安野直『ロシアのLGBT』には、同性愛だけでなく、トランスジェンダーも取り上げられています。
以下、同書に沿って紹介します。
LGBTは性的少数者をひとくくりにした名称ですが、LGBとTは、違う概念です。
L(レズビアン、女性同性愛)、G(ゲイ=ホモセクシュアル、男性同性愛)、B(バイセクシュアル=両性愛)は、「性指向」にかかわる概念であり、T(トランスジェンダー)は生まれついた性別と自分の性意識が一致しないという「性自認」に関わる概念です。
ロシアに限ったことではないと思いますが、20世紀に入るまで、トランスジェンダーは、男性の「女装趣味」として、ホモセクシュアルと混同されていました。
1920年代に、身体の性別とは異なる服を着る人たちを「トランスヴェステート」(もともとドイツ語)を呼ぶようになり、同性愛といちおう区別するようになりましたが、スターリン時代に、同性愛とともにトランスヴェステートを取り上げることがタブー視される時期が続きました。性的少数者の情報が顕在化するのは、ゴルバチョフのペレストロイカ(変革)の一環として、グラスノスチ(情報公開)が進められるようになってからだそうです。
1999年に同性愛が、ロシア保健省の「疾病リスト」から削除されたことは、前の記事で紹介しましたが、ほぼ同じ時期、トランスジェンダーに関しても重要な変更がありました、1997年に性別変更の手続きを定めた法律が成立したのです。ただ、性別変更には医療機関が発行する書類が必要であり、明記はされてはいませんが、「ホルモン療法」と「外科手術」が必要とされることが多かったということです。
インターネットの発達にともない、ロシアでも、トランスジェンダーに関する情報がネット上に現れるようになり、2007年頃にはモスクワに「トランスジェンダー」という店がオープン。トランスジェンダー向けの服の販売や、交流・支援の場となったそうです。同時に、それまで混同されがちだった同性愛・両性愛と、トランスジェンダーの違いも認識され、運動団体の活動目的も違ったため、同性愛とトランスジェンダーの運動家たちは分かれて行動するようになっていきました。
2013年、ロシアは「同性愛(非伝統的性関係)宣伝禁止法」という、世界の流れに逆行する法律を制定しましたが、その5年後の2018年には、「性別変更の手続き」について布令を発表します。この布令には、「ホルモン療法、性腺切除などの性別適合手術」は条件とされませんでした。これは、今日のヨーロッパ諸国の動向に近いもので、日本の戸籍上の性別変更に性別適合手術が必要であるのに比べると、先進的に見えます。ただ、布令発表の直後、18年5月に、WHOが「性同一性障害」という病名を廃止し、「トランスジェンダーは病気ではない」と位置付けたのに比べ、ロシアの布令は依然としてトランスジェンダーを「精神疾患」としており、課題は残っていると言えます。
『ロシアのLGBT』には、ロシアのトランスジェンダー活動家であるキレイ・スティニコヴァ(性別を男性から女性に移行)へのインタヴューが載っています。
ロシアには、ジェンダーニュートラルなトイレはほとんどないため、トランスジェンダーの人々は、現在のジェンダー表現に一致したトイレに入るということです。キレイさんは「中性的な外見」ですが、一人で女性用トイレに行くのは怖いので、女性のパートナーがいるときに限り、女性用トイレを利用するそうです。
私の以前のインドネシア語のR先生が、トランスジェンダーであることは、以前当ブログに書いたことがあります(リンク)。
R先生も、日常的に最も困るのはトイレだ、と言っていました。体は女性、意識は男性、髪型やファッションは男性で、女性的なメイクはしていないので、見かけは男性にも女性にも見えるという点で、R先生は、上記、キレイさんと同じです。
「女性トイレに行くのは絶対イヤ。でも、男性トイレに行くとジロジロ見られる。いちばんいいのは、「多目的トイレ」なんだけど、どこにもあるわけじゃないからね」
私は、多目的トイレは、赤ちゃんのおむつを替えたりする必要のある人が使うものだと思っていました。乳幼児を連れてもいないのに、多目的トイレを使う人を見たときは、「他人の迷惑を考えない人」くらいに思っていました。先生の話を聞いたとき、「多目的」の中に、「トランスジェンダーの人が違和感なく使うため」という目的も含まれていたのだ、と思い至りました。
「だから、トイレに行かなくてすむように、できるだけ水分をとらないようにしている」
トランスジェンダーは、このような悩みをかかえていたのですね。
「トイレ問題」は、トランスジェンダーに共通の悩みと言えますが、ロシア人のキレイさんは、ロシア人(ロシア語話者)であるがゆえの「悩み」を抱えています。
「性について」(リンク)という記事で、ロシア語の動詞の過去形は、主語の「性」によって変化することを紹介しました。
「私」(一人称単数)を表すロシア語の人称代名詞は я で、これは男性であっても女性であっても同じです。しかし、自分の過去の行動について語るとき、動詞の形から、 я が男性であるか女性であるかが顕わになってしまうのです。
――トランスジェンダーの人は、動詞の過去形をどのように使用しているのでしょう。
「ふつう、トランス女性(男性から女性へ性別移行した人)は女性形を、トランス男性(女性から男性へ性別移行した人)は男性形を使います。…しかし、もし、例えば男性的な外見のトランス女性が危険な空間(たとえば、外にいるときや、見知らぬ人々と話す場合)にいた場合、彼女は女性形を使用せず、ジェンダーニュートラルなことばで話そうとするでしょう。そうでないと、攻撃にあうかもしれませんから」
ジェンダーニュートラルなことばというのは、話者の性別を明示する必要のない表現のこと。具体的には、①無人称文の使用、②物を主語として表現する、③過去形を現在形で代用する、④語尾をあいまいに発音する(過去形の性は語尾に表れます)。
動詞の活用に話者の性が反映されるロシア語(他のスラブ語にもあるかもしれません)の話者には、このような特別な「悩み」があるのです。
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