「学ぶ」ということは意外と簡単なことである。
そして、それはあまりにはかないことである。
人はよく言う「金なんかためても、墓場まで持っていけないんだから・・・」と。
ならば、学習も同じである。「知識」も「学位」も「教養」も、死んでしまえば、無価値な、空気みたいなものである。
ならば、人は、学ばなくてもよいのか?そういわれると、「ハイ、そうで~す!」とはいえないところに、「学ぶ」ことの醍醐味がある。
もし、仮に、「富」が無制限に与えられる社会ならどうだろう?あらゆる財が無料でもらえる社会。家も欲しいだけ広い家がもらえる。そんな社会。
溢れんばかりに財を手に入れると、置き場に困るし、腐ってしまうものもでてくる。広すぎる家は誰が掃除をするのか?そう考えると、パレート最適のごとく、多すぎず、少なすぎない財、広すぎず、狭すぎずの家に収斂するはずである。
にもかわらず、「学ぶ」意欲はどうだろう。ある一定の、天井というものが存在するのであろうか?いや、もし、仕事もなく、富が無制限に与えられる社会なら、やはり、私は「学ぶ」ことに命をかけるだろう。
それ以外に、何が楽しくて人生を送る?仮想の世界であるが、働くことの意味もない世界であれば、自己実現のために、やはり、私は「学ぶ」であろう。空いた時間で、今の世界より、よりよい世界を築くために、日々努力するはずだ。
ならば、なにも空想の世界でなくてもよいじゃないか?と私は思う。金も財もない。家も狭い。通勤も遠い。しかし、人生、「足るを知る」ことが肝要。
命が危うくなるほど、金や財がないわけでもない。狭い家でも、家族4人は問題なく住める。遠いとはいえ、通勤で、行き倒れになることもない。ならば、今をパレート最適の状態だと思って、日々学習に勤しめばよいではないか。
だから、私は、昨日より今日の自分が成長するように、今日より明日の自分が成長するように学習を続ける。そう、一生涯続ける学習だから、「生涯学習」だ。
奇人・変人のそしりをうけようとも、他人が「君の学習は無意味だ、評価の対象外だ」と言っていたとしても、自分のポリシーを守るために、コツコツと学習を続ける。
しかるに、ふと、我が人生を振り返ったとき、それは、1万冊にも及ぶ読書だったり、何百の資格だったり、7つの学位だったり、無数の恩師との出会い、仲間とのつながりだったり、当初は思いもよらない「膨大な財産」となっていた。そう、本当は「学び」というものは、なんら、はかないものではなかったのだ。
「学ぶ門には福来る」そんな我流のことわざを最後に掲げて、私の生涯学習の振り返りとさせていただきたい。