毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「中国留学生の王さん、5か月の苦労を語る」No.3773

2020-02-02 21:43:48 | 中日(日中)関係

昨日、岡山大学大学院に留学中の教え子王さんが訪ねてきてくれました。

昨年9月の渡日以来の出来事を弾丸のようにまくしたてて話す王さんは

大学時代そのまんまで、

(全然変わってへんなあ)と思わず目を細めるブルーはーとでしたよ。

↑「どるめん&遊」でタイ料理『ムーガタ鍋』を食べた後は王さんの独演会(笑)。

初めて生コン会社のバイトに行き、

一輪車で運ぶように言われても

操作したことがないので

「あのー、すみません。入れるの半分だけにしてください」

と言ったり、あと2回運ばなければならないとき

白髪頭のおじいさんに

「すみません、僕はもうできないのでおじさんが運んでくれませんか」

と頼み、

「お兄さんと言ったら引き受けたるわ」

と笑って運んでもらったりと、

苦労しながらも心優しい人に支えられながらの5か月だったようです。

 

その王さんがもう中国に帰ります。

中国の高校の日本語教師の職を紹介されたのだそうです。

大連外国語大学大学院修士卒業し、

日本の岡山大学大学院修士課程5か月退学の経歴だと、

かなりハイレベルの高校に就職できるとのこと。

もともと大学院に進学したのも

「給料のいいとこに就職して苦労しているお母さんと暮らすため」

というただ一つの目的のためです。

何かを学問的に追求し研究したいためでは全くありません。

上昇志向の権化だと思っても

彼の人生の目標を思うと(まあ、しかたないな)と思うのです。

 

2月12日に帰り、

15日から江蘇省の高校で教鞭をとる予定だったのですが

今回の新型肺炎で高校の新学期も延期され、

日々変わる情報の中には

南京の空港で足止めされるとか、

中国国内の交通手段はすべて遮断されたとかも含まれていて

大変困っていましたが、

今日の段階では取りあえず故郷の東営市には

どうにかして戻れるようです。

↑阪急神戸線園田駅で。

昼前、尼崎の阪急園田駅で

奈良の東大寺に行き、鹿にせんべいを上げて写真を撮って、

岡山に戻る彼と別れました。

きっとまた会える予感がします。

 

 

 

 

 

 

 

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「3歳で中国に置き去りにされた日本人の子を救った中国人養父」No.2405

2019-08-30 12:03:07 | 中日(日中)関係

中国山東省に戻り、夜涼しいからぐっすり寝られるわ、と思ったのも束の間、風邪を引きました。

アレルギーも出て痒く、目を擦っていたら白目部分に水泡が……。

目に負担をかけないようにブログも書かず(笑)、極力安静にしていたいところですが、

今学期の授業準備もあり、USBメモリーや外付けハードディスクなどの資料を整理していたら、

「中国残留孤児」で帰国者一世の横山三郎さん(大阪府堺市在住)のインタビュー記事を見つけました。

友人の人民新聞編集長が、私の日本語の生徒でもあった横山さんを取材したものです。

2013年9月の記事ですが、日中関係の現状についての横山三郎さんの提言は

ある意味、残念ながら、今も変わらず正鵠を得ていると思います。

『(日中は)1972年に戻って、友好関係を築く原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。……養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
 中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。』(横山三郎さん:インタビューより)
   

中国残留孤児が語る領土対立の愚

極貧の中で育ててくれた養父の国=中国
国家が対立しても貧しき民は助けあう

横山三郎さん(大阪府堺市/69歳)インタビュー 人民新聞オンライン2013/9/5更新

「言論NPO」とチャイナ・デーリーが共同で行った世論調査によると、相手国に「良くない印象を持っている」と答えた人の割合は日本が前年比5・8ポイント増の90・1%、中国は同28・3ポイント増の92・8%に達し、2005年の調査開始以来、最悪となった。日本政府による尖閣諸島国有化(昨年9月)以降の関係悪化が影響しているのは明らかで、嫌悪感増大の背景にあるのが、領土問題をとおしたナショナリズムの扇動であることは疑いようがない。

 こうした両国の対立感情を強く憂慮しているのが、日本に帰国した中国残留孤児の人々だ。日本の敗戦前後、両親の死亡や混乱のなかで中国人養父母に育てられた残留孤児たちは、養父母への感謝とともに日中関係の好転を心より望んでいる。
 8月1日、そんな一人である横山三郎さんに、その半生と日中関係についてインタビューした。
 横山三郎さんは、現在69才、堺市の公営住宅に住んでいる。1943年、奈良県吉野郡天川村で生まれた横山さんは、翌44年、両親と3人の兄弟とともに中国に移住した。ところが、父親はすぐに徴兵され、ソ連軍捕虜となりシベリアの収容所で死亡した。
 母親も父親の後を追うように死亡。残された子どもたちは、地元中国人家庭に引き取られたが、体が弱かった横山さんを引き取る家庭はなく、置き去りにされたそうだ。このとき横山さんは3才。ひどい下痢と栄養失調で瀕死の状態にあったという。
 その横山さんを助けたのが養父となる王希順さんだ。王さんは、若い頃中国東北地方を流浪していたほどの貧農。横山さんを抱き上げようとした時も、周囲からは「もうその子は助からない。敵国の子どもを助ける必要もない」と反対されたという。
 それでも死にかけた子どもを不憫に思った王さんは、横山さんを拾い上げたものの医者に診せる金もない。民間医療を施し1日様子を見てみると虫の息が次第に強くなり、横山さんは一命を取り留めた。横山さんは毓福(ゆいふ)と名付けられ、王さんの実の子として育てられた。

横山三郎さん(堺市の自宅で)

編集部:養父はどんな人だったのでしょうか?

横山:私の記憶は、5才から始まります。それ以前のことは、生き別れになっていた兄からの手紙で初めて知りました。山東省にいた兄は、私が32才の時、突然手紙を寄こし、私の出生の秘密を知らせてくれました。

 養父は、山東省北崗山村の生まれです。貧困のため一生独身で苦労の一生を終えた人です。若い頃は、中国東北地方を流浪するほど貧乏で、妻もいません。そんな貧しい養父が50才の時に、私を拾って育ててくれたのです。
 私と養父は、吉林省長白山にある小さい山村でわずかの田畑を耕し、野菜を町に売り行って、たいへん貧しい生活を送っていました。父は私を抱いて畑に連れて行き、畦で遊ばせながら畑仕事をしていました。
 家に女性がいなかったので、衣服は村の人の援助に頼りましたが、靴は手作りするのが難しくて、春から秋までずっと裸足で学校に行っていました。でも冬になると両足は凍傷になり、腫れがひどくて、痒みと痛みで本当に我慢ができませんでした。村の人が「可哀想な子どもだねえ」と言って古い靴をくれましたが、大きすぎるものや小さすぎるものばかり。その当時、私の一番の夢は、ぴったり合った靴を履くことでした。
 私の最初の記憶は、5才になった年の大晦日です。養父が夕食の後に戸棚から小さい紙包みを取り出し、私に差し出しました。包みを開けてみると拳くらいの黄緑色の果物が現れました。父は、「これは梨だ。町で買ってきたのだ」と言いながら、凍った梨を茶碗に漬け柔らかくしてくれました。
 噛んでみると薄い皮が破れて、白く甘い果肉が口の中に広がりました。父はオンドルに座ってキセルでたばこを吸いながら私の食べる様子を見、目を細くし、顔に皺を寄せていたのを覚えています。
 父は、「忠厚謙和」の人でした。私の命の恩人であり、誠実にして謙虚、優しく勤勉な人でした。私は、その果物を思い出すと口の中に甘い汁が流れ、父の姿とともに蘇ってきます。

編:日本人であることでいじめられたりしなかったのでしょうか?
横山:小学校の頃、友達から「小日本」(シャオリーベン)とからかわれたことはありました。しかし、父に聞いても(私が日本人であることを)強く否定しましたので、私は全く気づきませんでした。子どものことなので悪口を言ってからかうことはよくあることです。しかし、村の人は知っていたようです。
 1999年、日本に帰国することにした私は、教師時代の同僚である法さんに暇乞いに行きました。みんなで思い出話に話を咲かせたものでした。そんな昔話の最後に、法さんは、「私は、あなたが日本人であることを知っていましたよ」と告げたのです。
 私は驚きました。6才年上の法さんは、私が兄のように慕った友人であり同僚です。私に仕事のことを教え、仕事の合間にはいろいろな話をし、趣味として音楽や劇なども一緒に勉強していた仲です。
 私自身が知らなかった出生の秘密を法さんが知ったのは、次のようなことでした。「1970年の正月、吉林省から帰ってきた親戚があなたの養父の友達で、その親戚からあなたが日本人の子どもであることを聞いた。でも当時は文化大革命の最中だったので、あなたにも誰にも言わず黙っていたんだよ」。
 文化大革命は、前例のない災禍です。たくさんの無辜の人々が冤罪で被害を受けました。私の出身が暴露されれば、きっと「日本の奸臣、特務」として扱われたことでしょう。仕事をクビになるのは当然として、命があったかどうかもわかりません。
 また、法さんが私を日本人だとして検挙させれば、功績が認められ、役職昇進もできたはずです。でも法さんは、この事実を心の奥深いところに隠して、秘密を守り通したのです。法さんもまた、私の命に関わった恩義ある友達です。 

編:中国では、教師だったそうですね。
横山:吉林省にいては、いずれ私の出生の秘密が明らかになると思った父は、1951年、8才になった私を連れて故郷である山東省北崗山村に戻りました。新たな生活といっても、58年から大躍進運動で飢饉が発生するほどで、極貧のなか小学校を卒業しました。
 1959年、16才になった私は、地元の小学校補助教師に採用されました。同僚5人の中に、先の話で紹介した法兆吉さんがいます。
 60年から「3年困難時期」が始まりました。生産隊からの食料配給はわずかで、みんな芋の蔓や楡の葉などを干して粉末にし、中に少しだけトウモロコシの粉や大豆の粉を入れて食事を作りました。
 大人たちは、生産に従事してるので、小学校でも集団採集活動が巻き起こりました。子どもたちをつれて山に入り、山菜などを集めるのです。授業が終わる午後3時頃、私と生徒たちは、道具と袋をもって山の麓に歩いていきます。子どもたちは、汗と埃で真っ黒になりながら、袋一杯の山菜を集めました。
 畑での労働が終わって帰ってきた大人たちは、その様子を見て喜び、「新しい先生は、役に立つね」と言ったそうです。私はとても誇らしい気持ちでした。
 同僚5人の中で私は、一番若く、教師資格もありません。そのコンプレックスもあり、同僚たちに追いつくことを決意しました。
 1960年の初め、県教育局は教師の水準を高めるために、函授師範学校(一種の通信大学)を興しました。県内の農村に「教学点」という学舎を設立。週に1日ずつ教師が交代で通い、講義を受けるのです。
 私の受講日は日曜日でした。村から8㎞離れた教学点まで片道1時間半かけて歩いていき、午前8時から午後4時まで受講しました。2年半かかって初級師範学校試験に合格し、すぐに中級に進みました。
 1963年、20才になった私は、養父の決めたとおり結婚することになりました。その準備のため1日だけ、師範の授業を休んだことがあります。当時の農村は、電話もなく、欠席の連絡もできませんでした。
 すると次の土曜日、家で昼食をとっていると突然入り口をノックする人がいました。開けると雨の中青い傘をさした師範学校の先生が立っていたのでした。
 先生を応接間に通してお茶を注ぐと一気に飲み干して、欠席の理由を尋ねました。私が事情を説明すると先生は、「結婚はもちろん大事です。しかし勉強は同じくらい重要です。若い時に勉強しなければ一生悔いが残ります。結婚の準備は朝と夕方など他の時間にやってください。日曜日は、必ず教学点に来るように」と、強い口調で言いました。
 師範の先生は、都市部から歩いて教学点に来て講義をされています。この日は、雨にもかかわらず講義を休んだ私のために村まで足を延ばして来てくれたのでした。
 私は、先生の特別の苦心を知っていたので、何の弁解もできませんでした。これ以降、私は、1度も休むことなく受講し、2年半後の中級師範試験には、優秀な成績で合格し卒業しました。これでようやく高校卒業資格を取得し、国の教師として採用され、中学校の教師となりました。
 それから後は、師範学校に進みたかったのですが、文化大革命が起きてしまいました。一時、函授院校は、全て閉鎖されました。
 1972年、社会が安定して、私は、やっと師範専門大学に入学します。ようやく大学に入る夢が実現したのです。

編:日本人であることがわかった経緯と、帰国に至る経緯は?
横山:1975年、32才の時に、実兄からの手紙で私が日本人であることが判明しました。その手紙には、私たち4人の兄妹が残留孤児になった経緯や、私が養父に拾われた経緯などが書かれていました。
 その手紙を見せると、父は全てを打ち明けたのでした。とてもショックでしたが、苦労して育ててくれた養父への深い感謝の念を感じました。また、日本から中国に渡った私たち家族の悲惨な末路を思うと、痛いほどの悲しみを感じました。
 こんな養父を置いて、帰国することなどできません。養父が生きている間は、中国で生活することに決めました。
 1985年、養父が89才の天寿を全うしました。私は、教師の仕事に誇りとやりがいを感じていたので、中国に留まるつもりでしたが、1987年、訪日して親戚を探しました。京都で叔父や叔母と会い、お互いを確認し合いました。厚生労働省は、私を残留孤児として認定。いつでも帰国できる状態となりました。

編:帰国を決めた理由は?
横山:兄の息子が、日本への帰国を相談するために吉林省からやってきたことがきっかけです。1991年、吉林省にいた兄が病死したのですが、いまわの際に私を枕元に呼び「自分は祖国に帰れないが、私に代わって家族全員を連れて日本に帰ってくれ」との遺言を託したのです。
 私は、仕事があるし、子どもたちの進学もあり、すぐには帰りませんでしたが、1999年、甥がはるばる訪ねてきて「先に帰国して、私たちを呼び寄せて欲しい」と訴えました。
 私は、退職を決め、日本政府に帰国申請をすると、すぐに許可の返書が届きました。その年の12月に私と妻と娘など5人が日本に帰国し、翌年、甥たちも帰ってきました。兄の十年来の遺願が実現されました。

編:帰国に際して不安はありませんでしたか?
横山:中国での日本人のイメージは、戦争時代の兵士です。しかし一方で、先進文明が発達し、美しい四季のある国土のイメージもありました。帰国者は、4カ月間帰国者センターで受け入れられ、その後も様々な支援が準備されていましたので、すぐに不安は解消しました。

編:昨年以降、日中関係が緊迫しています。どう感じていますか?
横山:釣魚島(尖閣諸島)をめぐる日中対立は、得られるものより、損失の方がはるかに大きいものです。尖閣諸島問題は、歴史認識の問題でもあるので、1972年の日中国交回復の時も、1975年日中平和友好条約締結の際も、政治家の知恵である「棚上げ論」によって、対立を回避し、経済関係を発展させてきたのです。
 中国には「来之不易」という言葉があります。これまでの日中関係は、様々な困難を一つ一つ克服し積み上げてきたもので、決してあだな辛苦で手に入れたものではないのです。この実績を、無に帰していいのでしょうか?
 石原都知事をはじめとする右翼政治家は、表面上は、「日本の国益」などと叫んでいますが、実際は、自分たちの政治的利益しか考えてません。彼らのスローガンと政治手法は、民衆をだまし、惑わすためのものです。
 特に若者や中年男性が扇動されているように見えます。これを続けるととても危険です。戦争が始まれば多くの人が傷つき死にます。その時に気づいても遅いのです。

編:どうすべきでしょうか?
横山:1972年に戻って、友好関係を築くという原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。
 私は、2006年3月、故郷(山東省)の小学校を訪問し、「和平万歳」の碑とパソコン25台を寄贈しました。碑文には、養父への深い感謝と平和友好への思いを綴りました。
 養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
 中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。

https://jimmin.com/legacy/htmldoc/149101.htm 人民新聞オンライン

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「外国人労働者の受け入れ拡大ニュースを純真に受け止め喜ぶ中国の学生たち」No.2766

2018-12-06 23:18:28 | 中日(日中)関係

今日の菏澤は最高気温5℃~最低気温マイナス5℃で、

いつ雪が降ってもおかしくない状態です。

でも、2015年8月末の着任以来、大雪が降ったのは来た年の2015年だけ。

(ドカ雪さん、何とか今年も降らないで)と祈っています。

入管法が、まるでベルトコンベアーの流れ作業のように

自民・公明・維新の多数の力で通ってしまったとのこと。

野党の誠実な議員たちはどれ程悔しい思いをしているでしょう。

でも、どうか、こんな国会を作ってしまった国民を呪わないで、

こんな状況を打開する方法を、真剣に、具体的に実践していきましょう。

 

学期末の2年会話試験のテーマは「自分たちに関係のある社会問題」です。

2人組で会話原稿を書き、私にメールで送ってきます。

ある組の原稿は日本で外国人の人材受け入れが拡大するというニュースを、

とても好意的に受け止める内容でした。

行方不明今年の前半だけで4300人弱、

死亡者3年で69人、そのうち自殺が6人という

技能労働者の実態をそのままに放置して強行採決した日本の入管法の内実を

彼女たちは知らずに書いています。

読むと、日本での生活に夢を持つ心が可哀そうで泣きたくなります。

どうか日本社会が外国人を人間として

ともに暮らす仲間として

受け入れることができますように。

 

ーーーWさんDさんの創作会話ーーー

D:王さんは日本語がますます上達してきましたね。何か目標があるんですか。

W:ええ、来年7月の始めにN2試験を受ける予定です。いい成績が取りたいです。董さんもその試験を受けますか。

D:ええ、受けます。卒業の必要条件ですからね。N1や教師免許なども取るつもりですよ。最近、中国と日本は関係がよくなっていますね。だから、日本語専攻の学生は就職の機会が増えてきました。

W:そうですね。中国のある省では大学入学試験について改革を行いました。学生は試験で英語以外の外国語を自由に選ぶことができます。ということは、私たちも日本語教師を将来の職業にすることができるわけですよね。

D:その改革はすでに浙江省で試験的に実験されています。その改革法案はこれから全国に普及させるべきですよね。

W:ええ、だから、各地の学校では、日本語の授業や先生などの準備をしています。

D:田中先生と李先生は一緒に菏澤第二高校に行って、高校の日本語の授業を見学しました。菏澤市内の高校でも日本語を勉強しているんですね。

W:田中先生はPPTで日本の高校生の日常を見せてくれました。中国と比べると、大きな違いがありますね。日本は面白さを感じます。例えば、中国の高校生より暇な時間がたくさんあるし、部活も楽しそうです。董さん、日本に留学するつもりはありますか。

D:もちろん、あります。日本語専攻の学生としては、日本に行って勉強しなければなりません。日本の文化を体験して身につけたほうがいいと思います。

W:あ、そう言えば、最近のNHKニュースでは、外国人の人材受け入れに関するニュースが多いですよ。日本はその法案を非常に重視しています。

D:そうですか。じゃ、日本で就職の機会も多くなれば、職場の環境も良くなりますね。この政策は私たちにはとてもいいですね。

W:私もそう思います。留学の後、日本で働かなくても、帰国して就職する機会が増えます。同時に私たちの国際的な視野も拡大しますよね。

D:そうですね。王さんは、卒業後は日本語の先生になりたいですか、それとも会社で働きたいですか。

W:日本にいれば、企業の仕事を選ぶかもしれません。帰国すればどちらもいいです。

D:ええ、数年前まで、日本の企業は中国では減っていたけれど、今、日本企業は増えてきています。自分の能力に挑戦したいなら企業に行くのもいい選択だと思います。もちろん、教師も安定した仕事です。

W:いい考えですね。それと、自分でビジネスを始めるのもいいですね。日本で買い物をして中国の消費者に販売するという方法です。中国の消費者にとって、日本の化粧品などの生活用品は非常に人気がありますから。

D:それはいいですね。そうしてみれば、私たちは卒業後、本当に多くの選択肢がありますね。

ーーーーーー

 

 

 

 

 

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「日本から語学学校の宣伝に来校」No.2755

2018-11-26 12:41:53 | 中日(日中)関係

先週金曜日の放課後日本から、

先月10月に文科省の認可が下りたばかりの語学学校の方々4人が

留学案内に来ました。

語学学校のこうしたプロモーションは今まで何度もあります。

「日本語が上手になりたかったら、日本に留学するのが一番効果的ですよ。」

と、この先生はのたまいました。 

 しかし、パンフレットを見たら、

入学金5万円、学費62万4000円、教材費5万円、

年間合計72万4000円(約4万5000元)

 基本的に1年半か2年間在籍しなければなりません

日本的にはそんなに高くないと思うかもしれません。

しかし、とんでもない格差社会の中国において、

庶民の平均年間所得はそれより安いんです。

「ぜひ日本に留学して日本語が上手になってくださ~い!」

と言うこの日本からの先生方に、

私はいい気持ちがしませんでした。

(行けるもんならとっくに行ってますよ)

という学生の呟きが聞こえてきそうでした。

学生の心をいくら揺さぶり、かき立てても、

家の人にこれ以上負担がかけられない学生がほとんどなのに、

何をお気楽な……。


私は学生が日本に行かなくても努力さえすれば、

しっかりとした日本語の実力が身に付けられるよう精いっぱい援助しています。


でも、日本国内の庶民にとっても今の日本の大学の学費はとても高く、

さらに政府による補助制度は貸付金ぐらいなものですね。

中国では少なくとも、国内の大学に進学することは

奨学金制度が充実しているので、

貧民の子でも可能です(成績さえよければ)。

日本では、

「税金使って大学行きやがって」

と口のひんまがった政府の要人が堂々と言うんですから、

この庶民に冷たい政府が変わらない限り日本は早晩滅びるしかありません。

庶民には自助努力せよと突き放すアベ政権ですが、

お友達の加計学園にはとんでもない高額の補助金(税金)を

湯水のごとくプレゼントしているのです。

こういうことまで諦めていいのでしょうか、

日本の皆さん。

 

〈ふろく〉32カ国中、日本は最下位

 

 

 

 

 


 

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「4年前の卒業生たち、来阪」No.2140

2018-07-20 23:25:48 | 中日(日中)関係

なんと、事態は急展開し、

今日の夕方、

4年前に江西財経大学日本語学科を卒業した二人と大阪で再会しました。


右は深圳の中国企業「新宙邦」で働く黄優斌さん、

結婚したばかりだと言うのに、一年の半分は日本で過ごすことになり、

福井や、福島、岩手まで駆け回って営業しているとのこと。

新妻に「で、いつ帰ってくるの?」と聞かれてもちょっと分からないという

悲しいような状況だそうです。

所属する会社が日本に進出して足場を固めるため、

ここ数年ががんばり時だと話していました。

体制が整ったら日本人の社員を雇い、

全て日本人に担当してもらうので、

その時は自分は中国に引き揚げることができるのだと。


左は、江財大卒業後、一旦就職したものの

翌年大連外国語大学の大学院に進学し、

今は東京で一年間交換留学しているという古艶芳さん。

(実は菏澤学院卒業生の王康さんと偶然大連外大で同じクラスです!)

黄さんと古さんは、日本語が本当に堪能で、

菏澤学院の学生達もいつかここまで流暢に話せるようになるといいなあ、と

思いきや、古艶芳さんは

「日本の若者の話は、言葉遣いにも、話題にもついていけません」

つまり、何を言っているのかさっぱり分からないそうです。

教授の話は問題なく分かるので、

日本語力が不足しているわけではなく、

日本の若者の会話がとても狭い身内の世界にしか通じないものなのでしょう。

日本人の私が聞いてもきっとチンプンカンプンだと思います。


大阪キタの名所、梅田スカイビルの空中庭園に案内しようとして道を間違い、

(何十回も行ったことのある道ですよ!我ながら情けない)

30分以上無駄に歩いて足の裏が痛くなりました。

夜の空中庭園はなかなか良かったと言うか、

建築技術がすごいと思いました。

でも、キタの夜景も、スカイビル建築の匠の技も、

全て二人の話の引き立て役でした。


家に帰り、菊茶で心を鎮める私です。

今日は楽しかったなっと。

 

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「新しい時代を切り開くもの」No.2029

2017-08-16 00:58:43 | 中日(日中)関係

今年の8月15日が2時間前に過ぎていきました。

「終戦の日」と言われるこの日まで、

NHKテレビのドキュメンタリー番組で

「“原爆の絵”は語る~ヒロシマ被爆直後の三日間~」

「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」

「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~」

などを立て続けに観ました。

歴史の事実がなかったことにされかねない時代にあって、

一部であってもそこに光を当て、

客観的事実であることを示したNHKには敬意を表し、

さらに、歴史の事実を掘り起こす番組を

提供し続けてくれることを期待します。

そして、私たち日本人は、

日本にとって恥ずべき歴史であっても、

その事実を隠蔽したり、否定したりせず、

なぜ、日本はそんなことをしたのかをよくよく考え、

どうしたら二度と同じことを繰り返さないようにできるかを

追求し続けなければならない責任があると私は思います。

歴史を知らない者は、

新たな時代を切り開くこともできないのです。

 

さて、インタビューもいよいよ最後、

施芳芳さん(江西省上饒市出身)の登場です。

去年から今年の春まで一年間、東京の杏林大学大学院で翻訳を学び、

広州外語外貿大大学院に戻っていった彼女は、

帰国前の2月に、私と一緒に沖縄に行きました。

沖縄で彼女が行きたいところは、まず辺野古だと聞いて、

(ただの観光旅行で行きたいのではないんだな)と嬉しく思ったものです。

施芳芳さんインタビュー 2017.7.21 甘粛省卓尔山の家庭ホテル(民宿)で

 Q:大学に入る前、日本についての知識はどこでどのように得ましたか。

テレビの抗日ドラマとか歴史の教科書で学びました。

私自身は日本について好きな気持ちも嫌いな気持ちもありませんでした。

直接、生の日本人に接したこともないし、話したこともないので

判断できないと思っていたのです。

Q:大学で日本語学科を選択した経過・訳を教えてください。

私は外国語を学びたかったんですが、英語は嫌でした。

すから兄とも相談して、日本語を選びました。

Q:日本語学科で学ぶ中で日本についての考えが変わったり、新たに知ったことはどんなことですか。

大学で出会ったT先生(私のこと)は初めての日本人で、

私は初めて、日本人のよく言われている資質についての実感が湧きました。

先生はまじめで、いつも一生懸命私たちのために考えてくれて、感激しました。

Q:日本留学の感想を言って下さい。

私が留学した大学のクラスはほとんど中国人ばかりで、

大学で日本人と親しくする機会はありませんでした。

ただ、アルバイト(コンビニ)で日本人と知り合いになりました。

スタッフはとても優しくしてくれました。

でも、私以外はみんな日本人ですので、ときどき

(私は彼らの外側にいる。仲間に入れていないなあ)

という気持ちがありました。

でも、留学生活を通じてほとんどの日本人は私に優しく接してくれました。

Q:日本の街の様子や日常生活で、どんなところが中国と違うと感じましたか。

日本の街はとてもきれいで空は青く、

PM2.5の数値は毎日とても低いです。

そして、一戸建ての家屋は、

一軒一軒それぞれ様式が違うのが、私はとても好きです。

電車の中ではみんな静かで、あまり交流をせず、

携帯をいじったり、新聞を読んだりして過ごします。

中国では多くの人が大声で話したり、はしゃいだりしています。

どちらもいいところもあるし、そうでないところもあります。

私は静かな雰囲気が好きですけど、

静かすぎるのはあまり好きではありません。

日本人は細かい規制やルールを守って生活していますが、

それらは時には、あまり重要じゃないこともあると思います。

いつも他人に迷惑をかけないように

外に対して気を使って暮らしていて、

自分の本当の考えは心の中に仕舞っているようです

Q:日本人との友好を望みますか。

もちろんです。日本人の友達がほしいです。

 ------------------

施芳芳さんはもの静かで、口数も多い子ではありませんが、

いつもものごとを見るとき、偏見を持たず冷静に観察しています。

以前のブログにも載せましたが、

日本留学を終えての彼女の感想は次のようなもので、

私は(こういう若者が多数派になれば、次の時代が到来するのだろうな)

と感じました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一年ぶりに中国に帰った感想はちょっと複雑です。

美味しい果物や料理を存分に食べられるなんて、

今の私にとっては、至高の幸せです。 

また、両親や友達に会えるのも嬉しくてたまりません。

 

現在の中国は、よく財布の中に現金一枚すら残ってなくても、

携帯を持つだけで、食事や買い物もできます。

生活はますます便利になっています。

 

でも、あまり慣れない状況もあります。

埃だらけの通りや灰色の空、そして列への割り込み現象を見た後、

私は日本に戻りたくなります。

静かな夜に、よく日本で経験したことを思い出しました。

懐かしかったです。

美しい景色をもう一度見たい。

優しくしてくれた人たちにもう一度会いたい。

もっと深く話し合いたい。

この思いはとても強いです。

 
彼氏が私を訪ねて日本に来る前に、

私たちはよく日本での生活と感想をシェアしたんですが、

彼は行ったことなかったので、
 
私の気持ちがあまり分かりませんでした。

「チャンスがあれば、日本で就職したい」、

私は何回もこういうふうに彼に言いました。

しかし、彼の返事はいつも、

「僕は日本語全然わからないのに、あなたが日本に行ったら、
 
僕はどうするの?」

というような言い方でした。
 

も、この前、日本に一週間ぐらい滞在した後、

彼も日本という国が大好きになりました。

そして今の考えは以前と全然違います。

「あなたは日本に行ってもいいよ。僕も頑張って日本語を覚えて、

あなたについていく!」

「なんでそんなに態度が変わったの?」と聞くと、

「日本はきれいで、静かで、秩序整然とした国だ。

そのような国で暮らしてみたい。」

私はちょっとびっくりしましたが、予測していたことでもあります。


また一つの事実も検証しました。

それは、
 
『相互理解と相互信頼を欲すれば、

お互いに、相手の本当の姿を自分の目で確かめなければならない』
 
ということです。

中国人にとって日本のこと、

日本本土の人にとって沖縄のこともそうなんだろうと私は思いました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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「『新千歳空港で中国人大暴れ』の報道はヒドイヽ(`Д´)ノ」No.1838

2016-12-29 19:06:20 | 中日(日中)関係

過日(24日)、北海道の新千歳空港で

「飛行機が飛ばないことに腹を立てた中国人たちが大暴れ」した

という記事がネットで大々的に流れました。

その時はただ、100人以上が騒いだとか、ゲートを数人が越えて警官ともみ合ったとかいう

内容でしたので、きっかけは何だったんだろうと訝りながらも、

(ああ、これでまた中国人に対するマイナスイメージが増したなあ)

と残念に思いました。

私はここ通算6年間ほど中国で働いています。

その年月で分かったのは、日本国内によくある「中国人は×××」というイメージが、

一つの場面だけを切り取って、それが全てであるかのように流布していたり、

習慣の違いや、相手の事情も分からずに、

一面的に決めつけていることが非常に多いということです。

今回の「新千歳空港で中国人大暴れ」はどうでしょう。

 

まず、下にその時の報道3種類並べて見ましたが、

なんとまあ、3つともほとんど同じ内容で、

一体この記者たちはどこで誰に取材したのか不思議になるほどです。

報道記者とは自分の足でウラを取るとか、原因を探るとかするもんだ

と思っていたのですが、

どこの報道記事も、ただ一人の中国人の声も拾っていませんでした。

単なる大本営発表のコピーです。

それ、報道人として恥ずべきことではないでしょうか。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

①新千歳空港 中国人乗客ら大騒ぎ 大雪で搭乗便の欠航に怒り 産経新聞 12/26(月) 19:39配信

大雪で欠航が相次いだ北海道・新千歳空港で24日夜、国際線搭乗待合室で待つなどしていた中国人乗客らが腹を立て、大声で抗議するなど騒ぎになった。テレビや地元紙など複数のメディアが報じた。
報道などによると、24日午後8時ごろ、国際線の搭乗口前で乗る予定だった便が欠航し、中国人乗客ら100人余りが口々に大声で抗議。制止しようとして駆けつけた警察官に詰め寄った。トラブルで空港スタッフが押し倒されるなどしたという。

②「大雪欠航」でゲートに乱入、新千歳空港で中国人観光客大暴れ          2016年12月26日 14時00分 TBS  

大雪の混乱が続いた北海道の新千歳空港で、飛行機が欠航したことに腹を立てた中国人が、警察官に激しく詰め寄る騒動がありました。
 中国人観光客がゲートを勝手に越え、駆け付けた警察官に激しく詰め寄ります。撮影されたのは24日午後8時ごろ、新千歳空港の国際線ターミナルで、大雪のため飛行機が欠航したことに腹を立て、100人ほどの中国人が騒ぎ出しました。さらに、数人がゲートを勝手に越えたため、警察官と小競り合いになりました。この騒ぎによるけが人はいませんでしたが、2人が気分が悪くなり病院に運ばれました。新千歳空港では大雪の影響で、22日から24日の3日間で、1万1600人が空港で寝泊りしました。(26日13:49)

③欠航に立腹、中国人乗客ら新千歳職員ともみ合う2016年12月26日 12時53分読売新聞

 
千歳署によると、同日午後8時頃、搭乗便が欠航になったことで、100人を超える乗客が騒ぎだし、一部が搭乗ゲート内に入ろうとして空港職員や警察官ともみ合ったという。
同空港では22~24日、大雪のため欠航が相次ぎ、足止めされた延べ約1万1600人が空港泊を余儀なくされた。読売新聞 

―――――――――――――――――――――――――――

そろいもそろって「搭乗便が欠航になったことで」騒ぎ出したと書いてありますが、

しかし、中国人ならずとも、中国で暮らす者なら

飛行機の発着遅延など日常茶飯事であるのは誰だって知っています。

時刻通りに飛ばないから暴れたかのような記事の書き方は、

非常に意図的だと言わざるを得ません。

上の二紙+一テレビ局は、

「ほらね、だから中国人は困るんだよねえ。マナー悪い~」

みたいな風潮を煽っているのです。

結果、すぐに下のような書き込みがあるわけです。

中国人はものの道理がわからないかのような見下し感覚丸出しです。

私は中国人ではありませんが、

こうした愚かな記事に乗せられて、

深く考えないコメントを書く人の思考力のなさを残念に思います。

―――――――――――――――――――――――――――――

舐め犬飼いたいハルハラハル子@xxx_HH_xxx 新千歳空港での欠航で中国人が抗議…。雪なんだからしょうがないじゃんね。抗議してどうもなることじゃないのにそうしないと気が済まないなんて迷惑すぎ。

キヨママ@yasaguremittu26 新千歳空港。 飛ばないものは飛ばない。 なんでわかんないかな〜(~_~;) #中国人観光客

Uni_sh ARR@Uni_sh 新千歳空港で飛行機飛ばないからって中国人が搭乗口に積めよるってニュースでやってたけどヒドいな  2016.12.26 17:43

@itsuki4klfn 天候のことなんだから暴れてもどうしようもないのに… 「大雪欠航」でゲートに乱入、新千歳空港で中国人観光客大暴れ

――――――――――――――――――――――――――――――――

では、なぜ遅延に慣れているはずの中国人乗客が暴れだしたのでしょう。

その原因を書いた記事は27日になってようやくネット上に現れました。

当該乗客たちは一回の遅延どころか、前日、酷い場合は前々日から2日間、

空港内の国際線待合室に閉じ込められて外に出ることもできず、

食事も全員にきちんと配られていなかったり、

乳飲み子を床に寝かせて夜を明かさなければならなかったという事情が一つ。

もう一つは、前日から空港でひたすら待っていた自分たちをしり目に、

後から来た当日客がどんどん飛行機に乗って先に飛び立ってしまったということです。

(それに関する記事は下のサイトで読めます)。

なぜ、24日当日の記者たちはこうした事情を探りもせずに

センセーショナルな記事を書いたのでしょう。

まず、「中国人大暴れ」の情報が入った時点で自分が中国語が話せなかったら、

話せる人を現場に連れていくのが常識なんじゃないですか。

上の記事書いた人たち、本当に現場に行ったのかどうかも怪しいですよね。

無責任なウケネタ狙いをした下心が丸見えの非常に質の悪い記事なんですよ。

日本の人々が、報道記事を信頼する比率は世界でトップなのだそうです。

それだけに、報道する側はきちんと真実に近い記事を書かないとダメでしょ

今回の「中国人大暴れ」の記事は典型的な情報操作です。

報道した者たちは己を恥じて、

二度とこのような下品な記事を書かないようにしてください。ヽ(`Д´)ノプンプン


*なぜ中国人たちが怒ったのか事情が書いてある記事

  ↓      ↓      ↓

http://www.j-cast.com/tv/2016/12/27287020.html

http://sp.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=158914&ph=0

 




 

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「4年生、日本僑報社作文コンクール授賞式に出席♡北京日本大使館で」No.1825

2016-12-18 18:33:09 | 中日(日中)関係

 

 じゃーん!

憧れの段躍中さん(日本僑報社主宰者)と一緒に写真を撮らせてもらった

于蕾さん(左)と李倩さん(右)。

卒業前で資格試験が目白押しの中、

汽車で二泊、北京の安宿一泊という強行スケジュールで、

ヘロヘロになって菏澤学院に帰ってきました。

でも、一生に一度の経験だったと喜んでいた二人です。

お疲れ様&おめでとうの二人のために今度の週末はオムライスパーティーをします。

↓ノンフィクション作家石川好さんも出席されました。

 石川好さんが段躍中さんを紹介している動画を発見したので貼り付けますね。

 ↓     ↓     ↓

https://www.youtube.com/watch?v=tUuv9jkKqGQ

まだこの時は元気な二人(日本大使館で)。

 

下が、今回の作文コンクール入賞者の作文集です。

中国の若者たちの貴重な声です。

もう、書店で発売されているはずですがネットでも買えます。(http://duan.jp/item/229.html)

次回のブログで、三位入賞の李倩さんの作文を紹介しますね~。

(佳作の于蕾さんのは下のブログ記事に載せました)

「訪日中国人が爆外以外にできること:作文」No.1764

 

http://duan.jp/item/229.html

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「ちょっと広島へ」No.1724

2016-07-29 08:17:19 | 中日(日中)関係

4年間働いた江西財経大学日本語学科出身の学生たちが

ここ数年の急展開で、現在何人も日本に留学しています。

今日、広島市に会いに行くのは厳密にいえば夏季だけ広島大学に研修に来ている

北京第二外国語大学大学院生の周文毓さんです。

4月、元クラスメートの余劉君さん、滕碧霞さんとともに菏澤に来てくれ、

その数週間後にお祖父さんを不慮の事故で亡くしたあの周さんです。

南昌で彼女をめぐるドラマはいくつもあるのですが、

そのどれも心が温まるものばかりで、今までブログにさりげなく紹介したものもあります。

今日、広島には南昌に熱い思いを抱く民間の日本人&中国人が、

合計8名も東京、横浜、大阪、広島から集合します。

また明日夜帰宅してボチボチご報告しますね。

では今から広島に行ってきま~す!

(新大阪駅まで歩いて30分足らず。便利だわ~)

 

 

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「資料:中国が沖縄に攻めてこないわけ」No.1680

2016-05-30 22:58:33 | 中日(日中)関係

日本語教師の私の場合、

1年のうち9か月は中国で、残りの3か月を日本で過ごすという時間配分になっています。

中国の地元の露店やスーパーで買い物をした時、

「どこから来たの?」と聞かれ、拙い中国語で

「日本から。大阪からです。」

と答えても、嫌な顔をされたことなど、ただの一度もない私は、

日本に帰ったときに、「中国が攻めてくる!」的煽りに乗る人々がどんどん増えていることに

胸を痛めています。

根拠もないのに……。

逆に中国では「日本がまた攻めてくる!」という声をネットで見たことがあります。

「また、日本が攻めてきたら今度は勝つ!」とも。

そうです、中国は日本に侵略してきたことは一度もありません。

日本が中国を侵略したことは、歴史の事実であり、絶対に忘れてはならないことです。

どうして、日本国内で「中国が攻めてくるから、日本も軍備拡張しなければならない」

という主張が、蔓延っているのか不思議でたまりませんが、

今日、軍事専門誌のライターが書いた、『中国が沖縄に攻めてこないわけ』という文章を読み、

「中国の進出方向ではない」はまあそうかなと思い、

日米同盟の抑止力については、未来志向ではないと感じました。

ただ、今の現状を軍事ライターがどう分析しているのかを知ることも必要かと思い、

メモとして下に記録しておきます。 

下は2月初め、キャンプシュワブのゲート前の楽しい座り込みの様子。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

中国が沖縄に攻めてこないわけ

Japan In-depth 5月27日(金)18時1分配信

 
かねてから不思議な理屈がある。「駐留米軍がいなくなると中国が沖縄を侵略する」がそれだ。

沖縄の反基地感情が強くなると、決まって出てくる言説である。今回の女性遺体遺棄事件でも、安全保障サイドは、「中国は沖縄を狙っている」と言い出し、特に海兵隊を擁護する「米陸上戦力がいなくなると沖縄は軍事力の真空となる、そこに中国が侵攻してくる」といったものだ。

 だが、その根拠となる見積もりや判断が示されたことはない。「なぜ中国が沖縄を侵攻するのか」「中国は対日戦を決意できるか」点の説明はない。結局は、宿命的に「絶対、攻めてくる」といったものでしかない。だが、駐留米軍がいなくなったところで、中国は沖縄に攻めてくるわけではない。その理由は次のとおりである。

■ 中国の進出方向ではない

 まずは中国にとって進出方向ではない点である。このため具体的に侵攻対象となるものではない。

 沖縄は中国が権益を伸ばす方向にはない。現在、中国が政治・経済・軍事力を注いでいるのは南シナ海である。そして将来的な発展方向も一路一帯、つまりは南アジアや中央アジアを指向している。日本や太平洋方面での動きは、漁業と艦隊行動に留まる。

 中国の興味が向かない点で、現実的に沖縄侵略の可能性はない。尖閣諸島やその周辺の海洋資源の取り合いはともかく、沖縄の支配には全く興味をもっていない。しかも手を出せば地域大国の日本や、背後にいる米国との決定的衝突が避けられない状況に陥る。

 「中国はスキを見せれば侵略してくる」も誤りである。そもそも、中国周辺にはスキだらけ、かつ同盟国を持たない国がある。例えばラオスやミャンマーがそれである。だが、両国は侵略された話はない。なぜなら中国であっても大義名分が立たなければ他国と戦争し侵略することはできない。この点、自国領域とするチベットやウイグル、台湾の問題とは異なっている。

■ 中国は沖縄を侵略できない

 そもそも、中国は日本に攻め込んだところで勝機はない。この点でも沖縄侵攻はない。

 まず、戦争のリスクが高すぎる。中国人からすれば、日本は近世以来の恐怖の対象である。明は日本との戦いで疲弊して倒れ、清は日清戦争での敗北により権威を失った、民国は日中戦争により都市と沿岸部のすべてを失った。大正時代一五万の日本陸軍が昭和一五年には200万まで膨らみ、中国主要部のほぼすべてを占領したのである。今ではその背後には日米同盟を結ぶ米国がいる。

 そして戦闘で勝てるかも厳しい。

 日本は単独でも強力であり、有力な海空戦力を保有している。もちろん量的優位は失っているため、中国に対して真正面で戦って勝てるかはわからない。だが、A2AD(Anti─Access/Area Denial、A2AD : 接近阻止・領域拒否)により、中国が東シナ海を利用できなくすれば沖縄への上陸戦はできない。

 さらに、それに米国が加わると絶望的となる。米国が航空戦力の2割でも増援に送り込めば戦闘機戦力は逆転し日米有利となる。そして米海軍により世界中で中国向け海上輸送は止められる。さらに今まで営々として築いてきた南シナ海や南アジアの権益も、米国やその他の国に失われる。全くいいことはない。

■ 列島線突破での障害撤去は、ない

 果たしてこの不利を犯し対日戦を決意し、沖縄に侵攻するだろうか?

 日本では中国脅威論において奇妙な説明がされることがある。「逆さ地図理論」とでも言うべき理屈である。「中国が太平洋にアクセスするには琉球列島線を通過する必要がある。だから障害となる沖縄を狙うのだ」と括られるものだ。

 この理屈には本質的な欠陥がある。本質的な対日米戦となり沖縄侵攻をすれば、それで中国は艦隊戦力を溶かしてしまうというものだ。沖縄が占領できるかどうかは厳しいが、もしそれができたとしても、その時には通すべき中国艦隊はなくなってしまうのである。

 ちなみに、列島線突破云々で米国が参戦しない状況は考える必要はない。それならば中国艦隊に列島線を好きに通してやればよいだけの話であるためだ。そもそも中国には通過の権利がある。それを行使することについては目くじらを立てる必要はない。緊張時でも「中国艦隊が日本の海上輸送を攻撃しないならば、日本は列島線通過を妨害しない」と約束すればよい。

■ 日米同盟と在沖米軍と海兵隊駐留は別

 以上が、中国は沖縄を攻めない理由である。実際に今の日中関係、日米関係ではそれはありえないためだ。

 これは沖縄への米軍駐留で変わるものではない。日本の自衛隊だけでも強力であるし、そもそも日米同盟があれば在沖米軍がいようがいまいが中国は沖縄に手は出せない。

 そして、基地問題を解決する上でのヒントともなる。日米同盟と在沖米軍、海兵隊駐留は三位一体ではないことを示しているためだ。

 つまり、日米同盟の下でも海兵隊だけを撤退させる選択肢もあるということだ。

■ 海兵隊撤退で問題は解決する

 まず現状で海兵隊駐留は日米とも利益はない。まず使いみちもない。東アジア・東南アジア各国の軍事力は一流になりつつある。少数の米海兵隊が上陸侵攻できる国は、まずはフィリピンを除けばない。この点、使いみちはHA/DR (Humanitarian Assistance / Disaster Relief : 人道援助・災害救援)程度である。

 「海兵隊の抑止力」は議論するだけ無駄な話だ。既に述べたように、中国の侵攻は自衛隊の戦力と何より日米同盟により充分抑止されており、不足はない。そこに「海兵隊の抑止力」を足す必要もない。日米同盟という雨漏りしない丈夫な屋根がある。その屋根の下で海兵隊という小さな傘を差す差さないの議論に過ぎない。

 このあたり、残しておく必要がある嘉手納米軍とは違う。日本は対中軍事力のバランスが険しくなっている。その本質が海空戦力での対峙であることからすれば、中国の目鼻の先にある嘉手納に海空戦力を置くことは悪くはない。また米国としても嘉手納は活用したい由である。南シナ海航空作戦行動の拠点や、中国沿岸部での軍事活動を察知する上も役に立つ拠点となるためだ。

 なによりも海兵隊撤退の効果は大きい。それにより基地問題は七割方解消するためだ。最大の問題となる普天間・辺野古問題はその段階で終わる。さらに一番の嫌われものの海兵隊を抜く効果も高い。それにより沖縄県民世論を一気に沈静化し、騒音問題等は残るものの、嘉手納運用も安定化する。これも日米同盟にとっての利益となるものである。

文谷数重(軍事専門誌ライター)

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160527-00010001-jindepth-pol

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「まだ見ぬベビーへの手紙、再び」No.1596

2016-02-20 23:12:56 | 中日(日中)関係

木曜に武庫之荘の『ロクパ』で江財大の学生たちが書いた作文を

いくつか紹介いたしました。

前日、どれを紹介しようか保存していた作文を読み返しているうちに

当時の学生たちの顔が思い浮かび、またまた泣けてくるのでした。

その中で、2014年2月の読売新聞にも載った雷国華さんの

「まだ見ぬベビーへの手紙」を再掲載させていただきます。

国家の思惑に嵌められないことは、

どの国の、いつの時代の人々にとっても大切なこと。

いたずらに憎み合う愚を避け、

お互い品格を持つ人間として生きていきたいものです。

雷国華さんは2014年6月に江西財経大学を卒業し、

今は深圳の環境に優しい電池を売る会社で働いています。

 

雷国華 「まだ見ぬベビーへの手紙」

 親愛なるベビー、元気かい。

私は君の母だ。実は今22歳で、君はまだ生まれていない。母はボールフレンドさえも見つからないのだ。しかし、先日林克之先生のことを知った後、ベビーに林先生のことや中日関係について少し話しておきたくなった。

私は大学の専門が日本語だ。そして、日本語が好きで、尊敬している日本人が数多くいる。君がこの手紙を読む頃はもう大きくなっているだろう。中日関係についても自分の考えを持つべきだ。

君の成育環境をちょっと想像すると、多分こうだろう。テレビでは抗日ドラマが絶えず放送され、教科書や新聞には中日戦争についての描写がいっぱいあり、インターネットで日本人を獣とみる文章や映像が少なくない。しかし、私は君に教えたい。戦時中、日本が中国で細菌人体実験をしたのは全て事実だが、これは以前の日本人が以前の軍政下でした残忍なことだ。現在の日本人と何の関係があるか。現在の日本人は、ただ日本に生まれたから、日本人になった。ベビーは中国の歴史を忘れてはいけないが、日本人に盲目の恨みを持ってはいけない。日本人の中には、心が優しい人がいっぱいいるよ。

今日、ベビーに紹介する林先生がその一人だ。林克之先生は1946年日本の静岡県で生まれたが、1997年から、中国桂林市陽朔県シンピン町やシンピンのラオジャイ山をずっと守ってくださっている日本人だ。このラオジャ山はカルスト石筍山で、高く険しいので、当時、登れる人は柴刈り人だけだった。頂上からの絶景を皆に見せたいので、先生は自腹でラオジャイ山に通じる石段を作ろうと決めた。一般の寄付者と違い、先生は毎日自分が雇用した農民工と一緒に働き、セメントや砂を自分の肩で山中に運んだ。ついに、先生は一人の工人さえ雇用するお金もなくなったので、自分一人で工事材料を運び、一人でその石段を作るしかなかった。当時、先生はもう五十歳を超えていた。その後、先生は日本に帰り、金策に駆け回って、さらに、二つの休憩亭や立派なトイレを作ってくださった。先生のおかげで、シンピンへの観光客は毎年数千人だったのが、五万人に激増した。

しかし、話はここで終わらない。それから、林先生はシンピンに定住し、ボランティアとしてごみ拾いを続けている。この手紙を書いている今で、もう16年になる。しかし、こんな優しい日本人でも、シンピン町でさえ全ての人が尊敬や好意を持っているとは言えない。シンピン町政府が林先生を讃えた石碑の先生の名前は、ある人に壊され、先生に悪口を言う人もいる。その原因はもちろん中日戦争だ。

しかし、ベビー、じっくり考えたら、これは正しいのか。林先生はただ普通の一人の日本人だ。何も悪いことをしていないどころか、中日友好や世界平和に貢献している人ではないか。ベビー、人を判断する基準は先祖が何をしたかではなく、今生きている人の行動で判断すべきだよ。そして、間違わない人間はいないよ。もし、誤った人が正しく改める意欲があったら、私たちは協力するべきじゃないのか。これは処世訓だが、国家間にも当てはまる。中日の間には、怖い記憶がいっぱいあるが、温かい思い出も少なくない。今、両国には反日派や反中派が確かにいるが、中日友好のため奔走している人も数え切れないほどいるよ。

ベビー、未来の世界は君たちの考えで決めるものだ。歴史は忘れられないが、歴史だけに拘るのも良くないよ。そして、普通の国民と政府を区別すべきだ。政治とか、戦争とか、庶民に決められるものではないのだ。もし、相手が胸襟を開いてきたら、君も相手を大切にするべきだ。

ベビー、未来の世界はいろいろ意外なことがあるに違いないが、誰に対しても、優しい心を持つことをいつまでも忘れてはいけないよ。そして、国籍を問わず、全力でいい人を保護するんだよ。母もそうして生きるよ。

 

母:雷 国華

2013.5.8

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「汶川大地震での“美しい日本人”」No.1594

2016-02-17 13:10:57 | 中日(日中)関係

まもなく東日本大震災―福島原発事故から5年をむかえます。

実は、中国も四川省、雲南省などの地方はしょっちゅう地震災害に遭い、

多くの人々が犠牲になっています。

今日、江西財経大学の学生たちが書いた作文を読み返していて、

ふと、一つの作品の『地震から5年』というフレーズに目が留まりました。

3年前に書かれた後、日の目も見ず、

私のドキュメントに保存されたままになっていたものです。

作文には書いた人の思考が反映されます。

中国の若者がどんなことを想い、感じているかが作文を読めば分かります。

今までお蔵入りさせていたことを申し訳なく思い、

せめてこのブログを読んでくださる皆さんにご紹介することにします。

作者の董光輝さんは、江財大卒業後、

湖北省の武漢大学大学院法科に進学し、今は2年生になっています。

 

 ―――「汶川大地震での“美しい日本人”」  董光輝

汶川大地震が発生したのはもう五年前のことだ。

時が経つに連れて、倒された家屋が建てなおされ、沿道にも賑やかな雰囲気が蘇ってきた。

傷付いた人々も正常な生活に戻り、被災地はいよいよ回復してきたようだ。

それに比べて、中日関係は大変寒い状況に墜ちてしまった。

しかし、両国政府の間の矛盾は政府が自分たちの責任で解決するべきだろう。

政府とは違って民間の中には、冷たい心を溶かす出来事がいつでも湧いていて、

その度に両国民の距離が縮まっていくのだ。

今、私が書き表したいのは、汶川大地震のとき中国人を感動させた日本救援隊のことだ。

 

あの時、四川省汶川では数え切れない世帯が一瞬に家や家族を失なった。

被災者の多くは倒壊した廃墟の中に埋められ、死に瀕していた。

その時、中国人にとって、最も必要なのは医療、救援に他ならなかった。

外国からも多くの救援の手が差し伸べられた。

そうした援助の中で、私が今でも鮮明に覚えているのは、日本が地震発生後、諸外国の中で一番早く被災地に来てくれたことだ。

中国人が最も助けて欲しい時に、日本人は手を差し出してくれた。 

2008年5月16日、31名の日本救援隊が被災地に着き、直ちに、救援作業を開始した。

「希望が少しでもあれば、必ず最後まで諦めずに努力する」を合言葉にして、

救援隊は数日間、全力で捜索した。

しかし、生存者は一人も救えなかった。

そのような結果は残念だが、地震発生からの日数を考えると生存の可能性は低い。

誰も叱れない。

しかし救援隊員たち自身は心から恥ずかしく、遣り切れない気持ちだった。

ある救援隊員は

「現場で活動してきた一人です。現在はただただ自身の無力感と 悲しさしかありません。

救助隊として活動していながら、中国人の生きている方に触れないまま帰ってきました。

仲間には今回のことで精神的に参り、離職を决めた者もいます。

私は、いつか日本で災害が起きたその時に、今回の無力な自分ではなく、

少しでも命を救い、命に触れることができる人間になるために、生きていきます。」

と語った。

生命を救えなかったことは救援隊の誤りではないのに、

救援隊員は自分を心から責めた。

私たちはそのことに本当に感動した。

彼らは言ってみれば、ただ外国支援隊として、誠実に救助活動を履行すればそれで充分だ。

結果がどうであろうと彼らには関係ないと言ってもいい。

なぜ、そんなに遣り切れなかったのか。

その理由は今なら分かる。

彼らが中国人の生命を日本人の生命と同じと思って行動したからだ。

中国人の痛さ、悲しさを、自分のものとした。

これが私たち中国人を感動させずにはいられないのだ。

 

過去の侵略戦争のせいで、日本人は中国人の心に大変悪いイメージを刻んできた。

子供のとき、いつも祖父は日本人を「日本の鬼」と呼んだ。

戦後68年後の今でも、日本人をこう呼ぶ人は中国にはたくさんいる。

もちろん、中国人たるもの、その歴史災難をずっと民族の記憶に残さなければならない。

しかしながら、歴史を深く心に刻むのは親玉の過ちを後世の人に担わせることではない。

しかも、当時の支配階級が全ての日本人を代表するわけでなく、

戦中でも、日本国内には戦争に抗する活動家が多く存在した。

反戦活動を行った日本人も日本の鬼だろうか、答えは否だ。

 

1972年国交正常化以後、特に改革開放から、

戦争の謝罪、両国の相互理解と友好関係を推進するために、

日本からの先端技術、経済発展の資金、教育業界の人材、

いわゆる全面的な支援と協力は洪水のように中国に流れ込んだ。

その人達は日本の鬼ではなく、中国人にとっての友達だ。

前述の日本援助隊は生命の危険を賭して、中国人被災者を救おうとした。

その行為は鬼にできることか?

私は今後決して「日本の鬼」とという言葉を吐かない。

その代わり「日本の友人」と呼ぶ。

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「中国の若者、北海道でプロポーズ」No.1592

2016-02-15 23:16:45 | 中日(日中)関係

江財大の卒業生、余立君さんのお兄さんが、

なんと今年の1月、

ガールフレンドと北海道旅行をして小樽でプロポーズしたんですと。

中国の若者にとって日本、そして北海道はどんなイメージか、

なんか想像できますね~。

私は自分の故郷がプロポーズの場所に選ばれたのが嬉しいですよ。

以下はメール文と添付されていた写真です。

―――――――――

昨日・バレンタインデーにお兄さんが結婚しました。

今年1月末、お兄さんとガールフレンドと一緒に北海道に旅行しました。
そして、お兄さんは北海道の小樽でポロポーズしました!
雪だるまのまえでポロポーズするのはほんとうにロマンチックでしょう。
北海道はいいところですね〜
 
春節のとき、家に帰りました。家で楽しい一週間を過ごしました。
でも、今日から仕事を初めて、新しい一年を迎えます。
先生はいつ上海にいらっしゃいますか。
飛行機のチケットが週末だったら、ぜひ上海に2日ぐらい遊びに来てくささい。
私は案内してさしあげます〜

 余立君

 

 

会ったことはありませんが、二人の末永い幸せを願います!―ブルーはーと

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「中国から届いた3・22<安倍政権に『NO』>東京集会」2015年3月23日(月)No.1117

2015-03-23 21:18:15 | 中日(日中)関係

   

2月から今まで落ち込んでいた気分を払拭するべく、

今日は朝から、返信もせずに貯め込んでいたメールに返事を書く作業をしたり、

skypeで江財大の学生たちに大学院入試面接対策の特訓をしたりと、

久しぶりに社会に向けて行動したかな、と思える一日だった。

そんな一日も暮れようとする夕刻、4年生の余立君さんから、

昨日3月22日に開催された「安倍政権に『NO』東京集会」

模様を伝える写真とメールが送られてきた。

もちろん、中国で、今日報道されたものである(写真右下に『中國青年網』のロゴあり)。

メールには次のように書かれてあった。

先生

さっき、ネットで論文に関する資料を調べていたとき、

「昨日、東京の日本民衆が安倍政権に反対した」というニュースを見ました。
 
写真を見ると、とても深い印象を得ました。
 
安倍の画像はヒトラーのようにしていました。
 
それに、何百人も「安倍政権NO」というスローガンを掲げました。
 
ほんとうに壮観だと思います。
 
今の日本はそんなに多くの人が安倍政権に反対しているのかと感嘆しました。
 
多分中日友好の春はもうすぐそこまで近づいていますね。
 
写真もお送りします。どうぞご覧ください。
 
余立君

うかつにも、私はこの集会について全く知らなかった……。

ううむ、落ち込んでなんかいられないわ。

 

     

 

 

 

 

私も迂闊だが、日本のメディアはどれくらい報道しているのだろうと思い、

ネットで調べてみた範囲では、昨日の共同通信、今朝の東京新聞

あとはtwitter、facebook、各種ブログしか見つけられなかった。

朝日デジタル、毎日新聞ニュースメールも探したが私の見方が悪いのだろうか。

こんな日本的には大規模な市民集会を、まさか、天下の二紙がスルーするなんて。

ほんとにそこまで腐っちゃったの?朝日、毎日。

産経と読売は無駄なので聞きませんけど。

今は日本のことを知りたかったら、外国に行かなければならない時代だ。

これは、本当は戦慄すべき事実なのだが、なんか私も麻酔注射されたかして、

脳みその麻痺が進行している。

 

今朝、一面の下段にきちっと場所をとって載せていた東京新聞(下)。

 

 

コメント (1)
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「元宵節に中国からメールが」2015年3月5日(木)No.1106

2015-03-05 21:16:33 | 中日(日中)関係

今日は旧暦の元宵節。

中国では孔明灯を飛ばしているかしら。

湯圓を食べているかしら。

女の子たちは街に繰り出しているかしら。

と、懐かしんでいたところに江西財経大学4年生の余立君さんからメールが届いた。

余さんと私はともに浙江省の杭州、紹興、湖南省の張家界、長沙などを旅行した

(というか連れて行ってくれた)仲で、今学期は授業がないので上海のお母さんの家で

絵画教室に通っている。

そうそう、昨年秋の訪中では上海でさんざん余立君さんの御世話になった。

そんな懐かしい彼女からの写真とメールだった。

―――――――――――――――――――

先生

ご無沙汰しております。最近はどうですか。
 
今、また湿っぽい季節となり、外の雨は何日も降り続いています。
 
とても嫌ですね。大阪の天気はどうですか。
 
春節の時、先生にメールを書きたかったんですが、おじいさんの家にはwifiがありません。
 
だから、おじいさんと話したり、いとこと遊んだり、おばあさんと粽(ちまき)を作ったりしました。
 
↓粽を作っているところ
 
↓余さんが作った粽
 
 
↓余立君さんの御祖父様
 
 
ある日、おじいさんとしゃべっていたとき、おじいさんは
 
「いまのわたしは日本人を全然嫌がってないよ。テレビのドキュメンタリーを見た。
 
第二次世界大戦の時、日本政府と庶民の意見があまり一緒ではない。
 
政府が戦争を引き起こしたが、平和を望んでいる庶民が自分の政府に反対したこともある。
 
それは意外なことだよ。政府は庶民の意見を完全に代表してはいないこと、
 
やっとわかるようになった。
 
と言いました。
 
その時、12歳のいとこ(妹)が急に、
 
「安倍が悪いです。」
 
と口出ししました。
 
「あれ、お前も安倍を知っている?」
 
「そうですよ、おじいさんがテレビでニュースを見ていた時、私は安倍のことを聞きました。」
テレビの力はほんとうに強いんですね。
 
↓余立君さんの従妹・従弟(中国では妹・弟と呼ぶ)。
アジアの子どもたちは皆、兄弟姉妹のようだ。
 
 
先日、父の家に着きました。これから、卒業論文を書かなければなりません。
 
(論文の名前は「日本の忍者文化」ですよ)
 
写真もお送りました。どうぞご覧ください。
 
先生はいつ大連に行くつもりですか。決めたらぜひ教えてくださいね。
 
最後に、元宵節おめでとうございます!
I miss you!
 
余立君
―――――――――――――――

お祖父さんの話は特別に胸に沁みた。

実は、余立君さんのお祖父さんは、彼女が大学の日本語学科に入ったとき、

「何を学んでもいいのに、よりによって日本語か!」

と怒りと悲しみに満ちた言葉を投げかけた人だ。

その後、余さんはどんなに時間をかけてお祖父さんを説得したか知れない。

その話をいくつも知っている私は、今日のメールのお祖父さんの言葉を読んで、

思わず目が潤んだ。

日本人が侵略の歴史をさっさと忘れようとしても、

侵略された側の人たちは何百年経っても忘れない。

事実、中国には、目の前で父母や祖父母が殺されたり、

大怪我を負わせられたりした人たちが、

まだまだ健在なのだ。ごまかし切れるものではない。

日本人は潔さと正義の心を持つと自負するなら、なおさら、

自国が過去にしたことを美化したり、矮小化させてはならない。

歴史修正主義者にホイホイと乗せられてしまわないように、

一人ひとりが歴史の事実をきちんと学ばなければならない。

きちんと学ぶということは、一方的で科学的根拠のない、

学問的に到底認められない代物を崇めることではない。

福沢諭吉が動乱の時代の日本人に言った

「死ぬ気で勉強しなさい!」という言葉は、

知的レベルが異常に低下している今の日本人にこそ、ぴったり当てはまるものだ。

コメント (2)
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