まもなく東日本大震災―福島原発事故から5年をむかえます。
実は、中国も四川省、雲南省などの地方はしょっちゅう地震災害に遭い、
多くの人々が犠牲になっています。
今日、江西財経大学の学生たちが書いた作文を読み返していて、
ふと、一つの作品の『地震から5年』というフレーズに目が留まりました。
3年前に書かれた後、日の目も見ず、
私のドキュメントに保存されたままになっていたものです。
作文には書いた人の思考が反映されます。
中国の若者がどんなことを想い、感じているかが作文を読めば分かります。
今までお蔵入りさせていたことを申し訳なく思い、
せめてこのブログを読んでくださる皆さんにご紹介することにします。
作者の董光輝さんは、江財大卒業後、
湖北省の武漢大学大学院法科に進学し、今は2年生になっています。
―――「汶川大地震での“美しい日本人”」 董光輝
汶川大地震が発生したのはもう五年前のことだ。
時が経つに連れて、倒された家屋が建てなおされ、沿道にも賑やかな雰囲気が蘇ってきた。
傷付いた人々も正常な生活に戻り、被災地はいよいよ回復してきたようだ。
それに比べて、中日関係は大変寒い状況に墜ちてしまった。
しかし、両国政府の間の矛盾は政府が自分たちの責任で解決するべきだろう。
政府とは違って民間の中には、冷たい心を溶かす出来事がいつでも湧いていて、
その度に両国民の距離が縮まっていくのだ。
今、私が書き表したいのは、汶川大地震のとき中国人を感動させた日本救援隊のことだ。
あの時、四川省汶川では数え切れない世帯が一瞬に家や家族を失なった。
被災者の多くは倒壊した廃墟の中に埋められ、死に瀕していた。
その時、中国人にとって、最も必要なのは医療、救援に他ならなかった。
外国からも多くの救援の手が差し伸べられた。
そうした援助の中で、私が今でも鮮明に覚えているのは、日本が地震発生後、諸外国の中で一番早く被災地に来てくれたことだ。
中国人が最も助けて欲しい時に、日本人は手を差し出してくれた。
2008年5月16日、31名の日本救援隊が被災地に着き、直ちに、救援作業を開始した。
「希望が少しでもあれば、必ず最後まで諦めずに努力する」を合言葉にして、
救援隊は数日間、全力で捜索した。
しかし、生存者は一人も救えなかった。
そのような結果は残念だが、地震発生からの日数を考えると生存の可能性は低い。
誰も叱れない。
しかし救援隊員たち自身は心から恥ずかしく、遣り切れない気持ちだった。
ある救援隊員は
「現場で活動してきた一人です。現在はただただ自身の無力感と 悲しさしかありません。
救助隊として活動していながら、中国人の生きている方に触れないまま帰ってきました。
仲間には今回のことで精神的に参り、離職を决めた者もいます。
私は、いつか日本で災害が起きたその時に、今回の無力な自分ではなく、
少しでも命を救い、命に触れることができる人間になるために、生きていきます。」
と語った。
生命を救えなかったことは救援隊の誤りではないのに、
救援隊員は自分を心から責めた。
私たちはそのことに本当に感動した。
彼らは言ってみれば、ただ外国支援隊として、誠実に救助活動を履行すればそれで充分だ。
結果がどうであろうと彼らには関係ないと言ってもいい。
なぜ、そんなに遣り切れなかったのか。
その理由は今なら分かる。
彼らが中国人の生命を日本人の生命と同じと思って行動したからだ。
中国人の痛さ、悲しさを、自分のものとした。
これが私たち中国人を感動させずにはいられないのだ。
過去の侵略戦争のせいで、日本人は中国人の心に大変悪いイメージを刻んできた。
子供のとき、いつも祖父は日本人を「日本の鬼」と呼んだ。
戦後68年後の今でも、日本人をこう呼ぶ人は中国にはたくさんいる。
もちろん、中国人たるもの、その歴史災難をずっと民族の記憶に残さなければならない。
しかしながら、歴史を深く心に刻むのは親玉の過ちを後世の人に担わせることではない。
しかも、当時の支配階級が全ての日本人を代表するわけでなく、
戦中でも、日本国内には戦争に抗する活動家が多く存在した。
反戦活動を行った日本人も日本の鬼だろうか、答えは否だ。
1972年国交正常化以後、特に改革開放から、
戦争の謝罪、両国の相互理解と友好関係を推進するために、
日本からの先端技術、経済発展の資金、教育業界の人材、
いわゆる全面的な支援と協力は洪水のように中国に流れ込んだ。
その人達は日本の鬼ではなく、中国人にとっての友達だ。
前述の日本援助隊は生命の危険を賭して、中国人被災者を救おうとした。
その行為は鬼にできることか?
私は今後決して「日本の鬼」とという言葉を吐かない。
その代わり「日本の友人」と呼ぶ。