自民党が、今国会で提出予定だったLGBT法案(性的少数者への理解増進を図る法案)の提出見送りを決めたそうです。
この法案は、2015年に起きた、一橋大学法科大学院生の転落死事件がきっかけになったとのこと。ゲイの学生から同性愛の恋愛感情を告白された異性愛の男性が、SNSで友人に、その学生が同性愛者であることを暴露したことで、ゲイの男性が心身に変調をきたし、転落死した事件。遺族は、暴露した学生と一橋大学を相手取って、損害賠償訴訟を起こしています。
自民党は、この法案が、「性的指向による差別」を禁じる五輪憲章に沿うものとして、五輪前の今国会での法案成立を目指していました。提出見送りの理由は、保守系議員から「差別の範囲が明確でない」とか、「訴訟が乱発される」との声が上がったからだそうです。
海外では、2001年にオランダが、世界で初めて同性婚を法的に認めたのを皮切りに、現在、台湾を含む29か国が同性婚を法制化。その一方で、68カ国が、依然として同性による性行為を法律で禁じ、イランやスーダンなど6カ国は死刑を科しているそうです(2019年時点)。
日本では、2004年に性同一性障害特例法が施行され、戸籍上の性別変更が可能になりましたが、同性婚は今のところ認められていません。今年3月、札幌地裁は、「国が同性婚を認めないのは違憲」との判断を示し、現状を「不合理な差別」と結論づけています。
今国会への法案提出が見送られたのは、この流れに逆らうもので、残念です。
ところで、先日、安野直著『ロシアの「LGBT」-性的少数者の過去と現在』(群像社、ユーラシア文庫、2019)という小冊子を読みました。
ロシアでは、「同性愛宣伝禁止法」という法律が、2013年に制定されたそうです。この法律は、正確には「非伝統的性関係宣伝禁止法」で、「同性愛」という言葉は条文のどこにも使われていませんが、「非伝統的性関係」が主に同性愛を指すことは明らか。一方、同法は、「同性愛」そのものを禁止しているわけではなく、「未成年者にたいして同性愛を宣伝した場合に行政罰(刑事罰ではない)を加える」というもの。
本書は、中世から書き起こし、ソ連時代、ソ連崩壊後、プーチン時代へ、ロシアの同性愛への対応の変遷を概観しています。
とても興味深い内容だったので、以下にご紹介します。
10世紀に正教を国教としたことにともない、ロシアにキリスト教の性道徳が流入。同性愛は宗教上の罪となった。しかし、法的には同性愛への罰則はなく、修道院やロシア伝統の蒸し風呂小屋、バーニャで、男色が行われていた。他のヨーロッパ諸国は、中世後期以降、同性愛を厳罰(死刑)に処す法律を制定していたが、それに比べれば、ロシアは寛容だった。
18世紀に入り、西欧化政策をとったピョートル大帝は、まず軍隊において同性愛を禁じ、1832年のニコライ一世の治世には、一般人に対しても刑事罰が科されるようになった。
19世紀末、西欧より性科学が流入し、同性愛を「病気」とみる見方が広がった。それを受けて、1903年の新しい刑法では、同性愛に対する罰則が緩和された。1906年には、男性同性愛を主題とするクズミンの『翼』という小説が発表され、大きな反響を呼んだ。
19世紀末まで、同性愛と言えばゲイのことであり、女性の同性愛(レズビアン)は法的処罰の対象になったことはなかった(というより、「ないこと」にされてきた)。
19世紀末以降、女性解放運動が興隆し、男性に経済的に依存しない女性が現れ、それと同時に女性同性愛も可視化された。レズを主題とした小説も発表された。
1917年、ロシア革命が起こり、帝政時代の同性愛を犯罪とする刑法は廃止された。ソ連の刑法では、同性愛は、未成年者を巻き込まないかぎり、罪には問われなかった。同時代のドイツ、イギリス、米国(の多くの州)などで、同性愛が依然として処罰の対象だったことに比べると、ソ連は「先進的」だったといえる。
ところが、スターリンが権力を握ったあとの1934年、同性愛はふたたび処罰の対象となる。「社会の安定と社会主義の発展のために、家族は社会を構成する基本単位である」という家族重視論が打ち出され、中絶禁止、多産の奨励が進められるなか、生殖につながらない同性愛は排除されることになった。さらに、「同性愛は反革命的なブルジョワの道徳的退廃である」というプロパガンダも喧伝された。
スターリン死去後の「雪解け」(フルシチョフ時代)においても、同性愛を罰する刑法が見直されることはなかった。続くブレジネフ時代は、文化に対する統制が強化された時期だが、一方で、非合法の地下出版では、同性愛を扱った作品が多数生み出された。
そして、ゴルバチョフの登場によってソ連が崩壊した後の1993年、同性愛を犯罪と定めた刑法の規定が廃止された。その後、ロシアにもエイズが広がり、同性愛者が感染源とみなされるなどの逆風もあったが、ポップカルチャーなどによってLGBTに対するリベラルな雰囲気が醸成され、さらにインターネットの発展で同性愛者やトランスジェンダーの情報が増加、コミュニティが生まれ、運動が活発化した。
世界保健機関(WHO)は、1990年、国際疾病分類(ICD)を改定し、同性愛を疾病リストから外したが、ロシアは約10年後の1999年、これを受け入れ、公式に「同性愛が病気ではない」とみなされるようになった。
そして、2013年、「同性愛宣伝禁止法」(非伝統的性関係宣伝禁止法)が成立する。
以上が、ロシアが「同性愛宣伝禁止法」を制定するに至る歴史的な経緯です。
プーチン大統領は、保守派やロシア正教会のバックアップを受けていると言われます。背景には、ロシアの人口動態があげられます。ロシアの人口は自然減少の傾向にあり、プーチン政権は、「同性愛者を差別したり、人権を侵害したりする意図はない」としつつも、人口動態の観点から法律の必要性を主張しています。
この法律には、プーチンの「伝統への回帰」という意識が表れています。プーチンの家族観とは、「異性愛のカップルによる次世代の再生産と同性愛の排除」です。
西欧諸国は、時代に逆行するこの法律に反発し、いくつかの国の首脳は2014年ロシアのソチで開催された冬季オリンピックの開幕式への出席をボイコットする一方で、ロシア国民は同法を支持していました。
五十嵐徳子「ロシアの同性愛をめぐる状況とジェンダー」によれば、ロシア国民はこの法律に目立った反対の声をあげておらず、2013年の全ロシア世論調査センターのアンケートでは、ロシア国民の88%がこの法律に賛成しており、ピュー研究所の調査では、「ホモセクシュアルを社会が受け入れる必要がない」と答えた割合が、2003年は60%だったものが、2013年には74%に増えているそうです。
LGBTをめぐる状況は複雑です。
さて、今回日本でLGBT法案の提出が見送られたのは、自民党内「保守派」の反対によるといわれますが、今年3月、札幌地裁が「国が同性婚を認めないのは違憲」と判決した直後、朝日新聞が実施した電話調査では、同性婚を「認めるべきだ」が65%で、「認めるべきではない」の22%を大きく上回っています。
次期国会での成立を望みます。
この法案は、2015年に起きた、一橋大学法科大学院生の転落死事件がきっかけになったとのこと。ゲイの学生から同性愛の恋愛感情を告白された異性愛の男性が、SNSで友人に、その学生が同性愛者であることを暴露したことで、ゲイの男性が心身に変調をきたし、転落死した事件。遺族は、暴露した学生と一橋大学を相手取って、損害賠償訴訟を起こしています。
自民党は、この法案が、「性的指向による差別」を禁じる五輪憲章に沿うものとして、五輪前の今国会での法案成立を目指していました。提出見送りの理由は、保守系議員から「差別の範囲が明確でない」とか、「訴訟が乱発される」との声が上がったからだそうです。
海外では、2001年にオランダが、世界で初めて同性婚を法的に認めたのを皮切りに、現在、台湾を含む29か国が同性婚を法制化。その一方で、68カ国が、依然として同性による性行為を法律で禁じ、イランやスーダンなど6カ国は死刑を科しているそうです(2019年時点)。
日本では、2004年に性同一性障害特例法が施行され、戸籍上の性別変更が可能になりましたが、同性婚は今のところ認められていません。今年3月、札幌地裁は、「国が同性婚を認めないのは違憲」との判断を示し、現状を「不合理な差別」と結論づけています。
今国会への法案提出が見送られたのは、この流れに逆らうもので、残念です。
ところで、先日、安野直著『ロシアの「LGBT」-性的少数者の過去と現在』(群像社、ユーラシア文庫、2019)という小冊子を読みました。
ロシアでは、「同性愛宣伝禁止法」という法律が、2013年に制定されたそうです。この法律は、正確には「非伝統的性関係宣伝禁止法」で、「同性愛」という言葉は条文のどこにも使われていませんが、「非伝統的性関係」が主に同性愛を指すことは明らか。一方、同法は、「同性愛」そのものを禁止しているわけではなく、「未成年者にたいして同性愛を宣伝した場合に行政罰(刑事罰ではない)を加える」というもの。
本書は、中世から書き起こし、ソ連時代、ソ連崩壊後、プーチン時代へ、ロシアの同性愛への対応の変遷を概観しています。
とても興味深い内容だったので、以下にご紹介します。
10世紀に正教を国教としたことにともない、ロシアにキリスト教の性道徳が流入。同性愛は宗教上の罪となった。しかし、法的には同性愛への罰則はなく、修道院やロシア伝統の蒸し風呂小屋、バーニャで、男色が行われていた。他のヨーロッパ諸国は、中世後期以降、同性愛を厳罰(死刑)に処す法律を制定していたが、それに比べれば、ロシアは寛容だった。
18世紀に入り、西欧化政策をとったピョートル大帝は、まず軍隊において同性愛を禁じ、1832年のニコライ一世の治世には、一般人に対しても刑事罰が科されるようになった。
19世紀末、西欧より性科学が流入し、同性愛を「病気」とみる見方が広がった。それを受けて、1903年の新しい刑法では、同性愛に対する罰則が緩和された。1906年には、男性同性愛を主題とするクズミンの『翼』という小説が発表され、大きな反響を呼んだ。
19世紀末まで、同性愛と言えばゲイのことであり、女性の同性愛(レズビアン)は法的処罰の対象になったことはなかった(というより、「ないこと」にされてきた)。
19世紀末以降、女性解放運動が興隆し、男性に経済的に依存しない女性が現れ、それと同時に女性同性愛も可視化された。レズを主題とした小説も発表された。
1917年、ロシア革命が起こり、帝政時代の同性愛を犯罪とする刑法は廃止された。ソ連の刑法では、同性愛は、未成年者を巻き込まないかぎり、罪には問われなかった。同時代のドイツ、イギリス、米国(の多くの州)などで、同性愛が依然として処罰の対象だったことに比べると、ソ連は「先進的」だったといえる。
ところが、スターリンが権力を握ったあとの1934年、同性愛はふたたび処罰の対象となる。「社会の安定と社会主義の発展のために、家族は社会を構成する基本単位である」という家族重視論が打ち出され、中絶禁止、多産の奨励が進められるなか、生殖につながらない同性愛は排除されることになった。さらに、「同性愛は反革命的なブルジョワの道徳的退廃である」というプロパガンダも喧伝された。
スターリン死去後の「雪解け」(フルシチョフ時代)においても、同性愛を罰する刑法が見直されることはなかった。続くブレジネフ時代は、文化に対する統制が強化された時期だが、一方で、非合法の地下出版では、同性愛を扱った作品が多数生み出された。
そして、ゴルバチョフの登場によってソ連が崩壊した後の1993年、同性愛を犯罪と定めた刑法の規定が廃止された。その後、ロシアにもエイズが広がり、同性愛者が感染源とみなされるなどの逆風もあったが、ポップカルチャーなどによってLGBTに対するリベラルな雰囲気が醸成され、さらにインターネットの発展で同性愛者やトランスジェンダーの情報が増加、コミュニティが生まれ、運動が活発化した。
世界保健機関(WHO)は、1990年、国際疾病分類(ICD)を改定し、同性愛を疾病リストから外したが、ロシアは約10年後の1999年、これを受け入れ、公式に「同性愛が病気ではない」とみなされるようになった。
そして、2013年、「同性愛宣伝禁止法」(非伝統的性関係宣伝禁止法)が成立する。
以上が、ロシアが「同性愛宣伝禁止法」を制定するに至る歴史的な経緯です。
プーチン大統領は、保守派やロシア正教会のバックアップを受けていると言われます。背景には、ロシアの人口動態があげられます。ロシアの人口は自然減少の傾向にあり、プーチン政権は、「同性愛者を差別したり、人権を侵害したりする意図はない」としつつも、人口動態の観点から法律の必要性を主張しています。
この法律には、プーチンの「伝統への回帰」という意識が表れています。プーチンの家族観とは、「異性愛のカップルによる次世代の再生産と同性愛の排除」です。
西欧諸国は、時代に逆行するこの法律に反発し、いくつかの国の首脳は2014年ロシアのソチで開催された冬季オリンピックの開幕式への出席をボイコットする一方で、ロシア国民は同法を支持していました。
五十嵐徳子「ロシアの同性愛をめぐる状況とジェンダー」によれば、ロシア国民はこの法律に目立った反対の声をあげておらず、2013年の全ロシア世論調査センターのアンケートでは、ロシア国民の88%がこの法律に賛成しており、ピュー研究所の調査では、「ホモセクシュアルを社会が受け入れる必要がない」と答えた割合が、2003年は60%だったものが、2013年には74%に増えているそうです。
LGBTをめぐる状況は複雑です。
さて、今回日本でLGBT法案の提出が見送られたのは、自民党内「保守派」の反対によるといわれますが、今年3月、札幌地裁が「国が同性婚を認めないのは違憲」と判決した直後、朝日新聞が実施した電話調査では、同性婚を「認めるべきだ」が65%で、「認めるべきではない」の22%を大きく上回っています。
次期国会での成立を望みます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます