12月は人権月間。
それに伴って小学校で授業参観があり、道徳の時間と懇談会に参加した。
先に5年生の長男の部屋へ。
男女間の違いを通じて、認められる分け隔て、認められない分け隔てを、いくつかのパターンを題材に、子どもらに考えさせていた。
設問もなかなかに興味のあるもので、子どもらの受け止め方と、先生の、あるいは世間一般の受け止め方を対比して、男女格差の是非を問う目的だったんだろうと思う。
記憶に残っている所では、
「A君の家では、お父さんが一番最初にお風呂に入り、お母さんは必ず一番最後に入る」
「女性は16歳で結婚できるが、男性は18歳まで結婚できない」
必要な区別や、根に男尊女卑が残っている習慣など、正解の前に「どう思う?」と考えさせるものだ。
かなり後ろ髪を引かれたが、班ごとにディスカッションさせる時間が長かったので、発表を待たずに中座した。
次に3年生の次男の部屋へ。
「おとなりのくに」と言うテーマで、韓国・朝鮮の文化について学んでいた。
すでに黒板に書かれている、韓流スターやK-popアーチストの名前、キムチやトッポギなどの料理名。
子どもらの反応は、それらの名前を当たり前のように知っており、それが国境を隔てたおとなりのものだと”強く意識”する対象ではないようだ。
むしろ興味は食事の仕方などに現れる文化の違い。
こちらでは「お茶碗を持って食べなさい」と言われるのに、あちらでは「お茶輪を持つのは行儀が悪い」となるなど。
そのあと、懇談会では先生が外国人の関わる3つのケースを用意し、保護者に「アドバイスするとしたらどういう風にしますか?」という質問をして、人権に関して意識させて話し合う時間があった。
これも最終的な先生の方向付けに興味があったが、卒業式がらみの話し合い準備があったため中座。
この日の子どもらの様子で、大人が思っているほど”境界”を感じておらず、男女や国の違いによる差別意識はなくなってきているように感じた。
むしろ、自分の意に沿うか沿わないかで仲間になったり離れたり、またそういうときに言葉や身体での暴力に走り、相手を傷つけてしまうことが気になった。
翌日は人権啓発街頭活動があり、その事前勉強会としてS中学校の校長先生による講演があった。
永年の経験から、保護者への”気になる”点などを交えて話してくださった。
その中の話題で、上に書いた私の意識が揺さぶられることがあった。
子どもらに差別意識がなくなってきているということに関して、この校長先生に対して
「もう差別があることを話さないほうが自然と消えていくんじゃないですか」
というものだ。
差別の実態があることを話すほうが、”差別”の対象を知ってしまうということだ。
校長先生はこの点に関して「絶対に知らしめることが大事です」と強くおっしゃった。
「正しい知識は、力になる」
そのことで私も考えの浅さを感じた。
確かに子どもは最初から”差別対象”と言う知識は持っていない。
しかし、親や周りの人間が、当たり前のように差別的な言動をすれば、それが”普通”と思ってしまうのは明らかだ。
親の影響が一番大きいのだから。
間違っていることを、間違っていると知らないまま、それを正しいと思い込んでしまう。
普段表に現れていなくとも、潜在的に意識化されていれば、それは何かの折に”差別”として顔を出してしまう。
”差別している”と知らないまま。
だから、間違っていることを間違っていると知り、正しいことは何か知る必要がある。
ここには、カウンセリングで学んでいるものも大きく影響している。
「自分が正しいとは限らない」
と言う視点で物を考え、自分の思いを横において丁寧に話を聞く。
相手の思いたいように思い、話したいように話すことを援助する。
そう、「自分が正しい」ということを横において、本当の正しいことを謙虚に学ばせてもらうことからしか始まらない。
間違っている情報を正し、正しい情報を知ってもらう。
人権月間にあたって、親が、いや自分がまず何をするべきか、大事な指針をいただいた。