本来、修士論文を作成すべき誕生日休暇なのですが・・・
家内の高校の時の恩師が展覧会を開いており、「ご招待券」をいただいたので、芸術には疎いのですが、ちょっと、のぞきに行くこととなりました。
で、西武線で本川越へ!副駅名「時の鐘と蔵のまち」とのことです。
家内の高校の時の恩師が展覧会を開いており、「ご招待券」をいただいたので、芸術には疎いのですが、ちょっと、のぞきに行くこととなりました。
で、西武線で本川越へ!副駅名「時の鐘と蔵のまち」とのことです。
ちょっと前の新聞記事から。
日経新聞11月15日金曜日の朝刊33面に「人物本位へ変わる入試」という記事があった。個別に実施される各大学の2次試験を受けるためには、達成テストを受験し、5~10段階とされる評価を得なければならない。英語はTOEFLでの代替が可能。複数回の実施が検討されている。
この試験に対する「予想される主な反発」として以下の内容が挙げられている。
.1回勝負から複数会受験に
⇒管理・運営の負担が増す。
⇒高校の行事などに影響
・1点刻みの合否判定を段階別評価に
⇒正確な学力把握が困難
・各大学の2時試験で面接や論文を重視
⇒公平性の担保が難しい
⇒選抜に人員と時間がかかる
・TOEFLなどの活用
⇒大学入試には難しすぎる
まあ、入試制度が変更される場合、当然、抵抗があるものだが、現行の入試制度が、本当に唯一無二の正解と思っている人は誰もいないだろう。
偏差値至上主義が、本当に、正しい教育の姿といえるのだろうか?まず、その点が問われるべきだと思っている。「正確な学力把握が困難」とか「公平性の担保が難しい」という人もいるが、わずか、ワンチャンスの試験が、本当に、「正確な学力把握」あるいは「公平」というものなのだろうか?
「たまたま知らない問題が出た」とか「当日インフルエンザだった」とか、そういうハンデによる「失点」は、公平なものだろうか?あるいは、たまたま塗ったマークシートが、いくつかマグレで正解したことが、本当に実力を示しているのだろうか?
こういう話をするのも、私が共通一次試験を受けた際、日本史が難問・奇問ぞろいで、実力を発揮することができなかった。当然、社会の他の科目との格差が20点以上開いたため、下駄を履かせるといった措置は取られたが、本来、点数を稼ぐ科目なのに、平均点しかとれなかったのは、私の進路に大きなダメージを与えた。
これって、公平なのだろうか?複数回受験で、点数をキープできていれば、違った人生があったはずである。
でも、社会人なら、「想定されない不公平」は誰でも、日常的に蒙っていることだろう。あるいは、「思いもかけない幸運」といった、別の意味での「不公平」も降り注ぐことがあるのである。
世の中、「絶対公平」というものはありえない。人間は個性があるから、他者には「利益」に見えることでも、自分には「不利益」と映るものさえあるのだから。世の中の不公平を、社会人になる直前に知るより、大学入試の際に知っているほうがいいのかもしれない。
私自身、希望の進路に進んだからといって、幸せな生活が待っていたとは限らない。人間は、与えられた情況に応じて、微調整を繰り返し、生きていくのだから。
ということで、私個人としては、入試の改革には賛成である。振り回される受験生は大変かもしれないが、社会人になれば、毎日のように、朝令暮改の変革があるのだから、臨機応変に振舞って欲しい。なんせ、改革はすべての受験生に等しく影響するのだから、個人に対する一方的な不利益ではない。これをチャンスに変えることができてこそ、社会人になっても、建設的な生き方ができると信じている。
日経新聞11月15日金曜日の朝刊33面に「人物本位へ変わる入試」という記事があった。個別に実施される各大学の2次試験を受けるためには、達成テストを受験し、5~10段階とされる評価を得なければならない。英語はTOEFLでの代替が可能。複数回の実施が検討されている。
この試験に対する「予想される主な反発」として以下の内容が挙げられている。
.1回勝負から複数会受験に
⇒管理・運営の負担が増す。
⇒高校の行事などに影響
・1点刻みの合否判定を段階別評価に
⇒正確な学力把握が困難
・各大学の2時試験で面接や論文を重視
⇒公平性の担保が難しい
⇒選抜に人員と時間がかかる
・TOEFLなどの活用
⇒大学入試には難しすぎる
まあ、入試制度が変更される場合、当然、抵抗があるものだが、現行の入試制度が、本当に唯一無二の正解と思っている人は誰もいないだろう。
偏差値至上主義が、本当に、正しい教育の姿といえるのだろうか?まず、その点が問われるべきだと思っている。「正確な学力把握が困難」とか「公平性の担保が難しい」という人もいるが、わずか、ワンチャンスの試験が、本当に、「正確な学力把握」あるいは「公平」というものなのだろうか?
「たまたま知らない問題が出た」とか「当日インフルエンザだった」とか、そういうハンデによる「失点」は、公平なものだろうか?あるいは、たまたま塗ったマークシートが、いくつかマグレで正解したことが、本当に実力を示しているのだろうか?
こういう話をするのも、私が共通一次試験を受けた際、日本史が難問・奇問ぞろいで、実力を発揮することができなかった。当然、社会の他の科目との格差が20点以上開いたため、下駄を履かせるといった措置は取られたが、本来、点数を稼ぐ科目なのに、平均点しかとれなかったのは、私の進路に大きなダメージを与えた。
これって、公平なのだろうか?複数回受験で、点数をキープできていれば、違った人生があったはずである。
でも、社会人なら、「想定されない不公平」は誰でも、日常的に蒙っていることだろう。あるいは、「思いもかけない幸運」といった、別の意味での「不公平」も降り注ぐことがあるのである。
世の中、「絶対公平」というものはありえない。人間は個性があるから、他者には「利益」に見えることでも、自分には「不利益」と映るものさえあるのだから。世の中の不公平を、社会人になる直前に知るより、大学入試の際に知っているほうがいいのかもしれない。
私自身、希望の進路に進んだからといって、幸せな生活が待っていたとは限らない。人間は、与えられた情況に応じて、微調整を繰り返し、生きていくのだから。
ということで、私個人としては、入試の改革には賛成である。振り回される受験生は大変かもしれないが、社会人になれば、毎日のように、朝令暮改の変革があるのだから、臨機応変に振舞って欲しい。なんせ、改革はすべての受験生に等しく影響するのだから、個人に対する一方的な不利益ではない。これをチャンスに変えることができてこそ、社会人になっても、建設的な生き方ができると信じている。
0時を回り、日付は11月18日となった。
そう、私の46歳の誕生日である。ということで、本日は休暇をいただいているのだが、さて、どうしたものか?論文を書くか、どこかへ出かけるか?月曜日はお休みの施設が多いので、やはり、修士論文の完成を急ぐべきか?
金曜・土曜と飲み会だったので、静養に使うのもいいかもしれない。
とはいえ、刻一刻と、残された人生は砂時計の砂のように消耗されていく。寿命の通りに生きたとしても、人生の折り返し点は、はるか昔に過ぎ去っていいる。ゆえに、迷いなく死ぬことができるように、もう少し宗教というものを学びたいと思っている。
なんせ、人間、死ぬために生まれてきたわけであり、生きているから死ねるのである。なんだか、武蔵野大学で学んだ死生学の受け売りみたいだが、必ず人は死ぬのであるから、うろたえず、人生を全うできるよう、誕生日に考えてみたいものである。
そう、私の46歳の誕生日である。ということで、本日は休暇をいただいているのだが、さて、どうしたものか?論文を書くか、どこかへ出かけるか?月曜日はお休みの施設が多いので、やはり、修士論文の完成を急ぐべきか?
金曜・土曜と飲み会だったので、静養に使うのもいいかもしれない。
とはいえ、刻一刻と、残された人生は砂時計の砂のように消耗されていく。寿命の通りに生きたとしても、人生の折り返し点は、はるか昔に過ぎ去っていいる。ゆえに、迷いなく死ぬことができるように、もう少し宗教というものを学びたいと思っている。
なんせ、人間、死ぬために生まれてきたわけであり、生きているから死ねるのである。なんだか、武蔵野大学で学んだ死生学の受け売りみたいだが、必ず人は死ぬのであるから、うろたえず、人生を全うできるよう、誕生日に考えてみたいものである。