の車で移動するということは想定できない」と話した。

http://news.yahoo.co.jp/pickup/6189192


―――東京新聞 2016年1月28日 夕刊 

安倍首相の靖国参拝訴訟 大阪地裁、差し止め請求を棄却

 安倍晋三首相による二〇一三年十二月の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に反するとして、国内外の七百六十五人が国と首相、靖国神社に将来の参拝差し止めと一人当たり一万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は二十八日、請求を棄却した。参拝の公私に関する区別や違憲かどうかの判断は示さなかった。

 安倍首相の靖国参拝をめぐる訴訟は東京地裁でも起こされており、判決は初めて。原告側は控訴する方針。

 佐藤哲治裁判長は判決理由で、靖国神社を歴史的経緯から一般の神社とは異なると位置付けた上で「一般人と比べ、首相による参拝は原告らの信教の自由などに大きな影響を及ぼすことは認めることができる」としながらも「神社に参拝する行為自体は他人の信仰や生活に干渉するものではなく、原告に法的利益の侵害があったとはいえない」と判断。

 小泉純一郎元首相の参拝をめぐる〇六年の最高裁判決の判断手法をほぼ踏襲した。

 安倍首相は第二次政権発足から一年の一三年十二月、現職首相として小泉元首相以来約七年ぶりに靖国神社を参拝。公用車を使って訪れ、「内閣総理大臣 安倍晋三」名で献花した。

 原告は二十~八十代で、大学生や会社員、主婦のほか戦没者の遺族、在日コリアンらも参加。閉廷後の記者会見で、福岡市の僧侶木村真昭さん(65)は「後退どころか、裁判所の存在理由を失わせるようなでたらめな判決だ」と批判した。

 原告側は憲法二〇条の政教分離原則違反を訴え、さらに安倍首相による参拝を「軍国主義を発展させて戦死を美化した神社の役割を承認するもので、憲法九条の改正を目指す姿勢を含めて戦争への準備行為といえる」として、平和的生存権の侵害に当たると主張していた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016012802000253.html


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どっこい、それでも生きてきた」2015年4月27日(月)No.1346

2015-04-27 19:33:53 | 歴史

 

佐野洋子風の書き出しに引かれて一気に読んだ。

三重県戦争資料館の  体験文集 > 戦後の耐乏生活

のページで見つけたエッセイである。


戦後すぐの日本の人々はとても元気だったらしい。

映画『三丁目の夕日」での東京下町の画面にも、

(これから日本はよくなる!)といった希望が溢れていた。

もう、戦争をしなくてもいいこと、

何もかもなくなってしまい、

自分の本来持っている力の全てを出さざるを得ない環境だったこと、

個々の創意工夫による新たな経験が生きる道を切り開いたこと、

そんな状況が人々の顔に生気をみなぎらせたのかも知れない。

当時の元気な日本の庶民の顔が浮かんで、自分も元気になる。

そう言えば、去年までいた中国(江西省南昌)の街も、

そんな元気な人たちで満ち溢れていたなあ。


―――「櫓を漕ぐ“かいな”は甲種合格」

(1995年に書かれたもの;作者不詳)―――


終戦をタイ国で迎えた父が、抑留、残務整理と数々の任務を終え、 

帰ってきたのが昭和二十一年八月の事。

父の帰りをせつない程に待ちこがれていた母は、

「あんた遅かったやないか、いままで何しとったんや。

よその人は早うに帰ってきたのに。」

父は、母の傍にいた汗疹だらけの私を抱き上げて、

「女の子が生まれた言うてたが、汚い子やないか。」

これが無事再会できた夫婦の言葉だったそうです。

この時の私は二歳でした。


父は出征前に働いていた愛知県の工場が戦災で焼失したのを知りましたが、

途方に暮れることなく、

 故郷である志摩半島の先端である鳥羽で漁師をしようと決心をし、

再起に奮闘しました。

夏場は鯛などの一本釣り、冬はボラ、コノシロの揚繰り漁が盛んで

漁獲量のよいところです。

気の強い父は、早く立派な漁師になって家族が安楽に暮らせるようにと、

人一倍頑張りました。

さっそく知人から譲り受けた小舟を海に出し、

しばらくは鳥羽湾内で小物釣りをしていました。

装備など何もないちょろ舟を、海に向かって櫓一丁であやつり、力一杯漕ぎ、

自分で探りあてた漁場に夜明け前にはたどり着くのです。

舟が流されないように、左手で櫓を漕ぎながら、

右手には希望を託した釣り糸のテグスを海に垂れる。

釣り始めるころには空は白み、

他の漁師がエンヤエンヤと、櫓を漕いでるのが見える。

小さなちょろ舟で広い海を行くのは、根気のいる仕事、

そのうえ足腰の踏んばり、腕、肩の強さが必要です。
 

父のこの頃の口癖は、

「俺の体は甲種合格。

お国の折り紙付きじゃよって、ちょっこらちょっとではへこたれんわい。」

苦しい時、自分自身の体を励ましながら、

初めて挑戦する漁師の仕事に打ち込んでいきました。

三か月がまたたく間に過ぎ、漁師たちがボラ漁の準備に追われる頃、

漁業組合に入ることができました。

網を二隻の船に乗せて海にでる揚繰り漁は、一本釣りとは違い、

大勢の人数で一致団結をし、またそれぞれの役割があります。

漁見小屋では常に潮のようす、魚群の確認をしながら、漁に出るチャンスをみる。

父は先輩の漁師から、男らしく勇壮な揚繰り漁のありさまを聞くたびに、

胸を躍らせたそうです。

 

ゴム長靴にかっぱ姿で合図が町中を駆け巡ったのは、師走に入りすぐのこと、

「ヤーイ、みんな出てきてくれ-、ボラやぞ-、ボラ獲りや-、ヤーイ。」

父も身じたくを急ぎ、河岸まで叫びながら走った。

二隻の船にはそれぞれ八丁の櫓が据えられ、ベテランの漁師たちが役割についていた。

いまにも出漁というその時、櫓をかまえていた漁業組合長が、ひときわ大声で父を呼び、

「お-い、かわって櫓を漕いでくれ。」

父はそんな大役をと感激し、急いで船に飛び乗り、

初めての大きな櫓に″かいな”をまわした。

「若いおまえの力で頑張ってくれ、頼むぞ。」

組合長に背を押されたときに、何と答えたのか覚えがなく、とにかく必死で漕いだ。

やがて鳥羽の平穏だった海は、父たち男の豪快なかけ声と、歓喜に満ちた叫びが響き、

夜半に出漁したボラ獲りは、東の空が暁に輝くころまで続いた。

漁師だけでは人手不足なので、町中のおばあちゃん、子供まで河岸に集まり、

捕獲されたボラの整理に追われ、一段と活気溢れてどの顔も、どの顔も皆、笑っていた。


恐ろしく、忌まわしい戦争が終り、何もかも無くし、不安な生活の中での事でしたが、

父や母にとっては、かけがえのない幸せな時だったと申します。

あれから、幾たびも季節を越えて、歳月がすぎました。

赤ん坊だった私も五十一歳になりました。

今は亡き父の墓前に母と参り、母の語るつれづれ話に、

まぶしさを味わいながらゆっくりと相槌を打っています。

 

現在、文明文化の発展は、とどまることなく進みますが、

あの戦争を過去の一瞬の出来事ですませられません。

戦争で苦しみ、その後は復興に努力惜しまず頑張り続けてきた人々のことを忘れないで、

今の世に感謝したいと思います。

―――三重県戦争資料館

http://www.pref.mie.lg.jp/FUKUSHI/heiwa/bunsyuu_09.htm

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「写真『焼き場に立つ少年』を中国に送った」2015年4月26日(日)No.1345

2015-04-26 21:23:09 | 歴史

江西財経大学日本語学科4年施芳芳さんの卒論テーマ、

日本人の『もったいない』精神」

と関連して先日このブログでもアンケートをお願いした。

彼女は今、一生懸命に論文をまとめているところだが、その中に

〈戦争、災害のため失われた、命や環境の「もったいなさ」〉という項があり、

広島、長崎の原爆投下による子どもたちの死を具体例に挙げていた。

私は、その文に資料として添えたらどうかと思い、

あの有名な一枚の写真を施芳芳さんに送った。

「焼き場に立つ少年」である。

 

 背負われた弟は既に死んでいる。

弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。


 1945年当時、この写真を撮影したアメリカ海兵隊所属ジョー・オダネル軍曹

 

 自分がこの写真を初めて見たときから、もう15年は経つだろう。

今、改めてこの写真を見ると、最初に見た時の衝撃が何倍にも増幅して心を揺さぶる。

見ている自分の鈍感さを責める別の自分がいて、

(お前なんかに分からない、この子どものギリギリの痛みは)と言う。

この写真を撮影したアメリカ軍海兵隊所属ジョー・オダネル軍曹は、

軍が許可していない日本の人々の写真を何枚も撮り、

それを60歳過ぎるまで誰にも見せず秘密裡に保管していた。

あまりにも重いものが詰まっているこの写真を前に思いがつかえて、

今日は書こうとしていた言葉が出てこない。

この時の状況をオダネル氏自身は次のように説明している。

――――――――――――――――――――――――― 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。


夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]

―――――――――――――――――――――――――――

写真・インタビュー文は「ウィンザー通信」さんからお借りしました。

「ウィンザー通信」http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/c45f9793732aa7e8116d123f503b3dd9?fm=entry_awp

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自国中心主義はあらゆる害悪のもと」2015年3月15日(日)No.1112

2015-03-15 22:14:35 | 歴史

TOEIC前3日間は、メールチェックくらいで、ネットにつなぐ時間を制限していた。

そんなわけで今日、久しぶりにしこたまfacebookを見、

you tubeでガンガン音楽を聞いた。

そのfacebookに、

3年前の江財大卒業生(深圳在住)から友達リクエストが来ていた。

(有料の何かを買えば中国でもFBが見られる)。

また南昌にもどるとのこと。

南昌は、心のホッコリした人々が暮らすところだから、

大都会の暮らしに疲れた人が帰っても、きっと、以前と同じ顔で迎えてくれることだろう。

 

さて、今日はfacebookである記事を読んだという話。

「前畑ガンバレ、ガンバレ、勝った、勝った、勝った、前畑勝った!」

で有名なベルリンオリンピック(またの名を「ヒトラーのオリンピック」と言うらしい)で、

日の丸を胸につけてゴールし、優勝したマラソン選手、孫基禎氏の話だ。

なぜ朝鮮人選手が日の丸をつけていたのか。

日本は1910年から1945年9月朝鮮総督府の降伏時まで

韓国を併合して日本国のものにしていたので、

当時、朝鮮人の国籍は日本だったのである。

それがどれほど屈辱的なことか、自分の身に置き換えて考えたらすぐ分かることを、

ネトウヨたちは、「韓国のためにいいことをしてあげた」と言うのである。

これを自国中心主義という。

国際交流・国際理解にとって、最も弊害となる考え方だ。

孫基禎選手について、私はほとんど知らなかった。

NHKラジオに「こころを読む」シリーズがあり、

2013年1月、ちょうど冬休みで大阪に帰省していた私は、

「オリンピックと日本人」という題で池井優慶應義塾大学名誉教授が

13回に渡り、話をされていたのを興味深く聞いた。

そのとき、前畑秀子選手については非常に詳しく説明した池井名誉教授だが、

孫基禎選手についてはどうだったか覚えていない。

後にNHKラジオテキストで同題のムックを買って読んだが、

そこにはただ1行、

『マラソンで当時日本の統治下にあった朝鮮から出場した孫基禎(ソンギジョン)が優勝し、』

とあるだけだ。

しかし、実際には彼の優勝は朝鮮民族の抵抗とさらなる迫害をもたらし、

さらっと流すようなことではなかった。

何しろ孫選手はそのとき『日本人』だったのだ。

「オリンピックと日本人」というテーマを設定しながら、彼について触れないのは、

池井教授が日本による朝鮮統治の実態について言及することを避けたとしか

考えられない。

このように、自国にとって都合の悪いことは歴史の裏側に葬り去られる。

しかし、悪いことをされた方は絶対に忘れない。

もし、日本がされていたらそんなに簡単に忘れることができるだろうか。

「いつも、された人の立場に立って考えよう」と、

大阪の小学校では子どもたちに言っていた。

大人たちも初心にかえってみようじゃないですか。

 

―――鄭 喜斗さんの記事 https://www.facebook.com/kito.tei?pnref=story

オールジャパンと最後まで戦ったマラソン孫基禎

1936年ベルリン五輪の男子マラソンで優勝した孫基禎氏(1912~2002)。                               「日の丸を胸につけながらゴールし」、東亜日報では塗りつぶして報道し、                                 これを「日章旗抹消事件」という。

孫の最大のライバルは同じ朝鮮民族の南昇龍(ナム・スンヨン)であった。...
マラソンの出場枠は一国三人。
このままでは二人までが朝鮮人。                                                               そのことを苦々しく思った陸連は、日本人選手二人を代表に加え、                                       大会直前に現地で最終予選を行うという無茶までして、南を落とそうとした。
しかし孫、南の二人そろっての出場。                                                          本番では、孫が金、南が銅メダルという見事な結果!

韓国人初の金メダリストという快挙に、現在の韓国紙『東亜日報』が                                 表彰台に立つ孫氏のシャツの胸にあった「日の丸」を塗りつぶした写真を掲載。

朝鮮総督府は警戒を強め、『東亜日報』を無期(10カ月)停刊処分とするとともに、                         社員を逮捕拷問し、社長をも逮捕して言論機関からの追放処分した上、                                  孫さん自身、ソウルでの祝賀会は禁止され、事実上競技会から追放された。

当時のオリンピック記録となる2時間29分19秒2で金メダルを獲得した。
水泳で優勝した前畑秀子らのように、英雄として迎えられるはずの孫基禎は                              歓迎の人波から隔離され、犯罪者のようにベルリンでの行動を厳しく追及された。

孫基禎は、金メダルをとったがゆえに、さまざまな苦難にさらされることになる。
しかし1988年のソウルオリンピック開会式では                                               聖火をスタジアムに持って登場したことを覚えている。

五輪公式記録によると優勝当時の彼の国籍は日本
1970年には韓国の国会議員がベルリン五輪スタジアム優勝者記念碑の「JAPANをノミで削り、「KOREA」と彫り直した。
しかしIOCは日本のJOCの意向で「JAPAN」に戻した

しかし米国ではカリフォルニアにある五輪歴代マラソン優勝者記念碑や五輪記録集などはKoreaと記載されている、、、、、。

「日本オリンピック委員会(JOC)がIOCに国籍変更を申し出てくれれば解決するはず」というのが孫さんの主張であったが、JOCの反応は冷たく、結局孫さんの願いはとうとうかなわなかった。

2000年に糖尿病が悪化し、合併症足の切断を担当医師が勧めた時、                                     「金メダルを取った足なのだから、切りたくない」と、病床でかたくなに拒否。
2002年ソウル市内の病院で死去した。享年90歳。

最近政治家がよくいう、オールジャパン!!
この日本に、このオールジャパンという幻想の中に、どれほど胸を痛めている人がいるか。

 

―――鄭 喜斗さんの文ここまで

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『英霊の尊い犠牲』の意味」 2013年8月30日(金) No.734

2013-08-30 22:09:34 | 歴史
この夏、最も印象に残った記事の一つに、
ある日本軍元兵士の告白を取材した8月15日朝日新聞デジタル(石橋英昭写真・記事)
「強盗、殺人…軍命でも私は実行犯」-罪語り、誓う不戦 兵の体験、次代に-
がある。


戦時中フィリピンで従軍し、
昨年92歳で亡くなった矢野正美さんは、
黙っていれば優しい好々爺として一生終われたものを、
戦争で自分が為した非道な行いを語った。
戦後、ずっと胸に仕舞い込んで誰にも話さなかった彼が、
意を決して話し始めた心境は、ただ想像するしかないが、
日本人というより、人間の先輩として私は、矢野さんを拝みたい。
「犠牲になった英霊」たちも、矢野さんのようにしたかったのではないか。
「自分たちは上官の命令に従っただけだと言っても、
自分たちのしたことは罪深い。
‘尊い犠牲’などと誤魔化されているが、酷いことを国によってさせられた
悲しい実行犯であり、その死によって真実を語る自由を奪われている存在なのだ」
という亡くなった兵士たちの絶望の声が聞こえる。
だからこそ、矢野さんは戦友の声を代表して、
どうしても言わなければならなかったのではないか。

(矢野さん、語ってくださって、本当にありがとうございます。
日本と日本人が犯した過ちを繰り返さないために、
矢野さんの遺志をどう受け継いだらいいか、今、私は考えています)


ここから掲載-----------

広い庭にやせこけた兵士が片ひざをついている。
台座に「不戦」の2文字。
この像を建てた主、矢野正美(まさみ)さん(愛媛県西条市)は
昨年2月、92歳で亡くなった。
戦場で犯した罪を語り、何度も「8月15日まで生きたい」と言い残した。
矢野さんが伝えたかったものとは何なのか。

 首都圏を中心に戦争体験者の証言記録に取り組んできた神(じん)直子さん(35)に、
矢野さんから突然連絡が来たのは、7年前の夏。
その朝、テレビで神さんの活動が紹介された。

 「ぜひ、愛媛に来てください」。
3カ月後、神さんの前で矢野さんは2日間、従軍したフィリピンであったことを語り続けた。

 ルソン島のある村で、ゲリラ潜伏を調べていた時。
教会から出て来た老女が怪しいと、上官が銃剣で突くよう命じた。
 「しょうがない。グスッと胸を突いたら血がばーっと出てね。
空(くう)をつかんで、その人は倒れました」。
別の村では、残っていた子連れの女性を襲った。
 「強盗、強姦(ごうかん)、殺人、放火。
軍命であっても、私は実行犯。罪の意識はある。
かといって(戦友の)慰霊には何回も行ったが、謝罪のすべを知りません」

 こんな恐ろしい告白もあった。
 敗走を続け、飢えに苦しんだ山中で、日本人の逃亡兵を仲間の兵が殺した。
その晩、仲間の飯ごうから、久しぶりに肉の臭いがした。
「奪い合うように食べました」。
次の日には自ら死体の所へ行き、足の肉をはぎ取った。

 1941年に陸軍に入隊した矢野さんは、
44年夏、旧満州からフィリピンに転じた。
米軍との激戦で日本軍約60万人中50万人が死に、
矢野さんの部隊の生き残りはわずか1割。
フィリピン人は100万人以上が犠牲になった。

 45年12月、25歳で復員。
家庭をもうけ、砂利運搬船を持ち、懸命に働いた。会社を興し、財をなした。

 ■狂気・むごさ、碑に
 戦後40年がたったころ、同郷の陶芸家・安倍安人(あんじん)さん(74)が、
矢野さんの戦中の日記を偶然読んだ。
収容所でトイレ紙にメモしたものを引き揚げ後、大学ノート6冊に清書していた。
「きれいごとじゃない、人間と人間のつぶし合いを、
矢野さんは克明に書いていた。驚きました」

 日記は安倍さんらの手で出版社に持ち込まれ、
「ルソン島敗残実記。」と題されて86年、世に出た。
矢野さんは何も言わず、子や孫に一冊ずつ渡した。

 長女のみゆきさん(66)にはショックだった。
目を背けたくなる父親の行為が描かれていた。
幼いころ聞かされたのは、フィリピン人や戦友とののどかな交情の話ばかりだった。

 妻の清美さん(86)は驚かなかった。
夫の腰には、敵に撃たれた銃弾のかけらが残っていた。
「いくつも傷を抱えているのは、わかっていました」

 本が出て数年後、矢野さんは近くに住む彫刻家の近藤哲夫さん(71)に、
兵士の銅像を依頼した。
「ただの慰霊碑じゃない。人間を異常にしてしまうほど、
戦争はむごいもんだと伝えたい」と口説いた。
91年3月、像は完成した。

 矢野さんは、神さんに語った。
「僕ができんかったことをあなたがやろうとしている。
自分ももう一度、話さなくちゃいかんと」
 戦場で起きたことを語れる人は、年々去ってゆく。
神さんは、他の元兵士の証言とともに矢野さんの映像を編集し、
若者むけの平和教育に使っている。
フィリピンの戦争被害者の前でも紹介された。

 矢野さんは最後の数年、たびたび人前で体験を語った。
戦争のことを考える若い人や団体に出会うと10万円、100万円といった金額を寄付して応援をした。
 体調を崩して入院したのは去年1月。
最期の日、「8月15日まで生きたい」と繰り返した。
極限状態のなかで死んでいった戦友を、毎年思う大切な日だった。

 残された庭の像は、「不戦之碑」と名付けられた。
兵士の肩に、蝉(せみ)しぐれがふりそそいでいる。(石橋英昭)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201308140587.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201308140587

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
朝日デジタルの記事には下の写真も掲載されています。

・ 矢野さんが残した「不戦之碑」と妻の清美さん=愛媛県西条市、石橋英昭撮影

・矢野さんの証言を収めた映像=ブリッジ・フォー・ピース提供


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする