明治初期の錦絵『青山仮皇居御能ノ図』です。
37x73㎝
揚洲周延(1838-1912)筆、明治11年(1878)7月20日届
この絵は、明治11年7月5日、英照皇太后(明治天皇の義母)の居所、青山御所の能舞台ひらきの様子を描いたものです。
舞台では、初世梅若実(シテ、正尊)によって能『正尊』(前場)が演じられています。
舞台に最も近い中央正面に、軍服姿の明治天皇、その左に宮中の女官たち、左上(脇正面)には、政府高官たちが描かれています。
この能舞台は、赤坂離宮と命名された英照皇太后の御所の中に、明治11年に建設されたものです。
明治5年、英照皇太后(孝明天皇の妃、明治天皇の義母)は、京都から紀州藩徳川家の屋敷跡地に移り住みました。それが赤坂離宮です。ところが明治6年に皇居が焼失したため、明治天皇もここへ移り、青山仮御所となったのです。
明治天皇は、大変な能愛好者であった英照皇太后に対する御孝養として、能舞台をこの場所に設えたといわれています。その裏には、岩倉具視たちが中心となり、衰退の一途をたどっていた能楽を興隆しようとの企図があったようです。
明治11年7月5日の舞台ひらきは、梅若実(初世)が全体をとりしきり、観世鐵之丞、宝生九郎、金剛唯一らが参加した大規模なものでした。演能は午後10時まで続き、その後、晩さん会がもたれました。
この催しの2年前(明治9年)には、岩倉具視邸において天覧能が3日間もたれ、英照皇太后・明治天皇・皇后(昭憲皇太后)そして華族たちが、梅若実たちの能を楽んでいました。
このように、岩倉具視の天皇を利用した能楽興隆策は功を制し、世間から忘れ去ろうとしていた能は、息を吹き返したのです。
一方、能演者側にも、必死で能を守り、再び興隆させようという動きが興りました。
明治維新により、幕府、大名に召し抱えられていた能楽者たちは、路頭に迷うことになりました。観世太夫は、徳川慶喜に従い駿府へ下り、公演や収入が見込めない状況の中で、廃業、転業する能関係者も多くいました。このように、消滅しかかっていた東京の能楽界で、ほとんど一人で奮闘したのが梅若実(初世、52代梅若六郎)です。彼は、卓越した技量に加え、能楽界を背負う気概、そして、時代の先を読む能力を備えた人物でした。ほどなく、宝生九郎も加わり、瀕死の状態にあった明治の能楽界は息を吹き返しました。そして、能楽愛好者の裾野はどんどん広がり、能はかってないほどの勢いで興隆したのです。
梅若実、宝生九郎、桜間伴馬は、明治の3名人と呼ばれています。以来、梅若家の当主、梅若六郎は、最終的に梅若実を名乗ることになりました。当代、56代梅若六郎は、2018年に、四世梅若実を襲名しました。
能『正尊(しょうぞん)』
木版画『正尊』(前場)(明治時代) 12 x 17 cm
起請文を読み上げる場面。
『青山仮皇居御能図』 『正尊』(前場)
起請文読み上げの後、酒宴で静が舞う場面。
『正尊』
源頼朝と義経は不仲となります。その後頼朝は、義経暗殺の命を出し、京の義経のもとへ土佐ノ坊正尊を送り込みます。正尊は、弁慶や義経に怪しまれますが、偽の起請文を読み上げ、急場をしぎます。偽と知りながらも、起請文の名文にうたれた義経は、酒宴を催し、正尊をもてなします(前場)。正尊らは夜討をかけますが、義経たちに事前に察知され、激しい戦いの末、正尊は捕らえられてしまいます(後場)。
前場の起請文の読み上げが、この能の最大の山場であり、重習いとなっています。『正尊』の起請文は、『安宅』の勧進帳、『木曽』の願書とともに、能の三大読み物と呼ばれています。節のある通常の謡いとは異なり、非常に難しいものです。読み物では、演者の力量がはっきりとうかがえ、能鑑賞の醍醐味が味わえます。