ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

東急大井町線途中下車(13) 下神明駅 その1

2015年09月08日 10時51分22秒 | まち歩き

 「東急大井町線途中下車」シリーズの終了が近くなってきました。取り上げた順番はランダムですが、ほぼ、二子玉川駅から大井町駅へ向かうように進めています。

 戸越公園駅周辺を歩いた時に、「今日はここで終わろうか」と思いました。朝、うちを出る時には北千束、荏原町および戸越公園の各駅を回ることだけを考えていたからです。しかし、時間に余裕がありました。それに、下神明駅と大井町駅を残すと、次に訪れる機会が何時になるのかわからなくなります。そこで、この二つについても歩き回ることとしました。

 戸越公園駅から電車に乗ってもよいのですが、隣の駅まで1キロメートルも離れていないので、歩くこととしました。大東文化大学法学部に助教授として着任した2004年から、都営三田線、東急目黒線(終了)、東急池上線、東急多摩川線、東急田園都市線(終了)、そして東急大井町線と「途中下車シリーズ」を「待合室」とこのブログに掲載してきましたが、一日に複数の駅を回るために歩き続けるのは、今回が初めてです。実際には大した距離にならないのですが、2015年8月28日は曇天で、この時期にしては涼しかったのでした。8月下旬ですから、さすがに汗をかいてきましたが、東京都23区内を歩くのは楽しいもので、苦にはなりません。

 電車に乗ると一瞬ですが、上の写真のような雑木林(?)が見えます。歩いていると非常に目立つので気になります。しかし、何の手がかりもありません。名所などであれば案内板の一つはあるはずですが、見当たりません。確実なのは、北に大崎高校、南に青陵高校があって、その東側、品川区豊町三丁目にこの光景が広がるということだけです。

 しばらくすると、上に東海道新幹線、下に湘南新宿ラインや横須賀線が通る線路の踏切があり、そこを渡ります。正式には東海道本線ですが、かつては貨物線で品鶴(ひんかく)線ともいいました。そもそも、湘南新宿ラインという路線は正式に存在しませんし、横須賀線の正式な区間は大船~久里浜です。単に、東海道本線に乗り入れているというだけなのです。京浜東北線という路線が存在しないことは、少しでも鉄道に関心のある方なら御存知でしょう。東京~大宮は東北本線、東京~横浜は東海道本線、横浜~磯子~大船は根岸線です(東京~桜木町が東海道本線、桜木町~大船が根岸線という解説を読んだこともありますが、どちらが正しいのでしょうか?)。

 踏切を渡ると二葉一丁目・二丁目です。旧荏原区の町で唯一、品鶴線より東に位置しており、東端と表現してもよいでしょう。遠くに大井町駅周辺の高層建築物が見えるため、荏原地域の他の町とは少し違う空気が流れているようです。

 二葉一丁目を歩き続けると、豊葉の杜学園に出ます。名称から「私立学校か?」と早合点してしまいそうですが、品川区立の小中一貫校です。同区では6校目となります。「豊」は豊町、「葉」は二葉のことでしょう。

 品川区と言えば学校選択制度です。勿論、学区域は指定されているのですが、区内であれば小学校または中学校を選択できるのです。実際に決めるのは親であることが多いでしょうから、自分の子に行かせたい学校を、様々な面を比較しつつ選ぶのでしょう。同区では、受入数より応募数が多い学校については抽選を行っており、同区のサイトでも見ることができます。

 学校選択制度については弊害も指摘されていますが、今回はそれを論じることを目的としておりませんので、記しません。

 私が歩いたのは2015年8月28日で、川崎市では既に新学期が始まっているのに対し、東京都ではまだ始まっておりません。しかし、たくさんの親子が校内から出てきました。小学校・中学校のみならず、幼保一体施設二葉すこやか園、および地域センターも併設されているので、すこやか園の園児と保護者ではないかと思われます。

 豊葉の杜学園は、完全な新設校ではなく、品川区内にあった小学校および中学校を統合の上で設置されたものです。同校の公式サイトにある「豊葉の杜学園の成り立ち」によると、2011(平成23)年に荏原第三中学校と荏原第四中学校が統合され、豊葉の杜中学校となって開校します。その2年後、つまり2013(平成25)年に杜松小学校、大間窪小学校および豊葉の杜中学校が統合し、現在の豊葉の杜学園が設置されました。

 学園の建物は、この、自動車用のスペースは狭く、両側の歩行者用のスペースは広い道路をはさんで両側にあります。 

 もう少し歩くと、大井町線の高架、さらに目指す駅がはっきりと見えてきます。その手前に、品川区立二葉図書館の案内が出ていました。こちら側は裏なのでしょう。

 この図書館の手前まで、大井町駅方面から都道420号鮫洲大山線が片道一車線ずつの道路として伸びています。しかし、地図を見ていると、そこで途切れるような形になっています。よくわからないところもありますが、どうやら、「東急大井町線途中下車(12) 戸越公園駅 その2」に登場した、ひだまり公園のそばの交差点を通る道路のようで、大崎高校のそばで途切れています。つまり、二葉図書館のそばから大崎高校のそばまでが未開通ということです。

 これから本格的に事業を開始するということでしょうか。既に品鶴線の所までは土地が確保されているようで、立ち退きなども済まされています。開通が何年後になるのかはわかりませんが、完成すれば戸越公園、武蔵小山駅、池尻、三宿、淡島などへ行けるということになります。高層建築物が手近に見えるようになったことは、大井町駅に近づいているということでもあります。

東海道新幹線の高架橋の側です。将来は都道420号になるこの部分は、現在、自転車置き場になっています。「住吉踏切」という案内板が出ており、品鶴線が地上を走っていることがわかります。

ここも将来は道路になるのかもしれませんが、児童公園があります。蛸の形をした滑り台です。

あと何年、ここに滑り台が残っているでしょうか。それとも、ここは公園として残り続けるのでしょうか。

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東急大井町線途中下車(12) 戸越公園駅 その2

2015年09月07日 08時00分00秒 | まち歩き

戸越公園駅でドアカットが行われていたことの痕跡を見た後は、周辺を歩くこととします。

 心なしか、荏原町駅周辺より賑わいに乏しいような気もしますが、午前中という時間帯のせいかもしれません。また、中延駅の隣でもあり、二駅先が大井町ですので、仕方のないところでしょう。

 ここは駅の北口にあたります。戸越公園中央商店街、またの名を「とごし公園通り」と言います。範囲は、南が戸越公園駅1番線ホーム改札口から少し歩いて最初の交差点、北がひだまり公園のそばの交差点となっています。

 昼食時に近くなっていますが、まだ人通りは多くありません。右側の黄色い看板はパチンコ屋で、左側が餃子屋です。その奥が何であったかはよくわかりません。

 それにしても、この黄色は目立ちます。一瞬、ディスカウントショップかと思ったくらいです。

 ひだまり公園のそばの交差点を横断すると、戸越四丁目となり、商店街の名前も変わります。宮前商店街です。駅前よりもこの商店街のほうが、午前中でも人通りが多いようです。戸越銀座に近づいているからでしょうか。

 奥に見えるのは関東地方で時折見かけるオオゼキというスーパーマーケットです。川崎市内には店舗がないので、私にとっては馴染みがないのですが、品川区には戸越公園店、戸越銀座店、旗の台店、武蔵小山店、目黒不動前店(不動前駅は品川区に所在)があるとのことです。そう言えば、井の頭線の高井戸駅のそばにあり、最近、目黒区の碑文谷にも店舗がオープンしました。今回は戸越公園店をとらえたということになります。

 午後になり、夕方の買い物時になれば、もっと多くの人が通るでしょう。私が小学生の頃、駅前商店街を夕方に歩くとなれば、人をかき分けるかのように進まなければならないことも多かったことを覚えています。とてもではないですが、自転車ですいすい走ることなどできなかったのです。溝口や新城、元住吉がそうでした。

 このまま進めば、都内で最も長い商店街と言われる戸越銀座ですが、今回は目的から外れていますので、駅へ引き返し、南口を歩くこととしました。やはり、戸越銀座は、池上線の駅から歩いてみたいのです。

 とごし公園通りを進み、駅のそばの踏切を渡り、最初の四つ角を進めば、そこからが戸越銀座駅南口商店街となります。北口より南口のほうが賑わっているように見えます。また、店舗の様子なども違うようです。

 右側の黄色い看板は、パチンコ屋です。北口とは店の名前が違いますが、同じ経営者なのでしょうか。

 商店街から脇道に入るとイトーヨーカドー戸越店がありました。溝口や小杉ではおなじみのスーパーマーケットですが、最近のセブンアンドアイホールディングスのロゴではなく、従来からの鳩(?)のマークです。この近所では大井町駅前に大きな店舗がありますが、こちらもお客は多いのでしょうか。

 地図を見る限りでは、この道を進めば西大井駅に行けるようですが、御覧のような細い道が入り組んでいるのが荏原地区ですので、迷うかもしれません。馴染みのない場所なので、見合わせました。

 この商店街のマスコットキャラクターです。公式サイトを見たら「べんてんやみなみちゃん」と名付けられていました。もう一種類、「りゅうのしん」というキャラクターがあり、御丁寧に鎌倉時代からタイムスリップしてきたという設定がなされています。

 「ホッとすとりーと」、「ホッ…とすとりーと」という愛称が付けられています。職場や学校から帰ってくる途中にここを歩いているとホッとする、という意味なのでしょう。Hot Streetでは訳がわかりませんので。

 左手前に交番が写っています。この商店街は、交番の手前にある交差点で終わっています。この先にも商店街は続いているようですが、ゆたか商店会に変わります。豊町五丁目に入る訳です。

 このまま歩いて行けば二葉三丁目に行き着きます。西大井駅の近くです。横須賀線の駅で、湘南新宿ラインも通るのですが、たしか湘南新宿ラインの電車は止まりません。品川区内で孤立しており、便利なのか不便なのかわかりません。

 川崎市内の商店街には真っ直ぐな道が多いのですが、都内はそうでもないようです。戸越公園駅南口商店街も、道が所々で曲がっています。大山駅の西口を歩いているような気分にもなりました(大山のほうはアーケード街です)が、荏原町駅前の商店街なども同様でした。

 さて、ここでもう一度、戸越公園駅で行われていたドアカットの痕跡を見ておくこととします。「東急大井町線途中下車(12) 戸越公園駅 その1」では1番線溝の口方面ホームのほうを取り上げましたが、もっとわかりやすいのが2番線大井町方面ホームです。御覧の通りで、ここに踏切があったことは一目瞭然です。

 かつては駅の向こう側まで通じていた道路ですが、今は行き止まりとなっています。

 つい2年半ほど前まで、踏切の上に電車が止まっていた訳です。初めて見た人は奇異に思ったことでしょう。オーバーランをしているように見えるのですから。電車に乗った際にはもっと奇異に感じられました。踏切の上に電車が止まって、扉は開かないし、その割には急ブレーキがかかった訳でもないし、何秒か経つと何事もなかったかのように次の駅へ走って行くのですから。

 ちょうど、1番線にG各停(緑各停。田園都市線の二子新地および高津に停車しない)の溝の口行きが到着していました。車掌が立っている場所には、車掌専用のホームというようなものがありました。お立ち台という通称もあります。車掌が業務のために使用するものであり、扉は開かなかったのです。

 現在は5両編成の全てのドアが開きます。右側の2番線ホームを見ると、奥のほうと手前のほうで構造が異なっており、手前のほうが後から付け足されたことがすぐにわかります。

 写っている車両は、東急で最初に新車としてVVVF制御を採用した9000系の9003Fです。かつて、9000系は東横線の主力で、8両編成でした。ただ、9007Fだけは最初から5両編成で大井町線を走っていました。東横線が副都心線との直通運転を開始することとなり、段階的に全ての編成が大井町線に移り、5両編成化されました。今や大井町線の主力です。

 当初、9000系は目黒線と南北線との直通運転を念頭に設計されたのですが、結局、目黒線および南北線で運用されることがなく、副都心線にも乗り入れなかったのです。

 現在、VVVF車があちらこちらで運用されていますが、その始めは1980年代です。今となってはにわかに信じられないかもしれませんが、東急で最初にVVVF車が運行されたのは大井町線で、初代6000系を改造した車両が試験として運用されていました。これは首都圏で最も早い例と言えます。その後、初代7000系を改造した7700系、7200系を改造した7600系(今年、東急線での運用を終えました)も、大井町線で運用が始められたのです。もっとも、界磁チョッパ制御車が長く用いられてきたのも大井町線で、8090系および8590系が引退したのは2013年5月のことでした。現在は8500系の5両編成4本が運用されています。

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東急大井町線途中下車(12) 戸越公園駅 その1

2015年09月06日 10時02分00秒 | まち歩き

再び、東急大井町線に戻ります。今回、利用したのはここです。

 OM03、戸越公園駅です。両隣の下神明および中延は高架駅ですが、戸越公園駅は地上にあります。

 ここから東のほうへ向かうと大崎高校と戸越小学校があり、そして駅名の由来ともなっている戸越公園があります。熊本藩主の細川家の下屋敷があった場所で、1890(明治23)年には三井家が所有するところとなり、1932(昭和7)年に東京市に寄附されました。公園となったのはその3年後です。現在は品川区立の公園であり、東海道五十三次を模したという回遊式庭園があることで有名です。

 駅は1927(昭和2)年7月6日に開業しましたが、当初は蛇窪という名でした。この付近にあった村の名前です。現在は、隣の下神明駅の近くにある東海道本線(品鶴線)の蛇窪信号場に名を留める程度となっています。

 現在の駅名となったのは1936(昭和11)年1月1日のことです。所在地は品川区戸越五丁目となります(余談ですが、池上線にある戸越銀座駅の所在地は品川区平塚二丁目です)。

 この駅には、大井町線や池上線にある地上駅の多くと同じく、跨線橋がありません。従って、乗り場ごとに改札口があります。一旦改札口を抜けてホームに立ち入ると別の乗り場には行けませんので混乱を来しかねませんが、2番線の改札口では初乗り運賃の切符と大井町乗り換えのJR線の切符しか買えないようになっています。案内表示も御覧のようになっています。この乗り場からでは下神明と大井町にしか行けませんので、わかりやすいと言えます。

すぐそばの踏切を渡ると1番線ホームの改札口があります。下り電車に乗るにはこちらを利用しなければなりません。ちなみに、急行は通過します。

1番線ホームの改札口にある運賃案内では、下神明と大井町について表示が抜けています。この乗り場からでは行けないためです。荏原町駅などにおいても同様の運賃案内が表示されています。

 さて、戸越公園駅の名物(?)とは何でしょうか。過去のものとなってしまいましたが、ドアカットでした。2013年2月23日まで、5両編成のうちの大井町側2両、すなわち1号車と2号車のドアが開かなかったのです。現在でも九品仏駅では5号車のドアが開きませんので、全駅でドアが開くのは3号車と4号車だけであるという時代が長かった訳です。

 これは、戸越公園駅のホームの長さが20メートル車3両分程度しかなく、両端に踏切があったためです。大井町側の踏切を移設することにより、ようやく解消されました。ドアカットの痕跡が、上の写真に示されています。かつて踏切があった場所なのです。

 編成が短ければドアカットは発生しませんが、長くなり、ホームを延長することができなければ、ドアカットを実施せざるをえません。かつては東横線の代官山駅、菊名駅、東急多摩川線の鵜の木駅でも行われていましたが、代官山駅および菊名駅では改良工事が行われ、鵜の木駅については4両編成の運行がなくなったことにより、ドアカットが解消されました。九品仏駅が残るのみとなっていますが、同駅の場合は高架化か地下化を行わない限り、解消の見込みはありません。

 こちらが、ホームの延長によって移設された踏切です。今回は撮影していませんが、道路、区画が不自然なものとなっているため、すぐにわかります。

 私が通勤のために利用する田園都市線には踏切が一箇所もありませんが(長津田駅付近にはかつて存在しましたが、現在はありません)、大井町線などには多く存在します。同線で踏切がないのは大井町駅と下神明駅の間、北千束駅と大岡山駅との間、大岡山駅と緑が丘駅との間、上野毛駅と二子玉川駅との間です。大井町駅から旗の台駅までの間は、高架駅と地上駅とが混在していますので、思い切って全区間を立体交差化してもよかったと考えられるのですが、費用対効果などの面ではあまり意味がないのでしょう。

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東急池上線途中下車(5) 荏原中延駅

2015年09月05日 08時00分00秒 | まち歩き

 中延駅から中延商店街を歩いています。アーケード街を通り、品川区には昔ながらの店がまだ多く残っていることを、荏原町および中延で実感しているうちに、アーケードが終わっていました。もう、池上線の荏原中延駅の近くに来ています。

 そこで、今回は久しぶりに東急池上線途中下車シリーズとなります。ようやく第5弾です。

 第4弾は旗の台駅で、「待合室」の第436回から第438回まで、東急大井町線途中下車シリーズ(2)と一緒にしましたが、それは2011年8月20日から9月8日までのことでした。4年も経過して、ようやく隣の駅です。

 ちょうどアーケードが終わった所に交差点があります。一方通行ですが車の通りは多く、歩く際には注意を要します。交差する道路も商店街となっており、昭和通り商店街と名付けられています。奥に進めば中原街道です。

 中延商店街のアーケードの終点から国道1号線に向かう道路で、浪花会通りと名付けられています。やはり商店街で、東中延に展開しています。ここに読み方を示すものがなく、品川区のサイトなどにも書かれていないのですが、浪花は「なみはな」なのでしょうか、それとも「なにわ」なのでしょうか。どちらにしても、一瞬「大阪か?」と思える名称ですが、品川区にあります。

 先の2枚と同じ交差点です。アーケードの終点または始点です。ここまで来れば、荏原中延駅はすぐそばです。左側が浪花商店街で、右側は昭和通り商店街となります。また、この交差点から手前のほうは荏原中延東栄会となります。

 荏原中延東栄会を歩いていると、すぐにこのモダンな、あるいは奇抜な建築物が目に付きます。これが荏原中延駅です。池上線はこの下を通っています。同線では長原駅に次ぐ地下駅ですが、このようになったのは1989(平成元)年のことでした。それまでは地上にあったので、私が立っているところは踏切または線路の上であったこととなります。

 荏原中延駅が開業したのは1927(昭和2)年8月28日のことで、蒲田から路線を伸ばしてきた池上電気鉄道が雪ヶ谷から桐ヶ谷までを開業させたことによります。

 雪ヶ谷、桐ヶ谷のいずれも、地名としてはともあれ、駅名としては聞き慣れませんが、どちらも既に廃止されています。雪ヶ谷は1923(大正12)年に開業しましたが、1928(昭和3)年に移転し、1933(昭和8)年には調布大塚と合併して現在の雪が谷大塚駅となります。一方、桐ヶ谷駅は1945(昭和20)年7月25日に休止し、1953(昭和28)年8月11日に廃止されました。ちなみに、桐ヶ谷から大崎広小路までが開通したのは1927年10月9日、五反田まで開通したのは1928(昭和3)年6月17日でした。

 改札口は地上にあり、ホームは地下にあります。IK04という番号が割り当てられていますが、改札口では示されていません。ICカード専用の自動改札機は設置されていないようです。

 池上線は他社の路線との乗り入れを行っていませんが、実は五反田~旗の台については都営三田線と乗り入れる計画がありました。しかも、旗の台からは大井町線を通り、田園都市線の長津田まで相互直通運転を行うというものです。また、高島平からは東武東上線の和光市まで向かい、そのまま東上線に乗り入れるという計画も盛り込まれていました。三田線が西高島平という中途半端な場所で終点となっているのは、こうした直通運転計画のためで、元々、高島平~西高島平は東武の路線として免許が付与されていたのです。しかし、相互直通運転は幻に終わります。東武は東京都交通局に先の免許を譲渡します。また、三田線は三田から泉岳寺、五反田を経由することとなっていましたが、浅草線に転用されました。そのため、三田線の正式な起点は長らく泉岳寺とされていました(今でも蓮根駅付近の高架橋には証拠が残っています)。

 ただ、池上線と大井町線の改良は難しかったでしょう。池上線の各駅のホームは18メートル車3両分しかありませんし、大井町線の各駅のホームは20メートル車で5両分という所が多いのです。九品仏駅は4両分しかありません。五反田⇔旗の台については新線を建設するしかなかったはずです。

 荏原中延駅には東急ストアが同居しています。また、オリジン弁当の店舗も入居しています。

 駅名の由来ですが、たしかにここは旧荏原区(荏原郡荏原町)の中延にあります(所在地は中延二丁目となっています)。そのために荏原中延という名称にした、とも言えます。

 しかし、近くに大井町線の中延駅および荏原町駅があります。いずれも、現在の住居表示で中延、戦前も荏原区荏原町の大字中延またはその周辺にあります。大井町線が目黒蒲田電鉄によって建設され、池上線が池上電気鉄道であったこと、および、同じ年とは言え、荏原中延駅が中延駅および荏原町駅より1か月以上遅れて開業したという事実からすれば、池上電気鉄道が対抗意識を出して名付けたのではないかとも考えられます。確実な資料が手元にないので推論するしかないのですが、大井町線、池上線の両線が当初から同じ会社によって建設されたのであれば、荏原中延という名ではなく、「西中延」、「北中延」などと名付けられたのではないか、などと考えられるのです。

 荏原中延駅から東栄会を歩き続けます。このまま進めば武蔵小山商店街の東端に近い平塚橋交差点に出られるのですが、今回はそこまで行きません。

 まだ午前中ということからか、別の理由によるのか、この辺りは人通りが少なくなります。まだ開いていない店も多いようです。ただ、履物屋のような店なども所々にあり、昔ながらの商店街という感じがします。私は、荏原町駅前などについても下町という表現を使いましたが、品川区には下町という表現が相応しいように思えてなりません。

 変わった店を見つけました。中には御覧の物ばかりが並べられているのです。

 最近はガシャポンなどと言われていますが、私が小学生であった1970年代後半の川崎市ではガチャガチャなどと言われていました。カプセルトイと言い、スーパーカー消しゴム、鉄道消しゴム(電車や機関車の形をした消しゴム)、バネのおもちゃなどがカプセルの中に入っていて、当時は10円玉2枚を入れてハンドルを回したものです。一時期消滅したように見えたのですが、最近は復活したのか、また増えています。

 ちなみに、ガシャポンはバンダイの登録商標となっています。

 さらに歩くと中一商店街となります。中延一丁目に入りました。駅から離れつつあるので、商店も減ってきます。この辺りも高層住宅が少ないので、歩いていると気分がよくなります。ただ、2015年8月28日の午前中は曇天でした。

 もっと歩いて平塚橋に出てもよいのですが、まだ回りたい所があります。荏原中延駅に戻ることとします。

 現在の荏原中延駅、1番線ホームです。ホームドアはありませんが、柵が設けられており、センサーも仕掛けられています。池上線および東急多摩川線の各駅に共通する構造です。2番線に到着した電車に乗って奥のほうへ進めば、次は戸越銀座です。何回か行ったことがありますが、駅付近の一部しか歩いたことがないので、いつかしっかりと回りたいと考えています。

 しかし、今回は1番線に来る蒲田行きを利用します。次の旗の台で大井町線に乗り換え、残る駅を目指します。

 ここから言い訳がましくなりますが、田園都市線の沿線に住んでいる者にとって、池上線は取り上げにくい存在です。ようやく、荏原中延で第5弾となりましたが、今後も進めにくいことを白状しなければなりません。

 第1弾:洗足池(大田区) 「待合室」の第180回(2006年8月18日から25日まで)および第181回(2006年8月25日から9月1日まで)

 第2弾:池上(大田区) 「待合室」の第209回(2007年3月30日から4月9日まで)

 第3弾:大崎広小路(品川区) 「待合室」の第380回(2010年9月16日から23日まで)、第383回(2010年10月8日から15日まで)および第384回(2010年10月15日から21日まで)。

 第4弾:旗の台(品川区) 「待合室」の第436回(2011年8月20日から27日まで)、第437回(2011年8月21日から27日まで)および第438回(2011年8月27日から9月8日まで)

 まだ取り上げていない駅:五反田、戸越銀座(以上、品川区)、長原、石川台、雪が谷大塚、御嶽山、久が原、千鳥町、蓮沼、蒲田

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東急大井町線途中下車(11) 中延駅

2015年09月04日 08時00分00秒 | まち歩き

 戦前に、大井町線では急行が運転されていました。詳しいことはわかりませんが、荏原町駅を出ると大井町駅まで停車しないという形態であったようです。しかし、1936(昭和11)年に廃止されました。

 大井町線は、1963(昭和38)年に田園都市線と改められます。1966(昭和41)年に溝の口~長津田が開業します。その2年後、1968(昭和43)年、つくし野駅の開業の後、朝、しかも上り電車のみですが快速(通勤快速と称されたそうです)が運転されます。しかし、この快速は二子玉川園(当時)~つくし野だけが快速運転であり(停車駅は、つくし野、長津田、青葉台、たまプラーザ、鷺沼、溝の口、二子玉川園)、大井町~二子玉川では各駅に停車していました(その後、すずかけ台、南町田、つきみ野が開業します)。結局、この快速は、1979年、大井町~二子玉川が再び大井町線と名称を改められるとともに消滅します(田園都市線・新玉川線の快速は1996年、すなわち平成8年まで残りました)。

 2008(平成20)年3月28日、大井町線に急行が復活します。当初は大井町~二子玉川で、2009(平成21)年7月11日から大井町~溝の口となります。また、土休日には大井町~長津田(一部は中央林間→大井町)でも運転されます。大井町線内の停車駅は大井町、旗の台、大岡山、自由が丘、二子玉川、溝の口で、いずれも他路線との乗換駅です。池上線、目黒線、東横線および田園都市線を連絡するとともに、乗換駅同士の短絡を意図するものと言えます。

 しかし、よく見ると例外があることがわかります。つまり、他路線との乗換駅であるにもかかわらず、急行が通過する駅が存在するのです。それが、今回取り上げる中延駅です。都営浅草線との乗換駅で、同線に乗れば新橋、東銀座、浅草、さらに京成線の京成佐倉、さらに成田空港にも行くことができるのですが、泉岳寺止まりが多いことも事実です。大井町線の他の乗換駅と比べて、あまり利便性が高くないと評価することもできるでしょう。

 どの路線でも、高架下には独特の表情、あるいは雰囲気があります。ここは大井町線の中延駅のそば、荏原町駅方面で、このように自動車は通行不能という細い道、すぐそばには木造の住宅が建ち並んでいます。

 実は、荏原町駅からほぼ大井町線に沿うように歩いてきました。狭い幅の道路が入り組んでいますので、少々わかりにくいのですが、大井町線を目印に歩けば見当は付きます。

 旗の台駅は(東側が)高架、荏原町駅は地上にありますが、中延駅は高架となっています。しかし、戸越公園駅は地上にあり、下神明駅は高架です。大井町駅から旗の台駅構内まで、起伏が激しい土地ではないのですが、大井町線は高架を走ったり地上に降りたりします。戦前から旧荏原区内には住宅地が拡がっていたために、このようになったのでしょうか。中延駅が高架化されたのは、1957(昭和32)年のことです。この駅だけが高架化された理由は、後に記します。

 大井町線に沿うように歩いてきましたが、常にそのように歩ける訳ではありません。駅の西端で左に曲がり、ブックオフ中延駅前店のそばに出ますと、荏原中延駅付近まで伸びるアーケード街に出ます。そこは後に歩きますので、まずは駅に出ることとしましょう。上の写真にある交差点を右に曲がればよいのです。

 中延駅に到着しました。OM04、所在地は中延四丁目です。1927(昭和2)年7月に開業しました。

 先に記したように都営浅草線との乗換駅ですが、急行は通過します。2014年度の乗降人員は21903人で、2013年度よりも増えています。浅草線の駅のほうは28819人です(東京都交通局のサイトによりますが、年度は不明です)。

 両隣の戸越公園駅および荏原町駅は地上にあるのに対し、中延駅は高架化されたのですが、これは、すぐそばに国道1号線が通っているためです。世代によっては第二京浜というほうが通じやすいこの大幹線道路ですが、昭和30年代の初頭までは大井町線の踏切があった訳です。これでは早晩に渋滞などの支障が生ずるということで、高架化されたのでしょう。

 大井町線から浅草線に乗り換えるには、大井町線の駅の改札を出たら右に曲がり、そのまま国道1号線のほうへ進みます。駅に道案内も出ています。大井町線のほうの駅前はこのような感じです。蕎麦屋があるので入りたくなりましたが、まだ10時台でしたのでやめました。

 こちらが浅草線の中延駅です。A03という番号が付けられています。1968(昭和43)年11月に開業しました。所在地は東中延二丁目となっています。

 浅草線といえば、東京の地下鉄では1号線と位置づけられており(2号線が日比谷線、3号線が銀座線です)、1960(昭和35)年に押上から浅草橋までが開業し、東京では初めて、他社路線との相互乗り入れを行いました。その後は段階的に延長を繰り返し、泉岳寺から西馬込まで開業したのが1968年11月です。ただ、泉岳寺から京浜急行に乗り入れる列車が多く、泉岳寺⇔西馬込については同じ浅草線でありながら押上⇔泉岳寺と異なる路線であるようにも見えます。

 今月(2015年9月)末日をもって神保町の書泉ブックマートが閉店するというニュースがありました。私自身は2011年の模様替えが行われるまで書泉グランデのほうばかり行きました。法律学や経済学の専門書が置かれなくなったために、入ることがなくなりました。あまり関係のない話を記しましたが、私は、高校生時代に初めて神保町へ行き、それから何度も足を運ぶこととなりました。しかし、当時、神保町には都営地下鉄(三田線と新宿線)しか通っておらず、半蔵門線は半蔵門までしか伸びていなかったため、神保町へ行く時にこの中延駅を利用したことがあります。

 大井町線の高架が見えます。中延駅入口交差点で、目の前の道路は東京の日本橋から大阪の梅田新道までの国道1号線です。この真下に浅草線が通っている訳です。奥のほうへ進めば戸越駅(バス停は戸越銀座という名称)、五反田駅へ向かいます。

 国道1号線なのに第二京浜という通称があるのは、元々、現在の国道15号線が国道1号線(さらに遡れば明治1号国道)であったためです。その名残で、現在でも国道15号線は第一京浜とも言われます。旧東海道は国道15号線のほうであると捉えてよいでしょう。

 

 ちょうど、国道1号線を通る東急バスの反01五反田駅行きが止まっています。中延駅前バス停も近くにあります。五反田駅から川崎駅西口北までの路線で、意外に使い勝手が良いという印象を受けました。五反田駅から西馬込駅前まで浅草線と並走するように運行され、池上本門寺の裏のほうを通って多摩川大橋を渡り、遠藤町から国道409号線を走ります。なお、大田区内で池上線や東急多摩川線の高架下を抜けますが、どちらの路線の駅にも少し遠いのが難点です。

 浅草線は、この奥のほうへ向かって馬込駅、西馬込駅と進みますが、そこで止まってしまいます。中途半端である憾みは否めませんが、これは浅草線の建設経緯によるものです。

大井町線の中延駅に戻ります。駅前に東急ストアがあります。その右側にあるプレハブのようなものに、浅草線の駅までの経路が地図で示されています。

 さて、中延駅からアーケード街のほうへ歩いて行くこととしましょう。いかにも品川区らしい、幅の狭い道路にある商店街です。しかも、下町ではないのに下町のような街です。川崎市で生まれ育った私はこのような雰囲気を好むのですが、いかがでしょうか。ニュータウンなどのように広い道幅、そしてロードサイド店ばかりの場所には馴染めないのです。7年間も大分市に住み、ロードサイド店ばかり利用してきたにもかかわらず。

 この道路の左側は品川区中延ですが、右側は品川区東中延です。一方通行ですので、車で走るとなれば面倒です。商品の搬送など、苦労するのではないかと思われます。この道を真っ直ぐ進むと西中延三丁目、さらに旗の台二丁目に行くのですが、交差する道路も一方通行であることが多いようで、慣れない人(私もこの辺りを車で走ったことはありません)は迷うかもしれません。

 アーケード街に入りました。左側が中延、右側が東中延です。なかのぶスキップロードという名前も付けられている中延商店街を歩いています。以前にも歩いたような気もするのですが、通しではないので、本格的に歩くのは今回が初めてです。3月にはなかのぶジャズフェスティバルも行われます。東急の駅で毎月入手できる沿線ガイドにも案内が出るので、いつも行きたいと思うのですが、必ず何らかの予定が入り、行けないままです。いつであったか、渡辺香津美さんが出演するということでしたが、仕事を優先せざるをえなかったのです。この商店街にボナペティというジャズバーがあり、そこにも行ってみたいと思っています。

 日本最初の本格的なアーケード商店街は品川区、しかもこの中延商店街からそれほど離れていない武蔵小山商店街ですが、関西などと異なり、東京をはじめとする首都圏ではそれほど多くありません。歩道部分のみがアーケードとなっている商店街は比較的多いのですが、道路全体がアーケード商店街となっている所は、品川区でも中延と武蔵小山と西小山しか思い出せませんし、大田区であれば蒲田と大森、板橋区であれば大山、台東区であれば浅草の仲見世通り、荒川区であれば三ノ輪橋と町屋、川崎市であれば川崎駅東口の銀柳街と新城のあいもーる、溝の口駅西口商店街、といったところです。

 逆に、関西ではアーケード商店街が多いようです。私も京都、大阪、神戸にあるいくつかのアーケード商店街を歩きました。また、九州も、いわゆる繁華街や中心街ではアーケードが多いのですが、寂れているところばかりです。すぐに思い出すのは大分市の竹町、臼杵市の二王座、中津市の新博多町、佐賀市の白山商店街、田川後藤寺駅付近、直方駅付近、黒崎駅、大牟田の新栄町駅付近です。シャッター通りとなっている所が多いのです。勿論、福岡は天神の新天町、北九州は小倉の魚町や旦過など、賑わい続けているところもあります。熊本市の上通、下通および新市街、鹿児島市の天文館もアーケードとなっていますし、長崎市の浜町や佐世保にもアーケード商店街があります。

 中延商店街は、午前中からそれなりに人通りも多く(上の写真ではそのように見えませんが)、シャッター通りにはなっていないようです。ただ、正確な数字はわかりませんし、1970年代などと比較すれば人通りは少なくなっているのかもしれません。

 

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東急大井町線途中下車(10) 荏原町駅 その3

2015年09月03日 20時55分00秒 | まち歩き

荏原町駅前の商店街を、南のほうへ歩いています。品川区中延五丁目、庶民的な街が拡がっていました。

荏原町駅入口交差点です。この交差点が区境になっており、手前が品川区中延五丁目、奥が大田区北馬込二丁目です。荏原町駅前からの商店街はここで終わることとなりますが……。

 商店街の名称が変わり、組織も別になるものの、実質的にはつながっています。今回は進んでいませんが、このまま歩き続けると環状7号線に出て、都営浅草線の馬込駅にも行けるようです。道路の関係で一方通行のようになっていますが、東急バスの森02系統および蒲15系統は、荏原町駅入口→三本松の方向のみ、この道路を通ります。

 大田区北馬込二丁目に足を踏み入れました。街としてはつながっていても、区が異なるため、生活環境は変わります。管轄する役所が違う訳ですから当然です。小学校や中学校の学区も異なってきます。

 荏原町駅入口交差点から大田区側はバス通りです。道路自体は一方通行でないのですが、バス路線は一方通行となっています。森02および蒲15は、三本松→馬込橋→環状7号線→夫婦坂→北馬込一丁目→荏原町駅入口と走り、荏原町駅入口からはこの商店街を先に進むとある馬込北台バス停を経由して三本松バス停に戻ります。このように、起点または終点が循環構造になっているバス路線は、探せばいくつか見つかるでしょう。私がすぐに思い出すのは溝22系統(溝の口駅⇔蟹ヶ谷)のうち、溝の口駅から末長までの部分で、溝の口駅→蟹ヶ谷の場合は溝の口駅→ゼネラル入口→末長と走りますが、蟹ヶ谷→溝の口駅の場合は末長からゼネラル入口の方へ走らず(かつては何本か存在しました)、末長→洗足学園前→溝の口駅南口→溝の口駅と進みます。

このまま歩いて環状7号線に向かってもよかったのですが、まだ回りたい場所もありますから、荏原町駅方面に戻ることとしましょう。

 荏原町駅入口交差点のそばに、天保二年銘道標が残されていました。中延五丁目12番8号先にあるこの標は、品川道と仲通りとが交差することを示し、東西南北それぞれの方向に進むとどちらへ向かうことができるかがわかるようになっています。

 品川道は、南品川宿で東海道から分岐し、千束で中原街道に合流する道です。必ずしも厳密ではありませんが、この荏原町駅入口交差点から東西に伸びる道路が品川道ということになるようです。一方、仲通りは、平塚橋で中原街道から分岐し、中延、馬込を通り、新井宿で池上道と合流する道です。ちょうど、私が歩いてきた商店街の道路が該当するということになるでしょうか。すぐ前に記したように、厳密ではありませんが、たしかに商店街の道路を道なりに真っ直ぐ進めば、平塚橋のそばにでます。つまり、戸越銀座駅の付近、武蔵小山駅前から伸びる商店街の東端の付近に出られます。歩いてみるのも一興かもしれません。

 これが天保二年銘道標です。西という字は読み取れます。他の字は摩耗しているためか読み取りにくくなっています、西へ歩けば中原街道へ行けるということです。現在では、西へ進めば大田区上池台、長原駅入口交差点を経由して洗足坂上で中原街道に合流するということになります(あくまでも徒歩を基準としています)。

 交差点の近くに、荏原町駅入口バス停があります。ちょうど森02大森駅・大森操車場行きが到着しました。森02、蒲15のいずれも、ここから近い荏原営業所の所管路線です。

 大井町線の各駅を概観すると、駅前にバスが乗り入れておらず、近くに駅名を冠したバス停もないという所があります。下神明(近くにバス路線はありますが、駅前には乗り入れていません)、戸越公園、旗の台、北千束(近くの環状7号線にバス路線があります)、大岡山および九品仏です。B各停(青各停)も視野に入れるならば、二子新地も該当します(近くの多摩川沿いにバス停はありますが)。荏原町の場合は、かつて駅前に乗り入れており、何時の頃からか、駅から少し離れた場所に荏原町駅入口としてバス停を置き、そこまでの路線としたことになります。

 荏原町駅正面口に戻ってきました。大井町線の駅があるにもかかわらず、何故か、中延駅と旗の台駅の案内が出ています。中延駅まで750メートル、旗の台駅まで650メートルということです。どちらも乗換駅であるためでしょうか。なお、大井町線を利用する場合、中延駅までは600メートル、旗の台駅までは500メートルです。

 東急線の駅間距離は、平均して短いほうに入るでしょう。鉄道線で一番短いのは池上線の五反田と大崎広小路との間で300メートル(軌道線である世田谷線の三軒茶屋と西太子堂との間、および世田谷と上町との間も300メートルです)、逆に一番長いのは東横線の日吉と綱島との間で2.2キロメートル(あざみ野駅開業までのたまプラーザと江田との間も2.2キロメートルでした)、次が田園都市線の渋谷と池尻大橋との間で1.9キロメートルです。

 大井町線では、駅間距離が1キロメートル以上となるところが緑が丘駅と自由が丘駅との間(1.0キロメートル)、および上野毛と二子玉川との間(1.2キロメートル)しかありません。二子玉川と溝の口の間は2キロメートルですが、途中に二子新地と高津(どちらも田園都市線)があります。500メートルというのは、荏原町と旗の台との間の他に、大岡山と緑が丘との間、尾山台と等々力との間があります。

もう一度、法蓮寺を遠くから見ておきましょう。機会を改めて、旗岡八幡神社を訪れることといたしまして、荏原町駅を離れ、別の駅に向かいます。

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東急大井町線途中下車(10) 荏原町駅 その2

2015年09月01日 01時32分57秒 | まち歩き

前回に引き続き、荏原町駅です。今回は駅前の商店街を歩きます。

 こちらが荏原町駅の1番線ホームの改札口で、正面口と称されています。この写真ではわかりにくいのですが、急行が止まらない途中駅にしては駅前広場が広く、かつてはもっと広かったでしょうから、バスが乗り入れていたというのも納得が行きます。現在は、ここから少し離れた場所に荏原町駅入口というバス停があり、そこに森02系統(大森駅西口経由大森操車場行き)のバスが発着します。

 いかにも品川区内の荏原地区の街という感じがします。細い上に曲がりくねっていますが、そこに商店街が展開しています。2015年8月28日の午前中に歩いたのですが、時間帯を考えると多くの人が歩いていると言えます。旧荏原区内で最大の商店街と言えば戸越銀座であり、次いで武蔵小山、中延(中延駅から荏原中延駅まで)と続きますが、荏原町はこれらほどではないものの、大きいと言えるでしょう。

 三間通りにも商店街が伸びています。道路の幅が三間(およそ5.4メートル)であることから名付けられたそうですが、商店街は荏原町駅の隣の旗の台駅から続いており(名称は変わりますが)、さらに国道1号線のほうに伸びています。荏原町駅から次の旗の台駅までは500メートルほどしか離れていません。実際に、旗の台駅の大井町線ホームから荏原町駅のホームが見えます。荏原町商店街を何となく歩いていれば、いつの間にか旗の台駅のそばにある池上線の踏切に着いてしまうのです。

 商店街には幟や看板がつきものですが、この黄色い幟には食べ物の絵が描かれているので「何だろう?」と思っていました。

 B級グルメならぬE級グルメ、コロッケタウン。

 川崎市で生まれ育った私にとっても、10代の時分には商店街の肉屋などでコロッケを買ったりしたものですし、今でも時折買います。しかし、歩いているのは午前中で、まだ昼飯時になっていませんので、食欲も湧きません。また、この幟が商店街の至る所にあるからと言って、惣菜屋や肉屋ばかりが並んでいる訳でもありません。

 それにしても「何故コロッケなのか」とは思います。ありふれているものですし、下町地域ではないが下町の雰囲気が漂う品川区であれば、小山でも戸越でも中延でも、コロッケの名物がありそうです。荏原町のコロッケはよほど有名なのでしょうか。普段、ニュースや日曜美術館などを除けばほとんどテレビを(とくに民放を)見ない私には、よくわかりません。

 遊歩道があります。実は、この下に立会川が流れています。つまり、暗渠です。都内には暗渠が多く、大井町線では自由が丘駅の南側に九品仏川という例があります。

 立会川は、東急東横線の学芸大学駅と都立大学駅との間にある碑文谷池(電車から見えます)を水源としており、西小山駅付近、旗の台駅の北を通ります。荏原町駅構内の下を抜け、商店街の途中にあるこの地点に着きます。さらに東へ進み、西大井駅を通りますが、東海道本線を抜けてさらに進むと暗渠でなくなり、京浜急行本線の立会川駅のすぐ南側を流れ、東京湾に注ぎます。

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