毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「学生の夏休み」    2011年9月25日(日)   No.201

2011-09-25 21:12:31 | 中国事情
 2年生になり立ての子たちが書いた作文を紹介する。
この子たちは、昨年10月後半から、日本語に初めて触れた子たちである。しかも、クラスの多くは、会計だの金融だのを志望していたが、成績上やむなく日本語学科に変更した子たちだ。モーティベーションはさぞ低かろうと思いきや、勉強するのなんのって、すごいものだ。
 そこで私もつい調子に乗って、「私の夏休み」というテーマで作文を書く宿題を出した(会話クラスなのに~)。
 この2年生クラスは、新入生軍事訓練、一学期末試験、春節、二学期末試験などで、実質的には6カ月間しか授業をしていない。その子たちが下のような作文を書くのである。とにかくまじめに一生懸命勉強したらこうなるのだ。

 奉◎玲さんは、広西壮族自治区出身。
中国の田舎では、家は家族が力を合わせて自分で建てるのが一般的で、この作文に書いてあることはよくあるそうだ。また、夏休みには多くの大学生が農村・山村の学校にボランティアで出かけて行く。都市出身者は行った先の中国の奥深くで、都市と農村の格差に直面し衝撃を受ける。日本の大学生も、夏休みにボランティア活動で中国の山村に出かけたらどうか。ドッジボールでもギターでも何でも持っていったらいいと思う。
 きっと、ものすごくいい出会いとものすごくいい体験が待っているはずだ。 



      「私の夏休みの思い出」  奉◎玲
 今年の夏休みは大学に入ってから、初めての夏休みだった。最初私は桂林市内へアルバイトに行きたかったが、母が電話をかけてきて、
「家は新しい部屋を増築することになったから、すぐ帰って来てね!」
と言うので、家に帰った。

 だから、始めの一ヶ月間、ずっと家にいて家族の仕事を手伝っていた。毎日、忙しかった。新しい部屋を建てるためにいろいろ必要な重い建材を運んで来たり、姉が料理を作るのを手伝ったりした。
 毎日、暑かったから、時間も長くなったような気がした。しかし、新しい部屋が出来ると、家族全員が嬉しがっていた。それは良かったけど、私も日に焼けてしまった。

 まだ残っていた半月ぐらいの間、私はもっと有意義なことをした。それは、故郷の小さくて古い小学校でのボランティア活動に参加したことだ。その学校で一人だけの先生と一緒に、15人の生徒に授業をしてあげた。夏休みでも、生徒達は学校に行って授業を受けていた。これは、うちの故郷の学校だけあることだった。
 授業は、一日に、国語と数学の二時間だけだった。学校はとても古かった。それに15人の生徒というのは一年生と二年生の合計で、同じ古い教室で勉強していた。つまり、この学校の生徒数は15人だけだった。

 私は、何でも自分でするのだと思っていて、始めはすごく緊張した。しかし、実際の仕事は先生の授業を手伝って、学生の間違った宿題を直すことだけだった。
 授業中、先生が一年生を教えるときは、教室の前の黒板を使ったが、二年生の時には後ろの黒板を使った。大変な教育状況だった。でも、その先生は34年間のベテランで、そのうち、27年間はこの小学校で過ごしてきた(すごいね)。
 私は毎日子ども達と居て楽しかった。でも困ることもあった。それは彼らに宿題の問題を説明することだった。私は自分の頭でよく理解していたが、言ってあげたら、彼らは全然分からなかった。それで、何回も説明しなければならなかった。ときどき、私も自分の夏休みの宿題を持っていって彼らと一緒に教室で勉強した。だんだん毎日おもしろくなった。
 今回の夏休み、私はアルバイトができなくて、お金をもらえなかったのは残念だった。でも、いろいろなことがあって、とても楽しかった。よく勉強になった。それに、自分で中国の貧困な田舎の教育を体験して、中国の現状をもっと詳しく理解した。中国は経済の発展を第一に置いて、大都市の教育も積極的に発展させている国だと思う。でも、田舎は何もない。だから、私は多くの人々が、田舎にいる子どもや田舎の教育にもっと関心を持って欲しい。
 とにかく、私の夏休みは悪くなかった。でも、私はぜひ、来年の夏休みにアルバイトをしようを思っている。私は電子辞書が買いたいんだ。
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4年生の就職活動  2011年9月24日(土)  No.200

2011-09-24 18:24:43 | 中国事情
 4年生が大学から姿を消し始めている。
日本語学科では4年生対象のクラスが2つあり、その一つ「商務日語」は、私の担当である。

 8月末の新学期開始時点で、もう欠席者が数名いた。現在、どんどんその数は増えつつある。
「王さんは、深センで実習しています。」
「童さんも、8月から南昌市内で働いています。」
とクラスメイトが説明するが、こっちは納得できない。
「ええ?授業があるのにもう就職?じゃあ、試験はどうするつもりなんですかね?授業に一度も参加しない人は試験を受ける資格ないんですけど。」
と意地悪く言う。

 だいたい、大学の先生からして、学生に就職先を斡旋しているのだ。その同じ先生が私に4年の授業を依頼してくる。極端な場合、全員欠席でも私は授業準備をして授業に臨まなければならない。ばかばかしいったらありゃしない。それ以上に、失礼極まりない。

 そういうことを言っても、中国の大学の先生はあまりピンと来ないようだ。
「初めから欠席している子の平常点(授業参加態度など)は零点しかつけられませんよね。でも、それでは卒業できないんですよね~。」
と、さらに私がイヤミたらしく言っても、
「学生が就職できなかったら大変ですから。」
とズレた答えを返す。
(だから~、そうであるならば、4年生の2授業は、3年生に移行させればいいだけじゃないんかい!)年寄りは短気なので、心中怒りの沸騰あんこ状態だ。

 しかし、この文句タレも結構威力を発揮して、次回、2年に1度のカリキュラム会議でその方向で検討することになった。私の次に働く日本語教師は、かなりやり易くなっているはずだよん。

 隣の東華理工大では、今学期中(12月末まで)大学を去って就職活動するのを禁止している。だって授業があるんだから。中には医師の診断書を添付して「長期病欠」する子もいるらしい。しかし、我が財大のように大手を振って授業をサボり、中国中ぶっ飛んで歩くことはない。

 やむなく欠席届を出した学生には、就職活動レポートを提出することを条件にして許可している。
先日、江蘇省の昆山で就職先を当たっていた陳さんは、数社の受付で
「まだ4年生なのに、学校はどうするんだ。卒業してから来なさい。」
と言われたそうだ。

 『慌てなくても大丈夫。今学期終了後、来年早々からでも十分仕事は見つかる』という感触を得たとレポートがあった。それでも、日本語能力試験1級合格とか英語6級合格とかの資格はかなり重要らしい。まだ受かっていない人は、そっちを優先したらどうかと言いたい。

 



 
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「関西の人へ」     2011年9月23日(金)  No.199

2011-09-23 11:42:28 | イベント情報
 あちこちで、原発社会とは違う社会へ向かおうという声が聞こえる。こんな遠い南昌からだけれども、何とかその声に呼応したい。

日本から10月2日「さようなら原発 1000人集会 in関西」のチラシが届いた。気持ちは参加!このブログを読まれた皆さんも、(日曜日は洗濯物が~)とか言わず、万障繰り合わせてご参加下さいませ。
具体的に生身の人間が立ち上がり、部屋を出て、町の集会に何回も何回も参加することで脱原発は実現できる。みんな、自分の持っている力を出し合お~!オー!(と一人で呼応しあっている…)


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学生の作文「がんばれ日本」⑤   2011年9月22日(木)  No.198

2011-09-22 22:51:00 | 中国事情
 謝○さんは、いつも教室の後ろの方に一人でひっそり座っている子だ。休み時間に私が話しかけても、小さい声で「はい」「いいえ」くらいしか言わない。この作文を読んで初めて、彼女が子どもの時に、そんな恐ろしい体験をしたということが分かった。きっと、書きながら当時の恐怖が蘇ったのではないだろうか。お祖母さんとの別れ、飼っていた子猫との別れ。彼女がそれを書いてくれた気持ちに目頭が熱くなった。
 李○さんの作文を読むと、思わず顔がほころぶ。ムッツリ怖い顔をしていちゃだめだ。少なくとも教室では、ウソでも笑顔でいようと思った。こんなかわいい学生たちが、座って待っていてくれるのだから…。

  
             「日本頑張れ」  謝○

 2011年三月十一日、日本で発生した大震災は世界を驚愕させた。私もこの大災害に驚き、生き延びた人たちのこれからの平安を祈ると共に、2002年、今からおよそ十年前、自分の身に降りかかった出来ごとを思い出す。

 私の故郷、南康という中国のある小さい町で大洪水が発生した時のことだ。あの三日間、一瞬のうちに親族を失った人もいたし、財産が全部なくなった人もいた。
私にとって、最もありがたいことには我が家は山の上に立っていて、その時すぐには影響を受けないで済んだ。学校も山の上にあるから、私は初めのうちは普通どおり登校できた。
 洪水発生の初日、家から学校に行く途中の道で、私は遠くの水平線を眺めたが、その時はまだ恐ろしい感じがしなかった。町のみんなの状況が分らなかったから、学校で一日中心配でイライラしていた。授業の後、一刻も早く帰るために、家へ急いだ。その時、水平線は朝よりもっと近寄っているのが気になった。

私は祖母と妹と三人で住んでいたから、翌日の朝,彼女たちのことが心配だったけど、クラスメートたちの状況も知りたかったから、決意して学校へ行った。しかし、学校へ来たクラスメートの人数はかなり減っていた。この日、大洪水はさらに獣のように猛り立ち、皆を恐れさせた。

三日目、洪水は私の家から五メートルのところまで押し寄せてきた。私たちの家は孤島と化して、洪水に呑まれるのを待っているかのようだった。祖母も妹も私も黙り込んだ。その時、何を考えていたか、今は何も覚えていない。

 四日目から洪水はようやく退き始めた。やっと安心した。
 この間、日本大震災についての映像を見て、心に刻まれている十年前のあのシーンが思い出された。三人で孤島にいて、救われるときを待てば待つほど気持ちが落ち込んだ。あきらめかけたとき、一艘の船が来るの発見した。なぜこのシーンがもっとも印象的なのだろう。これはどんなに苦しくても、希望があるということだと思う。船は希望の象徴だ。

 この洪水がもたらした損害は大変だった。その時、どの方向へ向かうのか、皆途方にくれた。だが、南康のみんなは一年間かかって苦しい状況から抜け出し、新しい家を建設した。政府と各地の人々の援助がなければ、私たちはあの苦しさから歩み出せなったろう。今それを思い出しても、苦しい感じがするが、もう大丈夫だ。

 もちろん日本での今回の大災害と比べると、これは本当に小さいケースだ。しかし、予測できない自然災害に直面するとき、私たちの気持ちは同じだろうと思う。自然に対して、反抗はできないが、私たちが力を尽くす限り、必ず困難を克服して、新しい未来を創造することができる。日本人のみんなも明日はきっとよくなる。頑張れ。

 親友を亡くした人がいると聞く。苦しいと思う。実は私も、相手は人間ではないが、似た経験がある。小さい時、家で子猫を飼っていた。その時、私はとても内向的だったから、友達が全然できなかった。猫ちゃんは本当に私の友達であり家族だった。その猫が死んでから、私は一か月、元気がなかった。祖母は、
「猫ちゃんはきっと空の上に行ったのだから、今の芳ちゃんの様子を見ると、心配するよ。」
と言った。そうだ、その通りだ。

 その祖母も、去年亡くなった。私にとっては、祖母は一番親しい存在だった。生まれてから、大部分の時間は祖母と一緒に暮らしてきた。祖母も私に色々なことを教えてくれた。だから祖母が逝ってしまった時の気持ちは言葉に表すことはできない。
 しかし、どんなに苦しくても、毎日の生活を続けなければならない。祖母はずっと私のそばにいるといつも信じている。だから毎日二倍幸せに生活しなければならない。

 結果は変えられない。だから、むしろ正視したほうがいい。私たちも一緒に日本の人々の平安を祈念している。日本頑張れ。


 
          「日本頑張れ」  李○
(また地震だ!世界は今、どうなっちゃったんだ?)
世界のあちこちで地震が起きている。
日本で大地震があった時、確かにあの日は金曜日だった。あの時は熊先生の聴解授業の最中だった。友達が携帯電話で私にメールを送ってきたんだ。
「ちょっと!大変だよ!日本で地震が発生した!」
「なに?地震?」と返信した。
「本当だよ!7.9級の地震だ!」
最初は(日本はいつも地震がある。たぶんまた小さい地震なんじゃないの)と思ったけど、「7.9級」と見て、本当に驚きだ。
「まさか!これは汶川地震とほとんど同じじゃない!怖い!」
と私は書いた。
「津波!地震が津波を誘発してしまった!私は今、ビデオを見てるの。本当に怖いよ!建物がおもちゃのように、ボロボロになっちゃった!友達があそこにいる、どうしよう~!」
と友達は泣いていた。
「泣くな。きっと大丈夫だよ!」
と慰めたけど、今回は本当に大変だと思った。

 授業が終了して、すぐに寮に帰り、インターネットでニュースを探した。写真も、ビデオも、私たちにとって残酷な事実がつぎつぎと現れる。自然災害を前にしたときの、この強い無力感。ビルも、バスも、橋も、木も、道も、更に人間もが、全部海水の攻勢の下で破壊されてしまった。自然の前に、人間は永遠に弱者だ。
マグニチュードは何回も直された。最初は7.9級だった。後は8.4、8.8、8.9になって、また8.8級に戻って。最後に9.0級に決まった。ビデオの画面では、車が海中に巻き込まれ、沿岸の建物も流されていくのをはっきりと映し出した。その場面を見ると、本当に心から恐れを感じた。
天災に伴って、人災がついてくる。大地震の影響を受けて、日本福島第一原子力発電所は放射性物質を漏らした。水素爆発が起きて建物にひびが入ったのだ。
みんなは巨大な恐慌を感じた。中国の民衆は塩を買い溜めに走った。塩はすぐに値上がりした。母は私に電話をしてきて、
「ね、ちょっと、私は30袋の塩を買ったよ。」
と私に言った。
「ええ?なに?それはちょっと多すぎるよ!」
と私は驚嘆した。
「違うよ。これぐらいはまだいい方だ。みんな、争って買っていたよ。」
と母は私に答えた。でも、友達と話した時、母が買った塩は、確かに多いとは言えないことが分かった。馬さんは、
「私の母は三ケースの塩を買った!」
と言うと、単さんは
「それは大したことはないよ。うちの母は300キロの塩を買ったよ!」
と言った。
「わ!えらいな。でも、それはちょっと…。」
 しかしどうしてだろう?何故お母さんたちは「3」に関する数字が好きなのか?

 今はもう地震から二ヶ月が過ぎた。さっきある歌を聴いた。題名は『千の風になって』という。この歌を日本の皆さんに贈ろう。

『 私のお墓の前で、泣かないでください。
そこに私はいません、眠ってなんかいません。
千の風に、千の風になって、あの大きな空を、吹きわたっています。
秋には光になって、畑にふりそそぐ。
冬はダイヤのように、きらめく雪になる。
朝は鳥になって、あなたを目覚めさせる。
夜は星になって、あなたを見守る。』

 頑張れ!日本!私たちはずっとあなたたちを応援します!
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学生の作文「がんばれ日本」④     2011年9月21日   No.197  

2011-09-21 20:37:25 | 中国事情
 今日紹介する甘○さんは、一学期はよく授業を欠席し、出席してもドロンとした目で無気力な風だった。(この大学の子にしては珍しいな)と思っていたが、冬休み明けから様子が変わって、眠そうな顔をせず背筋を伸ばし、前を見てきちんと座るようになった。そのわけがこの作文を読んで分かった。
 もう一人、範夢○さんは、よく私の宿舎に遊びに来たり、いろいろ手伝ってくれる学生の一人だ。彼女は日本留学を目指して、着実に実績を重ねてきた。しかし、作文にあるように、その計画は潰れた。福島原発の事故のためだ。
 3月の原発事故直後、彼女は「私はどうしたらいいんですか。」と聞いてきた。私は心中(留学が潰れたぐらいなんだ!こっちは日本が潰れるかどうかの瀬戸際なんだぞ!)と、腹を立てていた。あの時は、私も真っ暗な気持ちで、学生の進路の心配をするどころじゃなかったのだ。
 あれから半年経った。脱原発の道のりは今も険しい。しかし、希望はある。そう思う。  



             「日本頑張れ!」 甘○

 2011年3月11日、日本現地時間14時46分、日本東北部海域でマグニチュード9 . 0の地震津波が発生し、その後、福島原子力発電所の大変な事故が続いて、日本に、戦後最大の重大な被害を与えた。中国でもメディアは日本の状況を連日報道していた。
 
 2008年、私たち中国人は四川省で発生したマグニチュード8.0の地震を経験した。私は今度日本で発生した地震のつらさも同じように深く感じた。地震の後、私はずっとインタ-ネットで地震の映像をみた。本当に怖かった。ウェブサイトでは世界の人々が日本のことを祈っている。日本が早く天災から乗り越えられますように。

 今回の地震は私にいろいろ考えさせた。私は大学に入ってから、あまり勉強していない。しかし、中学校、高校生のときは、ずっとクラスのトップだった。あの時、大学に受かるために、私は一生懸命勉強した。高校一年生のとき、毎日学校で夜九時半まで自習して、家に帰ると、さらに休みなく深夜一時半まで勉強した。土日も塾に行って、勉強した。
 
 ある冬の夜、私は炬燵のそばで勉強に夢中になっているうち、夜中、だんだん体力を消耗して、熟睡してしまった。そのとき、炬燵の火が私の服を燃やし始めたのだ。幸いなことに、母が何か焦げたにおいを嗅いで、すぐ部屋に駆け込んで来てくれたが、もう私の服からは火が出ていた。大急ぎで服を脱がせられて、危ないところをやっと助かった。
 このことは私の家族中で大騒ぎになった。そして大人たちはいつも従姉妹たちに私のことを例に出して、彼らに勉強をさせた。
 
 私は三年間ずっとこの状態で勉強し続けて、やっと大学に入った。しかし、大学に入ったあと、以前溜めたストレスから全部解放されて、勉強する気がなくなってしまった。新しい目標が立たなくて、前に進む力も失った。

 今回の地震の前、わたしはインターネットで日本についての記事を見た。日本人の多くは、今の生活や人生に希望や、心からの喜びを見いだせず、暗いどんよりした気持ちで日々を送っているという内容だった。たぶん日本人のみなさんも私と同様、人生に目標がないし、ただその日その日を送るだけだったのだろう。しかし、地震のあと、被災地を回復させるために、みなさんは一生懸命がんばっている。

 この冬休み、親はいつもお金の問題でけんかしていた。私はハッとして、(自分が大人にならなければ!)と思った。確かにお金は生活に欠かせないものだ。自分に能力があれば、よい仕事が探せ、お金も多く稼げる。家族のあいだのいろいろな問題も解決できる。
 私は今学期の始め、計画を立てた。ちゃんと勉強しなければならない。今は日本語能力試験一級と英語の六級試験に向けて毎日クラスメートと一緒に図書館で勉強している。充実した暮らしだ。

 私はひとつ人生の生きがいを探し出した。人は積極的に暮らせば、希望が見えてくる。どんな災難があっても、がんばったら、きっと風雨の後の虹が出るよ。日本の人たちも、頑張れ!





            「日本、頑張れ!」---廃墟から生まれ変わる夢--- 範夢○

 急に携帯が鳴った。父からの電話だった。
「夢婕、留学のこと、考え直しなさい。今日、大地震で東日本はほぼ全滅だ。ネットで詳しいニュースを見なさい。」
「えっ?大地震?あとで見るよ。」
(日本で地震はよくあるのに。お父さんは元々私の日本留学に賛成してないので、大げさに言うんだ)と、私は思った。
 夜、ニュースを見てびっくり仰天した。そして次第に不安の念に駆られてきた。(日本の知人の所も被災されたかも。明日メールを送ろう…)と、横になった。なかなか眠れなかった。

 翌日。授業の合間に厳先生は震災後の津波の映像を見せてくださった。黒い海水が岸に襲い掛かり、漁船が飲み込まれた。家屋は滔々たる波に押し流され、微かに人の姿が見えた。見ているうちに私は涙で目が霞み始めた。いつも喧しい休み時間はその時、実に静かだった。
 地震後の数日間、日本在住の先生や知人にメールを送り、無事を確認してほっとした。然し福島原子発電所では原子炉の爆発が起こり、放射性物質が漏れ出し、被災状況が一層深刻になってしまった。(日本頑張れ!早く回復しますように)と祈り続けた。 

 原発事故の二日後、また父から電話があった。
「留学のこと、よく考えた。娘をあんなところに送れない。中国の大学院に進学したらどうだ。」
「えっ?何で?」
「漏れた放射性物質は後々まで尾を引くんだぞ!一体何を考えてるんだ。」
「…分かった。切るよ。」

初め、日本留学の話をした時、父は反対した。一人娘が日本に行って、世話を焼いてくれる人もいないし、日本人に差別されたりしないか心配だったのだ。そんな父を説得しようと私は必死に頑張ってきた。去年、江西省の日本語スピーチ大会に入賞し、勉強も一層頑張って奨学金をもらった。日本の方との記念写真を父に見せた。ようやく父は認めてくれた。
 然し今、父の決意は固い。長い間の留学準備は泡と消えてしまった。
(努力しても報いもない、もうやけだ。日本で何かがあったら、或いは中日の間にゴタゴタが起こったら、日本語学科の学生は真っ先に衝撃を受けるんだから。私もこの地震の『犠牲者』だ。)と思い込んだ。

 地震後9日目、あるニュースを見た。地震後生まれた赤ちゃんに『廃墟の中から新しい日本を作る』という夢を託して「望」と名付けたというものだ。生き残った人々は、親しい人を失い、巨大な悲しみを背負いながら生きていかなければならない。それでも「頑張りさえすれば、希望があります。」というお母さんの言葉はしみじみと心に沁みた。

 夜、母が電話をくれた。
「留学の夢が潰れちゃった。」と泣く私に
「夢は、自分が最初から諦めたら叶わない。将来また日本に行くチャンスはあるよ。夢婕は両国の架け橋になりたいのでしょう?ニュースを見ると、日本人は今一生懸命頑張ってる。感服したわ。だからあなたも頑張って。」と母は私を励ました。

 なぜ私は日本に留学したかったのか。日本に対し、中国人は多かれ少なかれ複雑な感情を抱いている。私は日本語学習や日本の方とのお付き合いの中で、国や文化・歴史の違いを越え、人間同士の交流が可能だし、国際交流で多くの新たな認識が得られることを実感した。然しまた、中国側も日本側も相手に対する認識不足があることに気づかされ、お互いに相手のことをもっと知ってほしいと思うようになった。だから私は日本に留学したかったのだ。

 私を深く愛してくれる両親に逆らい、彼らを傷つけることは私にはできない。中国で頑張り続け、将来日本語教師になり、中日の交流に貢献することもできる。中日の架け橋として力を尽くしたい。これが私の夢だ。微力かもしれないが、無力ではない。その夢を実現するために、もう一度挑戦しようと思う。今の日本は廃墟の上に新しい日本を作るという夢を抱いている。だから、日本の皆さんも、私と一緒に頑張って!夢を叶えるために。
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学生の作文「がんばれ日本」③     2011年9月20日   No.196  

2011-09-20 18:39:27 | 中国事情
 中国の大学生がみんな、今回の日本の大災害について同情的であるとは言えない。
しかし、少なくとも、日本語学科の学生達の多くは他学部の学生達に比べて、この事態をより身近に、より真剣に感じていたように思う。
 私は実際に日本人を知っていることが、それを助けていたと確信する。実際に知っている日本人というのは、教室で会う日本人教師だったり、メール交換している日本の友人・知人だったりするだけなのだが、そんな小さい機会でも、人と人を結ぶきっかけになる。そのためにも、もっと日中の人々が知り合い、交流することが大切だと切に思う。



             「日本、頑張れ」   趙智○
日本のみんなは「唐山大地震―想い続けた32年―」の映画を見たことがあるだろうか?私はその唐山出身だから、小さい時から、時々「地震」という言葉を聞いて育った。でも、家は震源から遠かったので、1976年の唐山大地震の時、揺れの感じはたいして強くなかったそうだ。母はただ他の人から地震のことを聞いた。それで、小さいとき、私は「地震は怖い」「地震でたくさんの人が死んだ」しか知らなかった。唐山の子供なのに。

2008年5月12日、四川汶川大地震が起こった。その時、高校生の私はテレビで汶川のことを見て、初めて(地震とはこのようなことか。人々は自然の前ではこんなに小さいのか)とびっくりした。ビルや家が倒れ、建物の下に生き埋められて、たくさんの命が消えた。賑やかで活気溢れる町はあっという間に廃墟になってしまった。地震のせいで外部との連絡が断ち切られ、そこに住んでいる人々の安否を知りたくてもその方法がない。余震がたびたび発生し、救助隊員がそこに行くことも危険だ。そうしたことを見聞きすると、本当に胸が痛くなり、何とかしてあげたいという思いに駆られた。

実際、困難があるところには、四方八方から応援が駆けつけた。全中国、全世界の優しい人々が汶川を支えた。特に唐山からは、1億元を募金した企業がいくつかあって、唐山生産のシャベルや、つるはしなどを汶川に贈った。それでもさらに人々は、実際自分が汶川に行って、なんとか助けてやりたくてたまらないのだ。
「どうして?」と聞いたら、
「その被害の痛みが分かるから。それに唐山大地震の時、助けてくれた。」と答えた。
  今度の日本の大地震でも、私たち中国人は、その痛みを感じる。テレビ、インターネットでその地震と津波の画面を見て、みんなが日本にいる人のことを祈っている。

  2010年の夏休み、「唐山大地震―想い続けた32年―」という映画が中国で公開上映された。見たとき、私は涙が出てたまらなかった。ただ23秒の災害なのに、人々の想いは32年間も続くとは。「余震」というのは「より弱い地震」というだけの意味じゃなくて、人々の心理に及ぼす影響だ。唐山大地震が人々に与えた災害は、物質的と精神的の二種類があって、特に、地震災害は人々の心の世界に癒しがたい傷を残してしまう。唐山では、今でも唐山大地震の話をすると、地元の人々の顔色が変わる。
  でも、中国人にひきかえ、日本人は地震に際して驚くほど沈着冷静だ。日本の人々にとって、地震はどういうものなのだろうか。

日本は、地震に厳しい試練を何度も課されることを、避けがたい生活の現実として常に受け入れてきた国家だ。日本では地震が日常茶飯事だ。そのため、地震の試練は普通に生活の一部になっている。人々は、いつ災害が襲ってくるかわからないと、常に意識しながら暮らしている。
略奪も暴動もないという事実に関しては、すでにたくさんの報道がされている。商品が切れているにもかかわらず、スーパーやコンビニ、ガソリンスタンドできちんと列をつくり、押したり喧嘩をしたりすることなく並んでいる人々の態度は世界中の人々を驚かせた。
でも、家族が亡くなった時、人々はつらいに間違いない。子どもたちが不安になるのは当然だ。たった今まで慣れ親しんで暮らしていたところが、自分の目の前で廃墟になった時、心はどんなに痛むことか。その傷が治るまでとても時間がかかるだろう。

国内だけではなく、世界各国から支援表明やお見舞い、激励のメッセージが相次いだ。可能な限りの協力を行うとし、日本政府の受け入れ表明を待って、救助隊員を被災地に派遣した。国を超えた世界の人々の連帯の気持ちだ。
日本はこれから徐々に震災後の復興をして行くと思うが、また震災前のような日々に戻れることを心から祈っている。
困難に対して日本のみんなが示した沈着冷静さと団結心は、大災難より強い。風雨の後は虹が出るよ。立ち上がれ日本人!頑張れ日本!





      「頑張れ日本」
    ― 千年不遇の大地震と戦う日本人へ ―
                                  王栄○

「病は人間の免疫力を一層鍛えるためのものだ」と偉人が言った。3月11日の東日本大地震に遭った日本の状況を「病」に例え、災害からの復興を促す力は何かについて考察したい。以下はこの「病」に対する「病症録」作成の試みである。

 症状:
  ①3月9日11時45分(本震の約51時間前)に、本震震源の数十km  
   ほど近いところに7.2マグニチュードの地震が起きる。
  
  ②3月11日14時46分18秒(日本時間)マグニチュード9.0の東北地方  
   太平洋沖地震が発生。
  
  ③この地震により、場所によっては波高10メートル以上、最大遡上高38.9  
   mにのぼる大津波が発生。東北地方の太平沿岸部に巨大な被害をもたらす。

 結果:
  ①死傷者多数、建築物が多く倒壊し、交通機関が途絶。
  
  ②福島第一原子力発電所では、地震と津波の影響を受け、全電源を喪失し、 
   原子炉を冷却できなくなり、大量の放射性物質が放出、周辺一帯の住民  
   は長期の避難を余儀なくされる。

人々の反応及び分析:
  ①信念~生きていく原動力
 「これで死んでしまうかと思ったとき、家族のことが頭に浮かび、その瞬間 
 生きていこうと決心した。」生き残った石川太郎はこう話した。
「声を聞いて安心した。前向きにいくんだぞ。パパも頑張ってやるから。」 
 娘の安全を知った父は、電話の向こうの娘を励ました。
「神様お願い。何としても生きなければなりません。助けてください。」  
 地震のとき、あるお母さんは子供を胸に抱えて生きていく信念も抱えた。

  ②秩序~災害と戦う最も強い道具
    地震が発生した後、路上には多くの走行車があったが、みんな秩序よく、 
    交通規則を守って走っていた。避難所になった広場では、皆自覚的にエスカ  
    レーターの両側に座り、他人に道を譲る。ある報告によると、数百人が避難  
    した後の広場には、地面に紙屑やごみなどは一つも見当たらなかった。

  ③責任~勇敢な者が持つ美しさ
    福島第一原子力発電所では50名の職員が自発的に自らを犠牲して、自分 
    の職場をしっかりと守った。
    「今の対応次第で原発の未来が変わる。使命感を持っていく。」
    と福島フィフティーズの一人が娘に自らの責任感を表した。
    「俺は怖くない、これは俺の責任だ。」英雄たちはみんなのために、この負  
    けられない戦争と戦っている。

  ④互いの思いやり~家が無くなっても、家族には愛がある
     避難所にある老夫婦がいた。彼らの朝御飯は一つのチョコレートパン。そ 
     れが三つに分けられ、
     「わたし、今のところお腹空いてないから、大丈夫。」
      とお婆さんが先にお爺さんに分けたうちの一つを渡した。
      愛ある人々はこの物質不足の状況にいても、先に相手を思いやる。

  ⑤人間性~国境なく、皆が兄弟だ
 「彼がいなかったら、私たち20人はきっと死んでしまっていた。」
 と救われた女子研修生が泣きながら話した。地震が発生するとき寮にいた20 
 名の中国人研修生は外に出て、廃墟の前で迷っていたころ、会社の専務佐藤充 
 が来て、 
 「早く、神社までついてきて!」
 「神社は高いところにあるから安全です。」 
 と言いながら、研修生たちを神社に誘導した。残った人がいないかと確認する 
 ために佐藤さんは再び寮に戻った。佐藤さんはそのあと二度と帰って来なかっ 
 た。災害を前にして、彼は身近にいる中国人を「外国人」として見ずに、本能 
 と言っていいほどの気持ちで助けた。これは兄弟愛・人間愛でなければ何だろ 
 う。

見解:
  親友に死なれ、家を無くし、人々の心は傷ついた。自然災害を前にすると、 
 人類は小さい存在だが、自然と対峙し闘う精神や信念は決して小さくない。
      震災と闘う日本人たちの姿は世界に、
 「日本はきっとこの大病から抜け出し,立ち直る。」 
 と伝えている。
  だから、みんな、一人一人の冷静さと勇気と愛、そして国境を越えた人間同 
 士の連帯感を堅持して、一緒に明るい未来へ頑張ろう!
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学生の作文「がんばれ日本」②     2011年9月19日   No.195

2011-09-19 20:41:47 | 中国事情
 たった今ブログを開くためにインターネットのホームページ画面を見たら、
「大江さんら脱原発呼びかけ、6万人大集会」の見出しが目に飛び込んできた。すごい!もうちょっとで10万人だ!関西でも10月2日に「さよなら原発1000人集会」があるという。1000人と言わず、1万人ぐらい集まらないかなあ。
 さて、前置きは終わり。作文、作文。


 昨日の王○紅さんも劉思○さんも女子学生だ。今日は、男子学生3人の作文を紹介する。
王本○さんは、尖閣諸島問題の時、「日本語を学び続けるのが苦痛だ。日本が憎い。」と書いていた学生。
陳礼○さんも、「ドイツは反省したのに日本は…。」と昨年冬に書いた子だ。陳さんはその後、私とのメールのやりとりの中で「日本の人たちも戦争で大変な被害に遭われたと、想像もしていなかった。一方的なことを言って大変失礼なことをしました。」と言ってくれた子だ。
最後の○旭さんは、初め、作文が書けないからと言って、クラスメイトのを丸写しし、私に
「3年間も日本語を勉強して、作文の1つも書けないとは!さらに人のを盗作するとは!恥を知りなさい。これでは4年生には進級できません。」
と言わせた子である。その後何とか自分で絞り出したのが、下の文だ。


                「日本、頑張れ!」  王本○
 西暦2011年3月11日。
 これは全ての日本人が覚えるべき日というより、全ての生命を愛する人間が胸に刻みつけるべき日である。不幸に奪われた命のために。

 マグニチュード9.0、「千年一遇」と言われる今回の大地震がこの日、日本の東北地方を襲った。この地震は日本の経済及び全世界の経済にも、日本の人々の生活にも、大きなマイナスの影響をもたらした。しかし、これはちっとも構わないとは言えないが、絶対最悪な状況ではない。人さえいれば、ものはまた造れるのである。だが、悲しいことに災害の中で犠牲になった二万余りの人の命は永遠に戻って来ない。
 地震の翌日、インターネットで衛星が撮った被災地の写真を見た。それは目も当てられないほどの惨状だ。その画面を頭に浮かべるたびに、心が絞られる気がする。

 第二次世界大戦の時のことが原因で、私は小さい頃から日本に対して消そうとしても消せない嫌悪感を抱いている。しかし、最近は日本人に同情する気持ちが心に燃え始めてきた。長年、心に定着したその嫌悪感に抵抗するために、口実を探そうとは思わない。今はただ、同情を感じているのだ。日本の皆さんが困難を乗り越えるように、衷心に祈っている。
 日本人は困難を乗り越えられるに違いないと信じている。これは歴史にきちんと検証されているのである。日本は古代から災害頻発の国なのは、全世界の人も知っていることである。現代史の中では1923年の関東大地震や、1995年の阪神大地震などさまざまな巨大自然災害が日本に空前の災難をもたらしたが、いずれも日本を滅亡させられなかった。日本が好きじゃない者にとっては認めたくないとしても、日本民族は古来、災難に育てられてきた強靭な性質を持っている民族だということは事実である。

 これを書きながら、私は、去年、私が自分自身の病気に苦しんでいた頃に、日本のあるドラマに励まされたことを思い浮かべている。「1リットルの涙」というドラマである。女主人公は15歳の時に脊髄小脳変性症と診断された。しかし、その女の子はこれで落ち込んでしまわなかった。彼女は悲しみながらも、前向きに命の終点まで精いっぱい生きた。このドラマを見ている時、何度も涙を流した。彼女はどんなに大きな勇気を持っている人だったろう。
 このドラマを見たあと、やっと本当に一つのことがわかった。人は生きてさえいれば、希望がある。生きてさえいれば。だから、諦めてはいけません。
 朗らかな朝に東の朝日に向かって叫びたい。「日本、頑張れ!」




「日本に届けたい心の声」  陳礼○

拝啓  桜花爛漫の候、日本の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。東日本大震災が発生してもう一ヶ月経ったこの時、私は考えに考えた末、この手紙を書き始めています。言いたいことは心に満ちているのに、身に付けた限られた日本語で自分の気持ちをはっきり伝えるのは、ちょっと難しいと感じながら…。

  先日、私は桜の花見に行きました。満開の桜の下で、大震災についていろいろ考えました。日本は今、全国各地で桜が次々咲き誇っているのでしょう。しかし、3月11日の午後、一万人以上の人の命が、まるでこの桜の花びらのように、舞い落ちてしまいました。 
 3月11日午後の授業の後で、私は東日本大地震のニュースを知りました。
ショックがあまり強くて、暫く呆然とするだけでした。あの時の気持ちは、三年前、四川大地震が起こった時のようでした。
 あの日から、毎日大震災のニュースを見ています。朝日新聞のネットには、増え続ける死亡者や行方不明者の数、そして多くの大津波に流された町の写真が載っていました。

 3月11日午後2時46分。この時刻は、永く日本人、さらに全世界の人々に記憶されるでしょう。マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が町を壊し、人々の暮らしを奪いました。それでも、私は知っています。被災地の人々が、今、強い心を持って懸命に歩き始めていることを。

 東日本大震災が発生した六日後、私の日本語の先生は、この心の強さを私に感じさせました。私達に、自国の震災の最新情報を伝えてくれた時、先生は悲しくて涙が溢れてきたけれど、我慢して我慢して、授業を続けました。
『地震があっても、津波があっても、生き残った人たちは、辛抱して、涙を拭いて生き続けるしかない』これは、私のお見舞いメールへの先生の返事です。まさにこれは被災地の人々の心の声でしょう。

 先週、先生は私たちに『フラガール』という映画を見せてくれました。福島県いわき市常磐炭鉱の町の実話を描いたこの映画の中で、運命を変えるために懸命に踊る少女達の姿には、何度も感動させられました。この映画で、私は日本人の、自分の運命を変える決心と力を強く感じました。
 先生は自分を、そして私達を励ますつもりで、この映画を見せてくれたのでしょう。原子力発電所の放射能の悪夢はまだ消えていません。今もなお、福島では、危険を冒して発電所に入る作業員さんを始め、みんなが厳しい現実に立ち向かっています。皆さんは、フラガールのように、自分の運命を変えるため必死に努力しています。
そこに希望があると私は信じています。

 2008年、胡錦涛氏は早稲田大学での講演で、
『日本の国民は創造に長けており、勤勉で、英知と向上心に富んでいる』と述べました。
日本の皆さんは限られた国土と資源のもとで、世界の注目を集めるような発展と業績を成し遂げました。今回も、皆さんは全国の力を合わせて、被災地の再建設を迅速に進められると信じています。
 機会があったら、私はぜひ東日本へ行きたい。自分の目で日本を見、自分の心で日本の優れた精神を感じてみたい。
  私は今、三年生になりました。自分の就職や未来を考えると、いつも悩んで、迷っています。そんなある日、私は朝日新聞のネットで、小学生達の泥だらけの笑顔を見ました。私は恥ずかしくてたまりませんでした。わずかな困難で落ち込んでしまった私は、被災地の小学生に学ぶべきでした。
 これからは、私にとっても、日本にとっても、まだ長い道があります。前途には、艱難辛苦が待ち受けているでしょう。しかし、それでも、私たちは微笑みを忘れず生きていきましょう。涙が流れたら、泣いてもいい。また、涙を拭いて生きて行きましょう。運命を変える決心と勇気を持って。
      “頑張れ、日本!頑張れ、自分の人生!”
                                敬具


             「日本 頑張れ」  ○旭

 2011年3月11日、午後二時四十六分ごろ, 私が授業を受けている最中、隣国—日本の宮城県沖で地震が起こった。震度はマグニチュード9.0、世界の人々をこの上なく驚かせた。この地震は高い津波を引き起こした。宮城県を含めたいくつかの県の沿岸の町や市をのみ込んでしまった。

 地震が発生した後、被災地ではパニック状態にならなかった。数百人が広場に集まって地震を避けた時、避難の過程全体を通して、人々は秩序正しく行動した。三時間後、人々は家に帰った。人々が去った広場にゴミは全然なかった。
 
 日本の通信会社AUのある販売店は、店員の安全のために、地震後すぐに店を閉めた。でも店員はこの店の全部のラグ版と充電器を店の入り口ドアのそばに置いた。それによって、通りかかった全ての人が無料で携帯電話を充電することができた。 

 各メディアの記者たちは安全帽子をかぶって、たとえ恐怖で声がぶるぶる震えたとしても前線で報告し続けた。
 全ての人がビルの外へ整然と避難した時、まだ建物の中に居て歩く影もあった。彼らは郵便配達人だった。自分の命に関わらず、公共の仕事に徹する人々がいた。このような職業精神は、多くの人が学校で学んできたものではなかった。自然に、自発的に行動したことだった。

 日本の公立学校は地域住民の最もいい避難所だ。地震が起きて以後、人々はすべて自発的に秩序正しく学校に向かった。学校の建物はとても丈夫に作られている。毎学期に学校では全員でアンチ・ショックの演習を行うそうだ。これは大いに死傷者を減らすのに役に立った。

 そして、災害は地震と津波だけで終わらなかった。地震と津波のために、福島の原子力発電所が爆発事故を起こし、放射能が漏れだしたのだ。日本だけではなく、世界の環境に悪い影響を与える事態になってしまった。でも、日本の政府と国民は懸命に努力している。50人の労働者は自ら望んでその原子力発電所の修復にあたった。日本と世界の安全のために、決死の覚悟を抱いて原子力発電所に入って行った彼らが、安全に家族のところに帰って来ることを望む。
 
 私は今回の地震で、考えたことがある。人間性は国境によって区別されてはならない。すべての罪がない大衆が平穏無事なことを望みます。私達は平和と安定を心から愛しています。日本、頑張れ!
 
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学生の作文「がんばれ日本」①     2011年9月18日   No.194

2011-09-18 13:07:50 | 中国事情
 春、日本僑報社主催の「第七回中国人の日本語作文コンクール」に3年生と2年生の合わせて40人が応募した。3年生は授業の中で課題として与えたものだった。主催者によると全部で3100通以上もの応募があったという。今回のテーマが「頑張れ日本 ―千年不遇の災害に遭った日本人へ―」というものだったためと思う。
 40人の応募者の中で一人入賞者があった。その詳しい発表は今月末ということなので、ブログでは一足先に、入選しなかった学生の文をいくつか紹介したい。私は作文を読んで、彼女ら・彼らについて初めて知ることがたくさんあった。まだ友だちにも言ったことがない自分について、初めて書くという子もいた。その真正面から書くことに取り組む態度に、心が震えることもたびたびだった。
 実は日本から持参したUSBメモリーが潰れたので(まさかの事態!)、ここに紹介できるのは、偶然他に記録が残っていたものだけだ。本当に悔しい…。


              「日本、頑張れ」 王○紅
 2011年3月11日、金曜日。南昌の天気は晴れでした。午後5時頃、私は外から寮に帰って、ルームメートに話しかけました。
「ただいま! 黄さん、今日また授業をサボったんじゃない?午後の授業はたくさんの学生がサボったから、先生は怒ってたよ!」
「・・・・・・。」
 なんか泣いている声が聞こえました。黄さんがカーテンの中で、泣きながら、パソコンを見ていたのです。まもなく黄さんはカーテンをめくり上げて外に出てきました。
「日本でまた地震が発生した。午後二時頃、宮城はマグニチュード8.9だって。私はずっと日本被災地の現場を見て、ずっと泣いていたの。昼休みもしなかった・・・。」
「ああ、まさか!」
「この現場の映像を見て!」
 実は日本で地震が発生したと聞いたその瞬間は平気でした。日本はもともと地震大国で、、日本のみんなも定期的に避難訓練などをしていて、慣れていると思っていました。少しくらいの地震なら、何もなかったかのように生活を続けるでしょう。昔から、日本人は世の中の恐ろしい物事の順位を「地震、雷、火事、おやじ」と表現しています。日本列島各地で地震は頻繁に発生しています。 
 しかし、黄さんが見せた映像を見て、私は実際にそこにいるように驚きました。地震と共に、津波も起こりました。画面で、水は家屋、道路、建物全部を飲み込みました。たくさんの海ゴミが海岸に巻き上がりました。陸上のたくさんの建物や生活品も海ゴミになりました。

 数日後、またパソコンに向かう黄さんに聞きました。
「今、日本はどうなってるの?地震はもう終わったの?」
「終わるわけないよ。今、みんなは被災者と生存者を探して救助しているんだよ。日本観光していたある中国人が新浪ツイッターで援助を求めた話が載っている。彼の奥さんはあの日に出産したそうだよ。子供が生まれそうになったけど、地震のせいで帰国できなくて、また日本語もできなくて、彼は必死で中国新浪ツイッターで助けを求めたの。幸いことにその新浪ツイッターを日本人も見ていて、日本にいる医師の友達を頼んで、奥さんを助けたの。子供も無事に生まれたんだって。」
 「ほんとに危ないとこだったね!もし医師がいなかったら、出産ができなかったでしょう。新浪ツイッターもすごいね。」
「そうね。今、新浪ツイッターでたくさん励ましの言葉が出ているよ。」

 余震は何日も続けて次々に発生しました。
「もうやめて!」
世界中の人々が叫んでも、天災はほんとうに無情です。家はなくなり、廃墟になりました。親友も亡くなりました。帰る場所がない人々は廃墟を前に、泣き出しました。その涙は、どうしようにもしかたがない絶望の気持ちが溢れ出したものだと思います。
 でも、天災は無情ですが、人は情けのあるものです。世界の人々は手をさしのべて、寄付したり、生活比需品を提供したり、考えられる様々な方法で日本を助けています。

 地震・津波の前に、一人一人が人生をかけて、一生懸命作った美しい世界や生活も全部なくなりました。でも、人の命が無事なのは今一番の幸いです。中国には「木の生えている山がある限り,薪の心配はない」という言葉があります。つまり命の綱が切れないかぎり,将来の望みは持てる。日本にも、「捨てる神あれば拾う神あり」と言う諺がありますね。だから、みんな元気を出して、この天災を乗り越えて、今度も新しい世界を作りましょう。死んだ人は安息して、生存者は発奮しなければなりません。決して希望を捨てることなく、身体を大切に日々を生き抜いていこう。どんなに難しくても、どんなに辛くても、続く未来は絶対明るくなります。全てがよくなります。
 今、口だけじゃなくて、心から「日本、頑張れ!」と叫びたい。本当は、地震の現場に行きたい。被災者を実際に助けたいのです。言葉より行動です。でも私が今できるのはこの文を書くことだけです…。
 最後に、人生には、思いも掛けない出来事が降りかかります。逃れたくても、逃れられない出来事が降りかかります。しかし、人生は続いていきます。これから続く人生は、悪いことばかりじゃない。きっといいことがあります。私はそれを信じています。

 そして、今持っているものを心から愛し、大切にしましょう。いつなくなっても、全力で愛したそのことはいつまでも消えないのですから。




         「日本、頑張れ」 ―一滴の水も、海になる―  劉思○
 「本日午後2時46分頃、東北の太平洋沿岸でマグニチュード9.0という国内の観測史上最大の地震がありました。」
「続いて、地震発生から30分後、福島県では7メートルを超える大津波が観測されています。」
「原子力安全保安院によりますと、12日午前11時1分、東京電力福島第一原子力発電所の一号機から爆発音がして、大量の煙が上がりました。」

 三重の災難が日本を襲った。日本人だけでなく、世界の人々も肝を潰した。地震、津波、放射能漏れ、次々と連発して、未曾有の大災害になってしまった。
 私は中国の丘陵地帯に住んでいて、未だかつて地震や津波などの災難に襲われたことがない。そのことは、地震や津波などの災難の怖さを想像することもできないということでもある。想像できるのは家族や友達を失ったときの辛さである。

 家族と言えば、日本人の家庭について人伝えに聞かされてきたことがある。
「家族と一緒にいる時間が少ない。家はあるけど、家族がない。」「日本人の家族の愛情は、近年、薄まってきている。」
といったことだ。日本人の家庭に直に接することがなかった私は、このような噂を単純に信じてしまっていた。
 しかし、インターネットで災害後の映像を見ると、実景は大きく異なっていた。
「よかった、やっと会えた。嬉しい。」
ある六十歳くらいの男性は涙を拭きながら、娘を抱きしめた。ローカル線に沿って何日も歩き続け、娘を探していたという。ようやく再会できたときの喜びはどれほどだったろう。
 私は子供を生んだことがないので、親の子どもへの愛情が本当にわかったとは言えない。中国の古い諺に「子を持って知る親の恩」という言葉がある。自分も親になったら、きっと親の深い愛情も実感できるだろう。

「どこに逃げたの……兄ちゃんってば。」
ある八歳くらいの女の子がお母さんの太ももにしがみつき、泣きながら聞いていた。小さい頃から一緒にいるお兄さんの姿が急に見えなくなって、妹の心はどんなに寂しいだろう。
 私は一人の弟がいる。私が彼をどれほど大事に思っているか、口で言い表すことはできない。弟は弟で、年下だが、いつもお兄さんのように私のことを気遣っている。
 大学の専門を決めるとき、両親は私が日本語学科を選ぶことに激しく反対した。財経大学に入って、会計でも学び、卒業してから、故郷に帰る。そして、嫁になって、子を産み、安定した一生を送る。これが両親の私に対する希望だった。
 しかし、それは私の希望ではない。私は、日本について学びたかった。
「古代から中日は強くつながってきた。両国にはいろいろなことがあったが、互恵平等はやはり歴史の流れであると私は信じる。だから、私は両国の友好のために、自分の力を尽くして、何かをしたい。」
弟にそう愚痴をいった。すると、弟は精一杯両親を説得してくれた。弟のおかげで、私は今日本語が学べる。(もし、弟に何かあったら、弟の代わりに私は何でも背負う。ただひたすらに弟を守って、ともに人生の長い道を歩いて行こう。)私はいつもそう思っている。                     

   災害に遭った日本の人々のニュースを見聞きする中で、私は日本人の心の奥にある家族への深い愛情を感じた。欧米人のように情熱的に自分の愛情を表現しないので、時に冷ややかに見えることがあったとしても、日本人は心の深いところで、身内や周りの人のことを大切に思っているのだ。       

   人々が周りの人に優しく気を遣い、その優しさの輪を広げていったら、きっと世界も一つになるだろう。私は今学生で、世界の舞台に立つ機会もない。しかし、私は大学卒業後、自分が学んで得た日本語の力を活かして、少しでも中日間の架け橋になりたい。世界の人々が一つになる輪の中に、私も一人の中国人として参加したい。力は小さくても、私ができる何かを見つけ、よりよい世界に力を尽くしたい。歯を食いしばって復興を目指す日本の人々とともに。
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冷蔵庫の中   2011年9月16日(金) No.193

2011-09-16 13:44:20 | 中国事情
 8月23日に戻って以来、冷蔵庫の中はいったい何が入っているのか自分でも分からなくなっていた。
日本から買ってきたポッキーやらコーヒーやら調味料やらを取りあえずどんどん入れたので、全容が把握できない状態だったのである。

 しかし、3週間以上を経過した今、ついに霜が張り付いている奥の壁が認められるようになってきたではないか!
 ポッキーもトッポも不二家のミルキーも北海道ミルクキャラメルもすでにない。しかし、嬉しいことに、奥のすき間に、QBBのベビーチーズ[アーモンド味]を2個発見!思いがけない贅沢を味わった。

 だいたい、この冷蔵庫は小さくて古い。時々、突然冷蔵庫の前に水たまりができるのは、霜が何かの拍子に溶けて、冷蔵庫の外に流れ出たのに違いない。
 写真に写っている3段の下に1段だけの野菜ボックスがある。そこには各種お茶がひしめいていて、野菜の入る余地はない。大根、桃、ミカンなどは上の3段のすき間に置いている。一番上の段には、みそ汁、ふりかけ、お茶漬けなんかがまだまだ残っている。来年の1月まで少しずつ大切に食べていかなきゃ。

 スエミさんのお連れ合いイツオさんからいただいたお手製の梅干しも健在だ。
そのスエミさんから、
「毎年、梅を買いに行く南紀地方が今回の台風で大被害に遭って、とても気の毒です。」
とメールが届いた。今年の日本はどこまで不運なんだろう。
 ところで、福島原子力発電所の事故のときには、「想定外」「予測不可能」を唱え続けていたメディア(例えば『朝日新聞』)が、今回の台風報道では、「被害は予測できたはず」「ここまでの被害が出たのは人災的側面が強い」と批判的に報道している。
 福島原発事故についても、何年も前から危険だと指摘され続けてきたのを、まさか知らないはずはあるまい。それをひたすら無視し隠蔽してきたメディアの罪は計り知れない。それなのに、批判が許される台風のこととなると、急に偉そうに指摘する。その恥知らずさ加減には、こちらの顔が引きつる。
 朝日新聞なんか潰れたらいいのに。エリート新聞記者は、お金に困っても魂は売らない人たちのところに弟子入りしたらいいんだ。

 と、梅干しから話が日本のことになった。いつもこうなる。腹が立ったら深呼吸。
もう一枚の写真は、冷蔵庫ドアに貼ってあるマグネットである。「タリオン」とは「帰国者の友ホームページ係」のケイコさんのお連れ合いの薬品会社の商品名である。田辺製薬だったと思うが、あれ?武田薬品?
そしてタリオンとは、一体何の薬なのか、それも覚えていない。財大の学生達にいろいろ貢献してくれはったというのに、スミマセン~。(-_-;)
 真ん中に貼ってあるいくつかの赤い色のマグネットは、中国共産党の軍隊マグネットだ。冷蔵庫ドアに初めから張り付いていたのである。以前の外国人教師が残していったモノに違いない。
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賑やかな中秋節    2011年9月12日 (月) No.192

2011-09-12 22:14:14 | 中国事情

 ああ、ホンマにやかましい。
朝から今(夜9時過ぎ)まで、爆竹や花火が遠くで、また近くでパンパンバンバン鳴ること鳴ること。
外国人教師宿舎前の道路でも、さっきから大声で浮かれて騒ぐ学生達の声が続いている。反対側の道路からは、いつもの店屋のBGMとカラオケの音、そして車のクラクションとバンピング音だ。
ちょっと静かにして…。

 さっき、麦廬園から4年の範さんたちが、
「先生!月が丸々としています。ここ10年間で最も丸い月です。」
と、興奮して電話してきた。ついて行けない。
彼女たちはこの夜9時に図書館から出て来て、丸い月を発見し、キャンパス内の賑やかな爆竹で心が舞い上がり、今から月餅を買いに行くんだそうだ。
 私には騒音に過ぎないものが、中国の人々には、嬉し楽しいお祭りの音楽なんだなあ。
どれどれとベランダに出て見たら、あら、ホント。丸い月が出ている。

 この月だけは、シンとしてくれている。記念にパチリ。南昌の中秋の名月だ。
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大いにチヤホヤされる   2011年9月11日(日) No.191

2011-09-11 22:24:18 | 中国事情
 そっかー、今日は9・11かあ。あの大事件は10年前の今日だったんだなあ。私はあの半年後にアメリカに中年?留学したんだった。
 たまたま世話になっていた家のKENさんの誕生日が9月11日で、
「嫌な記念日と重なってしまった。」
とブツブツ言っていたっけ。さらに連れ合いのCHIEKOの誕生日は9月4日。石川県出身の彼女は子どもの頃、
「うわ~、苦しんで死ぬやて~。」
とからかわれ続けたそうな。

 中国では9月10日は『教師の日』。
一昨日辺りから学生からのお祝いメールがどんどん送られてきた。返事は「謝謝!」だけといういとも簡単なものに統一。年賀状の返事書きの苦しみに比べたら極楽だわい。
 そして明日は『中秋節』だ。
中国では一家団欒の日で、学生はとても家に帰りたがる。しかし、4年生の大学院進学組は夏休みも帰らず図書館に缶詰で頑張ってきたのだ。中秋節ごときで帰れるわけがない。

 ということで、昨日、今日と4年生の進学組(つまりいつものメンバー)が宿舎に遊びに来た。
昨日は花束を抱えた楼さん・郭さん。彼らは夏休みに二人で北京旅行した時の写真を拡大して、
「私たちのことを忘れないように、貼っておいて下さい。」
と恥ずかしげもなく言い、置いていった。次の日来た範さんたちに聞くと、寮のみんなに配って歩いたそうな。


 今日は、範さん、劉さん、黄さんが近くのレストランで魚料理を注文し、器ごと運んできた。
食べる前に写真を撮ればよかった。白身魚のとても美味しい料理だった。しかし、何と言っても江西省の料理だ。辛かった。写真は、魚を食べ終え、中の麺とモヤシを引き上げた後のスープだが、実にすごい色。中には真っ赤な唐辛子が浮いている。味付けは唐辛子だけでなく、山椒の痺れる辛さも混じっていた。
四川省料理は辛いので有名だが、ここ江西省も決して四川省に引けを取らない。
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李さん夫婦・その後   2011年9月10日(土)  No.190

2011-09-10 10:05:35 | 中国事情
 新学期を迎えて2週間が過ぎた。
 私が、バスが来ないの、仕事場が黴だらけだの言っている間に、9月5日、友人達に出迎えられて、李達夫さん、遅素媛さん、息子さんの3人が、神戸港に到着した。
 素媛さんは車椅子で満面の笑みを浮かべ、李さんと息子さんは感極まった表情だったと、出迎えのフミちゃんのメールにあった。
 私は「素媛さんは満面の笑み」を読んだだけで、もう涙が出て来た。どれだけの苦しみに耐えて生き抜いてきたのだろう。元々自分の故国でもない日本に、8年前、夫とともに渡って来て、言葉の壁に苦しみ、最近は東淀川区の団地の部屋でもっぱら絵を描くばかりの日々だった素媛さん。
 愛娘の死、自分の大怪我を小柄な身体に引き受けて、それでも笑顔で戻ってきてくれた。手を合わせて拝みたいような人だ。
 
 『とことん応援団』の連係プレーで、出迎え、介護タクシーでの移動、大阪の富永脳神経外科での診断、入院などがとてもスムーズに進行した。自分のことはそっちのけで頑張って来たスタッフ、それを支えてくれた様々な人々の掛け値無しの善意に何回でも感謝の意を表したい。

 現在、素媛さんは人工の骨を頭蓋骨にはめ込むための手術待ち状態だそうだ。病院の食事が口に合わないと言うので李さんが、家で作った愛夫料理を食べさせているという。家の往復と料理を作るので4~5時間かかる。その間、中国語を話せる人が必要だ。さらに、李さんは役所などにも出かけて、いろいろ手続きもしなければならない。李さんをもサポートしなければならない。

 こういう時こそ、行政はきめ細かい支援策を考えて実行してもらいたい。帰国者支援のための法律はあることはあるが、まだまだ整ったものとは言えない。今回のような「想定外」のことに、「規則にありませんから」と涼しい顔をして言う東淀川区役所出張所生活保護課のケースワーカー。
 帰国者を支援するために作った法律が不十分なのに、その法律の範囲でしかモノを考えないし、それで十分だと思えるその鈍感さに、はっつあんとしては血管が切れそうである。
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我慢比べ    2011年9月6日(火)  No.189

2011-09-06 19:56:32 | 中国事情
 今日は職場の文句を言う。

①宿舎(本部キャンパス)から日本語学科のある麦廬キャンパスまでのスクールバスが来ないときがある。最近、次第にその回数が増えてきている。多分運転士が横着をしているのだ。
 今日、8時半のバスが10分近く待っても来ず、近くの市バス停留所から520番のバスで行くことにした。
しかし、それも10分待っても来ず、結局「ミニバス」と学生が呼んでいる民間の7人乗りバンに乗った。7人乗りなのに、超細幅の木製長いすにさらに3人座らせ、10人になったら出発するという商売だ。
 今日の運転手は、10人乗ったところでチャッチャと出発したのはいいが、バンの後ろドアというかトランクみたいなところを開けっ放しでスタートし、私を含めて最後尾の乗客の間には(こんなんでええんかなあ)とやや不安なムードが漂った。
 しかし、誰も運転手に言わない。私も(椅子が突然後ろにひっくり返りでもしない限り大丈夫だろう)と思っていたら、途中でそれに気付いた運転手が、な、なんと、車を完全にストップさせず、少しずつ動いている状態のまま飛び降り、さっと後ろのドア?ふた?を閉めに行き、また、さっと車に追いつき飛び乗って、何事もなかったかのように車をスピードアップした。
 10秒未満だったと思うが、車は運転手不在のまま、動いていたのだ。さすがに、乗客からどよめきが起きた。しかし、学生達は本当に温和しい。「おお~!」とか言っただけで誰も運転手に注意しない。ああ、私が中国語が話せたら文句言うのに…。
 このミニバスというのはよく事故を起こすのでできるだけ乗らないようにといろんな人から注意されている。今日のことで、さもあらんと納得した。
 そもそも、スクールバスが定時にちゃんと来たら、こういうことに遭遇しなくても済んだのだ。

②麦廬園に着いたら、まず自分の部屋、即ち資料室に行く。
 夏休み明けにその部屋に入ったとたん、ものすごいかび臭さと、粉を吹いたような黴だらけの椅子たちに出迎えられた。
 そもそも、我が資料室のあまりのジメジメ感に堪えられず、6月末に(エアコンを自分で買う)と決めて日本学科の主任に言うと、
「外国語学部」の学部長に相談するから待ってくれと言われ、その後、その話は、資料室を引っ越すだの、新しいエアコンを買うだの、かなり迷走して、ようやく今日、一階のジメジメした資料室に、どっかから運んできた中古のエアコンが取り付けられた。ちゃんと作動するか心配だったが、今日の時点では涼しい風が出て来た。
 私は、椅子の黴を学部長に見せるまで、拭かずにとっておこうと我慢していたのだが、とうとう彼はこの黴を見ないままにエアコンが設置されてしまった。
 奇しくも今日の午後、4年生の3人組が、
「先生、まだ黴のままですか。身体に悪いから掃除します。」
と、モップを持って掃除に来てくれた。
 今、この写真の黴は、跡形もなくなり、部屋には爽やかな風が吹き始めたが、私はあの超ドけちの学部長にまだ腹を立てている。

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嗚呼、無残・・・     2011年9月4日(日) No.188

2011-09-04 21:25:39 | 中国事情
 昨日、思い切って敷きマットを洗った。
 昨年夏にこの宿舎の一階の部屋に入ったとき、寝室のベッドに敷いてあったものだ。以前住んでいた誰かが置いていったに違いない。当初より泣きたいくらいかび臭かった。よくまあ、一年間も辛抱してきたものだ。
 7月に3階に引っ越したとき、よほど捨てようかと迷ったが、骨身に染みついたケチケチ根性が、(なんてことを考えるんや!洗ったら済むことやろ)と弱い心を叱咤し、我慢して持って上がることにしたのだ。

 昨日3日、大阪では、『とことんやるで!李達夫応援団』が5日に戻る予定の李さん夫婦を出迎えるため、というか素媛さんをそのまま病院に運んで入院にこぎ着けるための打ち合わせをしていた。
 ここ南昌にいて何もできない私は、自分に何か課題を与えたかった。そこで、シーツを剥ぎ、かねてより(いつかはしなくちゃ・・・)と思いながら先延ばししていたマット洗いに着手したのだ。

 そんな大きいものを洗える場所は、決まっている。あのカプセル式シャワールームだ。直径1mほどの円筒型の浴室に入り、30分は格闘しただろう。面白いほど汚かった。茶色い水に土が交じっている。こんな布団に寝ていた自分がスゴイ。

 水滴をボタボタ落としながらベランダに運び、椅子3脚を台にしてその上に乗せた。
(ふう、やれやれ)と自分も椅子に座り、苦労した末に仕上げた作品を見るように眺めた。臭いはどうか嗅いでみた。かすかにまだ黴臭を感じるが、またシャワールームに持って戻る気にはなれない。多分乾いたら消えるだろうと思うことにした。

 ぼおっと放心状態でベランダ全体を眺めているうちに、何か外がスカスカな気がして立ち上がり、窓の外をのぞきに行った。
 そこで分かった。一階のベランダ前ですくすく育っていた桜の木が根こそぎ倒されているのだ。
 3月の東北大震災と福島原発事故に叩きのめされていたとき、その桜の木にやって来る鳥たちに餌をやり、自分自身も花を愛で、何とか苦境を脱することができた。辛い3月4月の私を支えてくれた木だった。

 写真は3月18日に撮ったものだ。
 この辺りでは、木に生命があるなんて考えもせず、あっという間に引き抜くことがある。昨日まであった木が今日はないことも日常茶飯事だ。こういう事があると、ものすごくこたえる人間がここにいるのに…。
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2年目の新学期    2011年9月3日(土) No.187

2011-09-03 09:03:08 | 中国事情
 新学期の授業が始まって一週間経った。
 一年生は9月中は授業がない。軍事訓練があるからだ。全員写真のような訓練服を買わされる。
3年生、4年生の話によると、服の生地は化学繊維で汗を吸い取らず、本当に暑くてたまらないらしい。お古を譲り受けるすべもなく、ほんの少しの間しか着ない、この欲しくもない服を買うのは本当に腹立たしいと、ある女子学生は言う。
 以前も書いたが、長髪の子はおかっぱ頭にしなければならない。自分の嗜好以外のヘアスタイルを強制される嫌悪感は、中国の学生にもある。特に女の子に多い。しかし、少数民族の学生は文化保護のため切らなくてもいいのだそうだ。雲南省出身のミャオ族、新疆ウイグル自治区出身の回族の女子学生たちはニヤリとVサインをした。
そして、近所の江西農業大学のある女子学生は、
「農大はそんなに厳しくないですよ。漢民族でも知らんぷりして長髪のまま過ごす子もいます。」
と言う。これは私の推測だが、財大は規則を守る遵法精神に富み、農大は臨機応変、ばれたらその時考えようといった傾向があるのではなかろうか。何しろ財大は江西省一の優等生がそろっていると学生達が自負している大学だ。授業でも、教師が期待するであろう答え方を探しているのがヒシヒシと感じられる。あまりの優等生っぽい答えを聞いて甚だ面白くない時もあるくらいだ。
 さらに、私が
「わざわざ暑い9月に軍事訓練をしないで、1月にやればいいんじゃない?」
と言うと4年生になった範さんは、
「先生、これは訓練ですから。暑さに耐えるのも訓練のうちです。」
なんて言う。自分だって1年生の時は、「暑い!しんどい!」と叫んでいたに違いないのにい~。

 昨日の朝は授業がないので、野菜市場に行きがてらキャンパスを散歩した。写真はその時撮ったものだ。
空気で膨らませた赤いアーチは、何かイベントがあるたびに入り口に置かれる。このバルーンのようなアーチ専門の店屋があるそうだ。ビルといわず、塀と言わずいたる所に見られる幕も店に注文するという。
書いてある言葉は「新入生諸君!一生懸命がんばろう」みたいなものだろう。あんまり分からないけど。
大学当局だけでなく、『中国移動』といった携帯販売会社の幕も見られるし、サークルの勧誘幕もある。

 朝、8時前は学生が手に手に包子や豆乳を持って教室に向かう。早起きの子は食堂で食べる。写真にあるように女子学生のスカート丈はとても短い。ジーンズの短パンも同様。暑いせいもあるだろうが、それが流行っているようだ。店にも長いスカートなんか1枚も置いていない。

 野菜市場は朝の買い物客が多かった。天井にはライトは一切なく、自然の採光でまかなっている。夜は自分の店だけかろうじて照らす裸電球を使う。
手前の店で大きくて新鮮な完熟トマトを4つ買ったら3.2元。日本円に換算すると38.4円。
コンシン(空芯?)菜もドバッと一束買った。2.8元(33.6円)。中国では物価がどんどん上がっているとは言え、それでも収入比はとてもとても安い。この夏休み、大阪のスーパー『鮮度館』で買い物をする度に(日本で暮らすとエンゲル係数が高くなるなあ)とため息をついたものだった。

 
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