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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「スエミ姐さん」 2012年7月29日(日) No.404

2012-07-29 23:37:45 | 日記
 「銀河鉄道の夜」
ジョバンニはああと深く息をしました。
「カンパネルラ、どこまでもどこまでも、一緒に行こう。
ぼくはもうあのサソリのように、本当にみんなの幸せのためならば、
ぼくの体など、百ぺん焼いてもかまわない。」
・・・・・・・・・・・・
「カンパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」
ジョバンニがこう言いながら振り返って見ましたら、
その今までカンパネルラが座っていた席にもうカンパネルラの形は見られず、
ただ黒いビロードばかり光っていました。
ジョバンニはまるで鉄砲玉のように立ち上がりました。
そして誰にも聞こえないように
窓の外へ体を乗り出して、
力いっぱい激しく胸を打って叫び、
それからもう喉いっぱい泣き出しました。
もうそこらがいっぺんに真っ暗になったように思いました。


スエミ姐さんが逝った。
今日、7月29日午後2時30分、
急に生きることをストップしてしまった。

どこまでもいっしょに行けると、
心のどこかで信じていたのに…。
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「呼び戻したい」   2012年7月28日(土) No.403

2012-07-29 07:49:07 | 日記
スエミ姐さんは大阪市福島区にある病院の集中治療室に入院中。
25日午前に運ばれ、緊急手術を受けて、左脳の血溜りを取り除いた。
26日朝、医師が瞳孔を見、
「開いていて反応がない」と言った。
午後、検査の結果、連れ合いは
「脳が風船のようにパンパンに脹れている。昏睡から醒めずこのまま逝く可能性が高い」
と言われた。
ゴーゴーと高鼾が始まった。

連れ合いは、携帯電話を持たない。
スエミ姐さんの携帯に初めて触り、彼女の友人知人に電話連絡を開始した。
たちまち、病室には何人もの身内、友人が詰めかけた。
小学校のかつての教え子たちも、甥も姪も、人生の弟子たちも、
まさに、続々と人々はやってきた。
しかも、ここからがすごい。
その人たちは毎日、毎朝、毎晩、何回もやって来る。
主催者発表じゃないけど、
延べ人数、200人は超えていると思う。

スエミ姐さんは、
賑やかなのが好きだ。
一人ぼっちが淋しい。
連れ合いは、静かな人だが
愛するスエミのために何でもやってやろうと決意して、
「どうぞ皆さん、来て声をかけてください」
と訴えた。

27日朝、医師が瞳孔を見て、
「瞳孔が縮んで、動きがありますね。脳に関して言えば好転していますね」
と嬉しい言葉。
医師は、彼女の胸をパンパンと強く叩いて名前を呼んだ。
スエミ姐さんの目が、開いた。

その日、4回、目を開けた。
「起きて、起きて!いつまで寝てんねん」
と大声で友が声をかけたら
「起きてる」
「起きてる」
とうわ言っぽい言い方なれど、応えてくれた。

夜8時頃、
目を開けて、相手の名前を言った。
看護師に「名前はなんですか」「わかりますか」
と聞かれ、
はっきり自分の名前を言い、
「わかります」
と普通の声で話した。
まさに、会話が成立した。

そこにいたみんなは、泣いて喜んだ。

昨日28日、
元に戻ってしまった。
瞳孔は開いた。
ゴーゴーと鼾が聞こえる。

でも、
かつての教え子たちが来て、
「せんせー!来たでえ。」
「せんせー!」
と呼びかけると、体がピクピク動いた。

聞こえているんだ。ぜったい。

今どの辺にいて聞いているんだろう。
呼び戻したい。
もう一度、会話ができたら…。




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「『女性に麻雀を!市民連合』会長のこと」 2012年7月27日(金) No.402

2012-07-27 18:49:58 | 日記
今から30余年前のこと。
大阪のある小学校に、一人の女性が教師として勤めていた。

彼女の職場は、職員会議で若者たちがどんどん自分の意見を言う活気のある学校だった。
何故なら、彼女が若い新人教師たちに
教師にとって子どもとは何か、
教師にとって組合とは何か、
教師にとって管理職とは、
教師にとって授業とは何か、
そして、
教師とはどんな仕事か、を
大きなメジャーで測るものの見方で
常に指し示してくれたからだ。
その職場では、
毎日のように「裏会議」と称して、
仕事帰りに喫茶店で一日の仕事のあれこれをお喋りする習慣があった。
彼女が若者たちに声をかけて、
毎日の愚痴や失敗に耳を傾け、アドバイスしているうちに
自然にそうなったのだった。

彼女の物差しで測ると、
新米教師も、子どもも大人も、
自分の考えや行いに自信を持ち、元気と勇気が湧いてくるのだった。
そして、黒柳徹子もビックリの早口で回転するとんでる会話は、
職員会議でも、全ての人々を魅了し、
対立・分裂を最小限にとどめ、
しばしば、管理職からの歩み寄りという成果を実現させた。
彼女が話し始めると、校長までが目を細めて楽しそうに聞き入るのだった。

学生運動にちょっと足を突っ込んだ経験を持つ頭がカチカチの私は、
その職場で彼女に会った。
瞬く間に彼女に影響され、
今ではこんな人間になってしまった、
と言うのは冗談で、
人生の師匠とも言うべき人に出会えたと信じる。

私は趣味じゃなかったが、
彼女は当時の「ベトナムに平和を!市民連合」をもじって、
「女性に麻雀を!市民連合」を立ち上げ
多くの女性知人を麻雀の道に引きずり込んだ。

ブッシュのイラク戦争反対行動、
関電への反原発行動、
パレスチナ支援行動、
内モンゴルの草原の旅、
韓国釜山、ソウル、チェジュドの旅、
私は彼女とともに行動できた多くのことを忘れない。

ここ数年、闘病を続けていた彼女、スエミ姐さんは、
一昨日、25日の朝、容体が急変し、現在も意識不明の重篤な状態である。
多くの根性ある女たち同様、
「生き続けられるだけ生きる」強さを持って
今、この時も、スエミ姐さんは頑張っている。

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「人生を聞く・語る」  2012年7月25日(水) No.401

2012-07-25 23:14:11 | 中国帰国者
誰かの人生をじっくり聞く。
振り返ってみると、そんなことをあまりしていない。
「徹子の部屋」が面白いのは黒柳さんの話しぶりだけではなく、
むしろ、黒柳さんによって巧みに聞き出されたゲストの人生なのかな。

「徹子の部屋」は遠いテレビの向こうのことだけど、
身近にいる一人ひとりの人生だって、
とても波乱万丈で、
とても魅力に溢れていて、
とても共感できる。
よく今まで生き続けて来られたなあと、感嘆する。
有名でもなんでもない一人の人生も、そんな内容に満ちている。

人が人に生身の声で伝えることの力は
パソコンなんか太刀打ちできない、
というかパソコンには最初からできない。
パソコンには命がインプットされていないからだ。


おばあちゃんやおじいちゃんの話を
孫たちは耳にタコができるくらいきけたらいいのに。
お父さんお母さんの話をも
子どもたちは目を輝かせて聞けたらいいのに。

「時代が違うよ」
「ふる~!」
と言う人は、流行りでも追いかけているんだろうか。
聴く力(=想像力)の衰退だ。

今日は、西井澄さんの傍で、
西井澄さんの生の声で語られる人生話を聞きながら、
小さい西井さんの胸に
頭をスリスリしたくなって困った。
西井さんの話はいつも、
「生き続けられるだけ生きる」という言葉で締めくくられる。

「海辺のカフカ」でナカタさんは死に続けた。
私たちは、とりあえず、生き続けている。
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「パブリックコメントをみんなで送ろう!」 2012年7月24日(火) No.400

2012-07-24 09:13:15 | 原発事故
「今朝もまた アイス枕に 蝉しぐれ」(ブルーはーと作
夜が明けると、万の蝉が一斉に鳴き出す。
小さな体に命のシステムがびっしり詰まっているのだなあ。

命・自然のきめ細やかさを感じるとき、
(どうして原発推進に走るかな?)と原発の存在が今さらに気にかかる。
命がどうにかなってから、反省するんじゃ遅いのに…。
きっと、自分だけは大丈夫と思っているんだな。推進賛成の人たちは。

さて、日本政府はめずらしく全国民から、意見を募集している。
首相官邸前の声や意見には全く耳を貸さないくせに、ちょっと矛盾してる気がするけど。
でも庶民としては、東京の首相官邸までは遠くて行けなくても
「パブリックコメント」としてカウントされるのなら、いいチャンスだ。
せっかくのチャンスを生かそうじゃないですか。
8月12日までなんだって。
携帯からも送れるか分からないけど、内閣府の関連HPは下記の通り。
(私は2日前に書いて送りました)
友人諸君、今こそアクションを起こそうではないか!
って、もうみんなとっくに送ってたりして…。

https://form.cao.go.jp/aec/opinion-0027.html
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「私は中国残留の子どもだった」  2012年7月22日(日) No.399

2012-07-22 10:08:45 | 中国帰国者
7月25日(水)、淀川区十三のロマネハウス2階「帰国者の友」で
西井澄さんが自分の人生体験を語る。
6歳まで日本で生まれ育ったとは言え、
彼女にとって日本語は第二の言語、母語は中国語である。

日本語母語話者の聞き手は、
西井さんと体験を共にすることはできないにしても、
言葉の中に隠れている事実の重みや、意味を共に考えるという作業をしなければならないだろう。
「あの戦争は何のために、誰のためになったのか」
その問いへの答えは、聞き手に問いかけられているのだ。

《西井澄さんの作文より》
「私の故郷」
私が住んでいたのは、日本の西部に位置する小さな島、四国です。(中略)
私は高知県中村市川登という小さな村に6歳まで住んでいました。
川登と言えば、高知駅から特急に乗って1時間40分かかる辺鄙なところですが、
家の前には全国でも有名な四万十川が流れています。(中略)
小さいときに川で遊んだ思い出が浮かび上がってきます。(中略)
気候は、冬は寒くなく、夏もあまり暑くなく、空気は湿潤な住みやすいところです。
山にはイタズリ、蕗などいろいろな山菜があり、
かごを背負って山に山菜取りに行く人が多いです。
動物はイノシシ、サルぐらいでしょうか。
美しい四万十川が注目されていますのは、この川に鮎が多いので、
釣好きの若者、年寄、子どもたちが訪れるのです。
鮎を釣り、そのあとすぐに川の岸で塩焼きにして食べる姿が印象的でした。
でも今は、こういう楽しい風景がかすんで見えなくなってしまいました。

というのは、故郷を離れてもう67年以上だからです。
住んでいたのは6年間の短い年月でしたが、
懐かしさはますます心に深く刻まれ、決してかすむことはありません。
これから強く生きて、もう一度故郷のきれいな風景の中にすっぽりと包まれ、
自然の美しさを味わってみたいものです。
これは夢ですね。(2009年記)
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「部落解放文学賞授賞式に参加した」  2012年7月21日(土) No.398

2012-07-21 20:33:48 | 中国帰国者
第38回目の解放文学賞授賞式に行ってきた。
「識字の部」佳作に選ばれた西井澄さんのお伴ということで
西井さんにとっても私にとっても初めての体験だ。

会場のホテル大阪ベイタワーというところも初めてで、
4階ホールに入るとき、西井さんは
「こういうところは靴を脱いでスリッパ履くんでしょう?」
とフワフワの絨毯を指さした。
私も一瞬(そんなホテルもあるのかな?)とソワソワしたが
「いや、靴のままで構いません。」
とベテランぶって余裕を見せた。

以前も書いたが、
選者がすごかった。
私の知っているだけでも、鎌田慧、今江よしとも、山下明生、金時鐘、岡真理といった人たちが
(言っとくけどみんなホンモノだよ!)
ずらりと選者席に座っている。
(スゲ~!)と思うと同時に、
そういう賞であるのだ、と改めてその重みを噛み締めた。

しかし、懇親会で選者の方々のコメントを聞いていると、
みんな、そんなに口がうまいわけでもない。
ただ深い感受性と洞察力を持って生きてきた人たちなんだ、と分かり
とても身近に思えた。
例えば、金時鐘さん。
彼のコメントは、言葉の裏を読み、すくい上げるという金さんの感性が伝わってきて、
同席できただけで(テーブルは隣だったけど)、光栄だった。
こんな機会を与えてくれた西井さんに感謝!
宴会場でもないので、ビール瓶もって挨拶回りするわけにもいかなかったが、
できればそうしたかったな。

で、ここからは頼まれてもいない解放文学賞の宣伝だ。
今の今まで私は勘違いしていた。
この文学賞に応募できるのは
識字学級に通っている人とか、帰国者、外国人、被差別者などに限るのだと。
今日の授賞式の「詩部門」では
牛皮染めの産業を主とする隣村の友人のことを書いた作品が入選作として紹介されていた。
いわゆる「被差別者」当人ではない。
この文学賞は差別とたたかう全ての人に門戸を開いているのだ。
もちろん北海道から沖縄まで、どこからでも応募できる。

第39回応募要項は次の通りなので、
このブログをお読みのみなさん!
ちょっとやってみませんか(いや、ホンマ)。

*部門*
・識字(識字活動を始め、読み書きを学んでいる人の作品。一人一篇)
・記録、表現(ノンフィクション、ルポルタージュ、生活史、自分史、聞き書き)
・詩(一人三篇以内)
・小説(400字詰原稿用紙150枚以内)
・児童文学(同上)
・戯曲(舞台上演台本、上演済みの台本も可)
・評論(差別の諸問題を中心に、人間―自然の諸関係をかえ、新たな時代を創造するための評論・論文。、民族、女性、障害者をはじめとするあらゆる差別に関するエッセイ、聞き書きなど。400字詰原稿用紙50枚前後。ちなみに今年度は応募作品なしだったそうな)

*選考委員*
鎌田慧、野村進、黒古一夫、梁石日、高良留美子、金時鐘、今江祥智、山下明生、木村光一、芳地隆介、鵜山仁、中尾健二(そう書いてあるが、この6月に急逝された。歴史博物館長として橋下市長の予算カットに頭を悩ませていた矢先のことだったそうだ)、岡真理

*応募締め切り日…10月31日

(詳しくはネットなどで調べてね~!)


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「ビジネスと日本」 2012年7月20日(金) No.397

2012-07-20 09:23:00 | 原発事故
先日、ブライダルセレモニー会社の建物が、全館寒いほど冷えていたことから、
(やっぱりそうか)と確信したことがある。

多くの企業(経団連系)の視点には、日本が将来どうなるかという見方がない。
日本をどうしようかという責任感もない。
こんなにエアコンの温度を低くしたら、電気をいっぱい使うからダメではないか、など
まるっきり考えていない。
私が「寒い、寒い」と言うと
温かいコーヒーを淹れてくれたのはまあ良かったけどさ。

それになんと、
撮影予定日は、その地域の計画停電の日に当たっているという。
撮影途中で停電になるリスクがないとは言えない。
しかし、冬と同じ格好の制服を着た従業員さんは、
きっちり化粧した額に汗ひとつかかず、
「大丈夫だと思います。大飯原発も再稼働しましたから。」
と、にっこり笑った。

こんな会社ばかりではないかも知れない。
しかし、エアコンを29℃以上にセットしている会社はどれくらいあるのだろう。
日本の高性能エアコンは、29℃でも十分涼しいと、私は中国のものと比較して実感している。
(特にわが宿舎のは古いタイプだから…

暑がりの人は
「何言ってんだ!」と文句を言うかもしれないが、
さらに扇風機をまわしたり、飲み物を飲んだり、胡瓜食べたり、薄着したりして
自助努力をする余地は残っていないだろうか。
非難めいて恐縮だが、中国の庶民は当然のようにそうしているのだ。
南昌の人々は袖なし、タンクトップ、短パンなど、若者に限らず当たり前だ。
かたや、大阪の街を歩く人々の厚着なこと。

本州の夏は暑いのだ。
このことを先祖たちはずっと受け入れて、少しでも涼しく過ごす工夫をしてきた。
打ち水、団扇、簾、縁台、こんな単語を並べるだけで
夏の風情(プラスイメージ)を感じるのは私だけではないだろう。

真夏にもかかわらず冷えたビル内で効率よくバリバリ働く・・・。
何のために?
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「世代交代」 2012年7月19日(木)No.396

2012-07-19 12:18:56 | 日記
ここ数年じんわりと感じていたことだ。
ずっと子どものことを思い、気配りしてきたと自負するこの私が、
最近、なんか自分の子どもに思い遣られているようなんである。
彼らは経済的にも(私の基準としては)そんなに切羽詰っていないようだ。
食べに行ったときに、
子どもがお金を払ってくれるという驚愕の体験!
子どもが自立したと感じた瞬間だった。

その仕上げがパートナーを見つけることだ。
息子は昨年、8年ほど同棲していた同い年の相手と法的に手続きして結婚した。
30歳の節目だからかもしれない。

息子の約5歳年上の姉であるわが娘は、
歳こそ順調にとってはいたが、
一向に結婚する気配がなかった。
それなのにどういうことだろう、金環日食に影響を受けたかして、
5月のその時に電撃入籍してしまった。
先日、娘の結婚イベントの第二段階、
写真撮影と家族顔合わせ食事会の手続きに付き合った。

難波高島屋別館にある結婚セレモニー会社に行ったのである。
ビルはガンガンに冷房が効き、半袖ブラウス・スカート・ストッキングなしの私は震え上がった。
娘はレースの長そでカーディガンを羽織っていたが、それでちょうどいい感じだ。
なぜ節電が叫ばれているこの時期にこれだけビル内全てを冷やすのか、
叫ばれていなくても、とんでもない電気の無駄遣いだ。
職員が黒の長そでスーツに身を固めているので(たぶんフォーマル感を演出してのことだ)、
エアコンの低温度は、そのせいだと思う。
もう一つは、貸衣装を着ているときに大汗かかれたら、
衣装が汗で黄ばんだりしちゃうからか、と震えながら私は考えていた。

親が何百万円もお金を払って結婚式をする場合も多いが、
我が娘、我が息子は二人とも、自分たちだけの予算でできること、
それも極力お金を使わない方法で結婚イベントを考えている。
(出してくれと言われてもない)
という親からのオーラを敏感に察知しているのかも知れない。

二人の子どもがいいパートナーを見つけ、
覚悟を決めて人生航路に乗り出していくんだなあと、
何となく、安堵した。
寂しさはまるでない。

あとは呑気に老いるだけだわ。
シャカリキ時代をタッチ交代、引き渡した感じ。






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「摺り込み成功例」 2012年7月17日(火) No.395

2012-07-17 10:49:06 | 日記
私には娘と息子が一人ずついる。
15、16日と息子夫婦が東京から夜行バスに乗って遊びに来た。
「夫婦」と言うのがちょっと躊躇われるほど、
いわゆる「生活のニオイ」がまるでない二人だ。
学生カップルといった雰囲気。

息子は、「通天閣・串揚げ」を目指してテキパキ行動しようとする妻ノンちゃん(どう見てもお嬢さん)の足を引っ張り、
わが家に着くなり、床に寝そべって寝てしまった。
起きた時は彼の発する汗で、床の色が変わっていた(水分を含むと白っぽくなる不思議な床)。
こんな暑いときに観光するのは苦行に等しい。
2日目、ノンちゃんは貧血で倒れ、急遽我が家に引き返し、夕方は近所の焼き肉屋とお好み焼き屋を梯子して、
新大阪の夜行バス乗り場に向かった。
たいした観光はしていないが、それでも楽しそうに去って行った。

あまり外に出かけなかった分、
大人になった息子とかなり久しぶりにゆっくり話す時間が持てた。
本棚の本の話題から、絵本の話になったとき、
「やっぱ、一生忘れられない絵本と言えば『トムチットトット』と『ちっこいちっこい』やな」
と突然息子は言った。
20年以上も前、私が夜な夜な読み聞かせた
ジェイコブス作、スズキコージ画の絵本だが、読んだ私はとっくに忘れていたものだ。

息子はスズキコージのどうしようもなく不気味な絵と、ストーリーの中で繰り返される言葉が、今でも頭の中をよぎると言う。
ニミニミノット、お前の名前はトムチットトット!(それ、私の作った勝手なメロディだ…)
ちっこいちっこい村の、ちっこいちっこい家に、ちっこいちっこい箱があり…」
おれの骨を返せ!」


その言葉を聞いて私は、
(ほうほう、摺り込み大成功やな)とひそかにほくそ笑んだ。
しかし、何を摺り込むかによって、ときにはその子どもの人生の方向性が決まることもある。
今思えば、私は自分の好みばかりをやたら摺り込んでしまった。
「トムチットトット」のみならず、赤ちゃんに憂歌団やイーグルスを聞かせ、
将来ある赤ちゃんをこんな人間にしてしまったのか…と、
後悔はしないもののちょっと申し訳ない気もする。
英会話とか摺り込んでおけば、優等生になったんだろうか。
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「帰国者と引揚者」  2012年7月13日(金) No.394

2012-07-13 21:32:56 | 中国帰国者
中国残留邦人は日本に帰ってきて、「中国帰国者」と呼ばれている。
(「帰国子女」ではないす
以前、帰国者を対象にした日本語のクラスで
私の両親が中国からの引揚者であることを話したとき、
帰国者の中から「引揚者は帰国者と同じですか」
と質問があった。
私は迂闊にもその時まで、二者の共通性や違いについてきちんと吟味したことがなかったので、
心中(おお!そう言われれば同じだ!でも違いは何?)と自問した。
その時はとっさに、
「帰国者も引揚者も同じです。日本に帰ってきた時期が違うだけです。」
と答えたが、では何年までを引揚者と呼ぶのか今も定かではない。
大阪大学の入試要項には今も「中国引揚者子女のための特別入試制度」という文言がある。
ということは、今も「引揚者」という言葉は生きているのだなあ。
しかし、一般的に「引揚者」は1945年以降、1950年代末までに日本に帰還した人たちを指していると
私は理解している。

母は生前、
中国から引揚げてきた時のことを語ったことがある。
1946年2月に山東省を出発するとき、近所の中国人が背中のリュックに麻花という揚げパンのような菓子を入れ、さらに餞別まで渡してくれて、
「平和になったらまた来いよ」
と言って手を振ってくれたこと。
天津から佐世保港に戻り、
その後引揚列車で北海道の地の果て知床まで戻ったときは
4年間の外地生活で雪の上の歩き方を忘れ、フワフワして頼りなかったこと。
しかし、生家の近くまでたどり着くと
体が勝手に走り出して、家の玄関まで一気に駆け込んだが、
「ただいま」
と言ったのに、声が小さくて誰も出てきてくれなかったことなど。
母や父にとって、
故国は紛れもなく日本だ。
引揚者であることで、後ろ指を指されたこともあるそうだが、
(人が苦労して帰ってきたのに、なぜこそこそ言われなければならないか!)
と、腹を立てながらも、生活を立て直すことに必死になって、
気が付けば戦後何十年も経っていた。
母は、亡くなる2週間前まで
「中国の人たちに餞別のお返しがしたいんだ」
と言っていた。

かたや帰国者の人たちにとって日本という国はどうなのだろう。
もちろん故国への帰還は多くの中国残留邦人の強い願いだった。
しかし、あまりにも長い年月を経ての帰国で、壁は厚く、高くそびえ立ってしまった。
「私たちは日本語が話せない日本人です」
と自嘲気味に語った帰国者もいた。
言葉だけではない。
中国と日本では、生活習慣も、自分を表現する方法も、
真逆のように異なることが多い。
「故国」というより「異国」と思う日があって当然だ。

私もアメリカでの1年間、中国での2年間の生活は、
日本での暮らしのように
なんでも自分でさっさとすることもできず、
人とのコミュニケーションも誤解と摩擦と勘違いの連続だった。
いつかは慣れると思わなければ、永住は難しいだろう。

西井澄さんが、
解放文学賞佳作に入賞し、
800字の「喜びの言葉」を書きながら、
誰にも推敲してくれるように頼めなかったことを聞いたとき、
私は最初(西井さん、なんて水くさい…。誰でもそれぐらいすぐにしてあげられるのに…)
と、かなりガッカリした。
「帰国者の友」が周りにいるのに、と。
しかし、西井さん自身ももちろん悔しいはずだ。
中国でなら、こんな残念なことにはならなかっただろう。
中国帰国者が日本で、自分の思うようにさっさと動き、
頼みごとができる友達を周囲でつくるには、
あと何年かかるのだろう。

帰国者と引揚者の決定的違いは、
単に帰国の時期だけのことではない。
時期の遅れが引き起こした、あまりにも多くの壁に立ち向かわなければならないという
事実があるということだ。
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「留守の間に改装工事」 2012年7月12日(木) No.393

2012-07-12 15:05:16 | 中国事情
夏休み、外国人教師の中にはどこへも行かない人も何人かいる。
二階のオーストラリア出身メルダッドさんは、中国人女性との間に小学生くらいの子どもがある。
すっかり南昌に定着している様子。
それに、オーストラリアは今、寒い。
親戚は仕事で忙しい。
僕が帰ってもいる場所がない。
だから帰りたくない。
私が一言、
「帰るの?」
と聞いたら、こうした返事が弾丸のように返ってきた。
つまり彼は超おしゃべりなのね。

イスラエル出身スタニスラフだかは、タイ人の連れ合いとひっそり暮らしている。
自家用車も持っている。この人も定着。
あと何人か全然話したこともない人たちが、いずれも静かに暮らしている。

その他の教師たちは、それぞれ故国に帰ったり、旅行をしたり、
バケーションを楽しむ。

その間にオフィスは宿舎各部屋の改装を計画した。
それはいい。いいけどさ、
なんでそれを早く言わないのかね。
日本に戻ってから
「あ~、盗まれたら困る私物があったらパッキンしてね。もしよかったら預かるけど。」
とかメールを寄越すのは、
いつもの事ととは言えほんとうにイラッとする。

盗まれてもいい私物なんぞありませんよ!プンプン!
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「十三(じゅうそう)の『帰国者の友』」 2012年7月11日(水) No.392

2012-07-11 20:49:12 | 中国帰国者
「帰国者の友」という任意団体がある。
大阪淀川区の十三に事務所まで構えている(エヘン)。
中国から日本に帰って来られた方々の苦境を知り、
見て見ぬふりできない八っつあん・熊さんたちが集合して4年前に立ち上げた中国帰国者支援のグループだ。
かく言う私もその一人である。
心中ひそかにNPO法人化を目指しているが、あくまでも「そのうちにね~」という状態。
そこにはもちろん帰国者一世、二世、その家族も参加しているので、
私は、支援者、当事者がともに作る「帰国者友の会」に名前を変えたいと考えているのだが、
参加者は誰も名前なんかにこだわっていない。
これもまた「そのうちにね~」状態である。
十三駅東口から淀川通りを5分歩くと、新淀川区役所が左側に、右側に「十三東」のバス停があり、
「帰国者の友」はそのバス停を淀川土手の方に一筋入ったビル「ロマネハウス」の2階にある。

「ロマネハウス」はこのビルの実権を握る?キョーコさんが名づけたものだが、
出所は「ロマン」とか「ロマンチック」かと思いきや
「ロマネコンティ」・・・つまりフランスかどっかのワインの名前だ。
2階「帰国者の友」事務所は、ふだん学習塾や中国語教室として使われているが、なぜか冷蔵庫にはいつもビールやワインがゴロゴロ入っている。

7月25日(水)、ここでイベントをする。
今年度「解放文学賞」佳作に選ばれた我らが西井澄さんの話を聞くという、ただそれだけの会だ。
でも、主催者の私はとても楽しみだ。
100人集まる会もいいが、
少人数でお茶を飲みながらのおしゃべり会もいいものだ。
茶飲み話につきものの漬け物も用意する。
中国茶も、日本の玄米茶もある。
十三名物の黄身ロールも買おうっかな。
 イベントって、家にお客さんをお招きする感覚に似ているな。
下は、25日のチラシ。

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LIVING HISTORY ~私は満州開拓団の子どもだった~
澄(すみ)姐(ねえ)さんの身の上話
   「あの戦争は何の役にたったのか」
《西井澄さんの略歴》
・1936(昭和11)年3月:高知県中村市川登に生まれる。
・1942(昭和17)年5月:吉林省舒蘭県に高知開拓団として
                家族4人(両親・自分・妹)で入植。
・1945(昭和20)年6月:2番目の妹誕生、父兵役に取られる。
             8月:母・2人の妹と逃避行開始。
・1981(昭和56)年8月:日本に帰国、豊中市在住。

*ご自身の歩みを綴った作文が2012年度解放文学賞佳作受賞!
 今も毎晩天満橋の夜間高校に通う76歳、現役高校生。 
そんな西井澄さんの人生話が聞きたくなりました。
漬け菜噛みかみ、お茶を飲みながら…。
あなたもご一緒しませんか。
  
7月25日(水)午後1時より
ロマネハウス(2階・帰国者の友):大阪市淀川区十三東1丁目8-3
(十三駅・淀川通り・淀川区役所道路向かいバス停の裏側)
電話:090-3659-4565 E-mail:10year-after@live.jp          
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「いつの間にか加担しないために」 2012年7月9日(月)No.391

2012-07-09 22:12:14 | 中国帰国者
黙っていたら原発は稼働する。
反原発行動は、人をこれ以上殺さないためのものだ。

原発だけじゃない。
あちらでもこちらでも、沈黙が賛成とカウントされる嫌な時勢だ。

過去にもそんな体験を日本はしている。
あの戦争のとき、大衆は国家のなすことに黙って従った。

満蒙開拓の美名の下に、日本人は中国東北地方・内蒙古へと大東亜共栄圏拡大の先兵として出むいた。
それが誰のためになったか。
日本人も中国人も、何も得していない。
大人は、(国のでたらめな宣伝に乗せられて、つい応じた自分が浅はかだった)と
言えるのかも知れない。
しかし、そんな大人達について行かざるを得なかった子どもがたくさんいた。
敗戦でたくさんの子どもたちは、ただ殺された。
殺されなかった子は残留孤児になって中国の大地に取り残された。
侵略と収奪でボロボロになった中国の新国家建設の中で、
日本人が生きていくということは、どういうことだったのか、
「おんなじよ。日本国内でも皆辛酸を舐めて生きてきたのだから。」
とは、決して言えない。

9歳や10歳で中国台地を逃げまどい、毎日人が死ぬのを見続け、妹の命をも彷徨の中で失った
西井澄さん。
文化大革命後、生きて日本に帰ってきた彼女は、
70歳を過ぎた今も、自力で大阪の夜間高校に通っている。
彼女が書いた作文が、今年度の「解放文学賞」佳作に選ばれた。
受賞の喜びを800字以内で書くよう言われたが、
彼女は、身近に自分が書いた文の推敲を頼める人がいなくて、
締切もせっぱ詰り、今月21日の授賞式出席を断念したという。
それを聞いて、本当に残念だった。

今月25日(水)午後1時から、
淀川区十三のロマネハウス2階で、西井澄さんの話を聞く会を開く。
近所の人同士といっても、八っつあん、クマさんの関係が築けなくなっている大阪の街。
それに棹差していく。
身近な先輩に、自分が生きてきた歴史を教えてもらうことは、私たちや、若い人、子どもたちにとって
どれほど大切か。
来られる人は、ぜひ話を聞きに来てほしい。
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「大阪の街を歩く」  2012年7月8日(日) No.390

2012-07-08 20:41:18 | 日記
懐かしい大阪の友人たちと久しぶりに会い、食べたり喋ったりした。
場所は地下鉄中央線深江橋交差点にあるパチンコ屋2階のお好み焼き屋さん。
いつものツッコミを入れるスエミ姐さんに対して
かなり若い店員はほぼ無視状態だった。
客と店員の冗談ぽいやり取りは
大阪の軽妙な言葉文化の一つと言われているが、
バイトの若者にはその「文化」は通用しなかった。
その後、やや若い女性店長さんがタッチ交代で登場し、
愛想良く話を交わして、胡瓜の漬物までサービスしてくれた。
(なんとなく、ホッ

歩道を歩くと、南昌との違いがいろいろ目につく。
まず若者、特に若い女性の服装だ。
全体的に、大阪の女性は落ち着いたというか、地味な色でまとめている。
南昌はピンク、赤、黄色など大胆なカラーが多い。
スカートが意外と少ない大阪に比べ、南昌は圧倒的にスカート派が多い。
しかも、膝上の短いスカートばかりで、中には背中やおなかに大きいリボンなどを
あしらっている超カワイイのもある。パンツの場合は南昌は短パンだ。
暑さが厳しいせいだろうか。
これから8月にかけて、大阪でも短パン派が増えてくるのかな。

道路には、まだ紫陽花が咲いている。
南昌の大学宿舎脇で今咲いている花は…
ケイトウ、マリーゴールド、おしろい花かな。
(小学校低学年の一鉢活動を想起させるラインナップ
でも、南昌の土が痩せているせいか、
プランターのマリーゴールドもケイトウも、そうとう貧弱だった。
普通、家の外に植木を並べる習慣もない。
それは多分、すぐ盗まれるからだろう。

花と緑がそこここにある大阪の歩道は、
段差もほとんどなくて、とてもきれいだ。
でも、ちょっと人工的過ぎるな。
土が完全に覆い隠されて、道路が熱くなっている気がする。
地球をコンクリート固めしているような違和感。
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