山笠の 走りし道に 銀杏舞ひ
馬糞 Bafun
博多祇園山笠で賑わった櫛田神社周辺には大きな銀杏の木が
ある。
師走ともなると、山笠の賑わった道に銀杏が黄金の葉を舞い積もら
せる。
新緑の勢いがあればこそ、秋の感慨が湧いてくるものだ。
しかし、東京に江戸っ子が少ないように、福岡にも博多っ子は少な
い。
祭り好きの博多っ子なら、オリンピックに反対したりはしない。
博多らしいオリンピックにしてやろうと意気込むであろう。
IOCの言いなりになんてなるものか。
ところが、財政がどうのと損得勘定で反対したよそ者が多かったら
しい。
実に残念なことであった。
いったい、この博多と言い、福岡と言う街は、何の町なんだろうか。
【都市再生の視点・・・ 個性は伝統にあり】
博多・福岡の国見をすると、中小のビルがびっしりと建っている。
だが、一体どういうアイデンティティーを持って集まり住んでいるの
だろうか。
不思議に思う。
博多は商人の街だった。
大陸貿易で豊かな街だった。
しかし、今はすっかり廃れて寺だけが残った。
後にできた福岡は城下町だが、武家屋敷も城もない。
伝統を伝えているのは、せいぜい祇園山笠をはじめとするお祭り
だけである。
博多経済の伝統は失われてしまった。
コンビニエンスのように個性のない地方都市に退化した。
道路はアスファルト、河の護岸はコンクリート、ビルもコンクリート、
電線が風景を汚し、鎮守の森もとっくに失われた。
国だけではない。
都市もまた、伝統が失われた都市は、記憶喪失者のように自己認
識ができない不安にさいなまれるのだ。
町興しというなら、失われた記憶を辿ることだ。
その伝統を共有できるような工夫をすることだ。
美しい町並みを作ることだ。
現代の都市は汚らしい。
そこに、本当の繁栄はやっては来ないであろう。
無関係の人が集まった無機質な街にどうして繁栄などがありえよ
うか。
日本正史とともに、郷土史をしっかりと教育すべきである。
歴史の発展した姿をこそ、取り戻すべきである。
それが、新しい倫理道徳の基礎ともなってゆくことであろう。
梅士 Baishi