犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

創氏改名⑦~モンゴルの場合

2008-10-29 00:15:42 | 近現代史
 ネットにこんな記事がありました。

モンゴルの希望と苦悩田中国際ニュース解説

 モンゴル人は、家系を大事にする人々だった。貴族ばかりでなく貧しい人々も、祖先は偉大な人物だったと思いたがった。こうした状況を放置すれば、たとえ貴族を処刑し、教科書から名前を消し去っても、いずれチンギスハーンは人々の頭の中によみがえり、ソ連の支配を嫌う民族主義が勃興しかねない。そう考えたソ連は1925年、モンゴルにおける苗字の使用を禁止した。苗字がなければ、自分がどの一族に属しているか分からなくなり、偉大な祖先に根ざした民族主義も生まれず、チンギスハーンの英雄性も復活しないからだった。

 だが、65年後の1990年にソ連が崩壊し、ロシアのくびきから解放されたモンゴルの人々が望んだことは、自分たちの苗字と、チンギスハーンの記憶を取り戻すことだった。「迷信」として弾圧されていた仏教はよみがえって寺院が各地に再建され、民族衣装やモンゴル文字の使用が復活した。

 1991年、モンゴル政府は国民が苗字を取り戻すことを奨励する政策を始めた。だが、冒頭で紹介した人民革命党のエンフバヤル党首の場合、父母が「反革命」で殺されていたため、自分の苗字を探し出すことができなかった。国民の6割を占める彼のような人々は、自分の好きな名前を苗字につけた。動物(ワシやフクロウ)や職業(鍛冶屋とか羊飼い)を苗字にするのが普通だったが、チンギスハーンの一族の名前「ボルジギン」を希望する人も多かったという。

 そーか,ソ連は日帝と同じようなことをしたのか。名前を奪ったんだ。

と思われた方も多いでしょう。でも,この文章はちょっとおかしい。

 もともとモンゴル人に「苗字」はなかったからです。

 梅棹忠夫『回想のモンゴル』には

「モンゴル人には、もちろんイエ制度はない。家名もなく、姓もない。ひとりひとりの個人は、その個人名以外のよびかたをもってない」

とあり,

 田中克彦『名前と人間』(岩波新書,1996)はさらに詳しく次のように書いています。

「モンゴル人には本人の名前だけしかなく,姓氏はない。このことをはじめて知る外国人は信じられないという顔をする。私はモンゴルから多くの留学生を迎えたが,かれらが学生として登録し,学生証を発行してもらうときなど,学務課の職員は当惑してしまうのである。いくら氏をたずねても,ないものは出てこないからである」

「かれらは必要なばあいにはそれぞれ,自分の名の上に父親(いないばあいは母親)の名をつけて区別している」

「オリンピックに出場した選手たちは,自分たちの名が決して呼ばれず,その都度,父親,あるいは母親の名が世界じゅうに放送されるので,その当惑は大きなものであろう」

 しかし

「外国との交流が深まるにつれて,呼び名もまた「国際規格」の圧力に押され,自主的な「創氏」がすでに始まっている」

 また,帝政ロシア時代には,ロシア式に「名前・父称・氏」と,氏以外に父称まで創った場合があり,著名な学者ツィベンが,父のジャムサランをロシア的に活用させてジャムツァラノヴィチとし,ついでに全く存在しなかった氏を,やはり父の名を使ってジャムツァラノー」と「創氏」し,「ツィベン・ジャムツァラノヴィチ・ジャムツァラノー」とした例を挙げています。

「日本が朝鮮を支配した時代に,朝鮮人にも日本人と同様の名前のパターン「氏・名」を与えようとして,新しく氏を設け,さらに名前を日本式に改めたことを「創氏改名」と呼びならわしているが,ロシアでは氏のみならず,父称まで創りだしたのである。帝政ロシア時代,名はまだブリヤート・モンゴル名であったが,ソビエト時代には名前そのものが,セルゲイだのカテリーナだののロシア名になった」

 田中宇氏の「ソ連が1925年にモンゴルの苗字の使用を禁止し,1991年にモンゴル政府が取り戻した」というのとは正反対ですね。

 事実は,モンゴルにもともとなかった苗字をロシア・ソ連が「創氏」し,ソ連崩壊後それを捨てた。しかし,国際化の潮流に合わせて,いままた「創氏」しようとしている,といったところでしょうか。

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