今回からしばらく、書を紹介します。
以前のブログで、家の襖に書かれた不明の書を紹介しました。
この襖を開けると・・・・
こうなります(故玩館をオープンして間もないの写真。現在は物であふれています(^^;)
昔から、座敷と呼ばれてきた部屋で、私の家では比較的新しく(戦時中?)設え直してありました。しかし、故玩館改修では、天井と柱、床の間以外は、すべて新たな部材に代わりました。床板や違い棚、天袋なども一旦取り外し、壁を耐震化した後、付け直してあります(設計士の指示、すべては福沢諭吉さん次第(^^;)。
さて、部屋の主はこの扁額です。
実は、この写真の情景は、私の一番最初の記憶にあるものなのです。つまり、自分でたどれる私の人生の軌跡は、ここから始まります。
おそらく幼稚園に入る何年か前でしょう、気がつけば、来る日も来る日も、布団に寝かされていました。そして、数日に一度、医者が往診に来て、ものすごく痛い注射(たぶんペニシリン)を尻にうたれました。なぜか動けません。ずーっと同じ所で寝ていました。
ですから、目に入ってくるのは、上の写真の情景だけだったのです。
いったいこれは何だろう?
大人になってもずーっと疑問のまま。
ところがその後、ガラクタに手を染めるようになってから、書画にも関心を持つようになり、積年の謎が解けました(^.^)
永坂石埭 扁額『煙霞澹泊』
永坂石埭 (ながさかせきたい);弘化2(1845)年ー大正13(1924)年。名は周。名古屋出身。明治、大正時代の医者、漢詩人。書画、篆刻などにすぐれ、石埭流とよばれる書をよくした。
「煙霞」(えんか):ぼうっとして、霞んだ風景。
「澹泊」(たんぱく):あっさりして無欲なこと。
「煙霞澹泊」は、ぼうっとして霞んだ風景の中にいると、無欲でさっぱりとした気持ちになれる、というような意味でしょうか。
もの心ついた頃から、「〇〇〇〇書 石〇たく周」とは一体何だろうと思っていました。それが、「戊午春日書 石埭老人周」とわかってよかったです。「戊午春日書」とあるので、大正7年、石埭が東京での医業を止め、名古屋へ帰ってきてから、晩年に近い作であることがわかります。なお、尾張、美濃地方の旧家には、永坂石埭の書と南画家、高橋杏村(原三渓の母方祖父)の絵が所蔵されている事が多いです。高橋杏村については、いずれまたブログで。
ガラクタ蒐集のおかげで、幼い男児の疑問が解けました(^.^)