先月の博多出張の折、思い切って小学生のころ住んでいたところに
40数年ぶりに足を運んでみた。
これまで引っ越しの多い生活で、流浪の民的というか、根なし草的というか、
まるで恥のかき捨てみたいに振り返ることもせず突っ走ってきた。
ところが、この年齢になってはたと周りを見渡せば、
幼いころの思い出を共有する人が近所にひとりもいない。
今の家族さえ知らない。自分の記憶もおぼろげ。
なんだか根っこが消しゴムで消されていってるようなすごい不安を感じるようになった。
急な坂が網目の迷路のように這う町。左に皿倉山。
近道するときに登ったすごく急な坂。麓に洞海湾が一望できる。
かつての道は土で両側は藪に覆われていた。
日本海側を向いているので、沈む夕陽が反射する湾は真っ赤に染まったっけ。
小学校がもうすぐという道に入り、登りつめた突き当たりは
コンクリートの壁がそそり立ち左右に道が分かれる。
そこは恐怖の場所だった。
当時はここに大きな柳の木があって枝がいく筋も垂れ下がり
暗くなるとサワサワと音がしてその黒い影がゆら~と揺れる。
習字の帰り道、すごく怖かった。
ここに幽霊が出るって噂を疑わなかったもんなあ。
その壁を見上げながらT字の道を左に回り込んで登ると、
あったー、小学校。
残念ながらちょうど1年前に建物が取り壊され更地になっている。
手前から、奥の木々が並んでいる側にL字に校舎が建っていた。
はるか向こうに白い裏門が残っている。
冷や汗ものの記憶は、給食当番で、脱脂粉乳の大きなミルク容器を抱えたまま
渡り廊下をつまずき、あたり一面白い海と化し、猛烈に落ち込んだこと
クラスの皆はひっそり(やったー)うれしそうな顔をしていたけど。
(ただしすぐに新しいミルクが届けられた)
正門には当時にもあったクスノキが当たり前のように立っている。
木にとっては数十年なんて大したことないのかもしれない。
正門と言えば、下校時の突然の大雨のとき。
(ああ、なんだかろくな想い出がない・・・)
お母さんたちが続々と傘を手に迎えに来る。
なのに、私は最後のひとりとなってもなかなか母は現れず、
妄想が広がった。
きっと継母なんだ、私は悲しい子供、どこかに本当のお母さんが・・・
半べそをかいていると、正門からのんきに傘をさしながら母が現われ、
ごくごくのんきに一笑に付された。
どんどん記憶がクリアになる。
さて、学校の前の道をさらに登った先に、我が家だった場所があるはず。
この道の左に急傾斜の小さな階段があったはずで、
人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段、まるで猫の抜け道、
土段と、ところどころブロックを重ねてて・・・
ざわっとする。ここだ・・・
コンクリートで固めてるけど、この幅は間違いない。
小学生の背丈では胸につくほど足を上げて登った階段。あの緑の植木のとこまで
登りつめたところの右側が我が家で、左側は祖父母の家があった。
踏みしめるように登ってみると、
あった・・・
しんとしているが、住んでいる人がいるようだ。
丁寧に住んでいただいてるようで全体的な形はほぼ当時のまま。
突然足がすくむ。
立っているその場所は二つの家を盛んに行き来した狭い路地だ。
地面から私の足へと記憶が登ってくる。
垣根のツルバラが満開の庭。向こうは坂の下に立つ家の屋根、その向こうは野っぱらの丘
この家は、貸家住まいを卒業して父母が初めて建てた家。
住み始めると堰を切ったように、鶏を飼い、鳩を飼い、ジュウシマツを飼い、小さな池には鯉を飼った。
さすがにこのメンバーが先住では、犬猫は無理だったけど。
というか、当時はまだ野犬がうろついていて、夜間に網をこじ開け
鶏が襲われたりする時代で、犬を飼うというのはもっぱら番犬という
感覚だったかもしれない。
庭には季節ごとに野菜や草花を植え、
縁側でスイカを食べれば、足元にスイカの幼い芽が次々と顔をだした。
我が家の家族4人と、元気な祖父母と、二人のまだ若い叔父たち。
わずか4年間だけど幼い子供の成長にとっては豊かな環境だった。
今は、父母も祖父母もひとりの叔父も旅立ってしまい、
兄弟も、もう一人の叔父も遠くに暮らしている。
なのに、ここにかつてと同じ坂道と家と庭がある。
だからどうだってこともない。他人にとっては退屈な話だ。
でも、弱り気味の根なし草にもひとつ、この記憶が拠り所になったような気がした。
40数年ぶりに足を運んでみた。
これまで引っ越しの多い生活で、流浪の民的というか、根なし草的というか、
まるで恥のかき捨てみたいに振り返ることもせず突っ走ってきた。
ところが、この年齢になってはたと周りを見渡せば、
幼いころの思い出を共有する人が近所にひとりもいない。
今の家族さえ知らない。自分の記憶もおぼろげ。
なんだか根っこが消しゴムで消されていってるようなすごい不安を感じるようになった。
急な坂が網目の迷路のように這う町。左に皿倉山。
近道するときに登ったすごく急な坂。麓に洞海湾が一望できる。
かつての道は土で両側は藪に覆われていた。
日本海側を向いているので、沈む夕陽が反射する湾は真っ赤に染まったっけ。
小学校がもうすぐという道に入り、登りつめた突き当たりは
コンクリートの壁がそそり立ち左右に道が分かれる。
そこは恐怖の場所だった。
当時はここに大きな柳の木があって枝がいく筋も垂れ下がり
暗くなるとサワサワと音がしてその黒い影がゆら~と揺れる。
習字の帰り道、すごく怖かった。
ここに幽霊が出るって噂を疑わなかったもんなあ。
その壁を見上げながらT字の道を左に回り込んで登ると、
あったー、小学校。
残念ながらちょうど1年前に建物が取り壊され更地になっている。
手前から、奥の木々が並んでいる側にL字に校舎が建っていた。
はるか向こうに白い裏門が残っている。
冷や汗ものの記憶は、給食当番で、脱脂粉乳の大きなミルク容器を抱えたまま
渡り廊下をつまずき、あたり一面白い海と化し、猛烈に落ち込んだこと
クラスの皆はひっそり(やったー)うれしそうな顔をしていたけど。
(ただしすぐに新しいミルクが届けられた)
正門には当時にもあったクスノキが当たり前のように立っている。
木にとっては数十年なんて大したことないのかもしれない。
正門と言えば、下校時の突然の大雨のとき。
(ああ、なんだかろくな想い出がない・・・)
お母さんたちが続々と傘を手に迎えに来る。
なのに、私は最後のひとりとなってもなかなか母は現れず、
妄想が広がった。
きっと継母なんだ、私は悲しい子供、どこかに本当のお母さんが・・・
半べそをかいていると、正門からのんきに傘をさしながら母が現われ、
ごくごくのんきに一笑に付された。
どんどん記憶がクリアになる。
さて、学校の前の道をさらに登った先に、我が家だった場所があるはず。
この道の左に急傾斜の小さな階段があったはずで、
人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段、まるで猫の抜け道、
土段と、ところどころブロックを重ねてて・・・
ざわっとする。ここだ・・・
コンクリートで固めてるけど、この幅は間違いない。
小学生の背丈では胸につくほど足を上げて登った階段。あの緑の植木のとこまで
登りつめたところの右側が我が家で、左側は祖父母の家があった。
踏みしめるように登ってみると、
あった・・・
しんとしているが、住んでいる人がいるようだ。
丁寧に住んでいただいてるようで全体的な形はほぼ当時のまま。
突然足がすくむ。
立っているその場所は二つの家を盛んに行き来した狭い路地だ。
地面から私の足へと記憶が登ってくる。
垣根のツルバラが満開の庭。向こうは坂の下に立つ家の屋根、その向こうは野っぱらの丘
この家は、貸家住まいを卒業して父母が初めて建てた家。
住み始めると堰を切ったように、鶏を飼い、鳩を飼い、ジュウシマツを飼い、小さな池には鯉を飼った。
さすがにこのメンバーが先住では、犬猫は無理だったけど。
というか、当時はまだ野犬がうろついていて、夜間に網をこじ開け
鶏が襲われたりする時代で、犬を飼うというのはもっぱら番犬という
感覚だったかもしれない。
庭には季節ごとに野菜や草花を植え、
縁側でスイカを食べれば、足元にスイカの幼い芽が次々と顔をだした。
我が家の家族4人と、元気な祖父母と、二人のまだ若い叔父たち。
わずか4年間だけど幼い子供の成長にとっては豊かな環境だった。
今は、父母も祖父母もひとりの叔父も旅立ってしまい、
兄弟も、もう一人の叔父も遠くに暮らしている。
なのに、ここにかつてと同じ坂道と家と庭がある。
だからどうだってこともない。他人にとっては退屈な話だ。
でも、弱り気味の根なし草にもひとつ、この記憶が拠り所になったような気がした。
給食の思いでも同じで、懐かしい脱脂粉乳…不味かったですけど
我が家の夫は不思議と大好きだったのですよ。
忘れかけていた思い出を探して故郷へと。
なくなりかけていた根っこ部分は見つかりましたか。
月日は過ぎて変わってしまった生活もありますが
そこに帰れば、紛れもなくそこで暮らした生活の陰りがあったり
っていうか、心の奥底に仕舞いこまれたままだったのかもしれませんね。
私も転勤家族だったので「根なし草」です。
以前、兄弟達と丸亀市を訪れた時に、昔 住んでいた家を発見して覗きこんだ覚えがあります。
脱脂粉乳事件は、やくさんらしい (笑)
でも私・・・脱脂粉乳が好きだったのですよ(食べ物に飢えていたのかな?)
他人には何でも無い事でも、やはり自分の根っこを育んだ思い出は、いつまでも心の片隅に置いておきたいものですね。
今の自分の価値観のベースは、やはりそこにあると思いますもの。
私の実家は世田谷で、時々、空気の入れ替えに行きますが、ダイニングテーブルはそのままなのに、そこにいる筈の、父も母も兄も誰もいなくて、自分だけが残っている事実に、そら恐ろしさを感じてしまいます。
みんなには、空家にしておくと勿体ないから、実家に住めば良いのにといわれますが、1人で住むには切なすぎて・・
でも、そういう気持ちは、その場所にいた自分にしかわからないんですよね、きっと。
少し若輩者の私は、脱脂粉乳ではなく瓶入り牛乳で、必ず誰かしらが割って、木の床にしみ込んでいましたっけ。
でも、シェーのポーズの写真が沢山あるので、やくさんの弟さんと近い年かも知れませんね。
昔の写真も見るの、なぜか嫌だったし。
なのに、この場所にちゃんと暮らした痕が残っているのを目の当たりにして、いろいろの過去がしっかり生きて自分の根っこになってるんだなあって思いました。
やっぱり脱脂粉乳でしたか、pochikoさん。
実は私もご主人と同じで嫌いじゃなかったの、グビグビ飲んでました。
いろんな歴史がそれぞれの人の中にあるのですね。
すごく久しぶりに子供の頃のアルバムを開いたのです。
やんちゃな弟はどれも妙な格好をしていました。
なぜかどれもやけに楽しげで、実際わけもなく楽しかったのでしょう。
そんな時を過ごしたことを思い起こすだけで、得した気分になりましたよ。
いっしょに暮した人が今はいない家ってなかなか厳しいものがありますね。
家、部屋、かべ、柱、窓、ひとつひとつにいろんなエピソードが刻み込まれてるでしょう。
それを許容するにはきっと年月がかかるのかも。
わたしみたいに、昔の場所に行ってみたくなるのは、歳をとった証拠でもあるのかもしれませんが、だけど今回のことで私はしっかり充電された気持ちがしましたよ。
シェーって、あの当時すぐやってましたね。翠さんの写真にも残ってるなんて、すごいパワー。
また流行らせちゃおかな。
親は、まだ記憶のない赤ん坊のころからの自分のことを知ってくれている存在ですものね。
親がいなくなってもう一つ焦ったことは、自分が生まれる前の「彼」と「彼女」はどんな人生を歩んできたかってことを今以上に知ることができないということです。
親の昔話なんて、自分の若いころは聞き流してましたから。
行きたくなるのよね。自分のルーツを探るように。
20年前に黒崎の祇園山笠がどうしても見たくて行った事があります。
ぞくぞくした。脳が興奮してか涙が出そうになった。
そうそう、この土地で電車に乗ったら、人の会話の雰囲気が自分のしゃべり方そっくりで冷や汗が出しました。
やっぱり九州もんのしゃべりはケンカ売ってるみたいだって思われてもしかたないかも
そう聞こえてしまったのは、この地を離れてずいぶんたつからなのでしょう。
しかしずいぶんたっても自分のしゃべり方が変わってないのはちょっとショック。
これも三つ子の魂か?