毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「耐え難いほどの不正義」 2014年3月28日(金)No.878

2014-03-28 10:11:21 | 日記

袴田巌さんが48年ぶりに拘置所の外に出た。

48年・・・30歳から78歳までの、人生が最も輝くはずの時期に、牢獄で生きさせられた人間のあまりに長い時間。

「警察に要る証拠捏造の疑いが濃厚」

「これ以上拘束を続けることは、耐え難いほどの不正義」

裁判所はそう判断した。

「耐え難いほどの不正義」を耐えた力は、袴田さん本人の生きる力だけでは不可能だった。

お姉さんの人生を賭けた愛にもとづく行動と、

その行動に動かされた心優しく、正義を求める人々の実行力が、

一人ぼっちで隔離された命を守った。

 

愛だけではだめだ。

心優しいだけでもだめだ。

愛と優しさを胸に、正義を追求し続ける継続的な行動力こそが、

事態を変化させた力だろう。

 

袴田さんに、ここ中国の地から「解放、おめでとうございます」の言葉をお送りします。

宿舎庭に一本だけ立つ桜の木が、花開きました。

どうぞ、袴田さんのこれからの人生が美しく花開きますように、お祈り申し上げます。

 

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「学生が書いた『故郷の自然環境の変化』②」 2014年3月27日(木)No.878

2014-03-27 08:26:19 | 中国事情

ここ数日、宿舎のパソコン(大学が提供してくれたもの)はダウンロードできない状態が続き、

新規投稿もままならなかった。

ちょうど、4月9日開催の校内スピーチコンテストの原稿チェックで忙殺されていたので、

まあ、よかったかな。

 

3年生の冬休み課題である故郷の自然環境変化についてのレポートも、

ようやく全て目を通した。ネットで調べて貼り付けしたものが多いが、

読んでいて、学生の故郷に住む人々の生活状態と意識が

浮かび上がってくるものも、いくつかある。

こんなレポートを書くのも初めて(しかも日本語で)、

アンケートを取るのも初めて、

さらに言えば、環境について考えるのも初めての学生たちがほとんどなので、

ここに紹介する作品は課題の追及の仕方が分かっている学生が書いたすぐれものだ。

(アンケートがたった12人とか、レポートが急に終わっているとか、

言いたいことはあるでしょうが、何しろ練習中なのでがまんしてね~

 

「江西省撫州市宜黄県における自然環境の変化」(余立君)

[調査にあたっての課題意識]

江西省撫州市宜黄県は1755年前、三国時代以来の歴史を持つ。県名の由来だが、中国で澄んだ川は「宜水」濁った川は「黄水」と呼ぶ。当時、県の近隣で澄んだ川と濁った川が合流したので県名は「宜黄」になった。

筆者はそこで生まれ、子ども時代から今まで、よくそこに住む祖父母の家に行った。その当時、宜黄の経済は未発展で、自然環境が非常に良かった。小川が澄みきっていて川底まで見え、魚群が水の中を自由に泳ぎ、夏の夜には満天の星が人々の頭上で瞬いていた。

しかしながら、近年、祖父母の家に行くと、環境は大きく変わってきている。老朽化した建物が多くなり、小川も黒く濁っている。今回のレポート課題をきっかけに、20年前に比べて今の自然環境はどうなっているか、住民は以前より幸せだと感じているか、という課題意識を持ち、聞き取りの方法で宜黄の50歳以上の人々を中心に12人に調査した。

①調査対象の年齢・職業

年齢

30~39歳

40~49歳

50~69歳

70歳以上

  人数

   2

   2

   5

   3

 

  職業

 農民

 商人

 サラリーマン

教師

  人数

  5

  3

  3

  1

 

②質問内容:自然環境にかかわる項目について聞いた。

・土地の利用状況は変わってきたか。

・川はどうなってきたか。

・空気は20年前より悪くなったか。

・山の木は伐採されたか。

・20年前に比べ、生活に変化があるか。

・20年前に比べ、幸福感はどうか。

[調査結果] 

人々の返答内容はほぼ同じだ。                                                 20年前、自然環境は今よりいいが、生活レベルが低く、よく衣食の心配をしていた。                しかし、20年後の現在、衣食の問題は解決し、住民の生活も豊かになり、幸せだと思っている人が多い。                                                    以下は聞き取りに対する回答の概要である。

①土地: 20年前、川の西側は住民の居住地、東側数百アールは全て農業用地で、見渡す限り果てしなかった。                                                 現在は、川に橋が2つかけられ、自動車道路も完備した。                             川の上流東側には大型ホテルや別荘が建ち、下流は工業地区になった。                    さらに耕地を森や林にする制度ができたことも加わり、現在の農地は20年前より大幅減少した。

②空気: 20年前、県下には工場がただ2つあるだけだった。                                1つはセメント工場、もう1つは製紙工場だ。                                 工場からの排気ガスは直接大気中に出され、廃液も直接川に垂れ流しにされていた。                 細長く切った大根を、工場から数km隔てた場所に干すと、必ず厚いホコリが大根を覆った。多くの老人はその時を回想して、この現象を語った。                               20年後、その2つの工場は解体されたので、空気が良くなったかと言えば、30~50代の人達は、逆に空気が悪くなってきたと言う。                                       政府は経済を発展させるために工業を奨励し、経営者にとって緩やかな規約と制度を発布したので、今の県には大きい工業地区があり、空気汚染が深刻化した。                      筆者はその工業地区を経由する時、バスの中でつんとする刺激臭を嗅いだ。

③河川: 前に述べたように、20年前、2つの工場からの廃液が直接川に垂れ流しにされていたが、川自身に自浄能力があるので、川はまだ緑色だった。                                 現在は、コストダウンのため、数百の工場から処理が不適切なままの廃液が川に排出されたせいで、水が急激に汚染され、川の色は黒くなり、あるところには刺激臭がある。

④森林面積: 20年前、山の中で貴重な樹木をこっそり伐採する人がいたが、現在国家は貴重な樹木の保護に関する厳しい法律を制定し、不法伐採はなくなった。                   また、耕地を森林にする制度ができたために、今の森林のカバレッジは75%、20年前と比べて格差が激しいとは言えない。

 

[調査結果の分析]

この調査を通して、次のことが明らかになった。

20年前に比べて、農地は激減し、川は汚染され、空気は悪くなり、森林面積は25%減少した。                                                              全体的に見れば、宜黄県の自然環境は悪くなる一方で、住民の経済的ゆとりは20年目より増した。                                                           それは、経済を発展させるために、自然環境の犠牲を払って、経済活動を進めた結果だと言える。

最後に、調査住民12人の幸福感は次のような内訳になった。

①20年前より幸せだと感じる人…10人

②20年前より幸せだと感じない人…2人

②の幸せと感じていない人は理由として、今は貧富の差が20年前より激しいので、幸福感は返って下がった、というものである。

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「メディアの影響力を痛感」 2014年3月23日(日)No.877

2014-03-23 12:06:25 | 中国事情

そうそう、忘れないうちに書いておこう。

一昨日の昼、蛟橋発麦盧園行きのスクールバスを待っていた。

いつもと同様にボーッと立っていたら、

通りすがりの3人の女子学生が、こちらを見ないまま、

「こんにちは」「こんにちは」「こんにちは」

と日本語で三回繰り返して言って、ギクシャクと通り過ぎて行った。

 

もう数日前は、麦盧園で授業に向かう途中、

5階までの階段を(「ありがたい、運動のチャンスだ」と思おう)と

自分に言い聞かせながら上っていた時のことだ。

直ぐ脇を上ってくる数人の、これも女子学生の中から、

「日本老師」という声が聞こえて、そちらを向くと、

恥ずかしそうにそそくさと逃げて行った。

 

また、資料室にわざわざ、

「スクールバスのスケジュールを教えて」などと中国語で聞きに来た女性(職員?)もいて、

その場にいた日本語学科の学生たちが通訳してくれたのだが、最後にその人は、

「ありがと」と日本語で言って出て行った。

 

急にどうしたんだろう。

それは、この大学のwebニュース(3月3日)に私の記事が載ったからとしか考えられない。

そのニュースは、日本の読売新聞に掲載された記事を要約したものだった。

(今、そのwebニュースをもう一度見ようとしたら、もう消されていた。その経緯は分からない)

すぐに消されたにしても、既に多くの学生がその記事を目にしている。

上海や北京の4年生、卒業生たちからも反応があった。

見知らぬ学生たちの「こんにちは」や「日本老師」はその影響ではないか。

わざわざ資料室にバスの時刻を尋ねに来た知らない女性も、何かを表現したかったのだろう。

web記事は、「中日両国民が歴史認識を共有し、胸襟を開いて付き合っていかなければならない」

と私が言ったという主旨でまとめていた。

女子学生たちや見知らぬ女性は、それに賛意を表してくれているのではないか。

私はそう思う。

それにしても、きっかけは読売新聞の記事だ。

載った写真は最悪だったが(笑)、記事にしてくれた石塚記者にはとても感謝している。

どこの新聞社にも(たとえ産経でも)、そんな記者が一人は存在していると信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「キャンパス内外の春の風景」 2014年3月22日(ド)No.876

2014-03-22 20:36:04 | 中国事情

天気のいい日にはカメラを持って出かけたくなる。

道行く人も植物も、皆、春が来てウキウキしているのを撮りたいのだ。

誰よりも自分が浮かれている。

だって、ようやく、遂に、あったか~い春が来たんですもの~~♡

 

大学構内には付属小中学校があり、子どもがたくさんいる。

下は昨日の昼に、蛟橋(ジャオチャオ)キャンパスで見かけた小学生の子たちに、

{Can I take your picture?}と了解を得て撮ったもの。

赤いネッカチーフは「紅領巾」という中国少年先鋒隊の隊員のしるしだが、

どこをみても先鋒的とは思えない普通の可愛らしい子たちだ。

紅領巾をしている子もしていない子も半々ぐらいかな。

写真を撮って「謝謝!」と言うと、ニコッとして「Thank you!」と応えてくれた。

 

蛟橋(ジャオチャオ)キャンパスの正午は、

小学生から大学生、職員も皆、お昼ご飯を食べに家に帰ったり、

食堂、スーパーなどに向かう人々で活気づく。

 

蛟橋キャンパス内の中学校の運動場。今日(土曜日)撮影。

 

右側にいつも行くスーパー、全家百貨がある。

前を行く女性たちの真ん中の服装が意表を突くというか…。

 

昨日の麦盧キャンパス。日本語学科はこの麦盧園にあるので、

私は宿舎のある蛟橋園からバスで移動している。

歴史の浅い麦盧園の樹木は蛟橋に比べて、まだ若く、小さいのだが、

それでもいたるところで、精一杯の花を咲かせている。

 

杭州の西湖ならぬ、麦盧園の東湖。

一時期、ヘドロ臭がして堪らなかったが、工事をしてからは水質もよくなり、

このように風情のある景色を楽しめるようになった。

ここで、よく教科書を朗読している学生がいる。

日本のどこにもそんなことをしている学生はいないだろう(私もしたことはない)。

心底、感嘆する態度である。

 

可哀想なのはこのモクレンの花。

月~火曜日に気温が25℃~27℃に上昇したので慌てて開花したが、

木曜日に14度ー9℃と気温が下がって、霜焼けのようになってしまった。

一年に一度しか咲くチャンスがないのに……(木曜日に撮影)。

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「校長先生方、大いにがんばるー泉佐野市『はだしのゲン』」 2014年3月20日(木)No.875

2014-03-20 22:46:46 | 教育

戦争当時、とりわけ、広島の原爆投下前後の悲惨を描いた漫画「はだしのゲン」を、

子どもたちに見せまいとして、

鍵のかかった書架に移すように松江市教育委員会が小中学校に指示し、

全国からの抗議で慌ててその措置を撤回した。

昨年夏の出来事である。

その時、子どもたちの目に触れさせないようにした理由は、

少数の「市民」から「暴力描写に過激な部分があり、子どもには不適切」

という指摘があったから、ということだった。

8月末、また、松江市の学校の本棚に戻った「はだしのゲン」を、

子どもたちが「これ、読んでいいの?」と次々に手に取り、

書棚には一冊も残らなかった、という記事を読んだ。

 

だが、その後、子どもたちが「ゲン」を読んでどんな感想を持ったのか、

先生方が子どもたちにどんなことを伝えて来たのか、

「はだしのゲン」は本当に子どもたちの発達年齢にとって不適切だったのか。

なぜ、どのメディアもそれを取材しないのか。

話題になった出来事の上っ面ばかり追いかけ、

継続的、教育的、本質的にものごとを掴み、伝えようとしない

日本のマスコミ体質の姿がまたしても浮かびあがっている。

 

ところで今回、大阪府泉佐野市では、市長の千代松大耕(ひろやす)(40歳)

「はだしのゲン」の作品の中にある

「きちがい」「乞食」「ルンペン」という言葉を「差別的表現」として、問題化し、

昨年11月、千代松市長の意向を受けた中藤教育長という人が、

一部の小中学校に「市長が『ゲン』を問題視しているので、

図書室から校長室に移して子どもらの目に触れないようにしてほしい」

と口頭で要請した(まるでネズミ男だね、この人)。

で、今年1月には、市立小中学校18校のうち、

「ゲン」を所有する小学校8校、中学校5校に対し、市教委に漫画を持って来させて、

集めた作品は市教委が保管していたということだ。

 

今回は、泉佐野市の校長会(校長先生たちの会)の頑張りが伝わってきた。

校長会として1月23日、

「特定の価値観や思想に基づき、読むことさえできなくするのは子どもたちへの著しい人権侵害だ

として、回収指示の撤回と漫画の返却を求める要望書を教育長に提出していた。

 

「差別語」と「差別的表現」については別の機会にまた書きたいが、

今日、私の頭に浮かんできたのは、

ただ(の)市長が言ったことに右往左往してかけずり回る中藤教育長と、

少数の「市民」のクレームに振り回された松江市教育委員会の同一性であり、

それと対照的に、学校現場の校長先生たちは、

それなりに真面目に踏ん張ろうとしているのだな、ということである。

 

 

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「豊田先生、ようこそいらっしゃいませ!」 2014年3月19日(水)No.874

2014-03-19 22:08:05 | 教育

3月7日(金)、江財大日本語学科の日本語コーナー特別ヴァージョン、

「豊田英紀先生を囲む会」を開催した。

高松日中友好協会のボランティアである豊田先生は、今年71歳。

学生たちはご本人が教室に到着するや、驚愕したに違いない。

中国の学生たちが『70歳以上の人』を想像するときは、

ヨボヨボのお爺さん・お婆さんの姿である。

(私も赴任して自分の歳を言った時、同様に驚愕の対象となった)

 

黒板に学生たちがチョークで書いた、

豊田先生、 ようこそいらっしゃいませ!」の文言が可愛らしい。

1年から3年まで60名余りがほぼ全員参加したが、

もちろん1年生は、日本語がまださっぱり分からない。

それでもひたすら、一生懸命豊田先生の顔を見ている。

(途中「ボルガの舟歌」を日本語で歌うというパフォーマンスで、蘇った)

さすがに2年、3年は1年生とは全く違う。特に3年はかなりよく理解できていたようだ。

豊田先生の「世界は広い。自分の周囲だけを見て終わらせず、世界的な視野に立つ人間になってください。皆さんの同級生は世界中にいます」

「したいことは、直ちに実行する。」

「私の人生で残念だったことは、何もありません。」

といった言葉の一つひとつが、学生たちの心にすうっと入っていったことが、

後に3年生たちが書いた文を見て分かった。

若者の心は柔軟だ。

学生たちにとっては、また一人のいい日本人と出会えたひと時になった。

 

日本語学科の学生たちは、他分野の人々に比べ、日本人に対するネガティヴな意識は非常に少ない。

大学に入り、日本語学科で日本や日本語を学ぶうちに、日本を理解する素地を身につけていくためだ。

偏らない情報、知識がどれほど大切かの見本である。

そして、そこで多くの学生が初めて出会う日本人―日本人教師の果たす役割は決して小さくない。

南昌で奮闘する日本人教師を強力に側面支援してくれているのが、

高松市から3か月ごとに赴任される高松日中友好協会のボランティア先生たちであり、

南昌市内八一公園内の日本語コーナーに参加する日本人たちだ。

 

3月7日のこの会には、江西科技師範大学から八木先生が、

江西農業大学南昌商学院からは森本先生が学生たちを連れてご参加くださった。

財大からも、何かの時に交流に行きたいものだ。

最後に「上を向いて歩こう」を歌って締めたのは、あくまでも私の趣味である。

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「江財大のご近所は花ざかり」 2014年3月18日(火)No.873

2014-03-18 22:27:41 | 中国事情

前日の日曜から急に20℃を越えるほど気温が上昇し、

昨日、17日(月)の江西財経大学の麦盧キャンパス側の林科園では、

椿、山茶花、モクレン、桜など樹木の花々が咲き乱れていた。

月曜午後と言えば、いつも資料室であれこれして時間を過ごすのだが、

昨日は3年生たちに誘われて、2年ぶりに林科園を訪れたのだった。

写真は、余立君さんと朱聡さんが撮ったもの。

 

まず、桜。ソメイヨシノ以外の桜が咲いていた。

何という種類かは分からない。

 

 

 

牡丹科の木の下は落下した花で埋まっていた。

散っても、なお、きれいだ。

 

 

 

これは何の木だろう?リンゴ?

 

丸木が6,7本、堀に架かっている。何年も前からそうだ。

しかし、ここまでへっぴり腰、且つ、おっかなびっくり渡るお嬢さんたちは初めてだ。

ま、靴のヒールを見たら、その気持ちもちょっとわかるかな。

(王雅青さん[赤紫の花模様のスカートを履いている]は、

最初、一人だけ渡らず5分間粘ったが、説得に負けて遂に渡った)

 

「わあ~!」

思わずみんなが叫んだ木。なんか、(ありがとう)と言いたくなった。

 

全員じゃないのですが、一休みの5人。

余さん、施さん、朱芳いさん、こうさん、周さん。他に王さん、朱聡さんが3年。

さらに資料室で勉強するはずだった4年の劉さんも、誘われて電子辞書を持ちつつ参加した。

たまには、気分転換もいいよね。

 

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「学生の故郷の環境変化」 2014年3月17日(月)No.872

2014-03-17 20:11:33 | 中国事情

3年の冬休みの課題レポートを少しずつ読み進めている。

少しずつしか進まないのは、解読するのに非常に時間がかかるからである。

それほど暗号のような文が多い。

しかし、内容は今の中国社会の一端がうかがえて興味深い。

下の文は、

「江西省宜春市奉新県における自然環境の変化について」(周文いく)

の一部である。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

今度の冬休み、私は久しぶりの故郷に帰った。故郷とは、今住んでいるところではなく、育った田舎のことを言う。

生まれてから、ずっとその小さい町で暮らしていた。そこで中学校の終わりまで、ずいぶん楽しい時間を過ごした。高校時代、父の仕事のために県都に引っ越して、もう6年になる。

記憶の中で故郷はきれいな町だった。両親と私は町に住み、祖父母は隣の村に居住していた。村の周囲は山が多く、多くの田と野菜畑もあった。小川の水は澄み、空気はとてもきれいだった。毎週、週末になると必ず祖父母の家に行って、友達と野山で遊んだ。

春はいつも山に入り、ヤマモモや野生の果実を探して摘み取った。山のあちこちに美しいつつじの花が咲く。子どもたちはその花を摘み、洗って食べたものだ。おいしかった。

夏は一番楽しい季節だった。毎日、暑い午後、川で水浴びしたり、泳いだり、遊びたわむれた。

夜、大人たちは屋外で涼む。子どもたちは川の傍で蛍を捕まえる。楽しかった。

秋や冬には、田野で遊ぶ。冬は時々雪が降る。南方の子どもたちにとって、雪が降る日は、まるで祭りだった。このような懐かしい故郷とは、もう永遠に会えない。

 今、故郷は人を失望させるところでしかない。                                     鉱物資源が発見された後、祖父母の村の周りの山は採掘されつつある。今も止まらない。目に映るのは全て黄土と掘削機の残したしるしだけだ。緑は全く見当たらない。山の採掘によって、街と村、すべての道路も泥だらけだ。                                 

そして、幼年時代の小川も枯れた。町も村もひどく汚染されている。田野はもうなくなった。とってかわったのは工場とビルだ。                                                     さらに悲しいことは、小さいときよく泳ぎに行った川は、川底が掘られたせいで、今、とても危険な場所になっている。毎年、溺死する子が二、三人はいる。                                   川底を掘るのは砂の需要のためである。 

幼年期の楽園は、今、ゴミの王国だ。                                                   幼馴染の友達に聞くと、蛍はとっくにいなくなり、もう何年も見かけないそうだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

周文いくさんはこの文章の後、友人と二人で、

故郷の「白色汚染」(プラスチックごみの投棄等)の実態調査を実施した報告を書いている。

1つのゴミ箱に、1日でどれくらいプラごみが投棄されたかを実際に調べたり、

ファストフードの店長さんに尋ねて、1日約250人前の弁当が売れるとつきとめ、

1人前2パックのプラスチック弁当箱×250人前=500個のプラごみ、

プラス、一人当たり1つのプラ包装袋がゴミとなる、と計算したり、

さらに、商工会議所まで訪ねていき、小さい町に20軒ものファストフード店があると聞いて、

1日に10000個ものプラスチック弁当ごみが出ると算出したりしながら、

彼女は、毎日出されるごみの量に驚き、

環境問題について「初心者の私」は、知らないことが多いが

「また頑張り、地球を守るために力を尽くす」と結んでいる。

こういう実態調査は初めての経験だという学生がほとんどだが、

積極的意義を認めて、熱心に取り組んだ学生も少なくない。

しかし、周さんの結論に一言すれば、

故郷の県の実態調査から急に地球規模に話を飛躍させる前に、

中国国内の現実をさらに、さらに、見つめる必要を感じるブルーはーとである。

それにしても、周文いくさんは現在、二十歳過ぎなので、

彼女の故郷の変化はたった10年弱の間に起こったことだ。

まさに激変する中国が垣間見られる。

 

 

 

 

 

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「南昌日語角の縁の下の力持ちたち」 2014年3月16日(日)No.871

2014-03-16 17:49:54 | 中国事情

お出かけ日和の昨日の南昌。

八一公園の日本語コーナーにもザックリ40人は来ていたかな。

財大生もコンスタントに何人も参加するようになった。

これも4年前と大いに変わった点で、とても嬉しいことだし、私も出かける張り合いがある。

来年30周年を迎えるこの青空日本語教室は、多くの人々が担い、次の世代へと

パスしてきたものだ。

 

さて、今日は、

今の南昌日本語コーナーをガッツリ支える「日語角三人男」を紹介しよう。

 

 まずは、お馴染みの劉波さん。

昨年、世話役代表である丁勇先生が岡山に一年間出張していた間、

「まかしとけいっ!」と胸を叩き、あれこれ采配を振るい、

パーティーを何十回となく開催し、白酒(ばいちゅう)をいくら飲んでもびくともしない。

そういう人である。

以前も書いたけど、大分前、岐阜県のアパレル関係の工場で実習した経験があるが、

当時はただ黙々と長時間働き、会話技能を高める暇はなかった。

南昌に戻ってから博堅先生らの下で、生きた日本語を身につけてこられた人である。

貫禄あるけど、確かまだ30代だったはず。

 

丁勇先生。会話を聞いていてこの人ほど日本人か中国人か迷う人もいない。

発音、アクセントの滑らかさに加え、静かで洞察力と説得力のある語り口には、

思わず皆が頷いてしまう。

江西師範大学の教師であると同時に、長年、南昌の中日友好のために骨を折ってこられた。

尖閣問題によって3年間途切れている「江鈴杯日本語スピーチコンテスト」を

開催に導いたのも、丁勇先生である。

ちなみに「江鈴」とは「江西いすゞ自動車」のことだ。

スピーチコンテストのスポンサーは、この会社だったのである。

意外と知られていないので、ここで宣伝しておくね~

上の写真の真ん中、チェックのシャツの男性も江西いすゞの社員である。

 

さて、ポール左脇に立つ長身の男性は、

ここに通う誰もが知っている、江西科技師範大学の八木典夫先生だ。

1年半前の「尖閣国有化問題」をきっかけに火が付いた中国全土での反日デモの際は、

ここ南昌でも八一広場に何万人もの人々が集まり、たいへんだった。

私はその時、宿舎から出ないよう大学から言われ、

授業には日本語学科の中国人の先生方の護衛付きで、タクシーで通っていた。

そんなとき、市内日本語コーナーの存続の危機を危ぶんだ八木先生は、

自分が怪我をさせられないように細心の注意を払いながら、

ずっとこの八一公園に通い続けた。

(日本人が誰も来なくなったとき、この日本語コーナーは廃れる)

ただ、その思いでずっとやってこられたという。

今でも、他の誰が休んでも八木先生だけは、

すっくと立つ木のように皆を待っている。

 

一人ひとりの頑張りと踏ん張りが、これからもこの日語角の灯を燃やし続けるのだろう。

 

 

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「南昌郊外にも春の足音」 2014年3月14日(金)No.870

2014-03-14 21:49:28 | 中国事情

 

またモクレンの蕾が膨らむ時節になった。

最初の年、2011年3月には日本のことで頭がいっぱいで気が付かなかったが、

翌年からずっと、この木の蕾が膨らみ、花が咲いて散るまでの過程を楽しんできた。

今日は天気も良く、気温が17℃にもなったので、

麦盧キャンパスをのんびり歩き、カメラを取り出してプンプンに膨らんできた蕾を撮った。

 

ついでと言ってはナンですけど、外国語学院前のペンギン池で

群れを成して泳ぐ金魚に近づき、そそくさと逃げていく姿もちゃんと撮った。

花と金魚は撮ったが、肝心の放課後の日本語コーナーの様子を取り忘れた。

カメラは日本語コーナーの活動スナップを撮影するためだったのに……

 

 

 

 

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「『学問のすゝめ』を読んでいて気が付いた」2014年3月13日(木)No.869

2014-03-13 21:05:05 | 

「学問のすゝめ」は爽快な語りの文章である。

今の日本の全家庭に一冊は備えて、

夕食後に家族みんなで朗読会を開いたらどうだろう。

「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。

されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

 ヘイトスピーチで街に繰り出す多くの人が、

「嫌韓漫画を見て、これだ!と思った」などと言う。

これを愚民と言わずしてなんとしよう。

日本の歴史を世界史の観点に立ち、しっかりと学ばないといけない。

 

また、こんなのも読むとスカッとする。

かりそめにも政府に対して不平をいだくことあらば、

これを包みかくして暗に上(かみ)を怨(うら)むることなく、その路を求め、

その筋により静かにこれを訴えて遠慮なく議論すべし。

天理人情にさえ叶うことならば、一命をも抛(なげう)ちて争うべきなり。

これすなわち一国人民たる者の分限と申すものなり。

たとえ政府であろうとも、文句があれば陰で言わず、

筋道を立てて整然と訴え、遠慮なく議論するべきである。

天の理、人の道に適うことなら、

自分の命をなげうつ覚悟で争うべきである。

これが一人の国民に与えられた権利であり義務である。

たとえ国を相手にしても一歩も引かない自主独立の気構えを持て!と、

諭吉さんは平成のよろけたアタイたち日本人に言うのである。

イヤハヤ、気合入れられますね~。

 

これなんか、とどめですよ。

 独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、

人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。

常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、

恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。

いわゆる「習い、性となる」とはこのことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。

 

ここまで読んできて、ふと、

福沢諭吉は「への字口」グループに入ることに気が付いた。

関係ないけど、下の坂本竜馬も「への字口」だ。

ちょっと知名度は劣るが(て言うか知名度ゼロ)、わが父も「への字口」だった。

その遺伝子を受け継いだのが、何を隠そうこのワタシである。

愛想も何もあったもんじゃない。

しかし、この二人を見ると、時代は「への字口」で切り開かれると言えないだろうか。

竜馬の生きた江戸末期や、諭吉が活躍した明治初期も、

西洋列強に食い潰されそうなとんでもない時代だったが、

日本という国が今、崩壊の危機に瀕しているのは何処から見ても事実である。

 

そういうわけで、みんな、明日から口を「への字」にして将来を見据え、

ひたすら学問に励もうじゃあ、ありませんか。

 

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「三年前の今頃、リンゴを見ると泣けてなけて」 2014年3月12日(水)No.868

2014-03-12 19:05:11 | 日記

今日は水曜、授業がない。

小雨そぼ降る中、全家百貨に買い出しに行った。

「買い出し」と書くのは、

冷蔵庫に卵も野菜も食パンもなくてブーンという音ばかりがクリアに響き、

テーブルの上には蜜柑も林檎もなし、の状態まで食生活が困窮した場合である。

さて!と気合を入れて大袋3つ持参で買い物に行った。

全家百貨の果物コーナーでは、蜜柑類の端境期が近づき、

林檎コーナーの面積が広くなっていた。

下は最も安い「紅富士」(小サイズ;3.98元/斤)。

蜜柑はダントツ、江西省がおいしいが、林檎は日本だ。

3年前の3月、4月はこの「富士」という文字を全家百貨で見る度、涙を堪えることができなかった。

日本で毎年冬になると食べていたあの蜜の入った美味しい富士やサンフジの木が、

放射能に汚染され、林檎農家の人たちが途方に暮れて立つ姿が脳裏に浮かんだ。

今、長野や青森の林檎農家のみなさんは元気にやっていらっしゃるだろうか。

日本に戻ったら、また、毎日、林檎を食べたいものだ。

(これ、「汚染が何だ、福島に帰れ」とは違うつもりだけど、誤解をまねく発言?

ま、ま、誤解しないでね~)

今日の昼ご飯は、重い箱ごと、余立君さんが故郷撫州から持って来てくれた米粉で、

焼きそばを作った。中国では北の地方が麺(小麦粉が原料)、この辺りは米粉と言う。

見た目は麺以外の何ものでもないが、形状ではなく、なにでできているかで名前が違う。

余立君さん曰く、彼女の故郷の米粉は南昌のよりずっと、ずっとおいしいのだそうだ。

そう言われたらそうかな?元々の味が分からないのでね~。

 

お昼にしては超豪華である。

焼きそば(米粉)、金柑の砂糖漬け、アールグレイのミルクティー。

焼きそばの味付けは日本から運んだオタフク焼きそばソースである。

おいしくない訳がない。

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「福島から避難している中学一年生のスピーチを聞く」 2014年3月11日(火)No.867

2014-03-11 08:21:54 | 原発事故

「今はあの時より怖いです。 

全部なかったことになってしまった、この現実が怖いです。」

 


震災の時、私は小学4年生でした。毎週100キロ離れた ピアノ教室まで習いに行き、帰りにイオンモールでゲームをするのが楽しみでした。 

父、母、兄がいて、それなりの楽しい生活が3年前の震災で終わってしまいました。 

今、私は母と兄3人で、国が認めない放射能汚染から逃れて北九州にいます。 

福島からの避難を許してもらえなかったので、母は父と離婚同様です。この3年間私は父と話をしてません。 

今でも震災が夢のようです。土壌汚染は確かにあるのに、みんな福島で暮らしています。 

私たちもお金がなくなったら、どんなに土壌汚染や、焼却での大気汚染があっても福島に戻る時がきます。 

戸籍上、母子家庭ではないので、公営住宅に入ることもできません。 

あんなに大変な爆発があったのに、みんな忘れて原発を動かそうとか、放射性物質を燃やしたり埋めたりしています。 

また、私たちは震災を経験し、福島原発の当時の所長が死んだことをニュースで見て知っているのに 反省もせず、生活そのものを見直すこともなく、 

原発でなければいいだろうと、太陽光や風車などの代替エネルギーを求めています。 

あの爆発で、人が住んでいる場所でのエネルギー産業はマズイということが 大人はわからないのでしょうか? 

日本には、54基の原発、爆発事故によって今は、1700基以上ある 全ての焼却炉、バイオマス発電、製紙工場、セメント工場から 放射性物質を含んだPMが日本から出ています。 

あの時の爆発で目の覚めなかった人がたくさんいてビックリしてます。 

私たちの未来を救ってくれるのは、大人だと思ってましたが、無理かもしれません。 

今でもたまに思い出します。 

2回目の爆発のあと、母とさいたまへ避難しました。母は「日本はチェルノブイリになったかもしれない」 

「もう帰って来れないかもしれない」と言っているのを聞いて、私は怖くなりました。 

「全部、全部、夢ならいいのに」と言いながら車に乗って避難しました。 

今はあの時より怖いです。 

全部なかったことになってしまった、この現実が怖いです。

 

 

さよなら原発3・9北九州集会での福島からの避難者中学生のスピーチ

2014-03-10 | ニュース

 動画はこちら⇒  http://bit.ly/1hZ9qo4 

動画は8:50辺りから紹介、スピーチ

―――ブログ「風の谷」  再エネは原発体制を補完する新利権構造 さんのブログより―――

http://blog.goo.ne.jp/flyhigh_2012/e/a5e70912d64da23c690e59bf3fe6b381

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「皆さん、どちらがお好き?」 2014年3月10日(月)No. 866

2014-03-10 19:48:00 | 中国事情

上は、花屋さんが整えてくれたものを、学生たちが贈ってくれた花束。

下は、外側のエリザベス女王の衣装みたいなのをとっぱらった花束。

花瓶はないので、ネスカフェの空き瓶を重宝して使っている。

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「来日のノーム=チョムスキー氏、福島の親子に語る」 2014年3月9日(日)No.865

2014-03-09 09:47:05 | 原発事故

今日は3月9日、大阪では「さよなら原発 関西行動」が行われている。             日時:3月9日(日)10:00~  会場:北区民センターホール(10:00~)
扇町公園(13:00~) 

私なりのせめてもの共同行動として、昨日の東京新聞記事を
ここに紹介させていただく。

ノーム=チョムスキー氏

チョムスキー 福島の親子らに語る 被災者になぜ寄り添わぬ/

3月8日 東京新聞:こちら特報部

2014-03-08 14:42:12 | 世界

東京電力福島第一原発事故から3年がたとうとしている。
来日した米国人の言語学者ノーム・チョムスキー氏(85)が、自主避難を余儀なくされた福島の親子らの訴えに耳を傾けた。
いまだに不安や恐怖にさらされている被災者たち。
「世界最高の論客」と評されるチョムスキー氏の目に、この状況は、どう映るのか。(林啓太)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2014030802000129.html

◆政府は常にウソで言い含める

「無防備な子どもたちが、放射線の危険にさらされている。恐ろしいことだ」。4日に東京都内のホテルで福島の親子らと面会したチョムスキー氏は嘆いた。

チョムスキー氏と会ったのは、福島市に住む武藤恵さん(40)と小学3年生の長女玲未(りみ)ちゃん(9つ)の母子、福島県郡山市から静岡県富士宮市に自主避難した長谷川克己さん(47)の3人。長谷川さんは妻、小学2年生の長男(8つ)、長女(2つ)の4人暮らしだ。

恵さんの自宅は福島第一原発から約60キロ。「政府は換気扇を閉めて、外出する時はマスクを着けるように、ということしか教えてくれなかった」と、当時の混乱を振り返った。

山形県に週末だけ自主避難していた時期もあったが、経済的な問題もあり、やめた。「事故後、子どもの体調が良くない」という。国は緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)による放射能汚染の情報を隠していた。それなのに「『安全宣言』をした。周りは事故前と変わらない日常に戻ってたように見えるが、そうではない」と、放射能の恐怖にさらされている現実を訴えた。

長谷川さんは、郡山市内で介護事業を営んでいたが、事故の5カ月後に自主避難した。「将来、健康被害が出たら、お金で償われても元には戻れない。子どもを守ろうという思いだけだった」。避難先の静岡での生活については「日雇いの工事現場の作業員をして食いつないだこともある。経済的に安定せず、心もとないです」と切々と語った。

自主避難者は十分な補償が受けられない。東電からの補償金も避難区域内に住んでいた避難者に比べて乏しく、経済的な負担が重くのしかかる。

チョムスキー氏は、両手をテーブルの上で組んだり、沈思するように右手をあごに当てたりしながら、静かに親子らの会話に耳を傾けた。話の合間に「ほかの親はどんな対応をしているのでしょうか」 「放射線の被害に理解のある医師からケアを受ける機会はあるのでしょうか」問い掛けた。

「子どもらがどんなに不安でも、政府というのは心配するなとウソで言い含めようとするものなのです」。米国とソ連の緊張が核戦争の寸前まで高まった1962年のキューバ危機のころのことをとつとつと語った。「私の娘の友達の中には、戦争になれば生き残れないと不安そうな子もいた。米政府は『米ソの緊張関係は危なくない』と宣伝した。私の娘は学校の先生から『核戦争が起きても机の下に隠れれば大丈夫』と言われたんですよ」


◆最も弱い子どもらがどう扱われるかで 社会の健全さ問われる

緊張した面持ちでチョムスキー氏の顔を黙って見つめていた玲未ちゃんは、周囲に促されて「武藤玲未です」と自己紹介。チョムスキー氏も、この時ばかりは柔和な表情を見せ、「日本に50年ぐらい前にも来たことがある。私の娘がちょうどお嬢ちゃんと同じくらいだった」と懐かしがった。

チョムスキー氏は、ベトナム反戦運動に関わって以来、外交や大企業優遇の政策で米政府がろうするウソや秘密のやり口を徹底的に批判してきた。

米中枢同時テロの後、米国のアフガニスタン侵攻やイラク戦争について強い反対意見を表明。最近では、米国内の貧困問題でも積極的に発言している。

福島第一原発事故の後、2011年9月に東京都内で開かれた脱原発集会の際、支持を表明する連帯メッセージを寄せた。福島の親子らと面会したのは、福島の子どもたちの「集団疎開裁判」を支援してきた縁からだ。

12年1月、「最も弱い立場の子どもらがどう扱われるかで社会の健全さが測られる。私たち世界の人々にとって裁判は失敗が許されない試練だ」と集団疎開裁判を支持するメッセージを寄せている。上智大での講演を機に来日したチョムスキー氏が、「ぜひ、親子と会いたい」と会談を要望し、実現した。

集団疎開裁判では、郡山市に住む児童と生徒14人が、空間線量が年間1ミリシーベルト未満の地域に疎開して教育を受ける措置を市に求め、仮処分を申し立てた。

司法の判断はつれなかった。福島地裁郡山支部は11年12月、申し立てを却下。仙台高裁は13年4月「福島原発周辺の児童・生徒の健康に由々しい事態の進行が懸念される」としながらも抗告を却下した。

福島の親子らは4月にも、約10人の子どもを原告として、地元の自治体を相手に集団疎開を求める行政訴訟を起こす予定だ。

チョムスキー氏は、親子らに「政府に対する外圧を上手に使うことだ」とアドバイスした。「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)などの権威のある国際的な団体と健康被害の調査について連携し放射線の被害を広く訴えることもできる。日本政府に被害を隠すことは恥ずかしいと思い知らせられればよい

日本は広島、長崎の原爆を経験し、放射線の怖さを知っているはず。それなのに、政府が被災者の不安に寄り添わないとは。言葉にならない」と日本政府の対応を厳しく批判した。

チョムスキー氏は、「こちら特報部」のインタビューに、安倍政権についての懸念も表明した。「日本の超国家主義者は平和憲法を無くそうとしている。安倍晋三首相らが靖国神社に参拝し、従軍慰安婦を否定しようとするのは、日本を帝国の時代に戻そうという狙いがあるのではないか。ヒトラーが権力を掌握していく過程を思い起こさせる」

集団的自衛権の行使容認についても「集団的自衛権と言えば聞こえは良いが、実態は戦略戦争だ。米政府も戦争を国防と言い換えるが、それに似ている。だまされてはならない」と指摘。自民党の石破茂幹事長が特定秘密保護法の抗議活動に対し、「テロ行為と本質は変わらない」と言い放ったことに触れ、「政府は市民の反発を恐れている。テロリストというのは、権力側が反対する市民にレッテルを貼っているだけだ。強制や弾圧を正当化する言い訳にすぎない」と話した。

「政府の過ちをただせるのは市民だけだ。困難だろうが、福島や日本全体で、政府が無視できない運動をつくり出してほしい。地域の市民のつながりを強化してほしい。それこそが状況を改善していく道だ」


<デスクメモ>
青いセーターにジーンズ姿。「現代最高の知性」は、ラフな格好で被災者の前に現れた。好々爺(や)のような表情で話を聞いていたが、いったん口を開くと、舌鋒(ぜっぽう)鋭い。人間の尊厳を守るための闘いで、市民と言論の力が重要だという固い信念を感じたという。声を上げ続けなければならない。(国)

【ノーム・チョムスキー Avram Noam Chomsky】
言語学者、哲学者。1928年、米国フィラデルフィア生まれ。
ペンシルベニア大を卒業し、61年からマサチューセッツ工科大(MIT)教授。50年代に、言語学における革命的な理論を発表し、「現代言語学の父」と呼ばれる。
一方で、ベトナム反戦運動に携わり、人権や平和に関して積極的に発言。今年1月には、米軍普天間飛行場の沖縄県名護市辺野古への移設について、「沖縄の軍事植民地状態を深化、拡大させる」と反対する声明をほかの有識者とともに発表している。
著書に「統辞構造論」 「メディアとプロパガンダ」 「秘密と嘘と民主主義」などがある。

―――「薔薇または陽だまりの猫」さんブログより転載―――

 

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