「五島へ五島へと皆ゆきたがる 五島はやさしや土地までも 五島は極楽 行ってみりゃ地獄…」
五島キリシタン唄の哀しい一節です。
1797年、大村領の外海から、故郷を棄て信仰の新天地を求めて海を渡りはじめ、
最終的には3000人ものキリシタンが五島の島の津々浦々に散っていきました。
彼らを待っていたのは僻地の荒れ野と赤貧の日々、そして1868(明治元)年におきた「五島崩れ」と呼ばれる再度の迫害。
それでも地を這うように土地を耕し、辛抱づよく信仰という一粒の種を播きつづけました。
そして1873(明治6)年、禁教が解かれ、やがてその種は島々の津々浦々に五十もの美しい教会となって珠玉の実を結んだのです。
青くキラキラと眩しい海が、かぎりなく優しく見えてしまうのは、教会にある聖母マリアのプルシアンブルーの色のせい??。
「五島列島教会めぐり」より
丸尾教会
1899(明治32)年頃まで『家聖堂』と呼ばれる信徒集会所があり、礼拝堂を兼ねていた。
約20戸の信徒の司牧にあたっていたが、青砂ヶ浦教会主任大崎八重師の時、丸尾の丘の上に白亜の教会が建立され、
正式な巡回教会として歩み始めた。
1972(昭和47)年改築、1975(昭和50)年に青砂ヶ浦小教区から丸尾小教区へ独立した。
信徒には外海地方から移住したキリシタンの子孫で漁業者が多い。
「五島列島教会めぐり」より
桐教会
寛政年間、大村藩外海地区から桐と古里への移住が伝えられる。
五島では、桐古里郷のガスパル与作が治療のために長崎に行き、偶然、大浦天主堂に入ってプチジャン神父を訪ね
五島キリシタンのカトリックへの復活を導いた。
このガスパル与作とその父パウロ善七、ミカエル清川沢次郎を顕彰する「信仰の先駆者顕彰碑」が教会堂入口横に建立されている。
教会堂のある高台からは、美しい瀬戸を望むことができる
「五島列島教会めぐり」より
青方教会
1960年代から1970年代にかけて近隣の信徒達が集団移転により、
上五島の中心である青方地区に転居移住を始めたため信徒数が急増、
1975(昭和50)年に聖堂が建立された。
2000(平成12)年に現在の教会堂に建て替えられ、上五島地区カトリックセンターとしても機能している。
「五島列島教会めぐり」より
長崎らしい風景がいっぱいですね。
>五島は極楽 行ってみりゃ地獄
歴史はあこがれと現実を物語っているようです。
いつか、行ってみたい~。
行くときは極楽気分でね。(^^)/
行くなら、やはり極楽気分で行きたい!
同感です。
長崎は異国文化、どこの教会を見ていても
飽きない時間を過ごす事ができました。
海の幸も、美味しかったです。