彼岸入り 紅の椿が 落ちており
梅士 Baishi
今日は彼岸入りである。
お彼岸は先祖供養の節目でもあるが、先祖の命日など
気にしたことがない。
墓地にも関心がなく、長崎の港を見下ろす父の墓地は
過疎地になった。
墓は霊の住処ではないということもある。
しかし、父が求めた長崎らしい風景の墓地である。
花見に行ってみようか。
彼岸だからなあ・・・。
学生たちには折に触れて霊界宇宙の話をしている。
昨日は臓器移植の霊的真実について話した。
臓器摘出は、生きている状態で心臓を取出し、角膜を
剥がれ、腎臓をとられるのである。
その恐怖体験は、まさに驚愕であろう。
霊的感覚として痛みが伝わり、無抵抗のままにメスを
入れられ、臓器を取り去られるのである。
ドナーにとっては、想定外の事態である。
もはや、平穏に霊体が肉体から離れることも、成仏す
ることもできない狂乱状態に置かれるのが通常である。
そもそも、臓器提供をする人は、あの世を信じていな
いから、臓器を失ったまま自分が生きていることに悩乱
する。
そして、移植された患者に臓器と共に憑依するのであ
る。
延命したいばかりに他人の死を幸いに臓器を奪ってま
で生き延びることを望むべきではない。
人はその寿命のままに、必ず死ぬのだから。
QOLという考え方がある。
クオリティー・オブ・ライフである。
長生きするばかりが能ではない、質が問題なのだと。
高齢者による病院の濫用、病院の過剰医療の問題でも
ある。
これだけ医師が増え続けているのに「医師不足」とは
奇怪なことである。
無駄な医療、過剰な医療、医療濫用の結果である。
医療費だけで年間43兆円とは病気社会である。
病院は病気にならないための運動指導と運動コミュニ
ティー作りを指導するべきである。
ここに「健康保険」を適用するべきである。
それがQOLの考え方なのである。
どんなに医療施設が立派になってもQOLは上がらな
いのだから。
人は、元気なうちに寿命を終えることができる。
それが、神の設計である。
そのためには、楽しく、運動をすることである。
心身は運動体として作られているからである。
毎日30分のスローなジョギングを励行することだ。
そうしたら、三途の川も一っ跳び、あの世でも元気に
暮らせるだろう。
日本独立宣言・神聖九州やまとの国
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