れんげそう 短き春の 田を借りて
馬糞 Bafun
群生する春の野草の中でも、れんげそうの紫は清廉で美しい。
名前も知らない花が咲きあふれる春の野山は魅力的だが、その中で、
名前を知っているれんげそうに出会うと、ほっと、心が和む。
れんげの花とは、まだ、めだかが元気に泳いでいたころからの知り
合いである。
だから、春に出会うと、ほっとするのだろう。
かつて蓮華草は、田植え前に、土に滋養を与える植物として、春の
田んぼに植えられた。
今は、化学肥料に取って代わられたためか、まばらな風景になっ
ている。
ラベンダーとは違う、日本らしい、柔らかな紫の風景である。
春風のように、どんどんと吹きすぎてゆく春の花たちであることよ。
もっと、野草の名前や由来を知りたいとおもう。
名前を知らない花にも、その美しさには心打たれる。
しかし、名前を知らないままでは、名前を知らない人のように、親し
くはなれないものである。
【伝統スポーツの国際化】
大相撲春場所で、ブルガリアの琴欧州が久しぶりに元気で、モン
ゴルの両横綱を破って、優勝までしてしまった。
くしくも、ブルガリアヨーグルトにブルーベリーを入れて、一パックぺ
ろりと食べたところだった。
満面の笑みを浮かべて、ブルガリアに錦を飾ったうれしそうな大関
を見ていると、こちらも、顔がほころんでテレビに見入っていた。
伝統の国技だが、国際化するのも悪くはないと思う。
しかし、国技といえども、国際化するということは、伝統が基準だと
ばかりはいっていられない。
外国人力士ばかりではなく、その母国の人々も見ているからである。
何よりも、外国から力士を招くと言うことは、外国の神を招いての神
前相撲だと言うべきだからである。
だから、その外国の神への敬意を忘れてはならないのである。
母国の人々が、どんな気持ちで応援しているかということも、思い
やらなければならない。
日本の神の前で認められ、大関、横綱と言う英雄として、日本の国民
に称えられるのである。
そのことを、喜んでくれているのだ。
スポーツが勝敗を超えて、文化となるためには、対戦する人の上に、
神がいなければならないと思う。
そこに、精一杯努力して勝負に臨む意義がある。
神の下に向上する喜びがある。
神聖な競技と言うことは、海外にもわかることである。
かつて、朝青竜がモンゴルでサッカーをして謹慎にいたった事件でも、
ただ、日本の伝統を押し付けるだけではいけなかった。
もっとも、その後の暴力事件を見ると、日本力士の間でも、神前の
国技であるという品格を見失っているように思う。
単純に暴力ということは妥当ではなかろうが、けいこもまた、神前
で行われるという意識を失っているのではないのか。
オリンピックにして、しかりである。
現代日本に品格が問われるのは、仏神への畏敬の念を見失って
いるからに他ならない。
人間中心主義の獣くささが、品格を損なっているのである。
神前に披露する日本の国技相撲の場所には、ぜひ、世界の国王、
元首、要人を招いて、国の伝統を楽しむ国際交流の場としていただき
たいものである。
それにふさわしく、相撲は、その品格を磨いていただきたい。
梅士 Baishi
プロスポーツの公設民営化による増設・普及政策を!
⇒ http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/19ba566aa7d68bb3be2ff9a2d63938c5