(3) 3・1運動の正体は?
明治維新以後、日本の政権を握っていたのは自由党だった。自由党は日本のサムライ階級、特に長州と薩摩出身のサムライ階級が中心になって構成していた、保守右翼的色彩が濃い政党で、この自由党は第2次世界大戦後、自由民主党、すなわち自民党として生き残り、いまも日本の与党として健在だ。ところで、日本の歴史上、この自由党政権が倒れたことがたった一度だけある。それは原敬が首班となって構成した原内閣が1918年に成立した事件で始まる。これは、大正デモクラシーと呼ばれる日本の民主化運動が極に達した時期と一致する。
初代朝鮮総督、寺内が日本自由党の首班として率いた寺内内閣は、失政続き(米騒動)で国民的な抵抗に直面、結局失脚し、憲法守護運動を繰り広げた自由主義人士であり、民権運動家だった原敬が首相になるや、日本での民主化熱風は力強く吹きまくった。社会主義者たちが長い冬の時代から息を吹き返し、社会運動が激烈になったのはもちろん、自由主義者、無政府主義者、それこそあらゆる種類の思想が、百家争鳴状態で殻を脱ぎ捨て、日本民主主義の成熟をもたらした時期が到来したのだ。わが国の6.29宣言を思い浮かべればよくわかるだろう。
日本最初の民主主義政党内閣である原内閣が成立したのが1918年9月、つまり3・1運動が起こるわずか6カ月前だ。何故、よりによって3・1運動が起こるちょうど半年前に、社会主義者に比較的寛容な態度を見せた民主政府が日本で樹立されたのだろうか。ああ、チョータイミングがいい。
われわれは、民族指導者33人の「独立宣言朗読」が3・1運動の引き金をひいた決定的な事件だと固く信じて疑わない。でも、本当にそうか?
しかし、日本の民主化熱風が力強く吹いていた1919年2月に、東京で朝鮮人留学生たちが、2月8日にまず先手を打った事実を、われわれはよく知っている。まさに2・8独立宣言なのだが、読者の中に、もしや2・8独立宣言の主役たちの名前を知っている方がいらっしゃるだろうか? ないでしょう? もちろん、うちの立派な国史(下)には、どんな人間が2・8独立宣言を企画し、実行に移したか、名前さえ記録されていない。なぜなんでしょ~~?
2・8独立宣言は日本留学生たちが中心になっており、彼らの名前を挙げようと思えば、彼らが在籍していた学校の学生名簿を探せばすぐに分かることだ。このような快挙を実行した人々の名前を、なぜわれわれは知らないままなのか?
筆者は、先に、日本の知識人社会における社会主義性向を、精魂込めて説明した。考えてみよ、2・8独立宣言を主導した学生たちの政治的性向を。左派だった可能性が高いんじゃないか? ならば、社会主義者たちが3・1運動の決定的な引き金を引いたという事実を、われわれの右派史学者たちがどうしてわれわれに教えられようか? もちろん、2・8独立宣言の比重はいやおうなく落ちたはずではないか? 読者諸賢はどう思われるか?
ともかくも、民族指導者33人がパゴダ公園に集まって独立宣言文を朗読し、万歳運動を始めた。ところでこの点について、よーく考えてみよう。まず、民族代表33人という人々の構成は、ほとんどが宗教人だった。うーむ、わが国の抗日団体は宗教団体ばかりだった? そのうえ、当時絶対的多数が信じていた仏教界からはただの一人の代表者も参与していなかった。ほんとにその方々、民族代表と言っていいのか? 大多数の仏教信者は、ならば3・1運動からそっくり抜けてたってことじゃない?
われらの国史(下)は、3・1運動の展開について、次のように記述している。
「ソウルで始まった3・1運動は、全国津々浦々に急速に拡散、波及した。ところで3・1運動はその拡散過程において、だいたい3段階の様相を帯びた。
第一段階は、民族代表たちが独立宣言書を作成、配付し、万歳デモに火をつけた段階で、このときの独立運動の方向は非暴力主義だった。
第二段階は、学生、商人、労働者層が参加し、デモが都市へ広がった段階だ。学生たちが主導的役割を果たし、商人、労働者たちが万歳デモ、スト、運動資金提供などの方法で積極的に呼応した時期だった。
第三段階は、万歳デモが主要都市から全国の農村各地へ広がった段階だ。農民たちがデモに積極的に参加することで、デモの規模が大きくなっていく一方で、デモの群衆たちは面事務所、憲兵駐在所、土地会社、親日地主たちを襲撃した。このように、非暴力主義が武力的な抵抗運動へ変貌していった時期だった」(145~146ページ)
ひょっとして柳寛順ねえさんはプロレタリア革命論を信じる社会主義者だったのではあるまいか、というとんでもない想像をしてみたことのある読者諸賢、いらっしゃるだろうか? そう、レーニンのプロレタリア革命の展開方式と3・1運動拡散の2段階と3段階は、あまりにも似ている。社会主義者たちの伝統的な革命戦術、つまり、まず社会主義知識人たちが労働者農民の中に入りこみ、彼らを思想的に教育し、最後は彼らの武装蜂起を通じてプロレタリア革命を完遂する、というプロレタリア革命の展開戦術と、3・1運動の拡散は、なぜこんなに似ているの?
じゃ、本当のところ3・1運動の主体はなに? ひょっとして社会主義の理想郷を夢見た日本領朝鮮の若い知識人たちじゃない? どうして宗教界人士たちが3・1運動の主体として推仰を受けているの? 万歳三唱して宣言書を朗読し、どうか日本の警察を探して私を引っ捕らえてください……、と言って自首した柔弱ないわゆる民族指導者たちが、はたして3・1運動の主体だったのか?
柳寛順ねえさんについて考えてみよう。自分の故郷へ帰り、無知なまま、ただ奴隷としての生に満足して生きていた農村の村婦たちを説得し、万歳を叫ばせた柳寛順烈士のことを考えよ。くそっ、彼女の思想に決定的に影響を及ぼした思想は何だったんだ? 汚い帝国主義と結託した原初的資本主義か? 否、弱小民族と労働者農民の天国を叫んだ社会主義思想か?
3・1運動が社会主義運動だったという結論を下そうというのではない。ただ、われわれの国定国史教科書は、なんら説明なしに朝鮮vs日本という単純な構図だけで説明しようとしており、これも一種のオーバーだということだ。
3 だから結論として……
筆者は先に短いコメントで、この退屈な文章の結論を前もって話しておいた。大韓民国の主流社会の親日コンプレックスをカバーするための方便として、われわれの国史教科書は、むしろいきすぎて反日本国家主義的に歪曲、捏造されている、というのが筆者の主張だ。
ところで、実のところ、その中を覗いてみれば正反対だ。面白いことに1950年代、解放以後の大韓民国の現代史は、1890年代から1945年にかけての日本近代史のコピーだ。
大韓民国の場合、自由党政権の無能な国政遂行と独裁により、4・19革命が起こった。
日本の場合、同じ名前の自由党政権の無能な国政遂行と独裁により、大正デモクラシーという一連の民主化運動が起こった。
大韓民国の場合、4・19革命によって誕生した第二共和国が極度の社会混乱に陥り、国家社会主義思想に浸った軍部が、北韓の脅威を名目にして、5・16クーデターを起こし、軍部独裁政権を樹立した。
日本の場合、大正デモクラシーによってできた民間政権が極度の社会混乱に陥り、国家社会主義思想に浸った軍部が、西欧列強の脅威を名目にして、2・26クーデターを起こし、軍部独裁政権を樹立した。
大韓民国の場合、政経癒着を通じた金権政治が支配した。
日本の場合、政経癒着を通じた金権政治が支配した。
大韓民国の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だ。
日本の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だった。
21世紀を目の前にした今、はたして大韓民国は、本当に日本から独立した国家といえるか? 恥ずかしくも朴正煕が酒に酔いながら、しばしば日本軍歌を歌い、自らの10月維新を日本の明治維新になぞらえ、日本の政治家たちにこうべを垂れて額ずきながら「先輩様」と呼んだということを暴きたくはない。傍目には反日を叫びつつ、経済、社会、文化、政治のあらゆるシステムを日本から借用してきた大韓民国主流社会の、あの卑屈で安易で、結局はわれわれみなに日本式システムの不効率性を実感させた親日根性を、筆者は論じたい。あいつら、すなわち大韓民国の主流社会を構成しているといわれる奴ら、みな昔の地主階級、新興商人階級の後裔ではないのか?
李丙先生は、朝鮮史編纂委員会で総督府の植民地史観を完成した。朴正煕大統領は、日本の陸軍士官学校で習った軍国主義、国家社会主義思想を、この国の統治理念にした。
李秉会長〔三星財閥会長〕は、小作人の血と汗にまみれた米を日本人たちに売り、企業を興し、結局は世界屈指の企業にまで引き上げた。
方(バン)氏一家〔朝鮮日報社主〕は、日本企業の広告を載せて、朝立ち(チョッソン)新聞の社勢をメチャ拡張した。
はたして、彼らに親日コンプレックスは存在しないのか?
歴史とはまことに虚しいものだ。われわれは、日本帝国主義者たちがわれわれを統治するのに使ったそのあらゆる方法論を引き継ぎ、あのチョッソンに代表される保守右翼たちの歴史観をいまもそのまま信奉している。くそっ、読者諸賢よ! あなたがたは肝っ玉もなくなったというのか?
朝鮮の植民統治に反対した、われわれと同じ運命に変わりなかった日本の民衆たち。帝国主義の論理の犠牲になり、国家社会主義政権の操り人形に転落し、遠い南方諸国で米帝国主義者たちの火炎放射器に焼かれ、亡くなっていった多くの日本の若者たち。
くそっ、彼らを不幸に追いやったのは誰だ?
悪いというのなら、既得権層があれほど崇拝してやまなかった国家至上主義、すなわちファシズムなのではないか? 彼らを、ヤミ市で品物を渡すようにこっそりと日本という単語にぶち込み、同時代の犠牲羊たち同士たがいに憎悪し蔑視するようにし向けた奴らはいったいだれだ? そいつらがわれわれ善良で愚かな大衆の教育に手を加え、憎しみと憎悪の方向を、少ないとはいえ友だちになる価値のある良心的な人々の生きている、日本という国へ向かわせたのではないのか?
歴史とは民族と民族の戦いというより、持てる者と持たざる者、搾取者と被搾取者の対立だ、というマルキシズム的歴史観を強要しようというのではない。しかし、読者諸賢に聞こう。
はたして、この国の保守右翼は、親日コンプレックスから自由たりえるのか?
筆者は、大韓民国国民の偉大さについて語りたい。3・1運動が単なる抗日運動なら、3・1運動は民族の独立とともにその実効を失ってしまう。しかし、3・1運動は反帝国主義、反国家主義、反ナショナリズム運動とその軌を一にする。3・1運動の伝統は、わが民族の偉大な遺産として残り、4・19革命につながり、なおやまぬ民衆の歴史的改革への要求は光州民主化革命と6・10革命へつながり、ついにはこの国を、あのおぞましい国家社会主義、すなわちファシズムから救い出したのだ。
日本民衆の抗争を見よ。全共闘に代表される、あの有名な東大安田講堂占拠事件と、赤軍派運動に代表される反帝国主義、反国家主義抗争は結局挫折し、村上春樹の小説の中で時代をスケッチする一素描に転落することになる。その後も、日本民衆は完全にあの陰鬱で陰険な自民党(あの自由党の政治的嫡子)の一党独裁に呻吟している。バブル崩壊の深い経済的墜落と相俟って。
わが民族の未来が日本民衆のそれよりも明るいと言えるなら、まさにこの点だ。彼らがなしえなかった真の民主化の成就、それをわれわれはやり遂げた。日本の奴らは米国の奴らにやられて初めて正気を取り戻した。だがわれわれは、少なくともわれわれ自ら、われわれの右傾化を防いだ。
ならば、ここで再びわれわれを振り返ろう。くそっ、われわれの歴史書が間違っているのに、他人の歴史書を論ずるのはやめようってことだ。日本の右翼団体の教科書が正しいとか、われわれに言うべき資格がないとか言うのではない。われわれ自らを振り返ることのほうがずっと重要で、緊急なことだということだ。日本を吊し上げるのもいいけれど、その真っ只中に埋もれているのが何なのか振り返ろうということだ。われわれ自ら、われわれの右翼化を心配しようということだ。
日本の右傾化よりもっと怖いのは、われわれ自身の右傾化、われわれ自身のファシスト化ではないのか。
(了)
日帝時代の検証~食料収奪①
日帝時代の検証~食料収奪②
日帝時代の検証~食料収奪③
日帝時代の検証~食料収奪④
日帝時代の検証~3・1運動①
明治維新以後、日本の政権を握っていたのは自由党だった。自由党は日本のサムライ階級、特に長州と薩摩出身のサムライ階級が中心になって構成していた、保守右翼的色彩が濃い政党で、この自由党は第2次世界大戦後、自由民主党、すなわち自民党として生き残り、いまも日本の与党として健在だ。ところで、日本の歴史上、この自由党政権が倒れたことがたった一度だけある。それは原敬が首班となって構成した原内閣が1918年に成立した事件で始まる。これは、大正デモクラシーと呼ばれる日本の民主化運動が極に達した時期と一致する。
初代朝鮮総督、寺内が日本自由党の首班として率いた寺内内閣は、失政続き(米騒動)で国民的な抵抗に直面、結局失脚し、憲法守護運動を繰り広げた自由主義人士であり、民権運動家だった原敬が首相になるや、日本での民主化熱風は力強く吹きまくった。社会主義者たちが長い冬の時代から息を吹き返し、社会運動が激烈になったのはもちろん、自由主義者、無政府主義者、それこそあらゆる種類の思想が、百家争鳴状態で殻を脱ぎ捨て、日本民主主義の成熟をもたらした時期が到来したのだ。わが国の6.29宣言を思い浮かべればよくわかるだろう。
日本最初の民主主義政党内閣である原内閣が成立したのが1918年9月、つまり3・1運動が起こるわずか6カ月前だ。何故、よりによって3・1運動が起こるちょうど半年前に、社会主義者に比較的寛容な態度を見せた民主政府が日本で樹立されたのだろうか。ああ、チョータイミングがいい。
われわれは、民族指導者33人の「独立宣言朗読」が3・1運動の引き金をひいた決定的な事件だと固く信じて疑わない。でも、本当にそうか?
しかし、日本の民主化熱風が力強く吹いていた1919年2月に、東京で朝鮮人留学生たちが、2月8日にまず先手を打った事実を、われわれはよく知っている。まさに2・8独立宣言なのだが、読者の中に、もしや2・8独立宣言の主役たちの名前を知っている方がいらっしゃるだろうか? ないでしょう? もちろん、うちの立派な国史(下)には、どんな人間が2・8独立宣言を企画し、実行に移したか、名前さえ記録されていない。なぜなんでしょ~~?
2・8独立宣言は日本留学生たちが中心になっており、彼らの名前を挙げようと思えば、彼らが在籍していた学校の学生名簿を探せばすぐに分かることだ。このような快挙を実行した人々の名前を、なぜわれわれは知らないままなのか?
筆者は、先に、日本の知識人社会における社会主義性向を、精魂込めて説明した。考えてみよ、2・8独立宣言を主導した学生たちの政治的性向を。左派だった可能性が高いんじゃないか? ならば、社会主義者たちが3・1運動の決定的な引き金を引いたという事実を、われわれの右派史学者たちがどうしてわれわれに教えられようか? もちろん、2・8独立宣言の比重はいやおうなく落ちたはずではないか? 読者諸賢はどう思われるか?
ともかくも、民族指導者33人がパゴダ公園に集まって独立宣言文を朗読し、万歳運動を始めた。ところでこの点について、よーく考えてみよう。まず、民族代表33人という人々の構成は、ほとんどが宗教人だった。うーむ、わが国の抗日団体は宗教団体ばかりだった? そのうえ、当時絶対的多数が信じていた仏教界からはただの一人の代表者も参与していなかった。ほんとにその方々、民族代表と言っていいのか? 大多数の仏教信者は、ならば3・1運動からそっくり抜けてたってことじゃない?
われらの国史(下)は、3・1運動の展開について、次のように記述している。
「ソウルで始まった3・1運動は、全国津々浦々に急速に拡散、波及した。ところで3・1運動はその拡散過程において、だいたい3段階の様相を帯びた。
第一段階は、民族代表たちが独立宣言書を作成、配付し、万歳デモに火をつけた段階で、このときの独立運動の方向は非暴力主義だった。
第二段階は、学生、商人、労働者層が参加し、デモが都市へ広がった段階だ。学生たちが主導的役割を果たし、商人、労働者たちが万歳デモ、スト、運動資金提供などの方法で積極的に呼応した時期だった。
第三段階は、万歳デモが主要都市から全国の農村各地へ広がった段階だ。農民たちがデモに積極的に参加することで、デモの規模が大きくなっていく一方で、デモの群衆たちは面事務所、憲兵駐在所、土地会社、親日地主たちを襲撃した。このように、非暴力主義が武力的な抵抗運動へ変貌していった時期だった」(145~146ページ)
ひょっとして柳寛順ねえさんはプロレタリア革命論を信じる社会主義者だったのではあるまいか、というとんでもない想像をしてみたことのある読者諸賢、いらっしゃるだろうか? そう、レーニンのプロレタリア革命の展開方式と3・1運動拡散の2段階と3段階は、あまりにも似ている。社会主義者たちの伝統的な革命戦術、つまり、まず社会主義知識人たちが労働者農民の中に入りこみ、彼らを思想的に教育し、最後は彼らの武装蜂起を通じてプロレタリア革命を完遂する、というプロレタリア革命の展開戦術と、3・1運動の拡散は、なぜこんなに似ているの?
じゃ、本当のところ3・1運動の主体はなに? ひょっとして社会主義の理想郷を夢見た日本領朝鮮の若い知識人たちじゃない? どうして宗教界人士たちが3・1運動の主体として推仰を受けているの? 万歳三唱して宣言書を朗読し、どうか日本の警察を探して私を引っ捕らえてください……、と言って自首した柔弱ないわゆる民族指導者たちが、はたして3・1運動の主体だったのか?
柳寛順ねえさんについて考えてみよう。自分の故郷へ帰り、無知なまま、ただ奴隷としての生に満足して生きていた農村の村婦たちを説得し、万歳を叫ばせた柳寛順烈士のことを考えよ。くそっ、彼女の思想に決定的に影響を及ぼした思想は何だったんだ? 汚い帝国主義と結託した原初的資本主義か? 否、弱小民族と労働者農民の天国を叫んだ社会主義思想か?
3・1運動が社会主義運動だったという結論を下そうというのではない。ただ、われわれの国定国史教科書は、なんら説明なしに朝鮮vs日本という単純な構図だけで説明しようとしており、これも一種のオーバーだということだ。
3 だから結論として……
筆者は先に短いコメントで、この退屈な文章の結論を前もって話しておいた。大韓民国の主流社会の親日コンプレックスをカバーするための方便として、われわれの国史教科書は、むしろいきすぎて反日本国家主義的に歪曲、捏造されている、というのが筆者の主張だ。
ところで、実のところ、その中を覗いてみれば正反対だ。面白いことに1950年代、解放以後の大韓民国の現代史は、1890年代から1945年にかけての日本近代史のコピーだ。
大韓民国の場合、自由党政権の無能な国政遂行と独裁により、4・19革命が起こった。
日本の場合、同じ名前の自由党政権の無能な国政遂行と独裁により、大正デモクラシーという一連の民主化運動が起こった。
大韓民国の場合、4・19革命によって誕生した第二共和国が極度の社会混乱に陥り、国家社会主義思想に浸った軍部が、北韓の脅威を名目にして、5・16クーデターを起こし、軍部独裁政権を樹立した。
日本の場合、大正デモクラシーによってできた民間政権が極度の社会混乱に陥り、国家社会主義思想に浸った軍部が、西欧列強の脅威を名目にして、2・26クーデターを起こし、軍部独裁政権を樹立した。
大韓民国の場合、政経癒着を通じた金権政治が支配した。
日本の場合、政経癒着を通じた金権政治が支配した。
大韓民国の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だ。
日本の6大主要輸出品目は、家電、自動車、重化学製品、半導体、造船、鉄鋼だった。
21世紀を目の前にした今、はたして大韓民国は、本当に日本から独立した国家といえるか? 恥ずかしくも朴正煕が酒に酔いながら、しばしば日本軍歌を歌い、自らの10月維新を日本の明治維新になぞらえ、日本の政治家たちにこうべを垂れて額ずきながら「先輩様」と呼んだということを暴きたくはない。傍目には反日を叫びつつ、経済、社会、文化、政治のあらゆるシステムを日本から借用してきた大韓民国主流社会の、あの卑屈で安易で、結局はわれわれみなに日本式システムの不効率性を実感させた親日根性を、筆者は論じたい。あいつら、すなわち大韓民国の主流社会を構成しているといわれる奴ら、みな昔の地主階級、新興商人階級の後裔ではないのか?
李丙先生は、朝鮮史編纂委員会で総督府の植民地史観を完成した。朴正煕大統領は、日本の陸軍士官学校で習った軍国主義、国家社会主義思想を、この国の統治理念にした。
李秉会長〔三星財閥会長〕は、小作人の血と汗にまみれた米を日本人たちに売り、企業を興し、結局は世界屈指の企業にまで引き上げた。
方(バン)氏一家〔朝鮮日報社主〕は、日本企業の広告を載せて、朝立ち(チョッソン)新聞の社勢をメチャ拡張した。
はたして、彼らに親日コンプレックスは存在しないのか?
歴史とはまことに虚しいものだ。われわれは、日本帝国主義者たちがわれわれを統治するのに使ったそのあらゆる方法論を引き継ぎ、あのチョッソンに代表される保守右翼たちの歴史観をいまもそのまま信奉している。くそっ、読者諸賢よ! あなたがたは肝っ玉もなくなったというのか?
朝鮮の植民統治に反対した、われわれと同じ運命に変わりなかった日本の民衆たち。帝国主義の論理の犠牲になり、国家社会主義政権の操り人形に転落し、遠い南方諸国で米帝国主義者たちの火炎放射器に焼かれ、亡くなっていった多くの日本の若者たち。
くそっ、彼らを不幸に追いやったのは誰だ?
悪いというのなら、既得権層があれほど崇拝してやまなかった国家至上主義、すなわちファシズムなのではないか? 彼らを、ヤミ市で品物を渡すようにこっそりと日本という単語にぶち込み、同時代の犠牲羊たち同士たがいに憎悪し蔑視するようにし向けた奴らはいったいだれだ? そいつらがわれわれ善良で愚かな大衆の教育に手を加え、憎しみと憎悪の方向を、少ないとはいえ友だちになる価値のある良心的な人々の生きている、日本という国へ向かわせたのではないのか?
歴史とは民族と民族の戦いというより、持てる者と持たざる者、搾取者と被搾取者の対立だ、というマルキシズム的歴史観を強要しようというのではない。しかし、読者諸賢に聞こう。
はたして、この国の保守右翼は、親日コンプレックスから自由たりえるのか?
筆者は、大韓民国国民の偉大さについて語りたい。3・1運動が単なる抗日運動なら、3・1運動は民族の独立とともにその実効を失ってしまう。しかし、3・1運動は反帝国主義、反国家主義、反ナショナリズム運動とその軌を一にする。3・1運動の伝統は、わが民族の偉大な遺産として残り、4・19革命につながり、なおやまぬ民衆の歴史的改革への要求は光州民主化革命と6・10革命へつながり、ついにはこの国を、あのおぞましい国家社会主義、すなわちファシズムから救い出したのだ。
日本民衆の抗争を見よ。全共闘に代表される、あの有名な東大安田講堂占拠事件と、赤軍派運動に代表される反帝国主義、反国家主義抗争は結局挫折し、村上春樹の小説の中で時代をスケッチする一素描に転落することになる。その後も、日本民衆は完全にあの陰鬱で陰険な自民党(あの自由党の政治的嫡子)の一党独裁に呻吟している。バブル崩壊の深い経済的墜落と相俟って。
わが民族の未来が日本民衆のそれよりも明るいと言えるなら、まさにこの点だ。彼らがなしえなかった真の民主化の成就、それをわれわれはやり遂げた。日本の奴らは米国の奴らにやられて初めて正気を取り戻した。だがわれわれは、少なくともわれわれ自ら、われわれの右傾化を防いだ。
ならば、ここで再びわれわれを振り返ろう。くそっ、われわれの歴史書が間違っているのに、他人の歴史書を論ずるのはやめようってことだ。日本の右翼団体の教科書が正しいとか、われわれに言うべき資格がないとか言うのではない。われわれ自らを振り返ることのほうがずっと重要で、緊急なことだということだ。日本を吊し上げるのもいいけれど、その真っ只中に埋もれているのが何なのか振り返ろうということだ。われわれ自ら、われわれの右翼化を心配しようということだ。
日本の右傾化よりもっと怖いのは、われわれ自身の右傾化、われわれ自身のファシスト化ではないのか。
(了)
日帝時代の検証~食料収奪①
日帝時代の検証~食料収奪②
日帝時代の検証~食料収奪③
日帝時代の検証~食料収奪④
日帝時代の検証~3・1運動①
朝日が進歩的新聞で…。
70年代は北朝鮮を褒め称え、韓国をこきおろしていたのに…。
全共闘なんかが勝利してたら今頃大変なことになってるのにね。
つまり韓国における民主化闘争はその根っこが社会主義にある、というのは今まで聞いたこともなかったし、日本から見ると捩れて見えるのですが、軍事政権の統治がそれだけ凄絶だったということなのでしょう。
入り口としてのこういう結論はある意味正しいかもしれん。
#問題は連中にこんな長文を読む気力があるとは思えん所だが。
物足りない部分もあったが社会主義 vs 資本主義の見方は新鮮だったし
鏡を見るように韓国への反感が(主にネットで)広まった今の日本にも
最後の箴言は必要だろう
クルマ氏の主張が正しいかどうか,資料にあたって確かめようとする人がほとんどいないというところにあると思います。
>Unknownさん
最近の韓国の「自国教科書批判」は,いきすぎた左傾化への批判が多いようで。