毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

最後の?晩餐  2011年7月24日(日) No.176

2011-07-24 22:30:18 | 中国事情
 明日帰国というので、新平老師が朱老師と三人で食事会をしようと言ってくれた。美味しいご馳走が食べられるというだけではなく、新平老師の心遣いがありがたくて、喜んで招待された。

 今日、南昌は公式発表38℃。市内は公式発表より暑いのが普通という(この意味がよくわからないが)。昼間は暑すぎるので夕方早めの晩餐会にした。最初は、新平老師がビールを飲みたいので、私はバスに乗って「名厨世家」という有名なレストランに行くことになっていたが、今日になって、
「これだけ暑いとバスは気の毒です。車で迎えに行きます。」とのこと。
(そんな大げさな。)と思ったが、結局ありがたくお受けした。車のエアコンが体の熱を冷ましてくれて心地よいことこの上ない。

 やっぱり1年をともにした仕事仲間と飲むのは楽しいものだ。
学生の話、中国の高速鉄道脱線事故のこと、日本の九電のこと、首相の「脱原発発言」へのバッシング、日本の節電のことなど、ペチャクチャしゃべりながら食べていると、あっという間に時間が過ぎた。
新平老師は日本のニュースをよく知っていて、
「財界、政界の癒着は、中国だけじゃなくて日本でもあるんですね。」とか、「九電と地域行政のトップが身内らしいですね。」「孫正義さんは日本ではどれくらい影響力があるんですか。」とかいろいろ話題を提供する。
 彼は、家では奥さんが毎晩インターネットで映画を見るのに夢中で、自分はテレビもそんなに見ず、もっぱら日本のニュースをチェックしているそうだ。「夫婦であまり話もしないです。朝食を作るのはほぼ僕の仕事、夕食は妻の父母の家で食べることが多いですが、その皿洗いも僕です。中国では女性が強いですから。」
愚痴なんだか普通の話題の一つ何だか分からない、淡々とした口調で話す。
 朱老師の息子さんは、現在高校2年生で、受験勉強に拍車がかかってきたそうだ。このまま成績がキープできればまあまあの大学に入れると、受験生を持つお母さんの顔を見せた。両老師とも子供は一人だけ。公務員が一人っ子政策を破るわけにはいかないので、大切なたった一人の子どもに英才教育を施している。王子様やお姫様のように育てられている子どもたちだが、勉強だけはメチャクチャ頑張らされている様子が伝わってくる。

 帰り際、また信じられないぐらいの重さのお土産を渡された。中国のお土産は大きくて重い…。
さあ、明日の今頃は日本の大阪だ!わ~い!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南昌の省エネ法   2011年7月22日(金) No.175

2011-07-22 15:31:48 | 中国事情
 写真は昨日、ブログで書いたきれいなベランダである。先週とはえらい違いようだ。向こうには教室のあるビルが見えて、夜9時過ぎまで学生が自習している様子もうかがえる。
ベランダに椅子を出して置いてあるのは買ってきた桃だ。早く熟すように置いてあるのだ。ここの桃は本当に見事だ。しかし、かじるとカリカリと音がする。2、3日でまったりトロリの美味しい完熟桃になる。地元の人たちはカリカリ言わせて食べているが。
 17日(日)に、ハウス=ウォーミング=パーティーをしたとき、3年生たちが買ってきてくれたのが、皿に飾った桃と葡萄だ。実に安い。そして美味しい。日本に帰ったら食べられないと思い、毎日必死で桃やライチやトマトを食べまくっている。一個200円もする桃が庶民に食べられますかっての。(岡山の人スミマセン

 大阪から、『暑い、暑い。』とメールが届く。こちらも張り合うわけではないが、このパソコン前に座っているとたちまちジットリベッタリ汗がにじみ、放っておくと目の中に汗が入る。宿舎にはエアコンが全部で3台ある(書斎1、寝室1、リビング1)。しかし、基本的に使わないようにしている。日本でもそうだったからだが、それと言うのも、かつてエアコンで体を冷やして足が腫れ上がったことがあり、その腫れが引くのにエライ苦労したことがあるのだ。汗をかきかき暮らすのが良い。倒れない程度に。

 南昌の人たちは、必ず絶対昼休みに昼寝をする。学生たちも、17日に来たとき、12時半頃になると、急に目がドロンとなり、欠伸を連発しだした。体に昼寝のリズムが染みついているのだ。日本でも昼休みに少しでも横になれば、熱中症は減るんじゃないだろうか。正午から午後2時までは、会社でもゆったり扇風機を回して休憩したらいいんじゃないかな。

 私もこの夏は、午後のひと時昼寝をすることが多い。と言うか、勝手に気を失っているというか。
3時過ぎにスーパーに行くと、やたら暗い。電灯を半分ぐらいしかつけていないのだ。全部つけても日本ほど煌々と明るくはない。なのでとても暗い雰囲気の中、みんな平気で買い物をしている。込み合う時間帯以外はエスカレーターも止まっている。自分でエスカレーターを昇っていくときの、あの足を踏み外したような感覚も、もはや昇り慣れて平気になった。
店員も扇風機売場の扇風機を一つだけつけて、その前でぼーっと立っているか、涼みながらおしゃべりしている。。日本の店のようなエアコンガンガン状態は全く無い。外より少し涼しいといった感じ。

 みんな、服装が大胆だ。袖なし、短パンかミニスカートが女の子の普通の恰好。概してスカート丈がとても短い。男の人は半袖のシャツと長ズボンだが、上半身裸も目立つ。(学生はそういうことをしないが。)だいたいお腹がポッコンと出ているオッチャン達だ。女性たちはそんな姿も見慣れていて、誰も「キャー!」とか言わないし、何も見なかったかのように冷静に通り過ぎていく。
 おばちゃんたちも負けていない。夕方7時ごろキャンパスを歩くと、どう見てもパジャマの上下にしか見えない姿の中年以上の女性たちがゆったりと歩いている。大学キャンパスといっても、子どもからお年寄りまで様々な年齢層が憩うのも庶民的でいい。これは財大だけかな?


 節電ではないが、大学の寮はしょっちゅう停電する。パソコンでメールチェックできなかったり、宿題の作文を提出できなかったりすることもよくある。昨日(21日)3年の範さんからメールが来て、
『劉さんの寮(部屋のことを、学生はこう言う)が25日まで停電です。彼女は5日間、ずっと暗い部屋で生きなければなりません(笑)。』
と書いてあった。
そういうことが日常茶飯事なので、誰もことさら「どうなっているんだ!」とか目くじらを立てない。中国人民は慣れているのだ。
九寨溝に連れて行ってくれた陳さんは、
「中国人は4000年以上ずっと我慢の連続です。」
と言う。う~む。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベランダ工事終わる   2011年7月21日(木)No.174

2011-07-21 18:16:08 | 中国事情
 先週の月曜日、そして今週の月から水曜日の合計4日間かかって、やっと昨夜、ベランダにプラスチックカバーと窓を取り付ける工事が終わった。
その間も私は何事もないかのように淡々とブログを書き続けていたが、実はたいへんな喧噪の中の苦行だったのである。

 けたたましい罵声は、ミズ劉のものだ。彼女に怒鳴られながら工事作業員たちは、A棟からC棟まで、3つのビルディングの1階から4階までの南側ベランダ(通達ではバルコニー)にプラスチックカバーと防雨防風防塵窓を取り付けるのだが、いやはや、この作業たるや日本の大工さんの仕事をご存じの皆さんが見たら、その雑さ加減に開いた口が塞がらないに違いない。

 そりゃ、1ビルデング当たり8個のベランダがあり、それ×3=24個のベランダ工事なので、たいへんだとは思う。
私はA棟の3階に引っ越したばかりだ。向かいのB、C棟の作業の様子を見て、(ぼちぼちA棟の番だな)と心構えをする。ミズ劉は留守中の部屋を一人であちこち同時に見張りをしなければならないので、まだ部屋に残っている者が多いA棟は概ね入居者任せだ。
 一部屋ずつ完成させるのではなく、同時並行的に作業を進めるので、毎日、ちょびちょび進んでいく。私はパソコンをしたり食事の支度をしながら、時々覗く程度だが、彼らが帰った後は、必ずため息が出る。日本の建築業者は、その日の仕事が終わったら、そこそこ掃除をしたり片づけたりして見苦しくないように最低限は配慮するところだが、ここでそれをするのは住人だ。へたしたら、使ったリビングの椅子はベランダにほったらかし、ベランダに行く途中通るリビングに粘着質の液体がべたべたとテーブルや床に落ちている。蜂起じゃない箒、モップ、洗剤を使い、
「片づけるのは、私の仕事か?!」
とブツブツ言いながら掃除していると、向かいのベランダでも同様にカナダ人のヴィクトリアがため息をつきながら箒で掃いていた。

 そういえば昨年秋に北側のベランダも同様な工事をしたが、その時オフィスに苦情メールが殺到したっけ。オーストラリア人のメルダッドが(彼はとても優しくて気さくないい人であるのは間違いない)、
『我々西側文化圏の者にとって、工事人が片づけもせずに散らかしたまま帰るということは、全く信じられないことだ。』
といったことが書かれていたのを覚えている。〝我々西側文化圏”という言葉には大いに引っかかった。私は(東洋文化圏の者だって、こりゃ、あきれるよ)と心中つぶやいたものだ。私が〝西側文化圏”の人たちに持つ根深い違和感は、(いざとなれば彼らはこういう線引きをして常にアジア人を見下す準備をしているのではないか)と疑うからだ。彼らは平等な地平に立っているつもりだろうが、どこか骨の髄で西洋が優位と感じているような気がする。これは私の悪しき線引きだろうか。

 さて昨秋、さんざん入居者から文句を言われたので、ミズ劉は彼らに「ちゃんとやれ!」と怒鳴りながら進行を見張っている。わが部屋では気を使って日本風に靴も脱がせ、裸足で作業をさせた。私が出した部屋履きも「不要!」と使わせない。ある日の作業にはプラスチックのサイズを測って切り落とすというのがあり、裸足だと幾らなんでも危険なので草履をはいてもらった。
 帰った後は、接着用の吹付け発泡スチロールがボトボト落ちている。危険なプラスチックの切りくずも落ちている。木くず、紙くず、ねじも。

 それでも、作業は少しずつ進んで、時にはミズ劉がスイカの差し入れをしてくれたこともあった。スイカの種を入れるために皿を出すと、「不要!」と言ってゴミ箱を抱えて食べている。
その後、スイカの皮もゴミ箱に入れたんだろうと思っていたら入っていなかった。(あれ?学生たちはいつもゴミ箱にスローインするのに?)と不思議だったが、ベランダの外を眺めて分かった。外に投げたのだ。その皮はベランダから外を見るたび、地面にまだそのままある…。

 今朝、(やれやれ、今日からまた静かな日が戻ってくるぞ)と嬉しくベランダを見た。
見てガックリ。窓ガラスや、貼られたプラスチック板にやたら数字やメモが書いてあるのだ(直接マジックで)。水性、なかには油性のマジックで書かれたそれらを消すのに1時間はかかった。裏側で手の届かないところは、物干し竿の先に雑巾をくくり付けて、何回も擦った。汗がボトボト床に落ちる。その床の汗を拭いていて、今度は、ずっと以前からのものと思われるペンキが床のあちこちにこびりついているのが気になった。中華包丁でそれもこそげ落とした。全工程3時間。しかし、きれいになったので清々しい。わざとベランダに背を向け、パッと振り向いて「ああ、きれい!」とか言って喜んでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まめまめしきものばかり・・・   2011年7月20日(水) No.173

2011-07-20 18:23:07 | 中国事情
 今日の午後、いつも行くスーパー「全家百貨(オール=ホーム=マート)」ではなく、地下道をくぐってちょっと大きい「財大購物広場」に出かけた。帰省土産の物色だ。
キャンパス内は人影も疎らで、のんびり口笛を吹きながら地下道を行くと、突然、不思議な感覚に襲われた。我ながらあまりにもリラックスして地元生活者のように歩いている。(あれ、ここは私の棲家だったんかな)みたいな感じだ。大阪の暑さと似たり寄ったり、目もどんより半開きで思考が働かず、ふと、そんなことが浮かんだのかも知れない。

 スーパーで江西省の特産を探すが、う~む、皮蛋を持って帰るわけにもいかない。江西省の米、細長いタイ米っぽいもので食べ慣れたら美味しいが重いのでパス。お菓子がまた、どれもこれも美味しくない。言っちゃ悪いが、江西省はお菓子作りが下手じゃないかと思う。3年生の劉さん、黄さん、範さんからメールフレンドに託された棗糕(なつめ菓子)は、確かに江西省特産だ。大袋に入って15元もする。だが味が日本の人々に受け入れられるかどうかビミョーなところだ。そして重い。それを先日3袋も渡されてくらくらっとなったが仕方がない。せめて自分の買うものは軽いものにしようと固く心に決めた。

 ああ、それなのに、足がピタッと止まったのは、とある瓶詰の前。激辛豆腐よう「辣腐乳」を見て、(今回はこれだ!)と心で叫んだ。ここ2か月ほど私はこの食品の虜となって、ご飯に乗っけて食べたり、おひたしに和えたり、手巻き寿司風にしたり、食パンに塗ったり、と様々に試みてきた。ビールの当てにもなる。おやつにそのまま食べてもいい(これは私だけかも)。非常に重いので、数個だけにした。日本の友人・知人の皆さん、このお土産をもらったらラッキーと思ってね。

 次にたどり着いたのが、お茶売場。
初めは何とも物足りなく思えたものだが、ここ一年足らずの間に私の味覚が変化したのか、たまたま美味しい銘柄に遭遇したのか、私は中国の緑茶が好きになった。今愛飲しているのは、湖北省五峰緑茶(采自五峰土家族自治県茶区の産)で、(これを買って帰ろうかな)と思ったが、全部150g入りの大袋。どうして小さい袋を作らないのか、お土産にはでかすぎる。九寨溝付近で買ったのは50gが50元もする超特級だが、この湖北省の150gも特級なのに、42元だ。安い。安いがでかい。
 それにしても日本の人々に中国のお茶(特に緑茶)は、ぴんと来ないかも知れない。日本の緑茶に比べて、ゆっくり、じんわり味が出てくるものだということが最近ようやく分かってきた。緑茶といっても全く別種だと思ってあじわう必要がある。

 同じことは財大の学生たちにも言える。彼らに日本茶(抹茶入り玄米茶)を振る舞ったところ、(なんだ、これ~!)みたいな奇妙な顔をして飲んでいる。自分の経験した物事のみを正当な基準として考える癖は、多かれ少なかれみんな持っているが、その呪縛から解き放たれたとき、金子みすゞ的オルタナティブ世界の住人になれるんざんす、って自分で何言っているのか、何しろ暑さで意識がもうろうとして~。

 お土産の最後を飾るのは、小袋入り散花椒。「散」というのは「バラバラである」ということで、元は一緒に枝にくっついていた実が、一つぶずつバラバラにされて袋に入っている。日本ではそれが当たり前だが、こちらでは散じゃない花椒も売られている。餃子など中華料理には欠かせない。

 清少納言が「まめまめしきものはまさなかりなむ」と注意してくれそうなものばかりを選び、レジでお勘定を払うと150元をオーバーした。おかしいな~。安いものばかり買ったのに。
(後日訂正:自分でもなんか変だと思っていたが、「まめまめしき…」発言は清少納言ではなく、『更級日記』の菅原孝標の女(すがわらたかすえのむすめ)さんがされたものだった!謹んでお詫びし訂正いたします。〈次回から『謹・詫・訂』と簡略化しよっかな。しょっちゅうありそうだし。ASAPみたいで便利だ。〉)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成都で感じたこと   2011年7月18日(月) No.172

2011-07-18 11:27:35 | 中国事情
 中国といっても南昌しか知らない。上海はいつも通り過ぎるだけ。今回の成都・九寨溝も厳密に言うと通り過ぎただけだが、それでも成都に幾晩か泊まったことでいくつかの感想を持った。
 
 まず泊まったユースホステルの名前が面白い。「成都懶骨頭青年旅館」(Lazy Bones Hostel)という。「懶」とは「ものうい・だらける・おこたる」の意味で、「懶骨頭」とは「骨の髄までのんびりしている」ということだそうだ。これは成都の人々のライフスタイルを表現しているという。

 成都を歩いてまず感じたのは、非常に規模が大きい都市であると同時に、非常に落ち着いた雰囲気の街であることだった。
赤信号で車も人もきちんと立ち止まっている。南昌はこうはいかない。最近どんどん信号が設置されているが、自分だけ信号を守って、青になったからといって安心して歩き出すととんでもないことになる。生き延びるためには自分の五感を頼りに道を渡らねばならない。
成都では、(交通ルールがきちんと身についているんだなあ)と思った。
どこでもではないが歩道、車道とは別に自転車・バイク道があり、信号が変わると、自転車・バイクの流れが続く。南昌にも歩道でも車道でもない第三の道路があるところにはあるが、そこは人も歩けばバイク、リヤカー、三輪車など、なんでも走っている。しかも、一方通行のはずなのに、現実はそうなっていない。はっきり言って無秩序だ。そういうところでは、ほっこりのんびりムードの代わりに、罵声が飛び交い、鉄の神経で武装せざるを得ない。

 南昌に比べて非常に洗練された内陸の大都市、成都。反日デモで日系百貨店「イトーヨーカ堂」が襲われたというが、こんなのんびりした、しかも外国人がたくさん歩いているインターナショナル=シティでそういうことがあったとはどうもピンと来ない。
 結局5泊した懶骨頭ユースホステルは、デンマーク、アメリカ、イギリス、マレーシアなど世界各国からの若い旅行客で賑やかだった。ある晩はそのユースホステルで水餃子作りパーティーがあり、短時間だったが食べながら何か国かの若者たちと交流もできて楽しかった。

 成都3日目の夜、寛窄巷子を散歩した。20分ほど歩いて左折したら毛沢東の像のある天府広場へ、右折したら寛窄巷子へ行く。私たちは当然右折した。寛(広い)窄(狭い)巷子(横丁)という名の通り、広い通りや狭い路地がある横町だ。清朝の古い町並みが残っているだけでなく、その街並みと調和したカフェやレストラン、シアターなどが並んでいる。陳さんはなぜか「スターバックス」の看板を2枚も写真に撮っていた。オープンカフェから「I am sailin' I am sailin'~ᘒ」とロッド=スチュワートの声が聞こえて来て、(おお!)と思った。
 昔の街並みと調和しつつも新しい感覚が随所に見られるハイセンスな横町…。陳さんが
「南昌にはこういうところが一つもありません。」
と言ったように、成都は中国西南部の経済・歴史・文化の中心。南昌はトラディショナル=チャイナの地方都市で、チーズを買うのも、満員バスで40分揺られて市内のウォルマートまで行かないとない。しかも陳さんじゃないが「とんでもなく高い」。

 洗練された成都とはまるで違い、ごみごみして喧噪に満ちた街、南昌。辺鄙といっても九寨溝ほどじゃなく、そして美しさも九寨溝の1000000分の1もないと言い切れる街、南昌。
 それでもやっぱり、南昌もいいなと思う。住めば都。何しろここは「農業大省」(=貧乏大省)の中心だ。貧しさに違和感はない。貧しさは私にとって子どもの頃の故郷の風景そのものなのだ。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九寨溝・成都の旅⑥「陳さんが泣いた」   2011年7月15日(金) No.171

2011-07-15 10:32:21 | 中国事情
  7月7日(木)… 九寨溝巡り

 朝、ユースホステルで饅頭1個の朝食をとり、残りの饅頭とゆで卵は昼食用に持って九寨溝周遊バスターミナルへ出発した。
好天だ。三人とも、(このためにはるばる南昌から来たのだ)という思いがあり、天に感謝した。気温は成都や、まして南昌と比べたらとても涼しい。成都では要らなかったジャケットが役に立つ。

 廬山でも九寨溝でも、その広いエリアに立ち入るときに入場料を払う。日本では一般的に特別な施設のみが有料だった経験がある。知床半島は世界自然遺産に登録されてから行ったことがないが、ひょっとしてこんな風に変わっているのだろうか。
 310元で入場チケットを買い、8時前に周遊バスで出発した。
バス乗り場へのゲートには、英語や中国語で『Please…』『請…』から始まる表記で丁寧に「並んでください。」みたいなことを書いてあるのに、何故か日本語だけ「並びなさい。」と高飛車だった。きっと日本語学科の卒業生が書いたのだろうが、これから先々の注意標識にも珍妙な表記があり、(世界の人々が訪れる場所なのに、こんなところで日本語のレベルの低さを露呈して…。)と残念だった。日本語教師の性か。

 九寨溝はY字型にコースがあり、バスはまずYの右側奥へと私たちを運んだ。
バスガイドさんの言葉を通訳して、陳さんが一生懸命説明してくれる。九寨溝という名前の由来、1992年に世界自然遺産に指定されたこと、十個の湖は「海子」と呼ばれる。この地域に住む人々は海に憧れていたが実際に見ることも叶わず、せめてこれらの美しい湖を「海子」と名づけたこと、湖にたくさん生えている葦は高原であるために背が高くならないこと、途中の豪快な滝(幅360m、高さ20m)は、テレビドラマ「西遊記」の初回撮影場所として使われたこと、e.t.c.
 
 一番奥の原始森林から散策スタート。
でもその前に、チベット族の30代ぐらいの男性が木製通路の一角で大中小のストール、マフラーなどを並べ出したのが目に入った。午前8時過ぎの九寨溝はジャケットを着ていても寒い。岡田Tは唇が紫色になっている。私は冬の寒い南昌の宿舎でも使えるからと、躊躇せず温かい毛の大判ストールを買った。60元。陳さんが値引き交渉をしてくれたが、頑としてまけない。続々とお客さんが来るからだ。この日はこのストール売りの男性にとってもありがたい天気だったはずだ。

 さあ、今度こそスタートだ!
見ると、陳さんは文字通り小躍りしている。スキップ、スキップ、らんらんらん。
「陳さん、子どもだねえ~。」
と笑っても、
「嬉しいですから!」
とニコニコ笑顔が返ってくる。今回の旅行のメインの日であることは確かだ。
 
 九寨溝の自然については、言葉で表したくない。と言うか、表せるはずがない。『もののけ姫』の山の奥のそのまた奥はこんなだったんだろうか。私のような底の浅い人間にもその姿を見せてくれたことに、手を合わすしかない。(ちょっとだけお邪魔します。ありがとうございます。)と。
 ブログの写真の多くは陳さんが撮ったものだ。こうして宿舎で見ると(凄いところへ行ってきたんだなあ)と感慨が湧く。連れて行ってくれた陳さんにも、ありがとう、だ。
 文頭の写真は五花海だったと思う。眼前にこの湖が現れた時、この世のものとは思えない景色にただ立ち尽くすだけだった。ふと陳さんを見ると、涙ぐんでいる。私もなんだか泣きたくなった…。

 そうはいっても、訪れた人間たちがみな同じ思いではなかったようだ。
コースから外れて森に入り込み、キノコを採取している母子、湖の魚になんとお菓子を投げ与えているグループ、揚句にペットボトルを川に投げ込んだ若い女の子もいた。陳さんは、
「中国人として、こんな恥ずかしいことはありません。中国はまだまだです。マナーが全然だめです。」
と悔しがった。私とて、中国人ではないが人間として許しがたい。深々たる湖でひっそり生きてきた魚たちが、あのパンダ基地の池の鯉たち同様、人間を見たら群がるようになるのも時間の問題だ。何とかならないものか。歯ぎしりする思いだ。
それでもめちゃくちゃ腹を立てている陳さんはその人たちに注意できないのだ。中国では公共のマナーを人々に訴える習慣がないのだろうか。 ペットボトルを川に捨てたのを目撃したとき、私は口が勝手に「Hey! You should't do that!」と叫んでいた(中国語が話せないので)。おまけに指までその子を指して。つまり頭に来たのだ。
 その若い女の子はちょっと恥ずかしそうに笑った。その前にキノコ採りをしていた若いお母さんも、私の視線を感じて同様にニマッと笑っていた。そんなに悪気はないのだと思う。特にペットボトルの子は、その後、自力で川から回収する努力をして見せたので、そう確信した。
 結論。九寨溝観光に訪れる人々へのマナーを、早急に徹底させることが問われている。パトロール隊が必要だ。今回行ったときは、随所に設置されたゴミ箱(「ゴミなんか持って帰れよ。」と言いたいところだが、ここは中国。ゴミ箱に入れるだけでもエライのだ。)掃除の職員には何回も出会った。しかし、その人たちはただゴミを回収するだけで、ゴミを捨てるなとか、魚に餌をやるなとか、一切注意をしていなかった。

手つかずの美しい秘境九寨溝は、十年後どうなっているだろう…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九寨溝・成都の旅⑤ 「やっと来られた!九寨溝」  2011年7月14日(木) No.170

2011-07-14 13:22:25 | 中国事情
  7月6日(水)… 九寨溝行のバスの旅10時間

南昌を出発して4日目の朝8時、成都のバスターミナルから九寨溝に向けてバスは走り出した。
すぐにでも行きたかったのだが、土砂崩れでは仕方がない。2008年5月12日に起きた四川地震の被災地である汶川は成都から九寨溝への西廻りルートの途中にある。その汶川の手前で土砂崩れがあり、一週間は復旧のめどが立たないので、バスはより時間のかかる東廻りルートを使って運航している、とは2日後に帰るとき陳さんから説明があった。そういうことは早く言ってほしい。成都に戻ってからゆっくり汶川を訪れるという計画があるのだから。
 私も若いころそうだったが、自分勝手に思い込んで他者への説明不足に気づかない。それを指摘されたら、自己弁護したり、落ち込んだり…。頭の中だけで生きてきた者のすることはだいたい似たり寄ったりだ。ガイドとはいえまだ学生なんだから仕方がないか。

 バスの旅は覚悟していたより苦痛度は少なかった。長距離バスなので立ち席はない。途中2時間~3時間の間隔でトイレ休憩がある。少数民族の装飾品やビワ、スモモなど果物の出店がある休憩所もあって、少しの時間でも外に出て体を動かすようにした。もちろんトイレも必ず行った。
 私は昨年夏に中国に来て以来初めて、腰までの仕切りで区切られた一区画で、向かいのトイレにしゃがんでいる人と顔を合わせながら使うという経験をした。(これが噂に聞く丸見えトイレか~)と嬉しくはないが、興味深かった。顔が見えるというのはそんなに嫌でもなかったが、涙が出そうになったのは、前に使った人(達)の残りものが大量にあることだった。見ないようにしても臭いがサクレツしている。(中国人民は我慢しているんだ。自分だって我慢せなどーする!)とわが身への説得工作をしたが、腹の虫が収まらない。だって入口で必ず最低一元はお金を払わなければならないのだ。(金取ってんなら、トイレ掃除ぐらいせえや!)と入口で満足げにほくそ笑む爺さんを怒鳴りつけたかった。その上さらに、手を洗う水も出ない最悪のトイレもあったのだった…。
 さて、このトイレ使用や成都市内のバスに乗るときに是非とも用意しておかねばならないのが、一元紙幣だ。南昌では一元はコインがメインなので、紙幣が飛び交うことが珍しかった。ついぞ見かけたことのない新しいパリッとした一元のお札も手に入れたので記念に持って帰って来た。しばらく学生に見せびらかそうと思う。何しろ南昌の一元札ときたら、あまりにも皺くちゃで、ゴミ箱に捨てたくなるような代物ばかりなのだ。

 そうこうして、途中土砂崩れを横に見たりしながらも10時間余りのバスの旅は終り、ついに九寨溝入口にたどり着いた。
陳さんが「荷物を忘れないようにしてください。」と注意を促してくれた。(プロっぽくなってきたな~)と感心して、ペチャクチャしゃべりながら、十数分宿舎への道を歩いていると、突然陳さんが、
「あれ!僕の荷物はどこですか?」と叫んだ。
「自分で持っていないの?バスに忘れたんじゃない?」と答えると、
「でも、なぜ?!」
と言うので、思わず
「それはこっちが聞きたいよ…。」という言葉が出てきた。
混乱した陳さんは、宿舎まで我々を送り届けてからバスターミナルに戻るというので、ただ今すぐに全速力でバスのところに戻るよう指示して、岡田Tと先へ進んでいくと、地元のホテルの従業員から何回も声がかかる。
北海道の知床でお土産屋さんをしていた姉の姿が突然浮かんできた。夏休みに手伝いがてらよく行ったものだが、朝5時ごろから夜11時すぎまで店を開けて通りすがりの客に、
「今日はどこ行くの~?」
「お疲れさん。どこ行ってきたの?」
と声をかけていた。どこでも同じだなあ。

 さいわい陳さんの荷物は無事だった。夜は九寨溝入口の谷あいの観光町で全然辛くない麺を選んで食べた。美味しかった。宿舎は成都の時と同様、ユースホステルだ(米谷国際青年旅舎:4人部屋)。トイレ、シャワーはLazybones Hostelと違って共同だった。トイレもシャワー室もいくつもあるので、この方が使い易い気がした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成都・九寨溝の旅④「成都近辺」   2011年7月13日(水)  No.169

2011-07-13 21:33:29 | 中国事情
   7月5日(火)…成都大熊猫繁育研究基地/昭覚寺/寛窄巷子

 はいはい、パンダちゃんでちゅよ~。
ということで、成都といえばパンダ基地に行かなくちゃね。私は日本の小学校の教員だった頃、遠足や修学旅行の引率によく出かけたが、何といっても一番行って嬉しいところは動物園と水族館だった。神戸の王子動物園でパンダや金糸猴、その他各種お猿さん達をよく見たものだ。
動物園のパンダは、あんまり楽しくなさそうだった。しかし、ここ成都のパンダ基地のパンダは仲間がたくさんいるし、柵内とはいえ広々とした敷地でのんびり気楽に過ごしているように見受けた。

 この日の朝6時過ぎ、しとしと雨が降っていた。陳さんはたちまち顔を曇らせ、
「パンダは雨だと外に出ません。パンダを見に行っても面白くないです。見るところがあまりないです。」
と否定的意見ばかり述べ出す。(こんなにもネガティブ人間だったのか!)と彼の新側面を見て少しウンザリしたが、他に行くところもないので、とにかく行こうと突っぱねた。
 朝ご飯はユースホステルのモーニングセットを頼んだ。パンはトースターが故障しているので焼けず、ただの食パンとどこまでも固く炒めまくったスクランブルエッグ、ハム(これは本物のハムだった!南昌郊外ではハムと言えば、実はソーセージを意味する)、トマト、バナナ、そして甘いミルク入りコーヒーで25元。バナナ以外どれもあんまり美味しくなかったから(25元は高い)と思った。

 行ってみるものだ。パンダ基地に着いた時には雨はやんでいた。
とんでもなく広い面積の基地内は森の様相を呈していた。パンダだけではなく、レッサーパンダも飼育されており、放し飼いクジャクが森の路を悠然と歩き回っていた。私たちの前でオスが羽を全開してくれるサービスの良さ。空を仰ぎ見れば木々の上から鷺がバサバサと飛び立つ。下を見れば、あら可愛い蝸牛。種々の虫にも遭遇して、楽しい散歩になった。パンダグッズをそろえた店では、また日本からの観光客がたくさん買い物をしていた。大阪の旅行社のパッケージツアーだという。「孫たちに…。」とパンダの縫いぐるみを買う女性の姿を見て、ほほえましく思える。これは3月11日以前にはなかった気持ちだ。

 それにしても、陳さんと岡田T は大変な写真好きだ。二人とも看板や碑を見ると必ず、写真に収める。その後、必ず、必ず、自分もその前で撮ってくれと言う。(碑なんか撮ってどうするつもりだ!)と忌々しく思いながらもこの日の段階では、乞われるままに撮ってあげていた。しかし、旅の終わりでは二人とも私に「写真を撮ってくれ。」と頼まなくなり、二人で取り合っていた。私の顔の険しさを察したのであろう。そもそも陳さんが散々撮影しまくっているのも私のカメラだ。電池を4本交換用に持って行ったが、それを彼は九寨溝で全部使い果たした。呆れた。

 パンダたちを一通り眺め、基地内を散歩したのち、池のほとりで休憩した。人々が鯉の餌を買って池の鯉にばらまいていた。それに群がり池の中ではバチャンバチャンと大騒ぎ。鯉の背中に別の鯉が乗って餌の取り合いをしている。最初、数匹の鯉の影を池の中に見出した時は、
「あら、可愛い。」
とか言っていた岡田Tや陳さんも、
「なんか気持ち悪い。」「怖い。」
と言い出した。ヒッチコックの『鳥』を思い出させるシーンだった。



 パンダ基地からの帰り、バスターミナルの近くにある昭覚寺を覗いた。疲れていたせいか、(お寺だなあ)としか思えない。しかし、奥に立っている一本の木を見て、心が波立った。廬山の麓の東林寺境内の樹木も心を持つ木たちだったが、昭覚寺のこの一本の木は、これだけでお寺を背負って立っていた。『枝を広げたバオバブの木の下に人々が憩う』というイメージの木だ。バオバブじゃないけどね。たぶん100人ぐらいは憩えるのじゃなかろうか。


 夜は宿舎から30分ほど歩いて寛窄巷子へ。
大阪の中崎町辺りと共通する、故きを温ねて新しきを知るみたいなとこだった。陳さんが、
「南昌にはこういうところが一つもありません。あ~あ、南昌は…。」
と言った。こんなしっとりノンビリしたストリートを作る前に、南昌はまず、みんなが道路で交通ルールを守るようにするのが先決かも。いつ車に引かれてもおかしくない非常にキビシイ街なのだ。我々の町は。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成都・九寨溝の旅③「成都近辺」  2011年7月12日(火)No.168

2011-07-12 19:16:43 | 中国事情
 7月4日・・・第二日目 三星堆博物館、川劇(FACE CHANGING OPERA)
 前日の夜中まで続いた土砂降りの雨は朝、止んでいた。曇り空で時おり小雨がぱらつく天候だ。
ガイドの陳さんは朝6時に起きてバスターミナルに出かけた。今日は無理だが、できるだけ明日か明後日の九寨溝行バスには乗りたい。7時過ぎに戻ってきた陳さんから、明後日(6日)のチケットが買えたと嬉しい知らせがあり、ホッとした。さらに、昨日成都から汶川に行く途中で土砂崩れがあり、それでバスの運航に支障をきたしているとのこと。
 (なあんだ、自分たちだけが乗り損なったわけじゃないのか)とちょっと平等感を味わった我々は気分が上向きになり、今日、明日の成都観光として、
①三星堆博物館
②川劇(FACE CHANGING OPERA)  …4日

①パンダ基地
②昭覚寺(暇があれば)
③寛窄巷子    …5日

という予定を入れた。陳さんの旅程表では前半:九寨溝、後半:成都観光という計画だったが、前後を入れ替えたことになる。
また、陳さんの説明によると、金沙遺址博物館は三星堆博物館の後の時代のものであり、見学料も105元と高いが、三星堆博物館は82元で交通費を差し引いても金沙遺址より安いし、展示物も多いというので、一も二もなくそちらに決めた。

 市内からバスを乗り継ぎ、午前10時頃には三星堆博物館に到着した。
 写真は、発掘された代表的な面の一つをモニュメントにしたものである。飛び出した目に特徴があるらしい。中国では「古蜀時代」、日本では「殷末期」という時代区分が当てはまる長江流域の西南中国で、黄河文明とは異なる文化が花開いていたという。中国史上画期的な発掘だそうだ。漢民族の文化では全くないこの遺跡は、文化大革命後の1986年に、約3000もの遺物が見つかるという世界的にもセンセーショナルな大発見だったと説明書にあった。玉石器、青銅器、金器とさまざまな種類の遺物を見ながら、(そのころ自分は中国の大ニュースも知らず、子育てと仕事に追われていたんだなあ)と取り留めなく考えていた。
 一番興奮していたのは、もちろん陳さんだ。学校の教科書に載っている数々の遺物が実物として目の前に現れたので、写真を撮りたくて堪らなさそうだった。周囲の中国の人たちは平気でカシャカシャ撮っている。何回か「写真、ダメですか~。」と、恨めしそうに聞くので、
「ここは中国。中国のルールに従ってください。私は日本人なので、博物館で写真はちょっと…。でも見ていませんから。」
と言うと、
「私は日本語学科の学生ですから、やっぱり写真は撮りません。」
と、妙に律儀なことを言う。博物館は、見張りの職員もあまり見かけず、本当に多くの人たちが自由自在に撮影しているので、我々に合わせてくれた陳さんが気の毒だった。
 レプリカやキーホルダーなど色々売っているコーナーで、バックパックを貸してくれた王さんへのお土産にキーホルダーを一つ買った。例によって陳さんの「うわ~、高い!」が始まった。彼は自分で何か買ったんだろうか。

 ゆっくり見学するともう、昼の3時を過ぎている。5時間も博物館で過ごしたことになる。そろそろ市内へ戻ろうと、またバスに乗り、1時間ほど木製の座席に座って帰って来た。ランチを何も食べていないので腹ペコだ。夜の川劇ショーまでの間にゆっくりディナーをとることにした。宿舎のごく近くまで戻ると、「陳麻婆豆腐」の看板があった。陳さんが、
「これ、私が2年の時の授業で四川省の食べ物紹介をした店です。」
と言う。そういうところなら是非入らねば!と中を覗いてビックリ。かなり高級感あふれるレストランだった。陳さんが後ずさりして
「やっぱりやめましょう。」
と気弱なことを言う。
「『私たちはインターネットで調べて来たのですが、麻婆豆腐の値段はいくらですか。』って聞いてごらん。」と背中を押した。
そのきれいなレストランは、意外なほど普通の値段だったので、二日目のディナーはここにした。
前夜の暗く重苦しいムードから一転し、ぺちゃくちゃしゃべりながら、四川料理の山椒は口が痺れるとか言いつつたくさん食べた。
特に、陳さんは昼ごはん抜きだったので、かなりガツガツ、ベチャベチャと音を立てながらかき込んでいた。

 川劇はフロントで予約すると宿舎に10人乗りのミニバスのような車が迎えに来てくれた。着いたところには、日本人観光客がた~くさん来ていた。
「どこからいらっしゃったんですか。」と聞くと「長野県」とのこと。私に「あなた中国人?」と聞くので、(こんなに日本語がうまい中国人がいるかい?)と内心可笑しかった。それでも、地震・津波・原発事故に負けていない日本人と直に出会えたのが嬉しかった。
 川劇は、非常におもしろかった。実は川劇だけでなく、四川省伝統芸能オンパレードだった。途中、人形の舞で急に睡魔が襲ってきたが、両手の影絵、二胡演奏、コミカルで見事な体の芸、扇の舞など次々と短時間に展開されて、眠気を克服することができた。やはり圧巻だったのが最後のface changing opera だ。なぜ?どうやってあんなに見事にお面を変えられるのだろう。これは四川省の無形文化遺産なので、誰にもネタは明かさないそうだ。それでいい。
 
 今日は一日、精力的に観光した気分。明日も雨が降りませんように。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成都・九寨溝の旅②「陳さんのガイドデビュー」   2011年7月12日(火) No.167

2011-07-12 10:20:53 | 中国事情
 7月3日(日)…第一日目   南昌から成都へ
 午前7時前、「先生、起きましたか。私は今本部に着きました。」と陳さんが電話をかけてきた。張り切った声だ。
私はもちろん既に、引っ越したばかりの三階ベランダから誰も見ていないのを確かめて鳥のエサ用パンくずを下の地面にばらまき、陳さんが友達から借りてくれた小さいバックパックに無理やりあれこれを詰め込み、準備万端整えて待っていた。
 初めこのバックパックを手渡されたとき、(ちっちぇ~!7泊8日でこれえ~?!)と叫びそうになったが、陳さんがせっかく借りてくれたのだからと、ニッコリ笑って礼を言い、借り受けたものだ。その後、いつも行くスーパー横の旅行鞄屋の前を通るたびに、(あそこにあるのはちょうどいい大きさだなあ。あれ、買いたいな~)という誘惑にかられた。しかし、陳さんの心配りと労を思うと(我慢しよう)というところに落ち着くのだった。

 「財大前」から市バスに乗り、「昌北」というバス停で空港バスに乗り換える。同行の岡田Tとはここで待ち合わせだった。朝7時半というのに、もう日差しが強くて、我々は看板の陰で待った。何と、そこで陳さんのクラスメートの鵜さんとバッタリ出会った。彼女はこの日、南昌大学で行われる日本語能力試験1級に再挑戦するのだ。既にガイド試験に合格している鵜さんは、我々の九寨溝行の情報を既にどこからか仕入れていて、目のふちに羨ましさが滲んでいた。そりゃそうだ。旅行好きの彼女は能力試験なんか受けるより、どんなに九寨溝に飛んで行きたいことだろう。彼女だけではない。3年生のクラスで、飛行機に乗るのは陳さんが初めてだ。九寨溝なんて遠いところにも誰も行ったことがない。
 私は天秤座の生まれ星のせいか、自分の教師人生において学生、生徒、児童に対しては常に平等・公平になるようバランスを取ってきたつもりだ。今回の旅行ガイドを陳さんに打診したときも、その原則から外れていないことを自問自答した。
 ①彼は12月に旅行ガイド試験を受ける。
 ②彼は財大・理工大合同「日本語コーナー」に3年生では唯一常時積極的に参加している。
 ③彼は副専攻を止めて、日本語会話力を高めることに焦点を絞っている。
 ④彼は将来、中国の田舎や自然豊かなところを案内する旅行会社を設立したがっている。
 ⑤彼の実家はお金持ちではない。さらに現在、政府から立ち退きを強制されて借金まみれで新住宅を建築中である。
 ⑥陳さんのほかにガイド試験を受ける子がいるとは聞いていない。
 ⑦彼の日本語会話はかなり流暢で聞き取り易い。


 とまあ、こういうわけで、私は彼と契約を取り交わすことにしたのだった。
当初、「往復の交通費は私が出します。」と言っていたが、宿泊費、各種施設設備の入場料などを合わせるとかなりの金額になるようなので、私は一か月分の給料を全部この旅行に充てることにして、食費を除く全経費を陳さんの分も負担することにした。
 日本の友人にも声をかけたのだが、みんな忙しかったり、お金がなかったりでいい返事がなかった。かなり直前になって、大阪の「帰国者グループ」まとめ役をしてくれている玲奈さんから「行きます。」というメールをもらった時は既に遅すぎた。この時間に対する両国の人々の感覚差については何回かブログでも書いたが、今回の旅行でも陳さんに対して(なぜもっと早くしないのかな?)と思うことが多かった。
 というわけで、JICA派遣の岡田Tに声をかけたのだった。

 さて、成都行きの中国国際航空の飛行機は10時50分発だ。我々は8時半に空港ターミナル2(T2)に到着した。南昌の空港「昌北空港」はこじんまりした地方空港だが、近年建てられたT2はとても新しくて一日ここで本など読んで過ごしたくなるようなところだった。
搭乗手続き後、陳さんは時間がたっぷりあるのに、すぐにロビーの席を確保したがり(これは中国の汽車の旅では当然)、岡田Tと私が「空港見学をしよう。」と言って、いろいろな店を覗くと、「ここの店の品物は市内の10倍もします。」と断言する。しかし現実には、水が市内で1元なのが1.5元と、そんなに変わらない。彼の頑ななまでの『空港の品物はとんでもなく高い!』という警戒心を実際に値段チェックすることでほぐすことにした。中には本当に超高級品もあったが、普通の人が買えるお店がたくさんあることを確認した。
 搭乗口に進むときに機内持ち込み荷物をチェックされる。陳さんは荷物の中にゼリー状の何かが少量あるということで、逡巡を重ね、結局預けることにした。(だから初めから預けるよう勧めたのに…)と思ったが、何しろ汽車では手荷物をすべて自分の身辺に固めて置くのが常識なので、汽車の旅の常識に従ったのだろう。

 機内座席は、陳さんが窓側、岡田Tは通路側、私は真ん中だった。顔ぶれから見て仕方がない。しかし私は通路側をいつも指定しているので、(今回の旅は我慢が多いな)と感じた。ついでに言うと私の星座は天秤座だが、血液型はBだ…。
 陳さんは窓側席に座って、小さい窓から外を見たり、座席ポケットの中の本を見たりしていたが、
「私は、子どものころ、牛の放牧をしていた谷で、いつも高い空を飛んでいく飛行機の小さい姿を仰いでいました。その飛行機に今、自分が乗っているんですね。」
と言った。私が初めて飛行機に乗ったのはいつだったかなあ。大学が京都で、伊丹空港から北海道の女満別空港まで空路帰省するのが常だった。「列車での帰省は2日がかりで、そのくせ結構お金がかかる。」と言うと両親は「そうか。じゃあ、仕方がないね。」とあっさり認めてくれたのだった。今でも、当時の飛行機代がべらぼうに高かったとは思わない。一方、中国の一般庶民(特に農民)の感覚では、今も飛行機代は『とてつもなく高い』のだ。南昌ー成都は片道900元。江西省の農民の月当たり収入は1000元~1500元程度だと、陳さんは言う。ちなみに私の給料は4800元。毎月500元の電気代が補助される。さらに年2回旅行代(ボーナス)として、1100元が支給される。もちろん日本に帰省すると1回で約4000元はどうしてもかかるので、全然足りないが出ないよりマシだ。この待遇は、同僚の中国人教師よりいいそうだ。それでも一生懸命貯めたお金を日本に持って帰ったとしても、一か月で全部無くなる程度のものだ。4800元を為替レートで円に換えると6万円ちょっとにしかならない。チャンチャン。

 中国国際航空(AIR CHINA)の機内昼食サービスは鶏肉か魚のランチというので、3人とも魚ランチを選んだ。南昌の川魚と違い、細くて小さい骨がないのが嬉しかった。しかし、そんなに美味しいとは感じられなかった、食後にコーヒーを頼むと砂糖とミルクが入った甘いのをくれた。陳さんにはちょうどいいが私や岡田Tには残念だった。

 13:10に四川省の省都である成都に着いた。人口1000万人、中国で第五位の大都市で、またの名を「天府」という。全部陳さんの解説だ。バスと地下鉄を乗り継ぎ、成都市中心にあるChengdu Lazybones Hostel(成都懶骨頭青年旅館)に着いた。陳さん作の旅程表には『Hotel』と書いてあったので、ユースホステルなのに変だな、と思っていたが、陳さんはホステルという言葉を知らなかったので、英語のHostelを勝手にHotelと思い込んでいたのだ。しかし、彼は「そうです。Hostelです。」とさり気なく知っていたふりをした。こういう態度は私は好かない。間違いや無知は率直に認めてほしいものだ。
宿舎に着くや、雨がザンザカ降ってきた。何時間たってもその激しさは留まるところを知らない。フロントのパソコンが雨漏りで濡れないようにバケツや何やらでワイワイ言って防いでいた。そのうち停電になった。着く草々これだ。
 待っても雨が小降りにならないので、夕方5時前、陳さんは果敢にも、翌日の九寨溝行のバスチケットを予約するためバスターミナルを目指して地図を片手に出かけて行った。岡田Tも今後の旅行に参考になるためだろう。一緒について行った。私は4人部屋の下のベッドで、一人地図を見たり転寝をしたりして数時間を過ごした。

 7時ごろ二人は帰って来た。全身ずぶ濡れだ。
「悪い知らせです。明日のバスは満員でもう乗れません。」「雨もこの一週間は降り続くそうです。こんなに激しい雨は成都では珍しいそうです。どうしましょう。」
陳さんはかなり深刻な様子。(せっかくねりに練った旅程表が、初日からこうじゃ打撃を受けるのも無理ないか)と思い、たまたまこの日が陳さんの22歳の誕生日だったので、ディナーは岡田Tと私でご馳走することにして、道路向かいの点心の店に入った。陳さんが「成都市内では老舗の有名な店です。」とガイドぶりを発揮した。様々な点心の名前が並んでいたが、どんなものなのか中国語なのでさっぱり分からない。陳さんに適当に注文してもらおうとしたが、彼は急に「食欲がありません。高そうです。」とかグジグジした態度だ。結局セットものを注文した。座ってしまってからも、陳さんの表情は真っ暗だ。バスのチケットが買えなかったのがショックだったのだろうが、それを周りに振り撒いてドースル!と私はイライラし始めた。
「明日は成都市近辺で観光したらいいんじゃない。」と言っても
「でも、雨が続くそうです。パンダは雨の日、外に出ません。パンダ基地に行っても無意味です。」
と、ネガティブ発言で応える。
ムカムカっ!しかし、ここで怒鳴っては始まらない。お客の私がガイドの陳さんを一生懸命慰めて、
「でも、パンダ基地には、いろいろな施設があるって陳さんがこの前言っていましたね。それを見るのもいいじゃないですか。」
岡田Tも頷く。陳さんのガイドデビューは、成都でも滅多にないほどの土砂降りの雨に迎えられて始まったのだった。(続く)

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7泊8日成都・九寨溝の旅①   2011年7月11日(月) No.166

2011-07-11 19:31:43 | 中国事情
 昨日の昼前、宿舎に帰ってきた。
陳さんがルームメイトから借りてくれたバックパックの中身を出して、陳さんに返し、二人で本部キャンパス横の「蘭州面条」の看板が出ているイスラム教徒の店で昼ご飯を食べて別れた。
「明日、旅費の明細を計算します。」
とか言っていたが、まだウンともスンとも言って来ない。たぶん今頃は疲れて弱い胃腸をこわしたりしているかも知れない。私も昨夜はこのブログを書き始めるや急に腹痛に襲われ、書くのを断念して正露丸飲んで寝た。

 それにしてもこのべたつく暑さは、さすが南昌だ。今日ベランダの工事監督で部屋に来た管理人のミズ劉が「三階は暑い。一階は涼しいのに。」というので、「四月、五月の一階はめちゃくちゃ湿気でたまらんかった。」と言いたくて「四月和五月、102房間里很湿了」の「湿了」を「SHI LE(シーラ)」と言うと、「SI LE(スーラ)」と訂正された。江西省では、SHI(シー)をSI(スー)と言う。だから十快(元)をSI KUAIと言われて(四元か!)小躍りしたことが何度もある。四声で聞き分けたらいいのだが、それができれば苦労しない…。

 さて、私としては破格の長さのこの旅行、この旅はざっくり言って試練の旅であった。ガイドの陳さんにしても、爪に火を灯すようにして暮らしている学生が初めての飛行機、初めて行く場所への長旅、初めての引率と初めてづくしで、しかも引率相手は老師二人とあれば、大変でないはずがない。その大変さはこちらにも当然影響してくる。時々自分でも(なんか指導教官ぽい発言だな)と奇妙な気分を味わった。陳さんももう一人の随行者岡田先生(この人は、無料ガイド付きの旅行という位置づけで、すっきり楽しめたのではないだろうか)に、
「田中先生に『プロだったらとっくにクビです!』と言われました。」
とか愚痴って慰めてもらっていた。

 さまざまなことがあった。それはこれから追々書くとして、最後の日の出来事が決定的だった。
朝8時半過ぎに30分遅れて成都を発ち南昌へ向かう飛行機でのことだ。
陳さんは、機内食として出たおかゆ、ザーサイ、フルーツ、アンパンなどを平らげた後、プラスチックのスプーンとフォークを丁寧にティッシュ(実はトイレットペーパー)で拭いて鞄に仕舞った。それからお粥のカバーとして使われていたアルミホイルも同様に、丁寧に拭いて鞄に入れ、言った。
「ぼくは一生の間に飛行機に乗れるなんて思ってもいませんでしたから、このフォークとスプーンとアルミは初めて飛行機に乗った記念にずっととっておきます。」
この言葉で、(7泊8日の試練の旅は成功裏に締めくくられた)と思った。彼にガイド料を払わない代わりに、彼の交通費、宿泊費、各種施設への入場料等は一切私が負担した。食費だけは彼の自己負担とした。彼が当初申告した予算を5倍も6倍もオーバーしたことに対して
「こういうのをどんぶり勘定と言うのです!」
とプリプリ怒ったことも、早や思い出の領域になった。代わりに、陳さんが何度も練習しただろうパンダ繁育基地、三星堆博物館、錦里anicient street、九寨溝などの説明や、傘や鞄を持ってくれたり、悪天候で何回も予約変更手続きをしたりしていた姿が走馬灯のように・・・、というほど古い記憶でもないけど浮かんできた。たとえ、100ほどのミスをしたとしても彼は確かにベストを尽くしたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は成都だ   2011年7月2日(土) No.165

2011-07-02 12:30:37 | 中国事情
 引っ越しの片づけも、もちろん納得いくような整理は全然できていない。部屋べやの汚れも見れば見るほど怒りが湧く。
これだけ腹が立つということは、私は日本民族の中でも、かなりのきれい好きなのだろうかと我が生活を顧みれば、3、4日掃除をしないこともあるし、ハッと気づいたら床にうっすらと埃が積もっていることも間々ある。
 しかし、だ。私は人生において十数回引っ越しを重ねてきたが、引っ越すときは、次に入居する人のことを必ず考える。(もし、台所が薄汚かったらきっとがっかりするだろう)とか(新しい生活を始める人にとって、清潔な家ほど嬉しいものはない)とかを、ものすご~く考える。なので、髪の毛一本、塵ひとつ残さないように神経を使う。これは単なる「きれい好き」ではない。「次の人が気持ちよく入居できるよう配慮する」という気配りだ。自画自賛しているわけではなくて、少し前まで日本社会ではこのようなことは当然だったと思う。
 3月の大震災で多くの人々がその気配りに基づき行動していたのを世界のメディアは伝えた。
中国の人々は口をそろえて「日本人は素質が高い」という言葉を使った。人に対して『素質が高い』という言葉遣いは、私は違和感がある。「美徳を身につけている」と言い換えられるだろうか。 
 周囲の人をおもんばかるやり方はいろいろだ。昨日、引っ越しで新平老師や学生たちが見せてくれた行動も私への精一杯の思い遣りだと思う。中国の人たちの思い遣り・気配りは具体的に相手が限定されているときに全力でサクレツする。日本社会で当然だった(今はビミョーと思うので)気配りは、見えない人に対するとき、とてものびやかに発揮される気がする。特定の人が存在する場合、反ってあれこれ考えすぎて手も足も出ないというケースもあるんじゃないだろうか。日本人がシャイだと言われる所以であろう。

 そんなことを考えていたら、もう昼だ。そろそろ明日からの旅行の支度をしなきゃ。忙しい日本の皆さんのためにせめて私の旅程をお示しし、想像の中でツアーを楽しんでもらおう。旅程表はもちろん私が作ったんじゃなくて、3年生のガイド志望の陳さん作。 

         「九寨溝・成都旅行の日程」

 7月3日(日)南昌昌北空港10:55発 成都まで  900元
       夜 成都懶骨頭青年旅館(Chengdu Lazybones Hotel)泊 40元/人

 7月4日(月)新南門長距離バスセンター発(8:10)
       九寨溝入口到着(18:00ごろ)  バス代140元
       米谷国際青年旅舎泊         40元

 7月5日(火)九寨溝へ           チケット310元
       米谷国際青年旅舎泊         40元

 7月6日(水)長距離バスセンター発(8:00)  バス代140元
       成都懶骨頭青年旅館泊        60元

 7月7日(木)汶川 夢ト寨(チベット族のチャン族の村) 交通費50元
       夢ト寨泊              50元

 7月8日(金)成都に戻る――途中、都江堰(大昔の稲作灌漑堰あと)見学 交通費35元、チケット90元
              成都着後、午後、寛窄巷子(地元の通り)散歩
       成都懶骨頭青年旅館泊        40元

 7月9日(土)成都観光
       午前 成都大熊猫繁育研究基地(パンダは涼しいとき活動するのでまずはここにします) 58元
       午後 金沙遺址博物館        105元
          杜甫草堂            60元
          錦里ancient street, 旅館のまわりの散歩(当日次第)

 7月10日(日)成都空港発8:05 南昌へ      900元   
          

*旅行の注意
 ①防寒用のコート(平均気温は22℃ぐらいなので、薄いコートで十分です。)
  日差しが強いので、サングラスや日焼け止めクリームの準備をお勧めします。

 ②一週間(7泊8日)の旅行なので着替えの服を十分ご用意ください。
 
 ③旅館では生活用品は提供しないので、歯ブラシ、歯磨き、タオル、石鹸などをご用意ください。

 ④天気予報によりますと、成都はこれから一週間雨が降りますので、傘をご用意ください。

 ⑤現金について、500元ぐらいの現金を持つと安心でしょう。成都市内ではATMが気軽に利用できます。

いよいよ明日は出発の日です。お忘れ物をなさらないよう、出発の前に上記の物(特にカメラ)をチェックしてください。
旅行について、何か不行き届きのところがありましたら、ぜひご指摘ください。


      
  
        


^_^ 学生なので、500元あったら十分と思うその質素さ。予約してくれた旅館は全部ユースホステルだ。ああ懐かしい。ユースホステルに泊まるなんて50年ぶりぐらいだ。
汶川(ぶんせん)は、四川省大地震の時被災した中心地。政府によって災害前の状態を完全に復元されたと言われるが、実際確かめてみたい。
カメラをぜひ持つように書くこの押しつけがましさも、学生ならではのかわいらしさだ。しかし、本物のガイドなら通用しないかもしれない。
これを読んで違和感を感じられた人はご一報ください。本人に言って聞かせますので~。
というわけで、一週間ほどこのブログはお休みします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

引っ越した    2011年7月1日(金) No.164

2011-07-02 00:02:29 | 中国事情
 今日一階から三階に引っ越した。昨夜、このブログを書いていたころだから9時半前後か、ミズ劉が部屋をノックした。
「ニッキ(ニックのこと)が出てったで。あんた、明日引っ越しでええな。」
「ええ、明日?旅行から帰ってきて、11日ではアカンかな。」
「アカン。今から学生に電話してきて明日手伝いにもらったらいいがな。」
とまあ、我々の会話は大阪弁表記がピッタリだ。それにしても、この程度の中国語会話ができるようになったのかと、自分でも驚く。これは相手がミズ劉だからできることだ。たくさんの外国人教師を相手に、ずっと中国語オンリーで通しているが、その分とても簡単な表現をしてくれる。そして、こちらが分からなくても、へこたれず身振り手振りを交えて何回も繰り返す。そのスタンスは正に外国語教師だ。

 とにかく、そういうわけで急きょ引っ越しが実行された。もう中国に来て十か月過ぎた。こういう唐突さにも慣れてきた。そして電話した学生たちも、
「明日のことで申し訳ないんだけど~。」
と恐縮すると、
「大丈夫です。大丈夫です。」
と言ってくれる。
今日は、中国共産党創立90周年記念日なので、共産党員の学生たちは今朝8時半に集合して一人ひとりが宣誓をする儀式があった。陳さん、郭さんはその会合に出席してから来るので遅くなるとのこと。でも黄さんも確か熱心な共産党員だったはずなのにどうしたんだろう、9時には劉さん、王さんと一緒にやって来た。
「黄さん、会議に出なかったの?」
と聞くと、
「私は古くからの党員だからいいんです。」
という。そうなのか。今日のは新人党員のための誓いの儀式みたいなものなんだな。

 結局、はじめに3年生の黄さん、劉さん、王エイエイさん、間もなく楼さん、郭さんが来て、最後に陳さんと王ショリンさんと、総勢7人も来てくれた。1年生も授業をさぼって来たがっていたが、今日はテストの日なので午前中はどうしても来られないとのこと。
 一年前の衝撃的汚さは今回なくてホッとした。と思ったのもつかの間、台所や書庫の扉を開けたらてんこ盛りのガラクタや本、冷蔵庫の上には流石イギリス人、トワイニングの紅茶の空き缶が50個ぐらい積み上げられ、靴箱の中は超巨大男物の靴が2足出てきた。ベッドの下は(何年分のホコリ~!)という状態だ。やっぱり…。
 しかし、黄さん、劉さん、王エイエイさんは一つ一つせっせと拭いたり洗ったりしてくれ、ドンドンきれいになっていく。楼さん郭さんは運び屋だ。最後に来た陳さんは、丁寧に本を整理してくれた。王ショリンさんだけは、テレビを見て笑っているので、女の子たちに、
「王さん、このゴミとあのゴミ捨てて来て!」
と使い走りさせられていた。
 何と、途中新平老師まで小学生の娘さんと一緒に来られた。スイカ2個を差し入れてくれ、重い電子レンジや中華鍋やらを運んだりしてくれた。こういう時、人の力、人の心を感じる。

 おかげさまで、昼過ぎにはほぼ終わった。一緒にキャンパス横の「吉野家」へ行き、昼ご飯を食べた。吉野家と言っても牛丼はない。弁当とチャーハン、カレーっぽいご飯ものがメニューに載っている。ここのご飯(米)は学生食堂のより数段美味しい。今日私はタコチャーハンを食べた。6元だった。安い。楼さん郭さんを除く学生たちは私の奢りなので遠慮してとても安いものを注文する。楼さん郭さんは浙江省出身、ほかの子たちは全員江西省出身。江西省の子たちはつつましい生活が身についているのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする