遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

絵美濃?中皿

2020年07月07日 | 古陶磁ー大皿・大鉢・壷

先回のブログで、初期絵瀬戸と思われる大皿を紹介しました。

そして、このような品が、ひょっとすると、消えた美濃桃山陶と江戸後期に量産された絵瀬戸系等の陶器とをつなぐ物ではないか、との仮説を立てました。

今回の品は、この仮説をさらに補強する物ではないかと考え、アップしました。

径 22.1㎝、高 4.9㎝、高台径 9.8㎝。 江戸初期~中期(?)

 

 

全体に薄作りで、高台は高く、格式のある器形です。

高台内にも、釉薬が掛けられています。

 

うわぐすりは灰釉で、御深井焼のような雰囲気ですが、

器体には小穴が多くあり、御深井焼とは異なります。

 

中央部は、輪状に釉剥ぎされ、重ね焼きされた跡が輪線として残っています。

釉剥ぎ部分には、鉄釉が塗られているようです。

 

今回の品をもう一度よく見てみます。

外側に、大きなスペード状の模様が3つ、描かれています。これは葵、もしくは河骨の葉と思われ、織部焼きによく見られる図柄です。

 

よく似た皿が本に載っていました。

高台が薄く高い器形で、やはり中央が丸く釉剥ぎされています。その外側にスペード模様が描かれ、私の皿と非常によく似ています。中央には、型摺りで、葵(河骨)が咲いている様子が表されています。著者は、この皿が、江戸初期の美濃と後期の瀬戸をむすぶものではないかと述べています。

 

手描きと型摺を併用した同形の皿については、この道の先達、料治熊太が早い段階で注目しています(『明治印判の染付』工芸出版、昭和49年)。

やはり輪状に釉剥ぎがなされて、重ね焼きされています。釉剥ぎの外側に手書きで、内側には型摺で、菊が表されています。料治熊太は、この皿を、江戸初期、美濃清安寺窯の産であるとし、そこに、江戸後期の瀬戸民衆雑器のルーツを求めています。

 

再度、今回の皿を見てみます。

見込み中央には、笹紋が鉄釉で手描きされています。

 

この笹模様は、桃山~江戸初期の志野、絵志野小皿によく見られます。蘭竹図と言われることもあります。

志野陶片(発掘) 最大径 12.0㎝

 

そういう目(欲目(^^;)で高台をみれば、美濃の土と思えなくもありません(^.^)

私は、これまで、他に3枚、店舗でも類似品を見ました。いずれも、見込み中央部には、型刷りの模様が置かれていました。なぜか、手描き模様は少ないのです。

今回の皿は、美濃織部に特有のスペード形葉模様と志野に多く描かれた笹模様、両方を一枚の皿に盛っています。そこで、この皿を、絵瀬戸ならぬ、『絵美濃』と呼ぶことにしました(^.^)

『絵美濃』は、桃山美濃陶が廃れ行く時、その精神を後世に伝えようとしているかのようです。

Dr.Kさんや酒田の人さんも、高い高台と釉剥ぎの古伊万里色絵皿をブログで紹介されていたと思います(釉剥ぎ部は、色絵が施されていますが)。

このような皿は、なにか特別な意味をもっているのかも知れません。


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8 コメント

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Unknown (tkgmzt2902)
2020-07-07 10:19:23
前回に続いて、素人にも分かりやすい説明です。見方が少しずつわかると、美術館に行っても鑑賞の仕方が違ってきます。

裏側が落ち着いた釉薬ですね。「御深井焼き」はこんな趣のある焼きなのですか?
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遅生さんへ (Dr.K)
2020-07-07 10:32:43
研究熱心ですね(^-^;
図録に載っているものと非常に似ていますね(^-^;
論旨展開にも納得です(^-^;

伊万里でも、見込部分を蛇の目釉剥ぎし、そこにも色絵を施しますが、それは、釉剥ぎした疵部分を目立たなくし(釉剥ぎした部分は疵は疵ですものね)、付加価値を付けるために行ったものと思われます。
それに反し、江戸後期の廉価で大量生産を狙った伊万里(正確には、有田周辺で作られたものではなく、波佐見焼)では、くらわんか茶碗で有名な「くらわんか手」のように、蛇の目釉剥ぎのままで出荷されていますものね。

ただ、この中皿の釉剥ぎ部分には、ちゃんと鉄釉が塗られて処理されているようですから、これはこれで、当時としては、立派な完成品だったのだろうと思います。
でも、考えてみますと、磁器のほうが丈夫で衛生的ですし、更に色絵が加わりますと見た目も美しいですから、このような皿は、磁器の伊万里に押されてしまって廃れてしまったのかもしれませんね。
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tkgmzt2902さんへ (遅生)
2020-07-07 11:19:17
この皿にも、出番が回ってきてよかったです(^.^)

こういうひと捻りある品に引かれるのは、コレクターの習性です(^^;

「御深井焼き」は狭義には名護屋城のお庭焼きですが、そんな物がそうそうあるわけはなく、江戸後期に焼かれた類似の施釉陶器を指します。
薄造りの陶胎に灰釉をかけて焼き上げた瀟洒な焼き物です。薄緑がかった透明な釉薬がきれいです。懐石の器にも良いです。
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Dr.Kさんへ (遅生)
2020-07-07 11:37:04
なるほど、くらわんかの例などみると、釉剥ぎは必ずしも古い形式の重ね焼きではないのですね。

初期青磁のように高台部が釉剥ぎなら目立たないですが、見込みに大きく竹輪釉剥ぎとなると、その意図がわからなくなります。波佐見は効率優先に徹していてわかりやすいですが(^^;
私としては高い高台が気になります。これは供え物の高坏のように、ワンクラス上の器を意識しているような気がしてならないのです。

美濃陶の衰退は、やはり、伊万里のような磁器にたちうちできなかったからでしょう。

その点、江戸後期に瀬戸で大量に焼かれた絵瀬戸類は、日本陶磁史上でも特別なものかも知れませんね。
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高い高台 (Dr.K)
2020-07-07 12:16:03
言われてみれば、伊万里でも、初期の頃は高台の高いものが多いかもしれませんね。
やはり、磁器は、当時、高級品で、一般庶民には使えなかったわけですものね。
身分の高い人用の食器だったでしょうから、高坏と同じ様に、食物を地面からなるべく遠ざける必要から、高台を高く作ったのでしょうか、、、?
その後は、だんだんと、高台も低くなってきたように思います。
ただ、鍋島だけは、将軍や公家への献上品だったため、最後まで、高台を高いままにしたのかな~などと思っています。
以上、私の独断と偏見ですが、、、(-_-;)
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Dr.Kさんへー高い高台 (遅生)
2020-07-07 14:46:04
そうですよね、高台の意味はなかなかはっきりしませんが、やはり格を上げたのだと思います。
高台が本格的に作られるようになったのは須恵器からではないでしょうか。朝鮮半島の影響に加えて、神だけでなく、上流階級がうまれましたから、供物用容器の需要が増したのでしょう。江戸時代でも、神仏関係や何か特別な催しには、少し上等の器を使ったのではないかと想像しています。、
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遅生さんへ (酒田の人)
2020-07-08 07:38:57
岐阜県で大雨のようですが大丈夫でしょうか?

「瀬戸絵皿の魔力」、確認しました
確かに類品であることは確かですよね。とはいえ、作例としてはさほど多くないのでしょうから
高台の感じから見ても、特別な品として生まれたであろうことが想像されますね。
絵付けも明らかに志野の影響下にありますし、ワタシのようなこのジャンルの素人でも普通の品でないことが伝わってきます。
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酒田の人さんへ (遅生)
2020-07-08 08:17:09
豪雨は思ったより早く止みました。このところずっと雨ですから、例のごとく故玩館は水の上にポツンと建っています。まー、江戸時代からこういう光景だったのでしょう。慣れています(^^;

こういう皿の用途は何だったのでしょうね。
李朝の白磁台皿は、食べ物をいっぱい盛り、先祖に供えるためだったそうです。日本でも中世陶は、神仏関係の用途が主であったので、江戸になってもそういった行事が何かあったのではないでしょうか。
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