最近、元気なく、やる気ない・・・
疲れている状態。この相場の乱高下は、外為に従事する中年男にはきつすぎる。
よくよく考えれば、3週間前には体調不良で会社を休んでいた私が、ここのところ続く相場の激動で食事が取れなかったり、神経が研ぎ澄まされたりと尋常じゃなかったのはやむを得ない。
10月は期初ということもあり、通常業務以外にもかなり負担のかかった月だった。
そんなへとへとの状態だったのだが、昨日(金曜日)に嬉しいことがあった。
帰りの道すがら、疲れきった私は中央線の快速に乗る気力もなく、総武線で座って三鷹の駅まで帰った。終点三鷹で、普通だったら中央線に乗り換えるのだが、PASMOにチャージをするため、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、通勤経路の最短ルートから逸脱した。
その結果、中央線の乗り換えがうまくいかず、三鷹の駅の外に出ることとした。そして、本屋に行って、本を買う気力もなく、また、いつもの通勤経路に戻ろうと三鷹の駅に戻ると、なんと、本部にいたときの先輩にバッタリと遭った!
彼女は事務手続の重鎮で、事務部に転勤した私に色々とご指導賜ったお方。私が支店に下野した後も、電話で手続の照会をした際、助けてくれたりしてくださった。
懐かしさとお礼も兼ねて「先輩、一緒に食事でもしません?おごりますよ!」ってことで、三鷹の寿司屋で食事をした。
疲れてヘトヘトだったのにも関わらず、ビール中ジョッキ2杯、小グラス1杯、寿司とツブ貝の串焼き、マグロのカマ煮を食べた。通常ならムリなレベルの食事だったが、懐かしい話に花が咲いていたので大丈夫だった。
当時、事務部に転勤したばかりのときは、外為で最も年次が若かったので、どちらかというと「使い走り」であった。そう、事務部というセクションは、年次が高く、事務知識に長けた人が行くので、外為以外のラインを含めても、かなり若い人員だった。
特殊なプロジェクトチームの結成のために召集されたのだが、外為チームの配下にあったため、ペーペーの私は「何でも屋」だった・・・
彼女は、そんな私が初めて手続通達を書いたときの「保護者」的な存在だった。私1人の名前で手続通達は発牒できないということで、彼女との連名で出させていただいた。その通達は今でも手元に残しており、記念の通達である。
その後、色々な仕事に携わったのだが、彼女とのコンビでやった仕事が一番多かったし、大型案件だったと思う。
「あの頃は良かった!」
「バカみたいに働いていたけどやりがいがあった」
「今から振り返ると大きな仕事をやり遂げた」
「失敗もあったけど、楽しかった」
「みんなが助けあってプロジェクトを成し遂げた」
「フラ夫さんは皆に袋叩きだったが、打たれ強かった」 等々・・・
どうして、あんなに力を発揮できたのかわからない。しかし、彼女曰く「自由にやらせてもらってたよね!」って言葉になんとなくわかった気がした。
「責任感のある奴を自由にすれば無限の成果を生む」
本部の部長や次長、そして、直属だった役員は、全員、外為の実務については詳しくない。というより、実務を知っていても、彼女や私を越えるレベルの人は、経営サイドにはいない。それが、事務屋と経営者の役割期待の差である。
そして、彼らは「無知」を悟り、我々を自由にし、「責任」の部分だけ、引き受けてくれた。本当の意味で「大物」というのは、そういう人々のことを言うのではなかろうか?
無論、説明責任は事務屋に課せられていたが、それ以外は「自由」だった(ただし、予算の部分は除く)。
関係部を召集し、内容を説明し、同意を得る。そして、新たな手続を作り出す。法令・諸規則に関するもの以外は、原則、支店の事務を楽にするための手続だから、やっていて楽しい。
「自分の苦労は、みんなを楽にするために、やりやすい事務のためのもの」という使命感というか、感動があった。
先輩に、恐る恐る「支店に行ってから気がついたんですが、私のやったことって、結構、凄いことだと思うのですが・・・」って聞いたら「そうよ、あんたのやったことはとても凄いことなのよ!」って認めてもらった。事務の大御所からの承認。なんだか、疲れが吹っ飛んだような爽快感があった。本当に「うれしい!」っていう感じ!
今の新人は、今の手続やシステムが当然と思っているが、昔を知っている人は、かなり手間と労力が必要だった時代があったことを記憶の中に留めている。
その記憶を、遠い昔の笑い話にした、多くの非効率事務削減対策に、自分の青春を捧げたことを思い出し、先輩と2人で笑った。
本当に楽しい飲み会であったし、自分の存在価値を見直すきっかけとなった。
なんだか、本当にうれしいし、なんだか、色々できそうな気がする!