犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

『降伏の時』~戦争と祖父

2022-12-30 22:58:16 | 

 少し前に、知人の勧めで稲木誠、小暮聡子著『降伏の時-釜石捕虜収容所用長から孫への遺言』(2022年4月、岩手日報社)という本を読みました。

 二人の著者は祖父と孫娘の関係です。

 稲木誠さんは、小暮聡子さんが7歳だった1988年に他界。聡子さんは高校2年の時、祖父が生前『週刊時事』に連載した「フックさんからの手紙」(1984年発表)を読んで、祖父の戦争体験と祖父が戦犯であったことを知ります。そして祖父が生前に刊行していた2冊の本、『茨の冠』(1976年時事通信社)、『巣鴨プリズン2000日』(1982年徳間書店)を読み、また実家にあった未発表原稿「降伏の時」を大学時代に発見して、留学先の米国で祖父と戦争について本格的に調べ始めます。卒業後にはニューズウィーク日本版の記者になりました。

 本書は、稲木誠の手になる「降伏の時」(第一部。1985年に執筆され、稲木の死後、2020年『ニューズウィーク日本版』ウェブサイト、2021年『岩手日報』に連載)、「フックさんからの手紙」(第二部)と、小暮聡子の手になる「遠い記憶の先に終止符を探して」(第三部、2015年『ニューズウィーク日本版』に発表)、「過去から未来へ」(第四部、書き下ろし)から構成されています。

 稲木誠は1916年生まれ。太平洋戦争の終戦直前、約1年半、岩手県釜石市の連合軍捕虜収容所長を務め、戦後、BC級戦犯として有罪となり、5年半、巣鴨プリズンに収監された経歴を持ちます。釈放後は時事通信社に勤務し、1973年に記者職を退いた後、釜石収容所での体験と戦犯裁判について、中山喜代平のペンネームで発表(『茨の冠』1976年時事通信社刊、『巣鴨プリズン2000日』1982年徳間書店刊)。1988年、72歳で死去。

 稲木誠の両親は教師。誠は新聞記者になりたかったが、父親からの勧めで師範学校、さらに広島文理科大学に進学し、英語、柔道、哲学、心理、論理の教員免許を取得。日米開戦直後、徴兵のために高等教育機関の修業年限が短縮されたため1941年12月に卒業、42年2月に徴兵。幹部候補生として仙台陸軍教導学校に入ります。43年12月陸軍少尉。英語が話せたため、44年4月に釜石市の連合軍捕虜収容所の所長となって終戦を迎えました。終戦時、誠は29歳。仙台陸軍教導学校の同期45人のうち、3割以上が戦死・戦病死したとのことです。

 稲木誠は、自身が釜石収容所長を務めた約1年半の間に、オランダ、米国、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド国籍の約400人(一時期兼任した大橋収容所を合わせると約800人)の連合国捕虜を管理。その間、捕虜たちを、日本製鉄釜石製鉄所と大橋鉱業所で使役しました。

 軍需産業である釜石製鉄所のある釜石市は、終戦間際の1945年7月14日と8月9日に米海軍による艦砲射撃を受け、1000人以上の市民が犠牲になります。その中には釜石収容所の連合軍捕虜32人が含まれます。

 稲木誠は戦後、BC級戦犯として有罪となります。罪状は艦砲射撃の際の安全管理責任や捕虜への不法待遇。しかし、自身は「戦争中の捕虜の苦痛を思い、自分の収容所から多数の死傷者が出たことを悲しんだ。その遺族の人たちの嘆き、怒りを想像すると、石をもって打たれてもいいと思った。だが、罪を犯したとは、どうしても考えられなかった」と回想します(『茨の冠』)。

 本書第一部、「降伏の時」は、終戦の1945年8月15日から、収容者の本国への帰還が完了する9月15日まで、一か月間の収容所での出来事が記されていますが、ここでも自らの管理期間中、捕虜の管理に尽力したことがつづられ、その後行われたBC級戦犯裁判で有罪とされたことが納得できないという気持ちがにじんでいます。

 BC級戦犯は主に捕虜虐待の罪に問われます。

 稲木誠は、日本の警備員に反抗したアメリカ人捕虜の頬を平手でなぐったことがありますが、それ以外には思い当たるふしがない。収容者の一人のオランダ軍医、パイマ中尉の協力もあり、収容所の栄養状態は東北軍管区の十数か所の収容所の中で最もよいといわれるまでになったそうです。

 日本が批准していなかったジュネーブ条約には、「捕虜を軍需工場で働かせてはならない」とあるので、それに抵触した可能性もあります。

 稲木誠は、納得のいかない戦犯裁判で有罪になり、巣鴨プリズンに5年半拘置。「公職追放」のため教職には就けず、知己を頼って時事通信社に記者職を得ます。

 戦後30年が経った1975年、釜石市長宛に元釜石収容所の捕虜だったオランダ人から1通の手紙が届きます。

―私は戦争中に俘虜として釜石にいた者ですが、釜石での取り扱いは良く、市民にも親切にしてもらいました。

 その手紙は新聞に掲載され、稲木誠のもとにもたらされました。稲木は執筆中だった『茨の冠』を脱稿すると、手紙の送り主、ヨハン・フレデリック・ファン・デル・フック氏に手紙を出し、そこから元収容所長と元捕虜の間の文通が始まります。文通は1976年から稲木が亡くなる88年まで10年以上続き、1984年にはその内容が『週刊時事』に連載されました(本書の第2部に転載)。連載の4年後、稲木誠は死去。その記事を高校2年生の孫娘が読むのは、その約10年後のことです。

 小暮聡子さんは、祖父が戦犯とされた理由を探ることを目的の一つとして、2002年にアメリカに留学。祖父が生前勤務した時事通信社のワシントン支局でインターンとして働きながら、公文書館で祖父の裁判資料を見たり釜石収容所での体験を書いたアメリカ人の本を読んだりして、捕虜の目から見た祖父の姿を知ります。そして2003年には「バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」という戦友会に参加。アメリカの捕虜や遺族の生の声を聞きます。

 彼女は、祖父が獄中で読んでいたという「ニューズウィーク」の日本版の記者となり、2012年にニューヨーク支局に赴任。2015年にふたたび ADBCに参加します。そして、そこで元捕虜のダレル・スターク氏にインタビューをします。

 彼は1942年にバターン半島で日本軍の捕虜となり、戦地の収容所を転々としたあと、44年に四日市の収容所に送られます。そこで空腹のあまり工場で働く日本人の弁当を盗んで食べてしまいます。しかし、盗まれた日本人はそれを責めることなく、翌日から終戦まで、スターク氏のために弁当を差し入れたのだそうです。その日本人は、終戦の5年後にスターク氏に手紙を書きましたが、スターク氏は返信できないまま長い年月が経ちました。

 2014年、92歳のスターク氏は日本外務省の元戦争捕虜の招聘事業で娘とともに来日。帰国後、弁当を差し入れてくれていた手紙の主の息子さんと連絡がつき、その後、文通を続けているとのこと。

 稲木誠がオランダ人のフックさんとの間で文通をしていたように。

 本書の第3部は、小暮聡子氏が2015年に参加したADBCと、そこで知ったスターク氏のことが語られます。

 小暮聡子氏は、フックさんが1991年に亡くなった後、2014年からその息子のポールさんと文通を続け、ほかにも釜石収容所で祖父の管理を受けていたという元捕虜と家族とも交流しています。第4部ではそのような交流が描かれています。

 以上、本書は、日本国内の捕虜収容所の状況を伝える資料であると当時に、戦後世代の小暮聡子さんが祖父の記録を追いながら、「祖父について」、「戦争について」を考え続けた記録です。

 BC級戦犯について、田中宏巳『BC級戦犯』(2002年、ちくま新書)がありますが、国内の収容所についてはあまり書かれていません。その意味で、本書第1部は貴重な史料でしょう。

 BC級戦犯の裁判の結果、死刑920人、有期刑3400人という判決が出されました。

 戦犯(戦争犯罪人)とは、「戦勝国が、再び戦争することのむだを敗戦国に知らせる目的で、有罪と判定した政治責任者・捕虜虐待者」(新明解国語辞典第8版)。

 戦犯裁判とは要するに、戦勝国による敗戦国に対する復讐の1つです。実際に極刑に値する虐殺・虐待もありましたが、戦地での杜撰な裁判で冤罪・誤審も多かったといわれます。

 原爆や市街地への無差別爆撃・艦砲射撃など、戦勝国が行った「犯罪」は不問に付されます。国際法に違反して日本を侵略したソ連によるシベリア抑留と強制労働も同様。

 BC級戦犯には、朝鮮人軍属も多かった。

 元徴用工だったと主張し、日本企業に謝罪と賠償を求めている李春植(イ・チュンシク)さんは、徴用の始まる前の 1941 年に渡日、日本製鉄の釜石製鉄所で働いていました。1944 年以降は徴兵され、神戸で米軍捕虜監視員として働いていたそうです。

 稲木誠が所長をしていた収容所の捕虜たちも、日本製鉄釜石製鉄所で使役されていましたが、時期は少しずれていました。

 李春植氏は、捕虜監視人でしたから、BC級戦犯に問われる可能性さえあったはずですが、今は「強制労働の被害者」として日本を訴える立場にいます。

 戦争とは複雑なものです。

 最も有名な朝鮮人BC級戦犯は、洪思翊。山本七平が感動的な作品にまとめており、以前、詳しくご紹介したことがあります。



洪思翊①~韓国とアイルランド
洪思翊②~忠誠
洪思翊③~青山墓地の密会
洪思翊④~武士の情け
洪思翊⑤~裁判
洪思翊⑥~完全黙秘
洪思翊⑦~戦後日本の繁栄
洪思翊⑧~死刑執行

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