今月は日曜日にいろいろと行事が入っているため、祝日の11日が「日曜礼拝」でした。
この日を迎えるまでに、かりもん氏のブログでの記事が私の中で大きなテーマになっており、ちょうどご法話も座談の話題もそのことを深めさせてもらえる機会になった気がします。
そのブログの冒頭に書かれた、先日の仏教青年会のご法話
「仏法はなぜ難しいのか。それは、お経の言葉や用語が難しいというだけではない。私の願い(欲望)と、仏様の願い(本願)、つまり、私が日頃求めてるものと、仏様が私にあげようとおっしゃるものが、あまりにも違いすぎるからです」
私はその法座に参加してませんし、ほんの部分だけなのでそのご法話で先生がおっしゃりたかったことをしっかり受け止められているかどうかはわかりません。
しかし、このモニターを通して、その文章を通して、私の中に届いてくるものはあります。
仏法を「難しい」と思うこともあれば「難しくない」と思うこともあります。
前者はやはり「私に出来ることが無い」ということ。
「これをして、これを達成しなさい」と指示されるのならば、努力努力を積み重ねて、そこに近づいていくと言う道があります。
しかし、それらが一切否定される。
「役に立つものは何一つ無い」と。
すると、どうしていいのかわからない…難しいんですね。
後者は「何も変わる必要が無い、そのままの姿がお目当てなんだよ」ということ。
これも「何も出来ることがない」ということ。
このように、同じことなのに難しいと取ったり難しくないと取ったりしてしまう。
そういう部分を、悩んでいる方にお伝えするときに、どんどん言葉を費やせば費やすほど、言葉上の関わり、観念上の理解に陥ってしまう気がします。
そこをすっきりと言い切ってくださったのが、上に上げた先生のお言葉。
私が追い求めているもの…たとえば今の苦しみを何とかして欲しいとか、信心喜べる身になりたいとか、そういうものは今の私が「変わる」事を求めている。
欲の塊ですね。
しかし、仏様が願ってくださるのは、そんな変化の喜びではなく、また目先の苦の解決ではなく、苦しまなければならなかった大元である”迷いの身”の解決。
はっきり行って、そんな壮大な得体の知れない幸福なんて求めていないんですね。
口では「お浄土に生まれたい」なんていっていても、それは私が想像しえるお浄土と現実を比べて、「あぁ、はやくこの現実から逃れたい」としか願ってないんですから。
だから、そんなことに右往左往している私の望みというものに見切りをつけて、「今の私の現実をなんとおっしゃっているのか、それをどうしてくださると言っておられるのか」と、ご本願を聞かせていただく。
座談会でお話させていただいた方々も、「どうして今求めておられんですか」という問いかけをされても、「この身の変化」しか出てこない。
いや、当たり前ですよ。
私も偉そうなことが言える立場じゃない。
でも、そこばかり追いかけていては、聞こえてきているものも聞こえない。
もうひとつ、このお話をもとに私の中で味わっていたことがあります。
こちらは人間関係での話です。
AさんがBさんのことについて、意見を述べます。
AさんにはAさんの思いがあり、それをなんとかBさんに伝えたい。
しかし、Bさんは「こういう風に伝えて欲しい」という伝え方に問題を感じ、そうじゃない伝え方のAさんの思いを受け止められない。
そしてそのことをBさんが複数の方が目にすることが出来る場で表明された。
そのときのBさんが伝えたかった事があるでしょうが、どういう気持ちでBさんが伝えたのか確認されないまま、今度はそのBさんの行動を第3者があれやこれや話題にしだす。
伝えようとする側の求めているものと、聞いている側の求めているものに大きく違いがあるまま、第3者を巻き込んで話がすすんでいく。
なにも、この例に限ったことではなく、よく見かける場面です。
本人不在の井戸端会議や給湯室会議もそうでしょうし、飲み屋での話題もほとんどが人の噂話じゃないでしょうか。
と、話がそれてきました、この話題はまた別に機会にしましょう。
(人間関係のことは学習会に参加してくださるといろいろ気づけると思います
「聞き方・伝え方」の学習会 2月13日)
つまり、そういう人間関係の話題も、私には冒頭のお話につながってきたんです。
人間同士でも(人間同士だから余計に?)相手の思いを正確に受け取ることは難しいです。
ましてや、仏様の願いは、それがさらに人間を通してでしか聞けないんですから、見かけや信頼度や相性や、そういったまさに人間的なところに影響されて、また同時に自分自身のものさしに合わせようとゆがめて受け取ってしまいます。
最初から正しく聞くに越したことはないのですが、まずは
私の求めているものと、仏様が与えてくださるものが違う
ということをしっかり受け止めることから始まるんだと思います。