ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

第1部:日本国憲法における、財政に関する基本的原則  第1回:財政および財政法

2019年11月14日 00時00分00秒 | 財政法講義ノート〔第6版〕

 財政は、国家、地方公共団体というような統治団体の根幹をなすという意味において、極めて重要な分野である。それにもかかわらず、何故か日本の憲法学において十分に取り扱われていない。これは、おそらく、憲法学者の多くが人権論の開拓ないし発展に尽力を注ぎ、国家機構についても人権論との関連の度合いに応じて研究を進めてきたこと、租税などを除けば財政の領域が人権論に直接的な影響を及ぼすことが少ないこと、財政が高度に技術的な要素を多く含むこと、などに原因を求められるであろう。また、日本の歴史的経緯によるところもあるものと思われる。

 新井隆一『新型消費税 改修所得税』(2011年、成文堂)ⅰ頁は、日本の憲法学が基本的人権、平和主義(戦争放棄)、民主主義を研究対象の中心に据え、財政を対象とする研究は少数の例外にすぎなかった、という趣旨を述べる。新井隆一博士は、あくまでも御自身が大学に入学した頃のことと記すが、現在もそれほど事情が大きく変わった訳でもない。憲法学の教科書には財政に関する章が存在しないものもある(ここで例示をしないが)。このように記す私も、石山文彦編『ウォーミングアップ法学』(2010年、ナカニシヤ出版)の「16.統治機構」の執筆を担当した際に、財政に関する独立の項目を置くことができなかった。今も、そのことが残念でならない。 

 しかし、歴史的にみても、近代立憲主義は財政問題を契機として誕生し、発展したのである。このことは、日本国憲法第30条および第84条からも明らかである。民主主義の観点からも、また自由主義の観点からも、財政が健全でない国家、近代的な財政の原則を守らない、あるいは守れない国家は、例えば人権保障についても非常に大きな問題を抱えることになる。「国敗れて山河あり」とは言うが、国家の財政が機能せず、それ故に破綻したのでは、人間が社会生活を営むことも困難とならざるをえない。その意味において、財政は非常に重要である。

 

 1.財政の定義

 憲法は、財政の定義を示す規定を置いていない。もとより、憲法第83条ないし第91条は、財政制度の基本原則を定めるものであり、これらの規定から、憲法が予定する財政制度を知ることは可能であり、全体像を浮かび上がらせることも可能である。それだけでなく、現実の制度から離れて一般的かつ抽象的に財政を定義することに、果たしてどれだけの実益が存在するのか、という疑問もある。

 しかし、いかなる形態であれ、財政機能を有しない国家は存在しえないし、それと全く無縁な国民も存在しえない。あらゆる国家機能が財政に結びつけられていることからすれば、財政に対する統制などが不可欠である。そのためには、財政とはいかなるものであるのかを、或る程度は明確にしておく必要がある。そこで、この講義でも財政に関する(法律学上の)定義を示しておくこととする(但し、私自身による確定的な定義ではない)。

 財政の定義には様々なものがある。ここで多くを示す必要はないので、いくつかの例をあげておく。

 「国又は地方公共団体がその存立に必要な財力を取得し、かつ、これを管理する作用」の「総称」〈田中二郎『新版行政法下巻』〔全訂第二版〕(1983年、弘文堂)205頁〉

 「国家がその任務を行なうために必要な財力を取得し、管理し、使用する作用」〈橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(1988年、有斐閣)539頁〉

 「国家の活動資金を調達し、管理し、使用する作用」〈小林孝輔・芹沢斉編『基本法コンメンタール[第五版]憲法』(2006年、日本評論社)341頁[三木義一担当]〉

 「国家は国民に対する指導者として、国民経済の助長発展に力を注ぎ、時にはこれに統制を加える一面において、国民と共に経済生活を営み、自己自身の収入を獲得し支出の規制を行い両者の調整をなし自己の経済をたえず良好の状態に置かなければならない。この後の目的を達するがためにする各種の作用を国家財政といい、地方公共団体における同種の作用を地方財政という」〈杉村章三郎『財政法』〔新版〕(1982年、有斐閣)1頁〉

  「財政とは、国家がその任務を達成するために必要な財貨を取得し、管理し、及び使用する作用であると言うことができる。換言すれば、財政とは、国家の種々の需要に充てるために財源を調達し、管理し、使用する一連の作用、つまり、国家の行う経済活動である」〈小村武『予算と財政法』〔五訂版〕(2016年、新日本法規)3頁。この文の「国家」には地方公共団体も含まれる(同書3頁)〉

 いずれも、歳入(収入)、財産管理、歳出(支出)を捉えたものである。もっとも、財政学においては、端的に「公共部門の経済活動」と定義するもの〈星野泉・小野島真編著『現代財政論』(2007年、学陽書房)1頁[星野泉担当]〉なども見受けられる。

 しかし、こうした定義に対し、福家俊朗教授は、古典的であると評価し、現代の財政はこうしたものを超えていると述べる。「行政経費の単純な取得や、その管理・運用、また、充当・支出という専門技術的(徴税技術的・会計技術的)活動」は当然として、それに留まらず、「財政規模の点もさることながら、それがもつ多様な機能に着目してそれらの政策的組合わせが図られ、それ自体が特定の行政領域を形成したり、他の行政領域をその支配下に置くような変貌を遂げている」というのである〈福家俊朗『現代財政の公共性と法―財政と行政の相互規定性の法的位相―』(2001年、信山社)3頁〉

 たしかに、現在の財政作用は、単に財政資金の調達、その資金の管理・運用、支出に留まるものではない。福家教授も指摘されるように、こうした作用を通じて、例えば経済政策や社会政策に用いられる。財政がこれらの政策を遂行するための手段ともなっているのである。このことは、特定財源や目的税、そして国庫補助負担金に顕著である。地方交付税も、一定の政策に寄与する場合がある。

 しかし、福家教授の指摘がその通りであるとしても、「古典的」な財政に現代の財政の骨格があることに変わりはない。そればかりでなく、福家教授の主張には、財政と言われる作用とその他の作用とが混同されている憾みがある。財政法の基本を理解するためには、こうした「古典的」なものを第一に把握しなければならない。

 そのため、この講義においては、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておく。

 財政の内容としては、例えば、租税の徴収、公債(国債などの総称)の発行・管理・償還、公企業などがある。現在の国家および地方公共団体は、実に多様な活動を行っている。その元手として、租税、手数料、負担金、公債などがあるが、いかなる手段によって財力を得るにせよ、最終的には国民・住民の負担に帰する。そのため、国家および地方公共団体の財政は、常に国民・住民の利害に対し、直接的に重大な影響を及ぼすのである。

 

 2.財政法とは

 財政法については、これまで、憲法学および行政法学が研究対象として扱ってきた。そして、六法には財政法という名称の法律が掲載されている。これは、形式的な意義における財政法である。この法律は、憲法を受けて、国の財政に関する基本的事項を定めるものである。しかし、財政法という法律が、財政に属する全ての作用を規律している訳ではない。例えば、租税は、国民から調達された財力であると考えることができるから、いかなる租税を設け、徴収するかというような事柄は、財政の重要な一側面である。しかし、形式的意義における財政法には、租税に関する規定が存在しない。また、財力の維持・管理のうち、国有財産などについては、財政法に基本原則を定める規定が存在するものの、詳細は国有財産法や物品管理法などに委ねられている。

 そのため、財政法を、形式的にではなく、実質的に捉えると、形式的意義における財政法のみならず、所得税法、法人税法など各種の租税法、国税徴収法、国有財産法、物品管理法などが含まれることになる。また、形式的意義における財政法は国の財政のみを規律するものであるから、地方財政については、地方財政法、地方税法などの規律に委ねなければならない。さらに、国と地方との財政上の関係については、地方交付税法などの法律が存在する。

 このように考えると、実質的意義における財政法は、形式的意義における財政法を含め、広く、財政に関する法の総体である、と理解することができる。

 既に、この講義において、財政を、国または地方公共団体が、その存在目的、およびそれを実現する任務を果たすため、必要な財力を調達し、維持・管理し、使用する作用、と定義しておいた。従って、実質的意義における財政法とは、国または地方公共団体が必要な財力を調達するための法、財力を維持・管理するための法、財力を使用するための法、これらの総体である、ということになる。

 このうち、必要な財力を調達するための法については、何らかの形で国民との直接的な法律関係(権利関係)を規律することになる。調達方法には、私法上の、あるいは別の法による契約関係もありうるし、租税のように、多少とも権力的な関係もありうる。

 租税そのものは国民が法的に負う債務と考えられるので、租税関係を債権債務関係と理解するのが妥当であり、租税法学などではこちらが通説となっている。しかし、租税関係に権力的な要素が皆無であるという訳ではない。むしろ、租税処罰法(租税制裁法)は刑事法とも重なる分野であり、権力的な要素が濃厚である。また、租税手続法にも、税務調査、更正・決定、推計課税など、権力的な色彩の強い手続が規定されている。

 また、専売は、特定の物品について私人の経済的自由権(営業、販売など)を排除するものであり、その点において権力的な法である。

 このような法は、財力を調達するために発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする。これを財政権力法という。

 これに対し、財力の維持・管理、および使用に関する法については、補助金など、国民との直接的な法律関係を規律する場面も存在するが、予算の決定、国有財産の管理、物品の管理など、基本的には国の機関内部に留まり、国民の権利や義務に直接的な影響を及ぼさない場合も多い。その作用の性格をどのように理解するかについて、これまでの通説には問題があると思われるのであるが、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法は、財政管理法といい、財政権力法と区別する。

 この他、形式的意義における財政法(以下、単に財政法と記す)に対して、多少とも特別な規律をもたらす法が存在する。特別会計に関する法律がそれである。特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。

 また、実質的意義における財政法は、基本的に国会や内閣以下の行政の作用規範という性格を有するが、憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査、とくに決算の検査を担当させている。このため、会計検査院法も、実質的意義の財政法を構成する重要な法律である。

 なお、日本国憲法も、財政に関する規律をなす限りにおいて、実質的意義の財政法である。しかも、憲法であるから、法律よりも上位である。

 以下、憲法および法律のみに注目した上で、実質的意義における財政法を整理する。なお、これは従来からの学説に従ったものである。

 (1)日本国憲法

 憲法は国内における最高法規であるから、財政に関する法規についても最高法規であることは当然である。しかし、そこに定められるものは、いわば大原則というべきものにすぎず、財政処理に関する原理や具体的な基準は示されていない〈杉村・前掲書33頁〉

 また、こと財政に関してだけは、日本国憲法より大日本帝国憲法のほうが優れているという趣旨の評価もある。杉村章三郎博士は、日本国憲法が永久税主義を前提としていること、一年制の会計年度を基礎とする予算制度を設けること、会計検査院および国会による決算審査などの原則を定めるだけであることから、「予算外支出に対する国会による事後承諾制度、継続費、予算不成立の場合の措置、その他を定めた」大日本帝国憲法が「行き届いた法であった」と評価する〈杉村・前掲書33頁〉第3版までは、この見解に対する批判を記したが、後の部分と矛盾していることが気になっていた。以下、杉村博士の評価に対する疑問や批判を再現するが、第4版以降、私は根本の部分において杉村博士の評価を是認したいと考えている。

 まず、当然のことであるが、日本国憲法においても、予算外の支出、継続費、予算不成立という事態は生じうる、否、現に生じているのであって、このような事態に対処するための規定が存在しないということは、憲法の不備を示すものであろう〈小村・前掲書35頁も参照〉

 たしかに、天皇主権原理を採り、帝国議会を天皇翼賛機関としてしか位置づけていなかった大日本帝国憲法とは異なり、国民主権原理を採用し、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとする日本国憲法の下において、これらのものを無制約に認める訳にはいかない。日本国憲法がこれらについての規定を置いていないということは、基本的に認めないということを意味するものであろう。あるいは、認めざるをえないという場合であっても必要かつ最小限であるという趣旨であろう。しかし、財政民主主義および租税法律主義を徹底しようとするからこそ、予算外の支出、継続費、および予算不成立に関し、何らかの規定を置く必要があるというべきであろう。例外的な事態に何らの対処もなしえないということであれば、かえって問題を拡大するだけである。

 予算外の支出は、補正予算を組んで対処するという方法もあるが、基本的には国会の予算審議権を侵害するものであり、これを何の制約もなしに認めることは許されないであろう。また、場合によっては租税法律主義を侵害するような事態を生み出すおそれもあろう。それならば、憲法において予算外の支出を認めるべき例外を明示すればよい。

 次に、継続費については、濫用されることによって国会の予算審議権を空洞化するおそれがある。このことは否定できない。しかし、後に述べるように、不要であるとは言い切れない。なお、地方公共団体の予算についても、地方自治法第212条によって継続費が認められており、こちらについては違憲論が提起されていないことを注意しておく。

 そして、日本国憲法の第7章において最大というべき問題(むしろ欠陥と表現するほうがよい)は、予算不成立の場合に関する規定が存在しないことである。当初予算が成立しないままに新会計年度を迎えることは、当然、生じうる。そればかりか、実際に生じたことがある。また、たとえば国会に予算案が提出された後に衆議院が解散した場合には、予算が成立しない。そのような場合のために、財政法第30条によって応急措置的としての性格を有する暫定予算の制度が置かれるのであるが、これにも限度がある。国会の審議状況によっては、当初予算のみならず暫定予算も成立しないままに新会計年度を迎えることがありうるからである。

 大日本帝国憲法第71条は、予算不成立の場合には前年度の予算を執行する旨を定めていた。このような規定には次のような問題点があることを認めざるをえない。

 第一に、理念的にみて財政民主主義の否定につながりかねない。

 第二に、国会が新たに何らかの法律案を可決して法律を成立させたとすると、その執行のための予算が必要になるのであるが、予算が年度内に成立しなかったからといって前年度の予算を執行するとなれば、新たな法律ができたとしても無意味であるという状態に至りかねない。逆に、故意に法律の執行を妨害しうることにもなる。

 しかし、そうであるとしても、この面に関しては、日本国憲法よりも大日本帝国憲法のほうが実際的であり、優れていると評価してよい。国家の財政運営に空白をもたらすことがないからである。日本国憲法によれば、内閣と国会の関係、または国会内の情勢によっては、予算不成立に関して何らの手も打てないということになり、当初予算も暫定予算も成立しないまま新会計年度を迎えるしかないことになる。これでは国家財政も国家行政も機能しない。従って、かえって法治主義、財政民主主義、租税法律主義などを空洞化させかねないのである。

 おそらく、このように記すならば、予算不成立は内閣や国会の政治的責任に帰すべき問題であって、憲法の不備のみを指摘する見解は、そもそも観点に根本的な誤りがある、と批判されることであろう。私も、第3版まではこの立場であった。しかし、この批判は、予算不成立は単純に政治的責任で済まされる問題ではない、という単純な事実を見落としていないであろうか。それに、大日本帝国憲法第71条が大きな問題を抱える故に支持されえないのであれば、別の方法を考えればよい。

 また、実際面において前年度予算を執行することは、相当の困難を伴うのではないか、という懸念もありうる。しかし、大日本帝国憲法の下においては、同第71条および勅令により、1892(明治25)年度、1894(明治27)年度、1898(明治31)年度、1903(明治36)年度および1904(明治37)年度、1914(大正3)年度、1915(大正4)年度、1917(大正6)年度、1920(大正9)年度および1924(大正13)年度、1928(昭和3)年度、1930(昭和5)年度、1932(昭和7)年度、1936(昭和11)年度および1946(昭和21)年度に、前年度の予算を当該年度の予算として執行した〈小村・前掲書36頁。なお、このような予算を施行予算と称していた〉。すなわち、前年度予算の執行は不可能でないということである。

 もとより、前年度予算の執行により、様々な問題が生じうる。そのため、これに代わる何らかの方法を考えなければならない。遺憾ながら、現在の私には良い改正案を提示することができない。しかし、時の政治状況に左右されないような安定した財政運営を保障することが、最終的には国民主権原理や自由主義に資するということは強調してよいであろう。大日本帝国憲法と同じく、日本国憲法も不磨の大典ではない。

 (2)財政権力法

 従来の学説や実務の理解によれば、財政権力法とは、国民から財力を調達するための手段などのうち、権力的なものについて必要な財力を調達するための法であり、発動されうる統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である。国税通則法、国税徴収法、所得税法、法人税法、消費税法、関税法などの租税法と専売法が該当する。但し、現在の日本には専売制度が存在しない。

 かつて、塩、たばこ、工業用アルコールなどについて、専売制度が採られていた。

 しかし、財政において財力の調達のみならず、財力の維持・管理や財力の使用に関しても、権力的側面が現れることもある。典型的なものは補助金であろう。補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律(以下、補助金等適正化法)は、まさに財力の使用に関する法律であるが、ここに示されているものは、補助金等の交付の申請、その申請に対する決定、補助事業の遂行等の命令(第13条)、金額の確定、補助金等交付決定の撤回(第17条)、その他、行政手続法の適用が除外されているとは言え、まさに行政行為論の利用が想定されていると考えるべき場面が多い〈塩野宏「補助金交付決定を巡る若干の問題点」『法治主義の諸相』(2001年、有斐閣)177頁、178頁。なお、補助金等適正化法第17条は「取消」の語を用いる〉。この法律自体、第25条において、補助金等の交付決定、その撤回などの処分について地方公共団体による不服の申出を認めていることからも、行政行為論を想定していることがうかがえるのである。

 もっとも、塩野宏教授は、資金交付行政(補助金の交付などが含まれる)と法律の根拠に関する議論(侵害留保説、全部留保説)について、「法律の中には、原則として、組織規範―具体的には各省設置法、規制規範―具体的には補助金適正化法、特別会計法等は含まれないと考えている。これらの規範類型は、理論的に行政活動に根拠を与える規範としての資格を有していないものであるが、実質的にみても、具体的な資金交付行政の根拠規範を見出すには、その授権はあまりに大幅すぎる」と述べている〈塩野宏「資金交付行政の法律問題―資金交付行政と法律の根拠―」『行政過程とその統制』(1989年、有斐閣)102頁〉。しかし、これは、補助金交付の具体的な根拠が他の法律に基づいていることによるのであり、補助金交付の決定が処分性を有しないからではない。また、補助金交付は基本的に授益的行政活動であるから、侵害留保説では法律の根拠が不要であるということになりかねないのである。

 このように考えると、財政権力法は、租税法、専売法、補助金法など、国の収入・支出にかかわらず、国民との権力関係を規律し、統治権の内容と方法を規制することを趣旨とする法である、と理解すべきであろう。

 (3)財政管理法

 主に、財力の維持・管理、および使用に関する法、すなわち、国の収入・支出、そして財産の維持・管理に関する法をいう。収入および支出の管理については形式的意義における財政法、会計法など、財産の管理については国有財産法、物品管理法、国の債権の管理等に関する法律などが該当する。

 (4)特別会計法

 特別会計は、財政法第13条第2項に従い、各個別法律によって設けられる。これは、後に述べる会計統一の原則に対する例外をなすこととなり、一般会計に関する財政管理法と多少とも異なる規律をもたらす法である。

 なお、特別会計法は、財政権力法・財政管理法の区別と次元を異にする。

 (5)会計検査院法

 会計検査は、国の財政管理作用の一部分を占めるものである。上述のように、日本国憲法は、内閣から完全に独立した行政機関としての会計検査院に関する規定を置き、この機関に会計検査(決算の検査)を担当させている。これを受け、会計検査院の組織および権能に関する規律をなすのが、会計検査院法である。

 (6)皇室経済法

 日本国憲法が象徴天皇制を採用するため、皇室については、別に皇室経済法が存在する。これは、皇室関係の予算(内廷費、宮廷費、皇族費)に関する規律の他、「その度ごとに」国会の議決を必要としない皇室の財産の授受に関する規定(第2条)、皇室経済会議の設置根拠となる規定を置く。皇室経済会議は、内廷費の変更について内閣に意見を述べ(第4条第3項)、「皇族が初めて独立の生計を営むことの認定」をなし(第6条第2項・第3項第2号・第7項)、衆議院議長および副議長、参議院議長および副議長、内閣総理大臣、財務大臣、宮内庁の長、そして会計検査院の長の8議員から構成される(第8条。なお、第9条および第10条を参照)。

 

 3.財政法の性格

 既に述べたように、実質的意義における財政法のうち、租税法や補助金法などの財政権力法は、国と私人との法律関係を規律するものである。従って、当然ながら、私人の法的地位(権利義務)に直接的な影響を与えることとなる。そのために、日本国憲法第84条において租税法律主義を規定しているのである。

 憲法第30条も、租税法律主義を明示した規定である。

 この点については、拙稿「租税法律主義・地方税条例主義の射程距離(上)―旭川市 国民健康保険条例訴訟最高裁大法廷判決の検討を中心に―」税務弘報54巻12号(2006年)129頁、同「租税特別措置法附則27条による同法31条の遡及適用が違憲無効と判断された事例」速報判例解説編集委員会編「速報判例解説(法学セミナー増刊)」3号(2008年)288頁も参照。

 しかし、第84条とは、規定の視点が異なる。第30条は、国民の納税義務に関する規定である。従って、国と私人との法律関係に着目し、かつ、法律に定めのない租税を支払うべき義務が私人に課されないという意味である。これに対し、第84条は、財政に対する国会の関与権限に着目した規定である。そのため、この講義においては、第84条を中心として租税法律主義についての解説を試みた。

 これに対して、財政管理法のほうは、多くの場合、「国の内部における財政作用を規律するものであり、租税法のように直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」と理解される〈兵藤広治『財政会計法』(1984年、ぎょうせい)6頁。槇重博『財政法原論』(1991年、弘文堂)38頁も、同様の理解である〉

 このため、適用の範囲は国の機関(国会を含む)に限定されることになるし、規定の性質も外部的効力を伴わない、訓令に近いものである。このことは、仮に財政法に違反する行為がなされたとしても、その行為の外部的な効力は否定されない、ということを意味する。

 槇・前掲書41頁は、憲法に違反する場合、および、法律によって無効とされる場合を除外する。

 このような一面的理解が正しいのか、私には疑問がある。例えば、会計法は財政管理法の一とされるのであるが、その多くの規定は行政内部を規律するものであるとは言え、入札保証金に関する第29条の4などは、効力が行政内部に留まるという規定ではないであろう。それでも、予算および決算の法的性質などを考慮に入れるならば「直接一般国民の権利義務に影響を与えるものではない」という性格を有する法が多いということを否定しえないであろう。財政法の諸規定は、まさに「国の内部における財政作用を規律するもの」である。

 ここで、参考までに判例をとりあげておく。いずれも、国の財政に関するものではないが、財政法の性格を示すものと評価することはできるであろう。

 ●最三小判昭和37年2月6日民集16巻2号195頁

 事案:原告(新潟県市町村職員恩給組合)は、新潟県今町の町長に対し、同町の水道工事費等に充てるためとして金員を貸与したが、同町は債務の弁済をしなかった。昭和30年9月30日、見附市が今町を編入合併し、今町の権利義務の一切を承継することとなったため、原告が見附市を被告として債務の弁済を求めた。新潟地方裁判所は原告の請求を棄却した(判決年月日等は不明)。原告は控訴したが、東京高判昭和34年2月9日判時186号13頁は、次のように述べて控訴を棄却した。

 判旨:今町の町長が原告に対して行った金員借り入れの申し込みは「町の代表者としての行為でありその効果はもとより今町に帰することは明である」が「今町には収入役が置かれ」ていたから「今町の出納その他の会計事務は収入役」に属していたというべきであり(地方自治法第170条)、「町長は町のため金員を受領する権限は有しないとしなければならぬ」。本件においては町長が収入役の署名捺印を偽造し、金員の交付を受けたのであるから、原告が今町に貸し付けたという金員の交付は「今町のために受領する権限のある者に交付されなかつたと断ずるの外ない。およそ消費貸借は金員の交付をその成立の要件とするものであるから控訴人主張の二口の貸付については今町との間に消費貸借は成立しなかつたと云わねばならない」。

 原告は上告したが、最高裁判所第三小法廷は「収入役の置かれた町においては町の出納その他の会計事務は収入役に専属し町長には属しない(地方自治法170条)ので、町長が町のためにする金銭受領行為は外形上その職務行為であるというをえないから、町長がかような行為をするについて他人に加えた損害は職務を行うにつき他人に加えた損害といえない」と述べ、上告を棄却した。

 これについて、槇重博博士は「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」と述べた上で、地方自治法第170条を参照しつつ「村長が部下の吏員に収入役を命じたからといって、現金の授受は収入役の専権に属し、村長の外部に対する村を代表する権限から、これが除かれるとする根拠はない」と述べて、判決を批判する〈槇・前掲書41頁〉

 しかし、この見解は地方自治法第170条(当時)についての誤解があると思われ、妥当でない。槇博士は、現金の収受が収入役の専権ではないと理解するのであるが、これでは第168条第2項(当時)が何のために、市町村に収入役を置くことと定めていたのか、理解不能となる。同法の規定からして、「地方公共団体の現金を誰が授受するかは、純然たる行政機関の内部の問題で、その定めは私人の権利義務に影響を及ぼすべきものではない」という論調は、実際の効果の問題と権限配分の問題を混同したものであり、賛同しがたい。また、第149条は、第2号にて予算の調製および執行を、第5号において会計の監督を市町村長の事務と規定する。従って、地方公共団体においては、不完全な形であるとはいえ、予算執行機関と会計機関とを分離しているのである。このように考えていくならば、判例の立場が妥当であろう。

 第168条第2項(当時)から明らかであるが、収入役は、市における必置機関であった。町村については収入役を置かないことも認められたが、その場合には町村長自らが兼任し、または助役に兼任させることを必要としていた。しかも、これは条例規定事項であった。

 なお、現在の地方自治法第168条は、現在の地方自治法第1項において「普通地方公共団体に会計管理者一人を置く」と定め、第2項において「会計管理者は、普通地方公共団体の長の補助機関である職員のうちから、普通地方公共団体の長が命ずる」と定める。出納長(都道府県)および収入役(市町村)という名称は廃止されたが、都道府県、市町村のいずれも会計管理者を置かなければならないのであり、条例で置かないことを定めることは許されないものと解される。

 ●最二小判昭和37年9月7日民集16巻9号1888頁

 被告(控訴人・上告人)の佐賀県入野村(一審判決時には肥前町。以下、被告村)の村長は、中学校新築工事の請負契約を建設会社と締結した。ところが、この会社が資金難に陥ったため、村長は会社社長とともに原告(被控訴人・被上告人)銀行を訪れ、融資を申し入れた。その際に返済については被告村が全面的に責任を負う旨を言明したため、原告は村議会の議決書の提出を求めた上で貸付を承諾した。村長は村議会議員の協議会を開き、建設会社が原告銀行から受ける融資の返済について村が保証することの承認を求めた。協議会では異論が出なかった。村長は正式に村議会に付議することなく、係員に虚偽の議会の議決書謄本を作成させ、建設会社に交付した。建設会社はこの虚偽の議決書謄本を原告銀行に提出して金員を借り受け、その支払いのために建設会社代表者と村長が共同で約束手形を振り出した。その後も約束手形がやはり共同で振り出されたが、建設会社は多額の債務を負って資金難となり、中学校新築工事を完成させることなく事実上の破産状態に陥った。そこで、原告銀行は被告村に対して約束手形金等の支払いを求めて出訴した。

 佐賀地方裁判所は原告銀行の主張を一部認めた(判決年月日等は不明)。福岡高判昭和34年7月8日下民集10巻7号1483頁は、本件の約束手形は村長が無権限で振り出したものであり、本件について民法第110条に示される表見代理の法理の適用はないが、「民法第44条第1項の規定における『職務を行うにつき』とは、当該行為の外見上法定代理人又は代表者の職務行為とみられる行為であれば足り、もとよりその行為が法人の有効又は適法な行為であることを要しない」として、佐賀地方裁判所の判決を一部変更して原告銀行の主張を認めた。

 最高裁判所第三小法廷は、「所論手形振出行為が村議会の議決がないため、または所論法律に違反するため、無効または違法であるとしても、村長が村を代表して手形の振出をなすこと自体は、外見上村長の職務行為とみられるから、民法44条の適用なしということはできない」と述べて福岡高等裁判所の判決を支持し、上告を棄却した。

 

 ▲第6版における履歴:2019年11月14日掲載。

 ▲第5版における履歴:2014年3月3日掲載。

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