若草を 凛と張りたる あざみかな
馬糞 Bafun
野山は、若草にほう、
しなやかな季節になった。
それぞれの草が、
小さな個性の花を咲かせている。
ひと時の無数の花たちを、
小さな虫たちが一期一会に飛び回っている。
神の作られた大調和の風景である。
生命とは調和であり、
存在もまた調和である。
しかし、神は同時に発展を望まれた。
発展とは新たな生命を生み出し、
新たな存在を生み出すことである。
その新たなる生命、存在もまた
調和でなければならない。
したがって、発展とは、
新たなる調和を生み出すことであるといえる。
そうであるためには、
創造は、人々の願いであり、
神の喜びでなければならない。
人々の願いとは、支持者の願いにとどまってはならない。
人類の願いにかなうことでなければならない。
人類の願いとは、神はそれを喜ばれるだろうかというテストである。
そのために、宗教があり、信仰が尊ばれるのである。
果たしてそのように、政府は考え、政治家は志し、企業は努力
しているだろうか。
そのことを、新生する春に、おおいに反省し、望まれる発展に取
り組まなければならないことである。
信仰なき人間は、信頼に値しない。
信仰なきリーダーは、信用できない。
信仰を尊ばない政府は、信用できない。
信仰なき国家は、危険な国である。
信仰なき企業もまた、信用できない企業なのである。
学校がたくさんあるように、宗教も神の数に応じて多様であって
よい。
神とは、まずは、人類の教育者というべき偉大な魂である。
人である。
その意味で、神は八百万である。
ただ、神にもランキングがあり、さらに、根源なる存在もあると
いうことである。
その根源なる知恵を汲んで、人々にもたらす多くの神々がある
ということである。
すなわち、学校も、宗教も、普遍的真理を探究し、教育するために
あるのである。
ゆえに、宗教には正しさが求められる。
しかし、正しさとは、われのみ正しいということではない。
排他的であってはならない。
そもそも、幸福とは、他人を幸福にすることによってもたらされる
ものだからである。
だから、宗教相互があい争うということはありえないことである。
イスラム教徒も、そのことを知らなければならない。
ユダヤ教徒は大いに反省し、恥じ入らなければならない。
キリスト教徒も、選民思想を恐れなければならない。
それは、邪教的思想である。
間違った偽宗教はこの日本において、はびこっている。
われのみ正しいという教義は間違っている。
手段を選ばないという教義も間違っている。
粛清せよという教義も間違っている。
先祖を供養しないから不幸なのだという教義も間違っている。
自分の不幸を、他人や先祖や、他の宗教・民族のせいにするこ
とは、恥ずべきことである。
神は良識の原点にある。
信仰を得るためには、努力によって良識を磨き、謙虚かつ素直
であることだ。
神の叡智にくらべれば、人の知恵は、太陽と人の差以上の物で
あろう。
そこに、信仰の謙虚と神秘がある。
『王といえども、主権国民といえども、民主主義と
いえども、神と法の下にあり』。
信仰なき国家とは、恥ずべき国家であり、大調和を理解しない
危険な国家であり、文明なき国家である。
見よ、混乱する危険国家、チャイナを。
見よ、迷走するビジョンなき国家、日本を。
梅士 Baishi