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+ もみじ若葉・・・ 競争の哲学

2008年05月21日 07時58分30秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

 

 空の下   もみじ若葉が   手をあげて


       馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

 

 

 小学校一年生がパステルカラーのランドセルを背負って初々しく

登校している。

 今頃は、学校にも慣れて、「ハイ」「ハイ」「ハ~イ」と、手を上げて先

生を奪い合っているのではないか。

 

 新緑の山にも、もみじ若葉が青空に手を上げて、新鮮で美しい。

 すがすがしく、屈託なく生きたいものである。

 

 この世は競争社会であるが、競争のメリットは、発展することを楽し

むことができるところにある。

 競争を通して頑張れるところにある。

 自分の得意を探すことができる。

 友達をつくることができる。

 人生の師にめぐり会うこともできる。

 

 競争を、他人に勝つことという基準で見ることは、不幸なことである。

 勝敗は楽しみである。

 楽しみながら、自分を成長させることが、競争の意義である。

 そういうことを、小学校の体育でも教えてもらいたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

競争の哲学

 人間、いかに生きるべきかという人生哲学を解く鍵は、

 『人間は、一人では生きていない』と言うところにある。

 『他人あっての自分である』

 『だから、他人のために生きなければならない』

 

 では、競争とは、他人のために生きる人生に矛盾するのか。

 

 たしかに、競争は、勝敗を決するルールの下にゲームの相手との

優劣を決する。

 競争優位に立つことはうれしい。名誉である。

 なぜ、うれしいのか。

 よりすぐれた実力が認められるからである。

 ところが、競争相手に対する優位が人生の価値基準になると、

その末路はどうなるのか。

 スポーツ選手の末路は不幸ということにもなるだろう。

 引退後の選手の人生に幸福はあるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人生は一回限りの単純な勝敗では終わらない。

 優位であろうとすることは、排他的である。

 排他的な人生に、他人との幸福な関係は生まれない。

 

 競争の楽しみは優越するところにもあるかもしれないが、そのとき

だけのお楽しみ、いわば、方便である。

 競争の真の目的は、努力して向上するところにこそある。

 自分の弱さとの競争にこそある。

 その努力に、人々は感動し、賞賛を惜しまない。

 その努力は、自分のさまざまな弱さを種目として、一生続くのである。

 その成果が人々の喜びとなるとき、人生の喜びとして徳を積み上げ

てゆくことになる。

 

 

 

 

 

 競争とは何かを教えること、これが道徳であり、哲学ともなるであろう。

 

 競争を否定する左翼的教育を駆逐しなければならない。

 競争の否定は堕落だからである。

 もちろん、弱肉強食の競争は戒めなければならない。

 排他的、支配的であることは、人間関係の人生の不幸だからである。

 

 競争とは、 切磋琢磨でなければならない。

 競争とは、自分の弱さとの戦いだからである。

 ライバルは、一歩先の目標を提供してくれる師である。

 

 競争は、楽しみであり、感動である。

 競争は、無限の向上心であり、無限への挑戦である。

 企業の競争もまた、企業関係の哲学をもって、感動を生むビジネス

を展開してほしいものである。

 そこに、これからの経営学の研究課題もあるのではないか。

 

                              梅士 Baishi

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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