写真:『辞書になった男-ケンボー先生と山田先生』(佐々木健一、文藝春秋2014年刊)
最近よく行くカフェのマスターを通して、『辞書になった男-ケンボー先生と山田先生』(佐々木健一、文藝春秋2014年刊)という本を知り、早速ネットで注文して読んでみました。
ケンボー先生というのは『三省堂国語辞典』(三国)の主幹、見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)のこと。
山田先生というのは『新明解国語辞典』(新明解)の主幹、山田忠雄(やまだ・ただお)のこと。
2013年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組のディレクターが、そのときの取材内容に新たな証言や検証を加えて書籍化したもの。
私は番組を見ず、この本の存在も知りませんでした。
見坊豪紀については、以前、『ことばの海をゆく』(朝日選書、1976年)という本を読んだことがあり、このブログでも紹介したことがあります。
お犬様
辞書の話~国語辞典
辞書の話~見坊豪紀③
山田忠雄についても、『新明解国語辞典』の序文や『新解さんの謎』という本などを通して、ある程度知っていました。
今回『辞書になった男』を読んで、この二人の伝記的事実や、辞書作りの過程での相克、衝突について、くわしく知ることができました。
見坊は1914年生まれ、山田は1916年生まれ。ともに1936年に東京帝国大学文学部国文科に入学した同級生です(見坊は高校のときに結核で休学したことがある)。
二人は恩師、金田一京助の勧めで、三省堂の国語辞典の編纂を手伝うことに。
金田一京助は実際には原稿は書かず、見坊がほぼ一人で原稿を書き、山田が助手のようなことをしたそうです。そしてもう一人、金田一春彦(京助の息子)が各語のアクセント表示を担当しました。
前身は三省堂の『小辞林』(1928年)。文語体を口語体に改めるだけのはずでしたが、見坊が独自に収集した語彙資料に基づき、項目を大幅に増補するとともに、語釈も全面的に書き換えたそうです。
こうして出来上がったのが、『明解国語辞典』(1943年)。
1943年と言えば戦時中。紙の統制などがあり、見坊が脱稿してから刊行までに2年半かかったそうです。
そして、見坊、山田、金田一(春彦)の3人は、戦後、『明解』の改訂に取り組み、1952年に改訂版が出ます。改訂版は累計600万部を越える大ベストセラーになりました。
ところが、『明解』は、見出し語が独自の「表音式表記]になっており、教育現場から不満があがりました。それで、三省堂は小中学生用の辞書として、「現代かなづかい」で見出し語を立てた新たな小型辞書を企画。見坊と山田は短期間で制作し、1960年に刊行されました。
これが『三省堂国語辞典』。
三省堂は『明解』の本体のほうも、早く改訂版(第三版)を出したい。しかし、見坊は用例収集に夢中になり、遅々として筆が進まない。
そこで三省堂は、見坊ではなく山田に執筆を依頼します。山田はそれまでの「助手的な」働き方に不満を持っており、また辞書に対する考え方も見坊とは異なるところがあったため、これを快諾。
改訂版は、『明解国語辞典第三版』ではなく、『新明解国語辞典』という別の辞書として生まれ変わります。
「三国」と「新明解」の初版
見坊は、刊行後に『新明解』の序文を初めて読んで激怒。以後、山田とは袂を分かちます。
この経緯はとても面白いのですが、興味のある方は実際に本を読んでいただくことにして…。
見坊と山田の伝記的事実から、ちょっと疑問に思ったことを書きます。
見坊は1914年生まれ、山田は1916年生まれであることは先に書きました。一方、金田一春彦は1913年生まれです。
金田一は、1934年に東京帝国大学文学部国文科に入学し、その後大学院に進んで、1938年に軍隊に応召。朝鮮半島のヨンサン(龍山)で半年間、軍隊生活を送ります。その後、39年に東京帝大大学院に復学、1940年より東京府立第十中学校(現都立西高)の国語教師、『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当したあと、1942年から「日華学院」で、終戦まで中国人に日本語を教えたそうです。
以前、村上春樹が父について書いた『猫を捨てる』を紹介したとき、村上春樹の父親の軍隊経験について書きました。
猫を棄てる―父親について語るとき
村上春樹の父親は1917年生まれ。1936年に旧制中学を卒業して仏教系の西山専門学校に入学。「徴兵猶予」の届を出せば4年間、徴兵を受けなくてよかったところ、届を出し忘れていたため、1938年に徴兵され、1年間、中国大陸を転戦(すでに日中戦争が始まっていた)。39年に復学し、41年に卒業。ところがその年の秋に再び召集され、2か月間軍務について、太平洋戦争勃発の直前に召集解除されたということです(なぜ解除されたかは不明)。
その後、父親は44年10月に京都大学文学科に入学しました。
もう一人、1914年に生まれた教育者の例を紹介します。
この人は、旧制中学・旧制高校を卒業した後、1933年に大阪帝国大学に入学して36年に卒業(当時の大学は三年制)。旧制中学校の教師になりました。在学中は「徴兵免除」されていましたが、卒業後の徴兵検査で乙種合格。37年、日中戦争が勃発直後に召集され、38年に満州へ出征。2年10か月の兵役を終えて、1940年に除隊となり帰国。その後、土浦の海軍航空隊の教授として終戦まで勤務しました。
一方、1914年生まれの見坊とは、1916年生まれの山田は、どちらも徴兵されていないようなのです。
見坊と山田は、1939年に東京帝国大学を卒業、見坊は大学院に進み、山田は岩手県師範学校の教師になりました。このとき、金田一京助が三省堂の辞書編纂の仕事に見坊を誘いました。
ここから1年2か月間、見坊は『明解国語辞典』の原稿を一心不乱に書き続けます。そして、在学中はあまり親しくなかった山田に「手伝ってほしい」という手紙を出したのが1940年。
見坊の場合、大学院に在籍中は、「徴兵免除願い」を出していたと思われます。しかし、山田の場合、大学を卒業して就職していたわけですから、徴兵検査を受け、召集されて戦地に行ってもおかしくない。
「師範学校の教師」には、特別な免除措置があったのでしょうか。
1941年、見坊は『明解』の原稿を書き上げて三省堂に渡すと、山田がいた岩手県師範学校に奉職します。山田の後釜です。
私が見坊と山田の履歴にこだわる理由は、このときの山田の赴任先が、「陸軍予科士官学校」だったからです。
実は、私の父(1926年生まれ)が、このとき陸軍予科士官学校に在籍していたのです。
私の父は、1943年に陸士予科に入学し、1年半在学していました(その後、本科である陸軍士官学校に進学)。
戦争と父①
予科は1学年に千人ぐらいいたと言いますから、父が山田忠雄の授業を受けたかどうかわかりません。
話を見坊と山田の兵役の話に戻すと、兵役が免除されたのは、金田一京助の働きかけがあったのかもしれません。
金田一京助は、1928年から1943年まで東京帝国大学で助教授・教授を務めました。
見坊の父は、金田一京助と同郷(岩手県)で、小中学校では京助の2年後輩。父は1939年から1943年まで盛岡市長を務めた地元の名士でした。
山田忠雄の父は、著名な国語学者、山田孝雄。東北帝国大学教授、神宮皇学館大学学長、貴族院議員を歴任し1957年に文化勲章受章。
こうした生まれの良さから、いろいろなつてを持っていて、同年代の若者たちが戦争に引っ張られていた期間に、日本で辞書作りに専念できたのかも。
二人が戦争に行かず、戦災にも遭わずに生き延びたのは、日本の辞書界にとって、幸運でした。
山田忠雄についても、『新明解国語辞典』の序文や『新解さんの謎』という本などを通して、ある程度知っていました。
今回『辞書になった男』を読んで、この二人の伝記的事実や、辞書作りの過程での相克、衝突について、くわしく知ることができました。
見坊は1914年生まれ、山田は1916年生まれ。ともに1936年に東京帝国大学文学部国文科に入学した同級生です(見坊は高校のときに結核で休学したことがある)。
二人は恩師、金田一京助の勧めで、三省堂の国語辞典の編纂を手伝うことに。
金田一京助は実際には原稿は書かず、見坊がほぼ一人で原稿を書き、山田が助手のようなことをしたそうです。そしてもう一人、金田一春彦(京助の息子)が各語のアクセント表示を担当しました。
前身は三省堂の『小辞林』(1928年)。文語体を口語体に改めるだけのはずでしたが、見坊が独自に収集した語彙資料に基づき、項目を大幅に増補するとともに、語釈も全面的に書き換えたそうです。
こうして出来上がったのが、『明解国語辞典』(1943年)。
1943年と言えば戦時中。紙の統制などがあり、見坊が脱稿してから刊行までに2年半かかったそうです。
そして、見坊、山田、金田一(春彦)の3人は、戦後、『明解』の改訂に取り組み、1952年に改訂版が出ます。改訂版は累計600万部を越える大ベストセラーになりました。
ところが、『明解』は、見出し語が独自の「表音式表記]になっており、教育現場から不満があがりました。それで、三省堂は小中学生用の辞書として、「現代かなづかい」で見出し語を立てた新たな小型辞書を企画。見坊と山田は短期間で制作し、1960年に刊行されました。
これが『三省堂国語辞典』。
三省堂は『明解』の本体のほうも、早く改訂版(第三版)を出したい。しかし、見坊は用例収集に夢中になり、遅々として筆が進まない。
そこで三省堂は、見坊ではなく山田に執筆を依頼します。山田はそれまでの「助手的な」働き方に不満を持っており、また辞書に対する考え方も見坊とは異なるところがあったため、これを快諾。
改訂版は、『明解国語辞典第三版』ではなく、『新明解国語辞典』という別の辞書として生まれ変わります。
「三国」と「新明解」の初版
見坊は、刊行後に『新明解』の序文を初めて読んで激怒。以後、山田とは袂を分かちます。
この経緯はとても面白いのですが、興味のある方は実際に本を読んでいただくことにして…。
見坊と山田の伝記的事実から、ちょっと疑問に思ったことを書きます。
見坊は1914年生まれ、山田は1916年生まれであることは先に書きました。一方、金田一春彦は1913年生まれです。
金田一は、1934年に東京帝国大学文学部国文科に入学し、その後大学院に進んで、1938年に軍隊に応召。朝鮮半島のヨンサン(龍山)で半年間、軍隊生活を送ります。その後、39年に東京帝大大学院に復学、1940年より東京府立第十中学校(現都立西高)の国語教師、『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当したあと、1942年から「日華学院」で、終戦まで中国人に日本語を教えたそうです。
以前、村上春樹が父について書いた『猫を捨てる』を紹介したとき、村上春樹の父親の軍隊経験について書きました。
猫を棄てる―父親について語るとき
村上春樹の父親は1917年生まれ。1936年に旧制中学を卒業して仏教系の西山専門学校に入学。「徴兵猶予」の届を出せば4年間、徴兵を受けなくてよかったところ、届を出し忘れていたため、1938年に徴兵され、1年間、中国大陸を転戦(すでに日中戦争が始まっていた)。39年に復学し、41年に卒業。ところがその年の秋に再び召集され、2か月間軍務について、太平洋戦争勃発の直前に召集解除されたということです(なぜ解除されたかは不明)。
その後、父親は44年10月に京都大学文学科に入学しました。
もう一人、1914年に生まれた教育者の例を紹介します。
この人は、旧制中学・旧制高校を卒業した後、1933年に大阪帝国大学に入学して36年に卒業(当時の大学は三年制)。旧制中学校の教師になりました。在学中は「徴兵免除」されていましたが、卒業後の徴兵検査で乙種合格。37年、日中戦争が勃発直後に召集され、38年に満州へ出征。2年10か月の兵役を終えて、1940年に除隊となり帰国。その後、土浦の海軍航空隊の教授として終戦まで勤務しました。
一方、1914年生まれの見坊とは、1916年生まれの山田は、どちらも徴兵されていないようなのです。
見坊と山田は、1939年に東京帝国大学を卒業、見坊は大学院に進み、山田は岩手県師範学校の教師になりました。このとき、金田一京助が三省堂の辞書編纂の仕事に見坊を誘いました。
ここから1年2か月間、見坊は『明解国語辞典』の原稿を一心不乱に書き続けます。そして、在学中はあまり親しくなかった山田に「手伝ってほしい」という手紙を出したのが1940年。
見坊の場合、大学院に在籍中は、「徴兵免除願い」を出していたと思われます。しかし、山田の場合、大学を卒業して就職していたわけですから、徴兵検査を受け、召集されて戦地に行ってもおかしくない。
「師範学校の教師」には、特別な免除措置があったのでしょうか。
1941年、見坊は『明解』の原稿を書き上げて三省堂に渡すと、山田がいた岩手県師範学校に奉職します。山田の後釜です。
私が見坊と山田の履歴にこだわる理由は、このときの山田の赴任先が、「陸軍予科士官学校」だったからです。
実は、私の父(1926年生まれ)が、このとき陸軍予科士官学校に在籍していたのです。
私の父は、1943年に陸士予科に入学し、1年半在学していました(その後、本科である陸軍士官学校に進学)。
戦争と父①
予科は1学年に千人ぐらいいたと言いますから、父が山田忠雄の授業を受けたかどうかわかりません。
話を見坊と山田の兵役の話に戻すと、兵役が免除されたのは、金田一京助の働きかけがあったのかもしれません。
金田一京助は、1928年から1943年まで東京帝国大学で助教授・教授を務めました。
見坊の父は、金田一京助と同郷(岩手県)で、小中学校では京助の2年後輩。父は1939年から1943年まで盛岡市長を務めた地元の名士でした。
山田忠雄の父は、著名な国語学者、山田孝雄。東北帝国大学教授、神宮皇学館大学学長、貴族院議員を歴任し1957年に文化勲章受章。
こうした生まれの良さから、いろいろなつてを持っていて、同年代の若者たちが戦争に引っ張られていた期間に、日本で辞書作りに専念できたのかも。
二人が戦争に行かず、戦災にも遭わずに生き延びたのは、日本の辞書界にとって、幸運でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます