身代わりの 納め地蔵の イヴの夜
馬糞 Bafun
博多の魚屋に行くと、大半売り切れていた。
クリスマスイヴの夜は、居酒屋も客がなくて、ホーム
パーティに魚を買って行く客が多いのだそうだ。
どでかい天然鯛のアラとシメサバ、そして刺身のパッ
クを買って2千2百円。
ケーキよりも安い、充実のクリスマス・さかなに満足
の買い物だった。
そういえば、今日は納めの地蔵、今年最後の地蔵の縁
日になる。
地蔵さまは、人の災難を身代わりしてくれるという。
人間の勝手なお願い事を聞いて助けてやろうという、
ありがたい仏の慈悲なのだろう。
仏教というよりも、キリスト教に近い救済型信仰とい
うべきであろう。
そういう意味では、地蔵もまた、クリスマスイヴは心
ときめく夜かもしれない。
だから、イヴに楽しみのない人は、地蔵に手を合わせ
ると良い。
神も天使も、人々の悲しみのために涙を流す存在でも
あるのだ。
愛の神 キリスト馬屋に 生まれたる
馬糞 Bafun
信仰の有無は、人生の決断である。
自分の死は、自分の人生の意義をなんとするのか。
死の意味こそは、人生の意味である。
人は何ゆえに苦悩するのだろうか。
自己保身か、愛か。
使命のない人生の苦悩ほど、救いのない苦しみはない。
信仰こそは、使命である。
主と仰ぐは、永遠の師であり、自分の命の在り処であ
る。
信仰とは、仏神への忠義であり、仏神の愛の一端を担
う修行である。
信仰は死線を越える。
信仰は愛であり、修行である。
信仰とは、まさに、生きることの正義であり、正統で
ある。
だから、信仰なき者たちよ、唯物論者よ、仏神に手を
合わせてはならん。
クリスマスにあやかってはならぬ。
除夜の鐘に親しんではならぬ。
初詣をしてはならぬ。
その後もずっと、神社仏閣教会に参ってはならなぬ。
苦しいときも、仏神に祈ってはならぬ。
信仰に縁なき者たちよ、
信仰深き海外のキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒
と無縁であれ。
無神論の者よ、信仰なき唯物論者よ、信仰の蜜を盗む
なかれ。
ああ、その人生の何と灰色であることか。
その魂のなんと飢えたることか。
自分の人生目的を何と名乗るのか。
守銭奴か、自己中心者か、独裁者か、放蕩者か、単な
る貧乏人か・・・。
それ故に、自由とは、神からの自由であってはならな
い。
神近くへの自由であるからこそ、尊いのだ。
神近くへの自由こそは、自助努力の道、修行の人生に
他ならない。
神の御手に委ねられた命であればこそ、死線を越えた
生きがいを持つことができる。
神こそは愛である。
神こそは智慧である。
神こそは許しであり、永遠の時である。
神の偉大を信じることのできる者たちは幸いである。
その幸いを与えられたことを、神に感謝する。
この世に一灯を点じて死にたいものである。
梅士 Baishi
2006年リバイバル
『キリスト教プロテスタントからの発展的信仰告白』
http://blog.goo.ne.jp/fds31/e/6e1019e6fc4aef558f9bd1d525b9d89a