久々、D高(O村高校)ネタです。
O村高校2年、私は4組でした。
どのクラスもそうだっでしょうが(あっ、2年の時は男ばっかりのクラスもあったんかね?)、男女が仲良いクラスでした。
何月だったかは忘れましたが、オーストラリア(だったっけ?)から留学生が我がクラスへ仲間入りしました。
名前はポーラ・マン。
「マン」だけど、女性です。(オヤジ逆やね。失礼)
クラスへやって来た初日の事だったんじゃないかしら。
自己紹介では将来は「機械技師」に成りたいと言っていました。それで理系選択コースでした。
4組は文系選択と理系選択がごっちゃのクラスでした。
とは言え、理系選択者は数名。その数名は、物理か化学の授業はアッパークラスの2組へお邪魔して授業を受けていたのです。
担任の六田先生が、その選択授業の時は、私にポーラを連れて行けと指示をされました。
私は恥ずかしながら「プリーズ ~ ミー」と言って連れて行ったのです。
その後も、2組で受ける授業の時、ポーラは私の横に座っていました。
彼女はちゃんと授業を受けていたのか?
いいえ、しばらくは彼女はもっぱら「和英辞典」で日本語を勉強していました。
時折、辞書を差出し指さして、なんと発音するのか尋ねることがありました。
ポーラが授業を受けることで、化学の稲野先生の授業は変なことになって行きました。
先生はポーラにも授業が分かるようにと、英語を多用して授業を進められたのです。
たまに黒板に書いた英単語を、ゼスチャーを交えポーラに
「ポーラ? ○○は?(○○という単語は英語でこれで良いのか?」と確認をするのです。
そして、ポーラーは答えます。
「オー、イエス」
また時には
「ノー、○×□△」
すると先生はスペルを修正し、
「何か国語も知っとると、スペルを間違ごうてしまう。ワハハ」と自慢するのです。
先生は確かに数か国語を御存じのようでしたし(確かか分かりませんが)、ユーモアのある方でしたので、嫌みのない自慢話として私達は笑って聞いていました。
そして、次第に黒板は日本語の単語より英単語が多くなっていきました。
私達は仕方なくノートしていたのです。
多分、そのころのノートは「これは、英語の授業?」って内容だったに違いありません。
その内、黒板に書かれる文字はほとんど英語だけになってしまいました。
んなもんで、私にはまったく分からんようになってしまったのです。
またある日、山田君だったかしら?たまたま自習だった時、英語のテキストを私に渡し、
( )の中に何が入るのか、ポーラに尋ねてくれと依頼しました。
ポーラにテキストを見せ尋ねると、「分からない」というゼスチャーでした。
なるほど、私たちが現国の接続詞が分からないのと同じなのかなぁ、なんて思ったものでした。
確かポーラは部活はバスケットをしてましたね。
靴のサイズは27cmだとバスケット部員から聞きました。靴のサイズから分かるように大柄でした。
運動会の飴食い競争を数人の女の子と「スタート。ラン! ハバ、キャンディー」と説明したことを覚えています。
また、ポーラの前で初めて授業をされたガスケ先生が赤ら顔で滑舌が悪かったのを覚えています。さすがにネイティブの前で緊張されたのでしょう。
3年の時は1組でしたね。
残念ながら彼女に関する記憶はこれくらいしかありません。
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