私は頓馬である。やることがなんでもズレているのだ。
どうして加藤周一が元気なときにこの本を手に取ることができなかったのか。
「羊の歌」(岩波新書)を読み終わった今、
滅多になく頼りにできる先輩を見つけたとたんに失ってしまったような気持ちだ。
加藤さんは2008年、母が逝ったのと同じ年に亡くなっていた。
子どもの頃、ずっと手塚治虫氏の漫画が煙たかったが、
二十代後半に、突然、スッと全身が手塚漫画を受け入れたこと。
高校1年の頃、寺山修二さんが癪に触って仕方がなかった、にもかかわらず、
高3では一気に全肯定に針が振り切れた。
それもこれも、加藤周一さんと同じパターンだ。
まず、何か魅惑のオーラを感じると、私は防御的に反応する。
自分が吸い込まれ、飲み込まれる危険を避けるためだ。
それほど、私は吸い込まれ、飲み込まれやすい人間なのであるから。
加藤周一さんは、長年、私の心の中であまりにもオーソドックス過ぎる存在としてあった。
(ヘヘンだ、こっちゃあ生まれも育ちもサブカルなんざんす)
といった構えが人との垣根を作るのである。
トテモ良くないデス。
今頃になって加藤周一さんの「羊の歌」を買ったのは、
江財大資料室の本棚にに「日本文学史序説」(ちくま学芸文庫)を見つけ、
日本文学の授業のための参考書として手に取ったことに始まる。
単に参考書として読み始めたのだが、数ページで引き込まれた。
ただたくさんものを知っているだけの人が書く文章ではなかった。
分析の油断なさ、判断の的確さ、そして文学への深い愛がひしひしと伝わってきた。
冬休みは、池澤夏樹や樋口一葉、村上春樹を読んで終わった。
もう南昌に戻らなければならないという日、
関空の丸善書店で機内で読む本を探しているうちに、
「羊の歌」の背表紙が目に入り、迷わず買った。
まるで、現在の日本がたどっているのとほぼ同じ状況を、
加藤周一は少年時代に体験していた。
その書き方が尋常じゃなく説得力があるのは、
その時代の雰囲気が、今の時代とあまりにも似通っているからか。
『 』は「羊の歌」からの引用である。
『私は1931年、満州事変の始まった年に中学校に入り、
1936年、二・二六事件の年に中学校を出た。』
『毎日、新聞を読み、放送を聞いていたが、日本国が何処へ行こうとしているのかを
全く知らなかった。』
『全ての事件は偶発的に起き、一瞬間、私たちを驚かしただけで、忽ち忘れ去られた。
井上蔵相や団琢磨や犬養首相が暗殺され、満州国が承認され、
日満議定書が押し付けられ、日本国が国際連盟を脱退し・・・・・・
しかし、そういうことで私たちの身の廻りにはどういう変化も生じなかったから、
私たちはそのことで将来身辺にどれほどの大きな変化が生じ得るかを、
考えてみようとしなかった。』
毎日、新聞を丹念に読んでいた彼の父は、
家族しか聞いていない夕食時に‘自由に’意見を述べたが、その‘自由な意見’も
新聞と放送が検閲と自己検閲を通して(報道の自由のないところで)選択し、
国民に伝えた情報を材料にしたものだった。
南京陥落のニュースが伝えられた際、彼の父が
「提灯行列もいいが、この先がたいへんだろうな」と述べたことに触れて、
『「皇軍」が「東洋永遠の平和」と「善隣外交」のために、
婦人子どもを含む中国住民の数万人を虐殺したということを知ってさえいたら、
父は「提灯行列もいいが」とはおそらく言わなかったことだろう。
「われわれは何も知らされていなかった」という国民は、
自らもっとも自由だと信じていた時、もっとも不自由であった。
ユダヤ人の強制収容所を「知らされていなかった」多くのドイツ国民のように。
「軍事目標に限られた」爆撃のために廃墟と化したヴェトナムの町の実情を
「知らされていなかった」多くのアメリカ国民のように。』
それでも、加藤周一の少年時代と今はやはり違う。
今の日本の状況を、後世、子や孫の世代は何と言うだろう。
「どうして思想信条の自由や言論の自由、知る権利があったのに、
誰も安倍首相の暴走を止められなかったの?
みんな、何考えてたん?ただのアホやったん?」
と言われても、もはや「知らされていませんでした」では通らない条件を私たちは持つ。