創氏改名は今韓国では,「韓国人の名前を奪った」ものとして,日帝時代の悪政の代表的なものとして指折られています。では,当時の人々は実際にどう感じていたのか。
呉善花『生活者の日本統治時代』(三交社2000年)という本では,当時の生き証人たちへのインタビューが出てきます。そこから創氏改名に関するものをあげると…
韓国人の証言1
「法律的には希望者にかぎるとなっていても、無言の圧力がありました。…変えないからといって迫害を受けるようなことは見たことはありませんが、警察官が各面などの地域を訪ねてはすすめていました。改名しない者は「不逞鮮人」だという決り文句があったんです。
韓国人の証言2
強制ではなくても、しないわけにはいかないような状況だったんです。…とくに官庁では、名前を変えないと「不逞鮮人」と目をつけられて、就職もさせてくれなかったんです。
韓国人の証言3
非公式な強制だったといえるでしょうね。しかし、官庁に勤める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。
事実上「強制」だったという点で一致していますが罰則・迫害については意見がわかれています。
もう一つは,在日韓国青年会のアンケート調査「アボジ聞かせてあの日のことを」(1988年,対象者1058人)
〈創氏改名への態度〉
自発的に 17.1%
強制されて 80.0
不明 2.9
〈そのときの感情〉
うれしかった 0.4%
当然のことだと思った 2.9
何とも思わなかった 23.1
やむをえないことだと思った 45.6
屈辱感をいだいた 14.6
憤りを感じた 11.3
不明 2.2
アンケート対象の在日の古い世代が,創氏改名が行われたときにどこにいたのかは不明です。日本にいたのなら,届け出は戸籍のある朝鮮でしかできなかったから,届け出なかった人が多かったはず(内地での届け出率は14.3%)。
80%が「強制されて」と答えているのは,「在日」が終戦前後のどさくさで朝鮮から渡ってきた(創氏改名のときは朝鮮にいた)人が多いからということでしょうか。
〈そのときの感情〉で,屈辱感・憤りが合わせて25.9%というのは意外に低い数字だと思います。
と ころで,梶山季之の『族譜』によれば,「族譜」は「命よりも大事」ということですが,族譜というのもよくわからない。
宮嶋博史『両班』(中公新書1995)によれば,現存する族譜の多くは18世紀,または19世紀に作られたもの。そして20世紀になって作られたものも少なくない。
そもそも族譜というのは両班など由緒ある家柄にしかないものです。そして,現代韓国人はほとんどが両班の出身ということになっていて,族譜ももっている。
これがあやしい。
両班は仕事をしません。仕事をしてしまうと税金を治めなくていいという特権を失ってしまうので,働きたくても働くわけにはいかない。そして遊んで暮らす両班の生活を支えていたのが,大量の。
は日本が影響力を行使した「甲午改革」で解放されましたが,それらのは姓もないし族譜もない。日本にも「系図屋さん」というのがあって,お金を払うと「天皇家」につながった立派な系図を創作してくれるそうですが,現存する族譜のかなりのものは,19世紀後半から20世紀にかけて「系図屋さん」ならぬ「族譜屋さん」に作ってもらったものというのが真相のようです。
それが「命より大事」と言われても…。
そもそも朝鮮の名前は,あきらかに中国式です。紹介した李光洙の文章にあるとおり,
「われわれの在来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。永郎、述郎、官昌郎、初郎、所回(巖)、伊宗、居♯夫、黒歯、このようなものがわれわれ先祖の名前だった。徐羅伐、達久火、斉次巴衣、ホルゴ、オンネ、こういったものが、昔の地名だった。そのような地名と人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。」
現在の漢字音読みの人名は,高麗時代~朝鮮時代に中国にならって作られたもの。新羅時代は,ごく少数の貴族を除き,姓はありませんでした。
そして繰り返しになりますが,創氏改名は「改姓」ではなく,族譜には何の影響もなかった。これが行われたときの朝鮮人の「憤激」は,創氏改名発表時,広報が不足したために「改姓」だと勘違いしたための,一時的な感情にすぎなかったのではないでしょうか。
呉善花『生活者の日本統治時代』(三交社2000年)という本では,当時の生き証人たちへのインタビューが出てきます。そこから創氏改名に関するものをあげると…
韓国人の証言1
「法律的には希望者にかぎるとなっていても、無言の圧力がありました。…変えないからといって迫害を受けるようなことは見たことはありませんが、警察官が各面などの地域を訪ねてはすすめていました。改名しない者は「不逞鮮人」だという決り文句があったんです。
韓国人の証言2
強制ではなくても、しないわけにはいかないような状況だったんです。…とくに官庁では、名前を変えないと「不逞鮮人」と目をつけられて、就職もさせてくれなかったんです。
韓国人の証言3
非公式な強制だったといえるでしょうね。しかし、官庁に勤める人でも、変えないからといって首になるようなことはありませんでした。
事実上「強制」だったという点で一致していますが罰則・迫害については意見がわかれています。
もう一つは,在日韓国青年会のアンケート調査「アボジ聞かせてあの日のことを」(1988年,対象者1058人)
〈創氏改名への態度〉
自発的に 17.1%
強制されて 80.0
不明 2.9
〈そのときの感情〉
うれしかった 0.4%
当然のことだと思った 2.9
何とも思わなかった 23.1
やむをえないことだと思った 45.6
屈辱感をいだいた 14.6
憤りを感じた 11.3
不明 2.2
アンケート対象の在日の古い世代が,創氏改名が行われたときにどこにいたのかは不明です。日本にいたのなら,届け出は戸籍のある朝鮮でしかできなかったから,届け出なかった人が多かったはず(内地での届け出率は14.3%)。
80%が「強制されて」と答えているのは,「在日」が終戦前後のどさくさで朝鮮から渡ってきた(創氏改名のときは朝鮮にいた)人が多いからということでしょうか。
〈そのときの感情〉で,屈辱感・憤りが合わせて25.9%というのは意外に低い数字だと思います。
と ころで,梶山季之の『族譜』によれば,「族譜」は「命よりも大事」ということですが,族譜というのもよくわからない。
宮嶋博史『両班』(中公新書1995)によれば,現存する族譜の多くは18世紀,または19世紀に作られたもの。そして20世紀になって作られたものも少なくない。
そもそも族譜というのは両班など由緒ある家柄にしかないものです。そして,現代韓国人はほとんどが両班の出身ということになっていて,族譜ももっている。
これがあやしい。
両班は仕事をしません。仕事をしてしまうと税金を治めなくていいという特権を失ってしまうので,働きたくても働くわけにはいかない。そして遊んで暮らす両班の生活を支えていたのが,大量の。
は日本が影響力を行使した「甲午改革」で解放されましたが,それらのは姓もないし族譜もない。日本にも「系図屋さん」というのがあって,お金を払うと「天皇家」につながった立派な系図を創作してくれるそうですが,現存する族譜のかなりのものは,19世紀後半から20世紀にかけて「系図屋さん」ならぬ「族譜屋さん」に作ってもらったものというのが真相のようです。
それが「命より大事」と言われても…。
そもそも朝鮮の名前は,あきらかに中国式です。紹介した李光洙の文章にあるとおり,
「われわれの在来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。永郎、述郎、官昌郎、初郎、所回(巖)、伊宗、居♯夫、黒歯、このようなものがわれわれ先祖の名前だった。徐羅伐、達久火、斉次巴衣、ホルゴ、オンネ、こういったものが、昔の地名だった。そのような地名と人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。」
現在の漢字音読みの人名は,高麗時代~朝鮮時代に中国にならって作られたもの。新羅時代は,ごく少数の貴族を除き,姓はありませんでした。
そして繰り返しになりますが,創氏改名は「改姓」ではなく,族譜には何の影響もなかった。これが行われたときの朝鮮人の「憤激」は,創氏改名発表時,広報が不足したために「改姓」だと勘違いしたための,一時的な感情にすぎなかったのではないでしょうか。
警察官については,
「併合当時はむしろ朝鮮人のほうが多かったが,その後朝鮮人の比率は減少し,昭和にはいってからは40%内外である。警視,警部など上級の警察官に占める朝鮮人の比率は昭和初期には20%前後」(若槻泰雄『韓国・朝鮮と日本人』
という記述を見つけました。
また,
http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/b5afd8ff6abc827c35f52016919dfc8c
で引用したように,警察は創氏改名に非協力的だったそうで,「韓国人の証言1」の「警察官がすすめていた」とは食い違います。