コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

人間同士の伝達 と それを超えて伝わるもの

2010-02-06 01:43:34 | 真宗

先日、ある方からメールをいただき、いろんなことを考えるご縁になりました。

法座での出来事を通して
○感情的に迫ってこられることにおどろいた
○お聖教をおろそかにしていないか?
○体験や実感で答えないで、お聖教についてしっかり答えて欲しい

本来ならばしっかりといただいたメールを引用して、それのお答えすべきかもしれませんが、このブログではあくまでそのメールをご縁に私が感じる・味わうところで書こうと思います。
ですので、上に書いた内容もブログねたのための大まかなあらましですから、実際のご質問と少し趣旨が違ってきていることをご了承ください。

もっとも、送信主にはすでにメールで返信していますし、他の方でもコメントで問いかけいただいたりしたらこのブログ上でもしっかり内容を引用して丁寧に答えさせてもらおうと思っています。

という前置きの上で…

まず、法座で感情的に迫ってこられる場面は私もよく目にしています。
というか、私自身そういう関わりを多くしてきました。
また、感情的に迫られて困る側のこともありました。

今はそのことを振り返って、「伝える」事が大事ならば感情的になるのは双方にとって良くない面があると思っています。
ただ、感情的になってしまうくらい、その方が持っておられる「思い」というものがあるでしょうし、そのことは大事にしたいと思っています。
また、驚く方の気持ちも大事ですから、私がそういう場面に出くわしたならば、できるだけ驚くことでとどまらないように、肝心の「伝わるもの」を丁寧に確認していく作業をしたいとは心がけています。

似たような事は先月のエントリーでも書いていますね。

やはりこの部分は今の私には大事なテーマで、法座であるからには「伝えるもの」がありますし、表に出る人間関係はこだわるべきものではないはずです。
しかし、人間同士のコミュニケーションでしか伝え合うことが出来ない。
ならば、コミュニケーションを意識していくこと、学んでいくことは、双方のためになるはずです。
だれも傷つきたいとは思っていないし、傷つけたいとは思っていないはずです。
「言いたいこと」を第一にするのもいいですが、それが上手くいかないときに「感情」に巻き込まれてしまうのは双方が傷つくことになりかねませんもんね。

ただ、いつも冷静でいろなんて言うつもりはありません。
感情の中に伝わるものも確かにあるんです。
聞く側がそれを受けられる状態ならばそれもいいのでしょうが、多くの場合は感情的に迫られると困ってしまい閉じてしまうんじゃないでしょうか。

私が始めた「聞き方・伝え方」の学習会は、まずはそういう「困る」場面とそうでない場面を体験していくことで、自分でいろんなことに「気づいていく」ことを考えています。
それほど、この「伝え方」は今の私にとって大事なテーマなんですね。


さてもう一方の「お聖教」の問題です。
最近出合う多くの方は、長年にわたってお聖教を学んできておられます。
頭が下がります。

じゃあ、私はお聖教を学んできていないのか…
比較で言うと、そういう方々ほど覚えていないですし、確かに弱いですね。
ただ、私は覚えたり理解したりという「学ぶ」ものでは無いと思っています。
根本は「南無阿弥陀仏」にあります。
それひとつがあれば、全部具足しているのですから。

ただ、その「南無阿弥陀仏」が「誰が何のために」作られたのかということを知るために、先人の言葉を頼りにします。
だって、仏様の言葉を聴く術を持っていませんから。
そうするとお釈迦様が初めて人間の言葉で伝えてくださったお言葉を残されたものは当然大事にしなければなりません。
それは最初インドの言葉で、そのままでは私はわかりません。
なので、いろんな方が伝えてくださる中で日本語にしていただき、さらにただの文字の羅列である「南無阿弥陀仏」にこめられたお心を聞かせてもらうしかありません。

ここで大事なのは、その伝わる言葉を一字一句間違えないようにしたり、一生懸命解説して理解することではなくて、「誰が何のために」と聞き「今・ここ・わたし」と「南無阿弥陀仏」の関係が仕上がることが大事です。
もちろん、その関係が出来上がった上で、より多くの「こめられた願い」を知ることが出来れば、大いなる喜びになるでしょう。
逆に、その関係なしに知識を重ねても、それは命切れるときに「役にたたない」、火葬場で焼かれて消える「脳漿の働き」でしかありません。

話を戻しますが、法座でお同行さんが「体験」や「感じ」で伝えようとすることが多いのは、「知識」では救われないから、「今湧き上がるもの」を感じて欲しいという思いからです。(私はそう思ってます)
それは「実感している」人の言葉であり、お聖教のことばと見かけは違いますが、むしろ生きて働いている仏様の力です。

お聖教が正しいとかわかるとか、この人が信用できるとかできないとか、好きだとか苦手だとか…ついついそういうことに気持ちが行ってしまいますが、その後ろに「南無阿弥陀仏」がああることを聞いてください。

人を見ずに、南無阿弥陀仏に触れたならば、勝手に「私の心」は動きます。
「わかった」とか「覚えた」とかいう頭・知識の動きでなく、また回りの人に影響されて怒ったり泣いたりする単なる感情の動きでなく、「あぁ…」と勝手に湧き上がってくるものがあります。
ふれれば動くんです。


明日から華光では仏教青年会の宿泊行事があります。
私は参加しませんが(もう仏青はとうに卒業してますし)、その前にこのブログを見る方がいるかもしれません。
ふれれば動くんです。

お聖教は理解しようとがんばるのではなく、勝手にその言葉からあふれる「願い」が働いていますから、浴びるように、その刹那刹那に打たれてください。

仏法を浴びて、打たれてください。
南無阿弥陀仏が勝手に働いています。