犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

日帝時代の検証~3・1運動①

2007-06-18 06:12:32 | 近現代史
[分析]お前ら,よくも歴史歪曲なんて言えたもんだな?

〔2〕 3・1運動、その未完の片側革命

(政治/思想史を中心に)

 日本帝国主義の侵略とそれへの反動として起こった朝鮮民衆の独立運動。これを説明するために、わが『国史(下)』は「III 民族の独立運動」という単元を別途に設けている。ところが、この単元の目次を見ると、ちょっとおもしろいことに気づく。この単元は

1.民族運動の動向
2.民族の試練
3.独立運動の展開
4.社会/経済的民族運動
5.民族文化守護運動

の5項に分かれている。ここでいちばん重要な部分、同時に「国史(下)」の執筆陣の執筆意図がチョーかっこよく、そしてモロに現れている部分が「1.民族運動の動向」という項だ。
 この項は、いわば世界史的な流れから民族の独立運動を見ようという意図で編集されている。その論理は次のとおり。

 第1次世界大戦が終わったあと、パリ講和会議で米国大統領をやってたウィルソンとかいう奴が、民族はそれぞれ自分勝手に振る舞う権利があるという民族自決主義を主唱し、植民地支配のもとに呻吟していたアジアは、いっせいに帝国主義に抵抗しはじめた。わが民族もこのような流れに乗って、いっせいに抵抗しはじめたのだ。ほれ、すげーかっこいいだろ?

 ホントかいな、これ。どう考えても、米国大統領のウィルソンとかいうやつがいかによくできた人間か知らないが、そいつのひと言でアジアの民衆が総決起したっていうのは、ひどいデマ性(?)表現ではないか、との疑いの警鐘を鳴らさずにはおれないのだ。

 ところで、この項では、おもしろい文章がまた目に入る。

「一方、1917年11月、革命によって共産主義体制を確立したソ連は、コミンテルンを結成し、反帝国主義民族運動および弱小民族の独立運動と連携を図りながら、共産主義の勢力を浸透させようとした」(国史(下)128ページ)

 へえ、そーなの? この文で、わが国の国史(下)教科書は、社会主義勢力のチョー恥ずかしいふるまいを描写している。反帝国主義民族運動と弱小民族の独立運動を利用して、社会主義勢力の拡張を図ったというのだ。くそっ、でもちょっとケチつけてから次に進もう。これが真実だといえるのか? 結局、民族の試練とそれにともなう反動的民衆運動を説明するための最初の項である「1.民族運動の動向」において、わが自慢の国定教科書編集委員たちは、あえて社会主義系列独立運動の「被動性」を強力に主張しているのだ。こりゃまたなんちゅう身勝手な歪曲だ?

 日本領朝鮮における「反帝国主義の運動と独立運動」は、概して資本主義と社会主義の思想的対立という時代的環境から真摯に見なければならないことだ。ところが、日本領朝鮮における「反帝国主義の運動と独立運動」を利用して、共産主義の勢力の拡大を図ったという「poisson the wall(井戸に毒)」式歪曲に夢中なあまり、社会主義系列の民族運動を糊塗するのは、はたして許されるのか?

(1) 当時の思想的潮流

 いったん3・1運動を前後した思想史的潮流からしっかり考察しつつ、いかにわが国史(下)教科書が歪曲されているかを、しっかり見てみよう。

 当時の思想的潮流は、大きく資本主義vs社会主義の二大山脈によって分かたれていた。産業革命以後、主流をなす思想として存在した資本主義。しかし、当時の資本主義は現在の修正資本主義とは大いに異なる原初的資本主義で、いわば打った張った式の独寡占と、富む者いよいよ富み、貧する者ますます貧するという現象の渦巻く、草創期資本主義だったのだ。それに対する反動として出てきたのが社会主義、すなわちマルキシズムだ。マルキシズムは資本主義の崩壊に対する啓示録的な呪詛を土台に、労働者農民、すなわち非搾取階級の天国を告げる、たぶんに「宗教的、夢幻的な」イデオロギーだったのだ。3・1運動は、ときあたかもこのような二大思想、すなわち社会主義と資本主義の対立の中で孕胎され、生まれることになった。

 3・1運動の16カ月前、1917年11月は、人類の歴史に画期をもたらす巨大な事件が起こった、記念碑的な日だ。あれほど堅固にみえた帝政ロシアが、プロレタリアート革命によって打倒され、結局は労働者農民の天国を唱えたマルクスの社会主義国家が、地球上に初めて誕生を告げた年だった。これが、3月革命でできた自由主義者たちの政権を倒した、ロシア11月革命だった。

 これはすなわち、資本主義の副作用によって抑圧をうけ、搾取されていた全世界の被搾取民衆たち(そして日本と朝鮮の被搾取階級)にとっては、希望の宣言のようなものだった。労働者農民たち、弱小民族たち、彼らのための世の中が到来するという、宗教的かつ夢幻的な、しかし不完全なイデオロギーに対する信仰は、まさに爆発的だった。

 それでなんだって? コミンテルンを構成し、全世界に社会主義勢力を浸透させようとしたって? 社会主義系列の反帝国主義運動は、じゃあソ連のコミンテルンによる操り人形だったのかね? あきれちゃうね。だいたい何を考えて、どんな意図でこの文章をここに挿入したんだい? 社会主義系列の力強い活動が自発的なものだったと評価してしまうと、大韓民国の保守階層、あのすばらしい地主と商人出身のブルジョア階級が困った立場におかれちゃうというのか?

 ここまで読んでくると、筆者を、親日派豚足野郎であるうえに、思想性の疑わしいアカ野郎、くらいに考える読者がいらっしゃるかもしれないので、説明してさしあげる。筆者は、すでに歴史的に死刑宣告を受けた社会主義思想には、いかなる関心ももたない人間だ。ただ、同じ民族独立という目標に向かって身を捧げた多くの社会主義系列の独立運動家たちが、イデオロギーの葛藤という悲劇的な祖国分断の現実によって忘れられていくことを惜しく思うだけだ。すでに述べたことだが、筆者が求めるのは、少しでも事実に近い歴史的真実だ。どんな思想をもち、どんな政治的立場に固執していたのであろうと、民族の自主独立のために献身した者たちを記憶しておいてやるのは、後孫たるわれわれの義務ではないか?

 もちろん国史(下)では、162ページで社会主義系列の独立運動について、いちおう言及してやってはいる。しかし、むしろ社会主義系列の独立運動の限界を強調する文を挿入し、社会主義系列の独立運動史的位置を格下げしている。

「……しかし社会主義運動は、その路線によって利害を異にする系列があり、摩擦と葛藤が深まっていき、ひいては民族主義運動とは思想的な理念と路線の違いによって対立が激化し、民族運動自体に大きな蹉跌を招いた」

 上の「路線の違い」というのは、アナキズムとボルシェビズムの間の激烈なアナ-ボル論争のことだが、独立運動系列の分裂を助長するほど激烈な論争ではなかった。その次の「民族主義運動との思想的な理念の違い」という部分は、一部の民族主義者たちの「実力養成論」に対する社会主義者たちの反発のことだ。

 実力養成論というのは、一部地主階級と資本家階級が自分たちの既得権を守るために社会主義の過激な「革命論」を排除し、まだ実力の足りない民族に力をつけ、いつかは独立を成就しようという、植民地支配の正当性をある程度擁護した模糊とした論理でもあった。それで何だって? 独立運動がうまくいかなかったのは、全部社会主義者たちの責任だって?


 故意に独立運動から社会主義者たちを徹底排除しようとする意図は、別のところでも見てとれる。国史(下)167ページには、次のような文章がある。

「労働運動は、主に日帝の植民地工業化推進にともなう過酷な労働条件のせいで起こった。労働争議は、安い賃金と劣悪な労働条件が主要な争点だったが、ストが展開されると、例外なく警察が介入し失敗に終わる場合が大部分だった。争議が起こったところは、大部分が日本人経営の工場だったので、争議は、反帝、反日闘争としての政治的性格を帯びた」

 不幸にも当時、日本領朝鮮には労組が成立するほどに大きい工場を所有していた民族資本が存在しなかった。それまでは小規模の工場が大部分だったので、当然朝鮮人所有の工場では労働争議が発生する余地がなかった。それゆえ当然労働争議を反帝、反日闘争として規定する国史(下)の論調は歪曲だ。この時期の労働運動は当然社会主義系列の「プロレタリアート革命論」の反資本主義運動の一環だ。すなわち国史教科書の記述は、いきすぎた「反日」的オーバーということだ。

(2) 日本社会主義発展と若い朝鮮知識人たち

 おもしろいことに、3・1運動が起こった1919年は、日本社会主義運動史においても記念碑的な年だ。1919年、日本では数多くの労組が結成され、合計2388件の労働争議が起こり、年間32万人以上の労働者が労働運動を引き起こした。なぜこのように朝鮮民衆の3・1運動と日本民衆の社会主義運動は、ピッタリ一致するんだろう?

 ではここで、日本の社会主義の発展史をちょっとだけ説明してから先に進もう。

 明治維新以後、日本からヨーロッパに渡った多くの日本留学生たちは、「ヨーロッパのもの」と言えば便器を磨くブラシさえ偉大だと思うほど、ヨーロッパ文明に傾倒していた。そのさなか、マルキシズムが日本社会にも紹介され、日本では1898年、早くも日本共産党の前身といえる「社会主義研究会」が結成された。社会主義研究会は、以後、「社会民主党」として本格的な政党になったが、社会主義革命を恐れる日本帝国主義者たちは、治安警察法によって彼らを弾圧し、解散させた。しかし、再び労働争議、小作争議が活発に起こった1900年代中盤の1906年、結局また日本社会党が結成され、彼らは東京市の電気料金引き上げに際して大々的な民衆運動を展開、結局は再び警察機動隊と衝突する事態を招いた。それだけでなく、翌1907年には大々的な労働者ストを展開、日本軍が出動しこれを鎮圧するという事態にまで至った。これを契機として日本政府は、社会党の解散を執行したが、このとき拘束された党員たちが出所すると、社会党員たちが集まって赤い旗を押し立てて行進するのを再び警察が攻撃、数多くの社会党員が再び逮捕されるという有名な赤旗事件につながり、現在も日本共産党の機関紙の名前は「赤い旗」すなわち「アカハタ」として残っている。

 1908年に成立した第2次桂内閣は、社会主義者に対する取締りを強化、結局1910年には大逆事件(天皇暗殺謀議事件)を捏造、社会主義者検挙に熱をあげ、日本社会主義を1919年まで深い冬眠に陥らせた。これについては、日本史教科書に出ている文章を紹介する。

「韓国併合に際し、それまでの日本政府の対朝鮮政策を批判し、朝鮮民衆に同情を寄せていた日本の社会主義者たちも、5月から8月までの大逆事件によるすさまじい検挙の嵐と社会主義者弾圧のために、併合に対する反対運動を起こすこともできなかった」

 上で説明したように、日本社会主義運動の特徴は自然発生的だったということだ。日本資本主義が、ヨーロッパ、特に英国をモデルとしたこと、そしてマルクスが資本論の著述に際し、特に英国労働者たちの悲惨な日常を主要なモデルとしたことを考えれば、日本の社会主義運動がいかに自然発生的だったかは、あらためて述べる必要もない。それだけ、日本が直輸入した英国の「原初的資本主義」の弊害は深刻だったのだ。コミンテルンだって? 日本社会党が結成されたのは、コミンテルンが成立するよりずっと前のことだ。

 では、日本領朝鮮に、社会主義はどのように紹介されたのか? 日本領朝鮮に社会主義が伝えられた主なルートは日本だった。当時、日本領朝鮮の知識人の多くは日本へ留学しており、彼らが当時の日本知識人社会に吹いていた「左派の風」に大きく鼓舞されたことは当然だ。日本の社会主義者たちは、日本の植民地経営にも反対したし、朝鮮民衆の運命は朝鮮民衆の力によって決定されるべきだと、日本に留学に来ていた朝鮮の若者たちに独立の意志を植えつけてやったのだ。当然、これにイカレタ朝鮮の若い知識人たちは、社会主義思想を母国朝鮮に移植しようという努力を傾け始める。これが朝鮮労働党、とくに南労党系列の思想的母胎になる。

 もう一度言うと、社会主義者たちの独立争取のための努力が貶められることがあってはならないということだ。

 わが国の国史(下)では、関東大震災における朝鮮人虐殺を、次のように説明する。

「1923年、日本の関東地方で発生した地震で人命と財産に大きな被害をうけ、日本国内の民心が不穏になった。このとき、日本当局は「朝鮮人が暴動を起こし日本人を殺している」という流言飛語をまき散らし、社会不安の原因を韓国人のせいにした。これによって、在日同胞6000余人が日本人に虐殺されるという大惨事が発生した」(170ページ)

 実際、朝鮮人虐殺の真相はまだ明らかになっておらず、朝鮮人虐殺事件発生の真の理由は、日本政府が、大地震で混乱した社会的雰囲気を利用しプロレタリア革命を起こそうとしていた社会主義者たちを一斉に掃討するために起こした自作自演劇だった、という説がいちばん説得力をもっている。社会主義者たちが、放火とテロ、そして組織的なサボタージュ活動を開始すると、これらをまとめて「不逞鮮人」と決めつけ、一網打尽にしようとしたのだ。その渦中で、日本帝国主義者たちに煽られた一部自警団が、社会主義者、反政府人士たちを虐殺する際、ついでに朝鮮人まで手当たり次第に殺害した、という不幸な事件だ。結局、日本社会主義者たちと日本領朝鮮の民衆の運命は、ある程度まで同一線上にあったといっても過言ではない。しかし、わが国の国史(下)には、このような社会主義者たちの話は、ただの一行も、いやただの一つの修飾語句さえ出てこない。理由は何だろう?

 ここまでくると、そろそろ、3・1運動の本当の真実が何なのか、知りたくてうずうずしてくる読者諸賢が、ひとり、ふたり、出はじめていると思われる。ならば、次は日本と日本領朝鮮を一つの巨大な水流と見、そのなかにおける3・1運動の真の位置づけを少しく試みよう。ここからが筆者なりの歴史記述だ。

(タンジ歴史考証チーム専門委員 クルマ)

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