犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

ユンボギのその後③

2024-06-28 23:40:05 | 

写真:映画「あの空にも悲しみが」(1965年)のポスター

 自分の日記が出版され、ベストセラーになり、映画化もされて、「時の人」になったユンボギ(李潤福)が、その後も貧困から抜け出せず、苦労の多い生涯を送らざるを得なかった、というのはちょっと不思議です。

 小学生の日記を世に出したのは、ユンボギが通っていた明徳国民学校の教師、金東植(キム・ドンシク)先生。

 金東植は『ユンボギの日記』の序文で、「在日同胞の安本末子が書いた『にあんちゃん』が思い浮かび、ユンボギの日記を出版することに着眼した」と書いています。

『にあんちゃん』というのは、日本の安本末子という女の子が、小学校3年生から五年生まで約1年半(1953年1月~54年9月)書いた日記が、約5年後の1958年11月に刊行されたもの。

 安本末子は、佐賀県の炭鉱地帯で出生。4人兄弟姉妹の末っ子。3歳のときに母を亡くし、父も9歳の時に亡くなって、4人の兄弟姉妹が長兄(20歳)の稼ぎだけで極貧生活を送っていました。末子は父の四十九日の日から日記をつけ始めました。長兄が炭鉱不況で会社の首切りにあうと、一家は離散。その後、1957年に長兄が病床で妹の日記を読み返して感動。末子自身は強く反対していたのに、17冊の日記帳を光文社に送り、カッパブックスの一冊として刊行されました。

 本は1959年にNHKのラジオドラマになったことをきっかけに爆発的に売れ、1959年のベストセラーランキング一位に輝きました。さらに、同年末に 今村昌平によって映画化されると、一段落していた本の売れ行きに再び火がつき、ロングセラー化。刊行から8年後の時点で63万部を売り上げました。

 この本の印税のおかげで長兄はゆっくり療養できて健康を回復、次兄と末子も大学に進学することができました(次兄は慶応、末子は早稲田)。

『にあんちゃん』初版は定価260円。著者に定価の10%が印税として支払われたとすれば、63万部の印税は1638万円。これ以外にラジオドラマ、テレビドラマ、映画の原作料が入ったことでしょう。

 なお、『にあんちゃん』は韓国でも59年に複数社から翻訳出版され10万部売れたそう。さらに映画化もされましたが、舞台が韓国になっているなど、大幅な翻案がほどこされました。ただ、韓国では外国の著作物の著作権は保護されていなかったので、著者の安本末子には印税も原作料も支払われなかったと思われます。

 では、この『にあんちゃん』をもとに「着想」された『ユンボギの日記』(韓国語原題:あの空にも悲しみが―11歳の少年が叫ぶ人間の声)の売れ行きはどうだったのか。

『ユンボギが逝って―青年ユンボギと遺稿集』から、それに関する記述を探すと…

 新太陽社という出版社から刊行された『ユンボギの日記』は、1964年11月15日に刊行され、「それまでの書籍出版としては異例の二十版以上を出し、ユンボギはその印税として二十七万ウォン(当時の日本円にして約三十八万円)を受け取った」と書かれています。

 ウォンと円の換算が?っと思いましたが、当時は日本が1ドル360円の固定相場制。参考に、円ウォンレートの推移を掲げます。

1965年1ウォン= 1.3520円
1970年 1.1592円
1980年 0.3731円
2000年 0.0953円
2020年 0.0905円


「異例の二十版以上」とあっても、部数は書かれていない。ネットで調べると、「刊行後4か月で5万部」とか、「その年だけで6万部」などという情報がありました。

 映画のほうは65年5月5日の子どもの日に封切り。ソウルだけで285,000人を動員し、65年でもっとも観客を動員した映画になったそうです。

『にあんちゃん』の例では、映画化されることで本の売れ行きも伸びたということですから、最終的に本は10万部以上売れたのではないでしょうか。

 印税は、定価と部数によって決まります。

 ネットで『あの空にも悲しみが』の初版本がオークションに出されているのを見つけました。





 奥付には定価150ウォンとあります。先のレートで円に換算すると、約210円。

 ところがよく見ると、定価150の「1」のところが手書きで「2」と修正されているのがわかります。出版社自身が修正したのか、本屋が修正したのか、わかりません。日本では、本の価格は再販制により、新刊価格の変更はできませんが、韓国ではできたのかもしれません。

 本の印税は、出版契約書によって決まります。書籍の場合、通常は印刷部数に比例した金額を払いますが、雑誌などの記事は「買取」といって、決まった原稿料を払います。書籍でも、あまり売れない本の場合、部数に比例した印税が少額になるので、刊行時に初刷よりも多い金額を著者に払う場合があります。それっきり増刷がなければ、実質的に「買取」と同じことになります。

『あの空にも悲しみが』が出版されたとき、ユンボギは小学校6年生でしたから、自分で出版社と契約したのではないでしょう。第一、本が刊行されたとき、ユンボギは家出をした妹のスンナを探しに行き、行方不明になっていました。契約に立ち会おうにもできない状態だったのです。

 したがって、本の契約は、日記を出版社に持ち込んだ明徳国民学校の教師の金東植が行ったと考えるのが自然です。本の刊行にあたっては、金東植の知り合いの朴進錫(パク・ジンソク)という人もかかわっていたらしい。朴進錫は作家だそうですから、出版契約について知識があったはずです。

 もし印税契約を結んでいたとすると、150ウォンの本が10万部売れたら、著者は150万ウォン(210万円)をもらいます。もし刊行後に本が値上げされていたなら、金額はその1.5倍になります。

 ところが、ユンボギに支払われたのは、27万ウォン(38万円)にすぎなかったということです。

 64年11月に本が出た後、大邱のある女子高ではユンボギのためにお米と現金の寄付が集められたそうです。そして12月初めからは、マスコミが「ユンボギ捜索運動」を展開、その結果、12月21日にユンボギはソウルの南大門付近にいたところ無事保護されました。

 そして、12月25日に映画化の契約。映画化の契約金は12万ウォン(約17万円)。

 これらの印税、寄付金、映画化の契約金は、ユンボギに直接渡されることはありませんでした。明徳国民学校内の、教師らで構成される「李潤福手記出版管理委員会」が作られ、そこで管理されることになりました。

 その中の 映画化契約金は12万ウォン+αは、ユンボギ家族のための家の購入にあてられました。

 ユンボギが国民学校を卒業し、中学に進学すると、お金は中学校の「奨学金管理委員会」に移管され、ユンボギは基金の利子6,750ウォン(1万円)を毎月受け取ったということです。

 映画化の原作料は、現代日本でも安く、興行収入が何億円になったとしても、原作者には数百万円しか払われないのが普通。ユンボギのときも安いのはしかたがない。

 しかし、本の印税、27万ウォンというのはどう考えて安すぎます。

 ユンボギが成年になって、暮らし向きが一向に改善しないことを不審に思った周囲の人が、「あの時の金は何に使ったのか」と聞いてきたそうですが、そのたびにユンボギは気まずそうな微笑みを浮かべていたとのこと。ユンボギ自身、お金に関して、長い間疑いの念を拭い去ることができなかったようですが、小中学生の時に金銭問題に口出しできるはずがなかったし、「もし奨学金として管理してもらわなかったら残らなかっただろう」と言っていたそうです。

 本が売れて大儲けした出版社が印税を払い渋ったのか、それともユンボギ以外の第三者が着服していたのか…。

 私は後者の可能性が高いように思います。

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