生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

勉強法(その8)

2010年10月23日 23時30分56秒 | 勉強法
勉強することは、生きることにつながるのだろうか・・・

そんなことを考えていては、前には進めない。学習することは、生きていることの証しにほかならないはずだ。

さて、勉強法なのだが、私は「何時間勉強した!」という時間換算の勉強は嫌いである。しかし、その一方で、学習しない限り、成果は生まれないという思想も持っている。

学習成果の最もシンプルな計算式は以下の通りである。

   
    学習時間×学習効率≒学習成果


いくら効率的に学習したとしても、学習時間が「ゼロ」である限り、成果は生まれない。逆に、どれだけ時間を投下したといっても、効率的な学習をしないと成果がでない。よく言う、東京から大阪に行くのに、山手線に乗っていては、永遠に到着しないのと同じであろう。いくら頑張っても成果がでない人は、何か学習方法を間違っているのだ。

で、話は学習時間に戻って。なんせ、学習時間ゼロでは成果はありえないわけなので、一度やって欲しいことがる。今週、学習したことを適宜の用紙に書きあげて、投下した時間を合計してほしい。

1日24時間で1週間だと168時間。睡眠時間を8時間取ったとして、112時間。ややこしいから仕事を8時間だとすると自由になる時間は56時間。どの時間を基準にしても良いが、一体、1週間の中でどの程度の時間を学習に関連するものに投下しているだろうか。まず、その点を明確にしてほしい。

社会人でも学校に入学すれば、1週間のうち、10時間ぐらいは学校で学習するだろう。家での学習も含めれば20時間、いや、30時間は学習する。向学心に燃える者なら更に積み上げるはずである。

十分に学習しているならそれでいい。しかし、1週間で100分程度しか学習していなのなら、人生の、わずか、1%しか学習していないこととなる。もし、それ以下なら・・・きっと、仕事に邁進されて、学習どころではないのであろう。そう信じています。

ただ、仕事に活かすためにも、時間を捻出して、何か学習に取り組んでほしい。ましてや、この勉強法という記事に興味を持たれたのなら、何かできることをスタートさせて欲しい。

学習なくして成果なし。何かを始めない限り、新しい自分は始まらない。
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サイゼリアにて・・・

2010年10月23日 22時23分49秒 | 人間学
武蔵野大学の学園祭である「麻耶祭」の後、家族で近くのサイゼリアで昼食をとった。

相変わらず、店内は混雑しており、店員は4つ、5つと注文品を抱えて店内をせわしく、動き回っていた。その配膳技術に、ちょっと、感心してしまう。

「ミラノ風ドリア」が確か、300円しなかったと思う。そう、299円だ。実際、ミラノに行ったことがないから、イタリア人がこのような食事をとっているのか不明であるが、確かに安い。

牛丼も300円前後、回転寿司なら5皿で500円程度。昔と比べて、物価は上がっているはずだが、外食は逆に安くなっているのではないか?家でちょっとした食事を作る方が高くつく。そんな時代になってしまった。

外食が安くなるのは消費者にとっては有難い限りだが、アルバイトやパートといったスタッフの低賃金、あるいは名ばかり店長の残業代カットによって、実現している低コスト体制の結果だとすれば、素直に喜べない一面もある。

現代のように美食化した日本においては、ファミレスの食事は、均一的で、それなりの味と言えるのかもしれないが、考えようによっては、これほど衛生的な食事は昔の王侯貴族ですらムリであっただろう。味も、化学調味料が発達しており、我々にとっては馴染みの味も、きっと至高の味に思えるにちがいない。それがいいのか、悪いのかは別にして。

我々が、一般的に感じている生活も、100年、200年前には、一部の上流社会の人間しか経験できなかったものなのである。自家用車を持っているとか、高層の建物に住むとか、海外旅行に行くとか・・・そうそう、本を読むとか、大学に行くとか。テレビや携帯電話なんて、存在すらしていなかった。

便利な時代だからこそ、有難味というものを忘れがちになってしまう。夜になっても明るいから、オバケやモノノケもいなくなってしまった。

それだけではない。本来なら、命を落とす病気ですら、治ってしまう時代となった。大昔は、出産は大きなリスクを伴い命賭けであった。しかし、今では、命を落とす方がレアとなり、そのような事態が発生すればニュースとなる時代となった。



このような時代となって・・・何かにつけ感動を失い、人生において喜怒哀楽が少なくなったと思うのは私だけだろうか?


最近、自然を愛でることがありましたか?


私は月を見るのが好きである。富士山を眺めるのが好きである。青い空、白い雲も美しく感じるし、夕日や朝日に空が赤くなるのも好きである。

身近な自然を失い、それとともに人間も自然の一部であり、自然と共に暮らしてゆかざるを得ないことを見失っていないだろうか。自然あっての人間なのに、逆に、自然環境を破壊してゆく。

そうして、自然から搾取した結果が、大量かつ安価な消費財の生産につながっているのではないだろうか。

「男のくせに泣くな!」というのは、戦前の教育の遺産である。古典をひもとけば、いとも簡単に日本男児は泣き至る。自然の風景であったり、上手な管弦楽の演奏であったり、感動すれば涙がでるのは当然なのである。「もののあわれ」について、感じる機会が少なくなってきたのではないだろうか。

サイゼリアで家族4人で2,056円の食事をしておきながら、こんなことを言う資格がないのかもしれないが、ふと、思ったことを書き記す。
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麻耶祭(その4)

2010年10月23日 22時22分27秒 | 武蔵野大学大学院
この後、合唱団?の方々が「となりのトトロ」を歌っていました。
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麻耶祭(その3)

2010年10月23日 22時19分57秒 | 武蔵野大学大学院
家族総出で参加!

子どもは「フランクフルト」と「チュロス」を買って食べていました。
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麻耶祭(その2)

2010年10月23日 22時18分19秒 | 武蔵野大学大学院
テーマは「共鳴」のようですね。
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麻耶祭!

2010年10月23日 22時09分49秒 | 武蔵野大学大学院
図書館に借りていた本を返却しに行きました。

そして、本日は晴天!麻耶祭が本学で実施されていました。
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生きることとは・・・

2010年10月23日 09時03分16秒 | 人間学
人間学の学習を真剣にスタートしてまもない状況だが、「生きること」とは「よりよく死ぬこと」のための準備期間ではないかと思いはじめてきた。

今までは、よりよく生きるために、生涯学習へ取り組むことを提唱してきたが、生きることが「よりよく死ぬ」ことなら、「更によりよく死ぬ」ために、生涯学習に取り組むこととなるのだろうか・・・

家にある本を含めて、一気に人間学関連の書籍を30冊程度読んだのだが、多くの本に共通している言われていることがある。それは、日本では「死」ということが忌み嫌われ、口にすることすら避けられるということである。

よく日本では「言霊」という表現がなされ、タブーを口にすると現実になると言われることがある。だから、「死」という表現が避けられるのだろうか?

自分自身を振り返ると、「安楽死」等、「死ぬこと」に対する教育を受けた記憶がない。実際、教育を受けたのかもしれないが、頭の中に、これっぽっちのカケラも残っていない。生きている以上、死は必ず訪れる。しかし、その時に、どのように立ち向かうか、どう振る舞うかについて、私には一切の知識がないのだ。いや、想像すらしたことがなかった。

実際、今までに近親者で亡くなったのは、「祖母(父方)」「祖母(母方)」「伯父」「従姉」しかいない。しかも、死に目に立ち会ったのはゼロ。また、祖母は共に、死の予兆がない、いわゆる「ポックリ死」であり、従姉は事故死である。伯父は入院していたが、ほとんど接触がなかった。

死ぬ瞬間に立ち会ったことがないことと、死ぬことは苦しいことだというのを知らないから、死ぬことが大変だとは思わなかった。いや、死を想像することすら避けてきたのかもしれない。

鎮痛剤やモルヒネを使わなければならないほどの苦痛や、食べること・飲むことすら激痛が走る状況や、体中にチューブ類が挿入・装着されるスパゲティ症候群・・・死の前の段階に、そういう過程があるなんて知らなかった。なんと、のん気で、世間知らずだったのだろうか。

「死にたい、死にたい」と言っている患者が、いざ、症状が悪化して手術の段階になると「先生、命だけは助けてください!」と懇願するケースがあるそうだ。しかし、実際、その立場になったことのない私が、その生への執着を笑うことができるのだろうか。

脳死は人の死とするのが常識となりつつあるが、脳死患者から臓器を取り出そうとするとき、死んでいるはずなのに、メスを入れると血圧が上昇することがあるそうだ。脳死者は本当に臓器を摘出される時、苦痛を感じていないのか・・・

一方で、臨死体験というのもある。死は苦痛のはずなのに、死と隣合わせの際に体験する臨死体験では、非常に心地よい状況となるそうだ。安楽というか、精神的にも満たされた状況だと生還した人々は共通に口にする。


今まで、生きること、死ぬこと、そして、人間とは何か、人間であるためにどうすべきなのか等々、人として当たり前過ぎて、考えたこともなかった。しかし、突き詰めて考えると、何も知らなかったテーマである。そう、私は無知なのである。何も分かっていないし、分かろうともしなかった。いや、できれば避けたかった。

この「人間学」というテーマを深めていくと、きっと、「哲学」になったり「宗教学」になったりするのではないかと思っている。

私も現在42歳。数えでは厄年を脱したが、この「42」=「死に」という語呂合わせからも、忌み嫌われる年齢で、人間学の必要性をやっと認識できたのは、幸運なのかもしれない。きっと、読み続ける文献や講義の内容のなかには「辛いもの」「耳を覆いたくなるもの」もあるだろう。しかし、あるがままの人間を理解するためにも、その内容を直視し、自分の考えを構築していきたい。

それが、半年かかって、ようやく到達した、私なりの「答え」であるから。
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小平市民まつり!

2010年10月23日 06時43分04秒 | 小平
先週の日曜日は小平市民まつりに行ってきました!

これで3回目かしら?行くたびに、人数が増えてきているようなきがします。
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