私の育った頃は、おとうちゃん おかあちゃんと呼ぶのが当たり前でした。戦後アメリカ文化へのあこがれで、パパ、ママになりましたが、大きくなれば、おとうさん、おかあさん、成人して社会人になれば父、母と言いました。
私はどちらかというとお父さん子、妹はお母さん子で、日曜の朝は父の布団の中で、「頃は六月、中の頃♪夏とはいえど固い仲~~~~♪」なんて浪花節を聞かされました。
大きくなると、シューベルトの歌曲をドイツ語で歌って、私はピアノ伴奏しろ!と言われてました。上野にコンサートに連れていってもらったとき、居眠りしたら、「もう絶対にお前とは行かない」と言われましたが、レストランに連れて行ってもらったり、上野にミロのビーナスを見に行ったり、美術館にも連れて行ってもらいました。
けっこう神経質なところもあって、一度だけ頬っぺたをひっぱたかれたことがあります。幼稚園くらいでしょうか、襖の周りをくるくる逃げ回る私を追っかけまわして、カッ!なったのでしょうね、一度だけです。まぁ、口うるさい父ではありました。
母の実家から届いた、スピッツ。名前はペル。母の実家には大きなシェパードがいて、名前がベルだったからかな。父の実家の鰹節屋にも犬がいたから、犬はすきだったのね。
これは一番好きな写真。遠くのバックは富士森公園のあたりです。家のすぐ裏は麦畑でした。麦の茎をとってシャボン玉しました。本物のストローです。なぜ好きかというと、おとなしくて引っ込み思案だった頃の恥ずかしそうな顔が好きです。セーターも洋服はみな母が作ってくれました。
上からのぞいて撮影する、四角い写真機で撮ったものです。まだ写真機が珍しいころでした。
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